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人間兵器
作:蒼乃雪花



その先にあるもの・8


 跳ね上げられた藍の体からシグザウアーP226が転げ落ちて、乾いた音を立てながらコンクリートの床を滑る。
壁に凭れるようにしてうずくまったまま動かなくなった藍の顔面はもはや蒼白であった。意識は辛うじて失っていないようだが、浅く早い呼吸を繰り返す彼にはもう動くこともできないようだ。
「殺していいんだろう?」
 リュウはシマを顧みた。
「惜しいな…。これほどまでに芯のあるやつだとは思っていなかったのだが」
 藍がシマのマインドコントロールから抜け出せたのは、リュウにも意外だった。
世に存在する全ての人間は、多かれ少なかれ不安感やコンプレックスと戦いながら生きている。シマはそれを増幅させ、心を自分に傾かせる技に長けていた。
 とりわけ藍はデリケートで危うい印象の方が強かった。いつも憂いを帯びた眼で警戒しながら生きているようなところがあった。SASに復員した詳しいいきさつまでは知らなかったが、それほど強い意志を持って戻ったとは思えなかった。しかし、藍はシマの言葉を突っぱねた。彼を支えたものは一体何だったのだろうか。
「仕方あるまい。SASにこの力を利用されるくらいなら、消してしまった方がいい。こんなチャンスは二度とないかもしれない」
 藍の側には必ず凛がいた。彼女は最大の攻撃であり、堅固な盾でもあった。藍に手を出すのは決して容易ではない。
「俺が始末する。あんたはモズと合流したらいい」
 シマは眉を上げてリュウの顔を見た。
「勘ぐる必要はない。始めから裏切るつもりならアイにこれほどの深手は負わせないさ」
 二人だけで決着をつけたい。それは口に出さなかった。
「……私は先に戻っている。完了したらモズに連絡しろ」
 シマは懐にグロックを収めて踵を返す。
 リュウは懐からベレッタM92Fを取り出して銃口を藍に定めた。
 銃口を定められても、藍は身動ぎひとつしない。焦点の合わない黒い双眸に、ベレッタM92Fを構えたリュウの姿がただ映っている。
 引き金にかけた指に力を込める。
 不思議な存在だった。人を毛嫌いしていながら、いつもどこかで人を許そうとしていた。心を見透かす黒い瞳は畏怖の念すら覚えさせ、正対するのは体が拒絶した。藍の体を蹴り上げた時に伝わった自分の深層心理を聞いてみたいという思いが一瞬脳裏に浮かび、消える。
 リュウに躊躇いはなかった。引き金を引けなかったのには違う理由があったのだ。
 振り返ると、漆黒の髪に雨雫を滴らせながら藍のシグザウアーP226を構えた傾国の美女の姿がそこにあった。
「タイミングの悪いやつだ」
 リュウは苦笑しようとしたがそれは上手く行かなかった。口元が強張ってうまく動かないのだ。
 凛は何も言葉を発さない。冬の雨に打たれて冷えたのか凛の白すぎる肌は蒼みを帯び、いつもは薔薇色の唇も色を失っている。
「リン、見ての通りだ。俺はこっちに付く」
「……そう」
「それだけ?」
 リュウはまた苦笑したつもりだったが、実際に浮かんだものはそう形容するのには苦すぎた。
「お前はいつもそうだ。そうやって、いつも淡々としている。理由は聞かないのか?」
 理由の分からない苛立ちと、言いようもない失望感が喉元を突きあがってくる。
「心乱すのは俺ばかりで、お前はいつも心ここにあらずだ」
 こんなことは格好悪い。これではあまりにも無様な男ではないか。
 こんな風に自分の思いを吐露するつもりはなかった。ただ、裏切った自分をなじってくれればよかった。彼女のポーカーフェイスを崩せればそれで満足だったのに、それすらも叶わない。
 凛の視線はリュウに向いていなかった。彼女の視線はリュウの後方に注がれている。
振り返ると、うずくまったまま動かない藍の姿があった。先ほどよりも呼吸は弱く、意識があるのかもわからない。
 全身の血が逆流するような感覚に陥った。
 気がついた時には手にしたベレッタM92Fの銃口を凛に定めて引きがねを引いていた。
 銃声が静寂に二つ響く。
 ほぼ同時にP226から放たれた弾丸は、接触する直前でサイコキネシスによって九〇度角度を変えた。一方のベレッタM92Fから放たれた弾も彼女の白い頬を掠めただけで、後方の闇へと吸いこまれていく。
