自縄自縛・3
雨は降り続いていた。
吐く息はしろく、彼の黒い髪は顔に張り付いている。
いつもは穏やかでいかにも優しげな顔は、見たことがないぐらいに必死で、悲しげだ。
口は確かに動いているのに、何を言っているのか分からない。
彼の手を振り払って走るのは、自分。
ただ目標だけを見据えて、わき目もふらず走った。
目を瞑って必死の思いで当てた左手から感じたのは、慣れ親しんだ、心地よい体温。
他の何にも変えられない、絶対に手放したくなかったもの。
目を開けて自分が左手を当てている正体を見上げる。
すべてを許したような、観音様のように穏やかな笑みが彼の顔に広がっていた。
口が動いた。何と言ったのか、分からない。
刹那、光が拡散して何も見えなくなってしまう…。
凛は自分の叫び声で目を覚ました。
両手で顔を覆う。顔は、滂沱たる涙に濡れていた。
「凛、大丈夫か?」
彼女は顔を覆った手をなかなか外さなかった。
「大丈夫よ、需」
声の主を確かめる前に凛はその名を呼ぶ。涙で濡れた顔をぬぐってから凛はようやく手を外した。
「熱が高い。そのせいで悪い夢でも見たんだろう」
凛に向かって少し微笑んでみせてから需は部屋に備え付けの洗面台で、氷のうの準備をはじめた。
「……需」
「なんだ?」
「私、リュウを殺める時ですら何とも思わなかったの」
「そうか」
需は一瞬手を止めたが、すぐに何事もなかったかのように作業を再開した。
「ずっとパートナーとして、一緒に行動してきた。それなのに、私、何も感じなかったの。
どうしてかしら。ただ、雨の音が耳について離れなくて……」
「凛」
需は振り返った。
「今は何も考えない方がいい。また発作を起こす」
「……藍の目に、あの時の要の目が重なって見えた。あの時の要と同じ目をして私を見たの」
凛の言葉はほとんどうわごとのようで、明らかに彼女の様子は尋常ではなかった。こんな風に自分の心を曝けだしたりするような人ではないのだ。熱にうかされているのか、話すことをやめようとしない。そうしている間にも彼女の呼吸はまた速くなり始めていた。
「凛、聞け。藍は ――――」
需は唇を噛む。
部屋に、凛の乱れた呼吸音が響いている。
「俺と血が繋がっている。だから、要と似ているように見えることがあるかもしれない。
ただ、それだけだ。深く考えることはない」
「血が……?」
「萩理の家系には、超能力因子を持つものが多く現れる。事実、弟が――― 要がそうだった。だから親父は十四の時に俺の遺伝子を使ってARM を開発したんだ。それが、藍だ。ただ、それだけなんだ」
凛はしばらく需の顔を見つめていたが、目を瞑り、それから何も言わなかった。
需は氷のうを凛の額に当てて、目を瞑ったまま口を噤んだ彼女の様子をしばらく見守ったが、どうやら再び眠りの淵に落ちていったようだ。苦悶するように眠るその姿がいたたまれず、席を立った。
彼女の部屋を出た需はその足で集中治療室に向かった。
夜暗はすでに力を失いつつあり、木々から垣間見える空は紫色に変化しはじめていた。
静まり返った施設内の暗い廊下の奥で唯一こうこうと明かりがついている。需はその部屋のドアをあけた。
「所長、危機は脱しましたよ。もう心配ありません」
同じ年齢くらいの医師が需の姿を見つけるやいなや駆け寄ってきて、穏やかな声で告げた。ファントムハウスでは多くの優秀な医師を抱えているが、とりわけ需が信頼をおいている人物だった。藍の命運は彼に託したのだ。
「大きなものは右肩口の刺し傷と右肘の粉砕骨折ですが、肩口に刺し傷に関してはすでに塞がっています。どうやら神経も修復されているようですし、後遺症の心配はありません」
医師はいった言葉を切って眉を顰めた。
「全身の擦過傷、裂傷、打撲は数え切れないほどです。あとわずかでも失血していたら、危なかったでしょう」
ベッドに眠る顔は相変わらず青白かったが、危機を脱したと聞かされたせいなのか、頬には朱がさしてみえる気もする。かなり深かったはずの右肩の刺し傷はすでに凛のリーディングのよって塞がれていたために、簡単にガーゼを止めてあるだけだが右腕はしっかりとギブスで固定されている。よく整った顔にもいくつもの傷がつき、痛々しい。
「意識はいつ戻る?」
「今日、明日中には戻ると思います。もっとも、精神的ダメージの方については、私は管轄外なのでなんとも言えませんけど」
医師が立ち去った後も、需はその場から動けなかった。
両耳にこびりついていた血はきれいに拭われ、今は切れた耳朶にスペアのピアスが収まっている。
いつ、どういう状況でピアスを奪われたのか ――――。リュウが死に、凛が平常でない以上状況が全く分からない。もしかすると、リュウの寝返りに大きな衝撃を受けたのは凛ではなく、藍だったかもしれない。
藍の命を救うためとはいえ、凛はじかに藍に触れている。あの状態だと彼女の精神状態はひどく乱れていたはずだ。彼女の深層心理は疲弊していたはずの藍の精神を追い詰めなかっただろうか。
「早く目を覚ませよ」
需の脳裏に過るのは不吉極まりない記憶だった。
村上哲史から虐待を受けた藍は完全に精神のバランスを崩して半年もの間、昏睡状態に陥った。昏睡状態から回復しても、彼の混乱は数年続いた。日がな一日ベッドの上から窓の外を生気の失せた虚ろな眼で眺めていた姿を、欲しいものはないかという問いに返ってきた「死にたい」という答えを、需は未だ忘れられない。
「必ず、目を覚ませよ」
需の言葉は祈るようにして発せられた。
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