ずれた歯車・2
一瞬言葉に詰まった需が再び口を開きかけたとき、前触れなく所長室のドアが開けられ、噂の張本人達が姿を現した。
「すぐに訓練生と研究員を退避させて」
開口一番そう言った凛の顔は険しい。
「何だって?」
「モズとアラタがくる」
藍の冷静さとは裏腹なあまりにも衝撃的な内容に、需の視線は一瞬宙を泳いだ。しかしそれが予測でも予想でもなく、単なる事実なのだということは誰よりも需が知っていた。
需は無言でデスクの上の受話器を上げるとボタンを押し、手短に事情を告げて全館に退避命令を出すように提案した。恐らく相手は最上だろうが、情報源が藍であることと所長である需直々の口上であるからかすんなりと承諾したようである。
「ついに乗り込んできたか」
全館に地下シェルターへの緊急避難命令が鳴り響き、所長室の前の廊下もにわかに騒がしくなりはじめた。需は灰皿においていた煙草の灰を落とすと、ゆっくりと口にくわえた。
「所長も白瀬さんと早く避難を。私達は反撃に出ます」
一向に動こうとしない需に凛は早口で言ったが、需はいつものしかめ面のまま紫煙を吐き出して、きっぱりと言った。
「俺は避難しない」
需に三人に視線が刺さる。
「奴らの狙いの一つは、俺だろう。奴らはアラタ以上の破壊力を持ったARMが生み出されるのを危惧しているからな。俺が地下に逃げ込めば、他の研究員や訓練生たちまで巻き添えにする可能性がある」
「萩理所長!」
白瀬が悲鳴に近い声で叫ぶ。
「別に自己犠牲精神に酔っているわけじゃない。SASの人材不足は深刻だろう?これ以上未来の逸材たちを失うと、組織の存続自体が危ぶまれる。そうなると、俺は職を失いかねないからな」
煙草を消しながら需は悪戯っぽく笑ってみせた。
「白瀬は今すぐシェルターに避難しろ。俺は俺でなんとか逃げ延びてやる」
黙したまま目でものを言う息子にむかって需は頷き、腕組みしたまま動かない凛を見た。
「待機中のSASを何人か護衛に寄越します。危機に陥った時は、必ず助けに行きます」
表情のない凛の瞳が一瞬熱を帯びたように見えた。
「必ず―――」
凛は繰り返し、藍を伴って部屋を出て行った。
二人が所長室を出てすぐに凄まじい轟音とともに、ファントムハウス全体が地震にあったかのように大きく揺れた。バランスを崩しかけた藍の腕を、自然な動作で凛が掴み、引き上げる。
「モズの仕業よ。彼の力はこのぐらいの建造物なら素手で破壊してしまう」
人知を超えた怪力――――。それは岩を粉砕し、山をも砕くという。資料を見ただけでは大げさな記述としか思えなかったが、この状態ではあながちそうとも言えないかもしれない。
二人はすでに混乱を極めつつあるファントムハウスの中を走った。モズが外壁を叩き割っているのか、轟音がとどろくたびに悲鳴が上がり、避難中の訓練生と研究員たちが立ち竦む。
「リンさん!」
呼び止められた凛が振り返ると、施設内に待機中であったSASたちが一所に集まっていた。
「私達も何か役に立てればと思ったのですが、最上指揮官の命令がなくて動けずじまいでして」
藍よりも一つか二つ年少らしい若いSASの言葉に、凛は半ば反射的にある人物の姿を目で探す。
「サイは?」
「サイなら、先程最上指揮官に呼ばれて行きましたが」
「何ですって?」
凛は舌打ちした。
最上ならば考えそうなことだった。SASの最高責任者であり、全ての行動決定権を持つ唯一の男は、空間移動の能力者を伴って我先に脱出したのだ。戦闘能力のあるSASたちに必要な命令も与えず、施設を支える研究員たちと未来を担う訓練生たちが避難を完了していないこの状況を目の前に、自身の身の安全だけを思って逃げたのである。