 身の毛がよだつような素早さだった。
  身を引いた彼を追うようにして凛がさらに間を詰める。
リュウは体を屈め、ブーツに仕込んでいた小型のナイフを抜くと同時に切り上げた。懐に飛びこみかけていた凛は、右足が着地とする同時にそれを軸足に横に跳んで体を反転させた。
 凛の動きが何かに打たれたように、一瞬止まった。目を見開き、息を呑む。リュウの蹴りは見事に凛の右半身を捉え、彼女の華奢な体は吹っ飛んだ。
「お前らしくもない」
 床で一転して態勢を立て直した凛を、リュウが怪訝な顔で見る。
 彼女にはあるまじき動きだった。公私を問わず五年行動を共にしたが、プライベートですら隙などみせる女ではない。増してや任務中に何かに気がとられるなど有り得ないことだった。
「雨か……」
 五年行動を共にしてきたが、凛が雨に特別な思いを持っていることすら知らなかった。
 ハギリ リンは雨の時、力のコントロールが乱れる―――。
 シマにそう言われて、初めて知った。
 八年前の雨の日に起こった出来事。凛はそんな片鱗さえも見せなかった。結局のところ五年も一緒にいてリュウはハギリ リンのことを何一つ知らなかったのだ。
 珍しく、凛は呼吸を乱していた。
彼女の視線は、リュウにではなく後方の藍に注がれている。とうに意識を失っていると思われた藍は顔を上げて、じっとこちらを見ていた。目に力はなかったが、ただひどく澄んだ眼差しを凛に向けているようにも見えた。
 それを見た途端リュウは眩暈のようなものを覚えた。割れがねを叩くように頭がガンガンする。
 目を閉じて、凛に目掛けてサイコキネシスでナイフを放つ。凛はリュウに向かって駆け始めていた。
 凛が左手を胸に構える。吸い込まれるようにしてリュウが放ったナイフは彼女の手の中で消えた。塵を払い、凛がリュウの懐に飛び込む。
 ベレッタM92Fの引き金を、引こうと思えば引けた。この至近距離ならばさしもの凛も避けきれなかったかもしれない。それでも、リュウは引き金を引かなかった。引けなかった。ただ、寒々しい風が心の中にびゅうびゅうと吹いている。
 リュウの首筋にナイフよりも冷たいものが突き付けられていた。
 肩で息をしながらリュウの顔を見つめる凛の白い頬は、上気して淡い桜色に染まり、絵もいえぬ美しさだ。
 静寂に響くのは、優しげな雨音。
「最後に一つだけ教えてくれないか?」
 凛の左手が首に掛けられたまま出た言葉は、自分でも驚くほどこの上なく穏やかだ。
「――――― 何を?」
「お前が今も愛しているのはハギリ カナメか?」
 凛と対面するまではどうしても聞きたいと思っていたはずの問いなのに、今はその答えすらもどうでもいいように思えた。
凛の能面のような顔が崩れる。彼女は眉を寄せて、目蓋を伏せた。
「分からない」
「そうか」
 静かに目を閉じた。荒涼としていたはずの心は不思議と凪いでいた。
 凛の爪が首筋に食いこむ。
 相変わらず冷たい手だ、とリュウは思った。



 塵と化したリュウの体が大気に溶けていく。数え切れないほどの人間をこうして、髪の毛一本残さずに消してきた。漂う塵すらも少し経てば完全に消えてしまう。
 五年間、いつも側にいた人間の塵なのだと思っても何の感慨もわかない。
 ただ、雨音が神経にさわる、と凛は思った。
「藍」
 屈み込んで、名を呼んだが反応はない。半分瞑られた目には力がなく、あの一瞬向けてきた眼差しは嘘のようだった。
 体には触れないようにして慎重にコートを脱がせると肩の傷口が露わになる。白いシャツは半分以上が紅く染まり、事態の深刻さを物語っていた。
「藍、触れるわよ」
 彼の両耳に、ピアスはなかった。千切れた耳たぶには、赤黒い乾いた血がはりついている。
「触れるわよ」
 繰り返しながら、凛は意を決して右手をそっと傷口に置く。はっとするほどに冷たい感触に一瞬目を開けたが、再び目を閉じて意識を集中させる。
 右手を中心に温かい光が集まりはじめる。
 ―――― 数分後、藍の傷は完全に塞がっていた。












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