暗中模索・6
久方ぶりに食堂での味気無い食事から開放され、美味な食事を堪能した二人は例によって空間移動の能力を持つ、サイという少年のおかげで無事帰途についた。
藍の思惑は幸いにも杞憂に過ぎなかったようだ。凛の部屋の前には「就寝中」の札が下げられ、廊下は静寂に包まれていた。特大の七つの紙袋をドアの前でおろし、藍は荷物持ちとしての職務を無事まっとうした。
「おやすみなさい」
普段は交わすことのない私的な挨拶を藍は躊躇なく口にした。面食らったのは凛の方で、一瞬アーモンド形の瞳を大きくしたが、それはすぐに穏やかな笑みに変わった。
「おやすみなさい。また明日ね」
小さく頭を下げて踵を返した線の細い後姿を、凛は完全に見えなくなるまでぼんやりと見つづけた。
「おかえり」
オートロックを解除するためのプッシュボタンに指をかけようとした、まさにその時、後ろからかけられたテノールは、よく耳慣れたものであった。
「謹慎中に無断外出とは恐れ入る。しかも、アイを連れてとは」
「部下のモチベーションを上げるのも、上司の役目の一つでしょう?」
振り向きもせずに、凛はその作業を続ける。
「もう一人の部下には、怪我の心配の一つでもしてくれやしないのに?」
リュウは皮肉っぽく口を歪めたが、それでも凛は振り返らなかった。それどころか、向けられたままの背中からは蔑如の色さえうかがえる。――― ような気がする。
「今日の寝床の予約はどちらで? シン? ユウ? リオン? それとも――― アイ?」
「あれだけ人との接触を恐れる人と、どうやって肌を重ねろって言うの?いくら私でも、そこまで無法者じゃないわよ」
「萩理 要」
その音の羅列は、凛の動きを止めるのに充分すぎる程の魔力を持っていたようだ。彼女の淡雪のような頬にかすかな緊張が走った瞬間を、リュウは決して見逃さなかった。
「アイは、奴に似ているな」
どこか勝ち誇ったような、余裕の笑み。しかし、それを継続できたのはものの数秒でしかない。
突如踵を返した凛に胸元を掴まれ、ぐい、と引寄せられる。
面食らったリュウの長身は、彼女の華奢な右腕一本でも簡単に傾き、次の瞬間にはしっとりと柔らかい感触が唇に重ねられた。
「妬いているの? かわいい人」
唇を離して笑った彼女の顔は眩暈がするほどに美しく、艶麗であった。
「荷物を置いたらあなたの部屋に行く。だから、先に戻って待っていてくれる?」
言葉の続きはいろいろ考えていた。なのに、彼女のキス一つで思考は完全に停止し、足先まで満たされた気さえしてしまうから恐ろしい。半ば呆然と頷いたリュウの頬にさらなる追い討ちをかけるように軽く音を立てて、挨拶代わりのキスをする。そのまま手を振ると、彼女は荷物を抱えてドアの裏に姿を消した。
我に返ったのは、凛が姿を消してからすでに十秒は経過していた。
肺の中身が全て空になるような深い溜息をついて力なく座りこむ。夜気に冷えた廊下は、嫌にひやり、としていた。
全く自分というやつは、いつからこんなにみっともない男になったのだろう――――。
リュウは自嘲に似た思いの中に、かすかな快感のようなものがあることに気がついて、自身で動揺せざるをえなかった。
「ハギリ カナメ」という男の名は、確実に彼女の核心に迫るものであった。しかし、この無様なありさまはどうだろう。「あなたの部屋に行く」というたったその一言だけで、ささくれていた心が鎮まってしまったのだ。
しかし、間を置いて考えてみれば彼女の今の言動と行動は、自分への愛情ではなく、核心に触れさせないための巧妙な手段にしか過ぎない。それを認めてもなお、今夜彼女が部屋にくるというアポイントが取れたこと自体がたいそう幸福なことに思えてしまう。
「妬いているの…か」
天を仰ぎ、彼女のいった言葉を思い返す。
はじめは確かに割り切った関係だった。幸い容姿には恵まれているといっても過言ではないし、金も人並み以上にはある。寄ってくる女は星の数とまではいえないが、そう不自由する身ではない。特定の相手を作らないのは束縛されるのが嫌なのと、仕事上面倒だからだ。女という生き物の大半は計算高くて、つきあいもある程度になると将来への展望を口にしはじめる。いつ殉職するか分からないのに、数ヶ月後、数年後のことなど約束できないし、それが自分にとって枷となるのはたまらない。今が、その一瞬が楽しければそれでいい。
「私たちのような職業では、刹那主義こそが最上かもしれない」
いつだったか、凛がベッドの中でそう言ったことがあった。全くその通りだと思った。
会いたいときにだけ会い、互いに欲求を満たす。それ以上でもそれ以下でもない関係におおいに満足していたはずだった。
なのに―――。
凛が姿を見せない夜にはこんなにも心ざわめき、苛立つようになったのは一体いつからなのだろう。
彼女は誰も自分の領域には入れない。どれほど夜を共にして、彼女の身体を知ろうとも、彼女の心には一ミリだって届いていない。
地位も、名誉も権力も金もすべてがもうどうでもいい。
手に入れたいのは、彼女の心だ。
自分を失った時、凛は涙を流すだろうか。
理知的な白い頬を、激情で紅く染めることができたなら一体それはどれほど美しいのだろう。
狂気を帯びた欲望は、急速に力を持って体中を支配し始める。
もはや完全に制御を失った欲心は、己を破滅的な未来へ向かってただ猛然と駆りたてはじめていた。
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