その先にあるもの・1
目蓋を開けた途端、視界を占拠したのはアイボリー一色だった。
一瞬、ファントムハウスの自室にいるような錯覚を起こして、シマは首をめぐらせて周囲を確認する。
手作業で見事な細工が施されたイタリア製のカップボードに、象牙のキャビネット。時間を刻むのは、老舗ジュエリーブランドの金時計。壁紙の色こそ同じであれそれらすべてが、ここが宿舎の一室ではないことを雄弁に物語っていた。
根無し草の生活は、全く苦ではなかった。SASになって以来家族は捨てたし、家もない。自室として与えられていた一室に戻るのは、一年のうち半分ほどで、任務のため外泊することが多かった。そのせいか、七年経っても安らぎが得られるような快適な空間のようには思えなかった。
目蓋の裏に先刻まで映っていた光景を思い返そうと、再び目を閉じてみる。しかし、紗かかったようにはっきりしない映像は、神経を集中させてクリアにしようとすればするほど、霧散していってしまう。
アイの持つリーディングや自身の予知能力などの感応系能力と呼ばれるものは、アラタやリンが持つ目に見える能力よりもひどく繊細なものだとシマは常々思っていた。周囲の状況はむろんのこと、その時々の心理状態の影響まで濃く受ける、まるで鏡のようなものだ。どうやら自覚している以上に浮ついているらしいことに気がつき、苦笑せざるを得ない。
ふと視線を再び動かすと、金時計が約束の時刻がすでに迫っていることを示していた。
「お迎えに上がりました」
アラタに魔術師のようだと称された黒のロングコートを羽織って部屋を出ると、戸口に大きな男が彫像のようにして控えていた。大きいという形容は決して大袈裟ではない。百九十センチ近い身長に、鍛え上げられた筋肉質な体。それだけでも十分に人を圧倒させるのだが、彼の容貌が人を寄せ付けないのにはまだ訳がある。
スキンヘッドに黒のスーツ、昼夜を問わず彼の眼は漆黒のサングラスで隠されているのだ。
「相変わらず、時間には正確な男だな」
シマの言葉を嫌味と受け取ったのか、男は沈黙を続けた。困惑しているのかどうかは、サングラスに阻まれて分からない。
「ほめ言葉だ。行くぞ」
軽く肩を叩いて先に歩き出したシマに深く頭を下げてから、二歩ほど後ろを男は歩き出した。シマはこの男のこういうところが嫌いではなかった。
肌を刺すような寒さを予想しながら自動ドアから出たシマは、思いのほかぬるい空気に拍子抜けした。記憶の片隅にある、故郷の冬の空気にそれは似ているような気もしたが、何しろ昔のことすぎてはっきりしない。故郷と呼ぶのにも違和感を覚えるほど愛着もない遠い土地のことを思い出すことなど今までもなかったし、これからもないと思っていた。郷愁にも似たものを覚えるのは、やはり心が凪いでいない証拠なのか。
日中は大渋滞で一向に進まない国道も、深夜となればさすがに車の数は少なかった。ドイツブランドのプレミアムセダンは非常に静かで、スモークのかかったウィンドウに頭をもたれさせて目を瞑ったシマには、車が進んでいるのか止まっているのかも分からない。しかし、目蓋の裏に浮かんだ光景はやはり鮮明ではなく、シマは小さなため息とともに目を開けた。
「予知をしていたんだ。明日の」
スモークのガラス越しに差し込んだ街灯の灯りすらも、眩しく感じる。
「結果はいかがでしたか」
「現時点では選択肢が無数にありすぎるのだろう、ぼやけた映像が何なのかも分からぬ」
「そうですか」
男はさして気にした様子も見せなかった。
「気にならないのか?」
「気にしてもしなくても、明日はやってきます。相手が何であろうと、目的の前の障害は排除するのみです」
「みなにお前のような図太さがあればいいのにな。ハギリ リンが相手となれば、臆する人間も多かろう。シラギあたりは特に」
「アラタ様がいます。彼に適う人間はいません」
「確かに、人殺しにかけては非凡の才を持った男だな」
しかしそれ以外に能はないだろうし、期待もしていない。
ARMはその名の通り、兵器でなければいけないのだ。個人的感情を持たず、ただ従順に役目を果たしてくれればいい。その点においてのみアラタは高く評価するに値する存在であった。同じARMでありながらひどく対照的なアイという存在―――。理想の世界を築き上げるためには、この男の存在が必要不可欠だとシマは思っていた。同じ兵器でも破壊しかできないものとは比べようもないほどの価値がある。
「先ほどシラギから連絡があったのですが、アラタ様が部屋を移ったそうです。ロイヤルスウィートから一般客室に」
思考は男の淡々とした言葉によって中断された。
「なぜだ?」
「何でも、無意味に広い部屋はお嫌いだそうです」
シマはくぐもった笑い声をひとしきり上げた。破壊以外には一切の興味を持たぬ男だということは知っているし、都合はよいが滑稽すぎて笑いがこみ上げてくる。組織というものには大きくしようとすればするほど、分かりやすく、派手な旗印が必要なのだ。強大な力を持ち、皆に畏怖される存在であるアラタはまさにそれに相応しかった。その演出の一つとして彼の居室には高級ホテルのロイヤルスィートルームを与えていたというのに。
「全く何のために生きているのだろう、ARMというものは実に哀れな存在だ」
シマが独り言のように呟いたのとほぼ同時に車は停車した。
国賓も宿泊するという格式高いホテルは、シマとスキンヘッドの男―――モズが滞在しているところよりもワンランク上である。毛足の長い絨毯が敷き詰められたエントランスを抜けると、場違いにも映る若い青年がしまりのない笑顔で二人を迎えた。
「お待ちしていました」
人工的なグレーの瞳と目が合った時、シマの脳内にはひどく唐突に確信にも似たある予感が生まれていた。
「死相が出ている」
「は?」
彼女が吐き出した言葉の意味を瞬時に理解できるほど、彼の頭脳は明晰ではなかったようだった。目と口をぽかんと開けたままシマの顔を見つめた。
「お前は近く死ぬだろう。いや、間違いなく死ぬ」
青年の顔から音を立てて血の気が引いていく。目は見開かれ、色を失った唇は小刻みに震えている。
「本当ですか?」
この瞬間がたまらなく快感であった。死に怯える凡愚どものこの表情。この時、まさに自分こそが崇高なただ一人の存在でいられる。
シマの予知能力の中でも、ずば抜けた的中率を誇るのが人間の死期であった。意識してトランス状態でなくとも、死相が出ている時はなんとなく感じることができる。それが、死の直前に現れるものもいれば、何十年も前から出ているものもいる。
「人はいつか死ぬ。遅いか早いかの違いであろう?」
青年の切羽詰った問いを一笑に付し、シマはアラタが待つ場所に向かって歩き出す。顔色を失ったまま立ち竦む青年の脇をモズが素通りして後に続いた。
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