「今、何人ここにいる?」
「全部で二十四名です」
凛は一同の顔を見回した。
「エン、コユル、ケイ、シアンをリーダーに六人一組に分かれて、エン、コユル、シアン隊は地下一階から二階までの避難誘導。ケイ隊は所長室に向かい、萩理所長の警護」
コードネームを呼ばれた四人は一歩前に進み出ると、きびきびとした動作で二十名のSASたちを四つのグループに分けた。
「避難誘導の三隊は敵と遭遇した場合、退避すること。ケイ隊は命に代えて萩理所長の警護を遂行。全責任は私が取る」
「了解」
一同が散会しようとしたその刹那、銃声が鳴り響いた。
凛に命じられた四人のリーダーと、十五人のSASが銃弾を発射した人物を呆然と見遣り、
残り五人のSASが身を強張らせる。凛だけがいつもと変わらぬようすでその人物を静かに見つめた。
恐ろしいほどの沈黙。
薄煙の上がる銃口を虚空に向けたまま、銃弾を放った張本人は静かに口をひらいた。
「規約第三条を忘れた者は、もう一人のARMが容赦しない」
ARMのNo.6の視線を追い、四人のリーダーと十五人のSASが一斉に振り向くと、五人のSAS達が大きく開いた口を無意味に開閉させる。
「下らない選民思考にたぶらかされるとは、新人のレベル低下は思ったよりも深刻そうね」
凛は後方にいた五人のSASの顔色が青から白に変化していくのを、冷静に観察してから大仰なため息をついた。
「クラスSSのARMと、ハギリ リンを敵に回す覚悟がある者だけ、今すぐ走り去りなさい」
凛の言葉には激しさも強さもなく、むしろ淡々としていたぐらいであったが、それが一層彼らの恐怖を煽ったようだ。五人は力なくその場に座り込んだところを、エンとコユルによって縛り上げられたうえに鍵をかけた資料室に転がされた。素早く編成し直された四隊は、各リーダーに従って整然と任地に向かって行った。
「シマのマインドコントロールは一体どこまで及んでいるのかしら」
藍は凛の独白に応えなかった。彼女と並んで駆けながら、彼は自然な動作でシグザウアーの引き金を引いた。
右前方で「ギャっ」と蛙が潰れたような悲鳴を上げて、正確無比な狙撃手に右手を打ちぬかれた男がその場にうずくまる。凛は全くスピードを緩めぬまま、通り過ぎざまに見覚えのあるその男の顔をちょっと見遣った。
「迷うことなく彼らについたSASはあと六人いると思う」
シグザウアーを懐に戻してから藍は平然と答え、凛はまたため息をついた。
「離反も見抜けないなんて、私の洞察力も衰えたものだわ」
「あなたの見る眼は確かだ。能力の高さだけに焦点を当てるのなら、リーダーはあの四人じゃないでしょ?」
今度は青年の整った横顔を横目で確認して、凛は口元に笑みを浮かべた。
「藍だけは敵にしたくないわね」
レーダーよりも正確な藍の先導によって、二人は物質的な面よりファントムハウスを崩壊させようとしている人物の元まで辿り着いた。
途中、二人に向かって攻撃を加えようとした数分前から元・SASとなった六人と遭遇したが、一人は凛に華麗に投げ飛ばされて後頭部をしたたかに打ち付けて昏倒し、二人は藍に警棒で殴られてたちまち地に伏し、残りの三人はSAS史上最強ペアを目の前にして結局足を竦ませて動けなかった。壁が崩壊して進路が塞がれていた場所は、凛がことごとく障害物を消し去り、二人は最短距離を最速で進むことに成功した。
厚いサングラスに隔たれて、感情の窺えぬ(うかが)スキンヘッドの男は氷の美女とクラスSSのSASを前に臆したようすもなく、悠然と向き直った。
|