暗中模索・5
「藍…?藍じゃないか!」
「……雅人?」
裏口から大きなポリバケツを抱えて姿を現したのは保田雅人であった。
「何だよお前! 帰ってくるなら、連絡ぐらいよこせよ。薄情なやつだなあ。どうしたんだ? 一時帰国か?」
平生、顔に感情が表れない藍が誰の目から見ても明かに驚いていた。黒目がちな目を大きく見開いたまま、呼吸するのも忘れているようだ。保田が訝しがるよりも早く、口を開いたのは藍ではなく凛だった。
「仕事の関係で少し寄っただけなのです。あ、申し遅れました。私、萩理君のマネージャーの黒木というものです」
彼女が取った行動は、さらに追い討ちをかけた。
「おい、すっげえ美人だな」
保田は呆然としたまま動けない藍の耳元で囁くやいなや、ポリバケツから手を離して素早くベストで両手を拭ってから、手を差し出した。パンフレットに出てくる保険外交員のような笑顔を浮かべた凛が彼の手を握ると、すかさず保田は彼女の華奢な右手を、両手でしっかりと握る。
「友人の保田雅人です。藍君は僕にとって無二の親友です」
「お噂は、兼ねがね」
「ええっ! 藍の方から僕の話しを? いやあ、参るなあ」
「ええ。とても楽しい方だと」
「楽しい方ですかぁ…」
談笑する上司と友人の姿は、先刻ウィンドウに映っていたものとも比べ物にならないくらいに奇妙で違和感のあるものであっただろう。保田に腹いせがわりに踏みつけられた足を藍は痛がるわけでもなく、不満を言うわけでもなかった。次の瞬間彼が取った行動は保田のみならず凛までも驚倒させるものだった。
気味悪そうに、保田が藍の顔を覗き込む。
凛は眉根を寄せて藍を見遣る。
「何がそんなにおもしろいんだよ」
保田の問いにも答えず、凛の心配そうな視線を意に介した様子もなく、藍は声を立てて気が触れたかのように笑い続けていた。
壊滅的被害を受けたはずの店内には、まるでその痕跡がなかった。
あの時無残に叩き割られた、長い時を経て重厚で複雑な味わいを出したアンティークの円卓やチェアだけは、少し色艶が違うようだったが、それでも毎日触れる者でもよく見ないと分からないような些細な違いだ。
およそ半月ぶりに姿を見せた藍を、船瀬や遥、さらには調理場のスタッフたちは皆温かく迎えた。
「おお、藍! なんだ、帰ってたのか」
「仕事は順調か?」
「いつから来てたの?」
次々と飛びだしてくる質問には、あいまいに答えながらも藍は子供のようにはしゃいでみせた。友人と同僚たちにとっては、たかだか二週間ぶりの再会だったが、藍にとっては二度と叶わぬと思っていただけに奇跡の再会に等しい。平素は口数が少なく、あまり感情を露わにしないこの男が、よく笑い、話すことに彼らも少なからず驚いているようだったが、凛の驚きはその比でなかった。
船瀬に掻きまわされた髪を、遥が直してやっていた。当の藍は、髪の毛とはいえ人に触れられているというのに、満面の笑顔だ。心の底がさざなみたつ予兆を感じて、凛は視線を外した。
「とりあいずオーダーしましょう」
ようやく席につくことが出来たものの、興奮冷め遣らぬようで彼の頬は紅潮していた。
「任せるけど、デザートはガトーショコラにしてね。この前食べ損ねたから」」
いかにも物言いたげな視線を悪戯っぽい笑みで牽制して、凛はメニューを差し出す。藍もつられたように少し笑った。
差し出されたメニューも開かずに、藍がすらすらとオーダーしたのは、カジキマグロのサラダ仕立て、ポルチーニリゾット、子牛のローストで、どれもシェフ達の得意なものばかりであった。
食前酒を運んできたアルバイトのスタッフが席から離れるやいなや、藍は待ちきれない様子で喉元まで出かけていた言葉を吐き出す。
「一体どういうこと?俺の記憶は全て消されているはずじゃ…?」
「あなたはモデル事務所にスカウトされて、トップモデルを目指してロンドンで修行中ってことになっているの」
「モデル…?」
「そう、現実に有り得そうな設定でしょう。私が考えたのよ」
ワインを一口含んで、凛は自信ありげにウィンクしてみせる。
「でもね、彼らの記憶を消去した後に、偽造した記憶を植え込んだのは所長の指示よ。私はリスクが大きいから反対したんだけど」
捏造された記憶は、どこかで必ず歪みが生じる。それならば完全に消去してしまう方がはるかに確実だ。藍が凛の立場であったなら、間違いなくそれを指示しただろう。
「付け加えると、あなたが三年間を過ごしたアパートもあのままになっているの。もちろん、当初の予定では処分するはずだったんだけど、それも彼の指示で」
大仰な溜息をこぼして、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「本当、所長の過保護ぶりには呆れるわ」
「全くだよ」
言葉とは裏腹に、藍は弾けるような笑みを零した。
タイミングよくアンティパストが運ばれてきた。凛は優雅にナイフとフォークを操り、カジキマグロを口に入れて、頷く。
「もしかして、俺を連れてきたのはこの為……?」
凛は答えなかった。下を向いたままナイフとフォークを動かし続ける。
「……ありがとう」
凛ははじかれたように顔を上げた。
物憂いげな漆黒の瞳はいつものように下を向いてはおらず、澄み切った瞳はただ、まっすぐに凛へと向けられている。無防備と言っても過言でない、率直すぎる眼差しがあまりにも眩しくて、目を細めた。
「さっきも言ったでしょう。私のとなりには美男子が相応しいの。ここに来たのは単に料理がおいしいから。ただそれだけよ」
いつもよりも幾分早口になったその言葉は冷静さを欠いており、凛はいつのまにか気圧されている自分に気がついた。
「ありがとう」
繰り返された謝辞には微笑で応じながらも、凛は彼がピアスを全てつけていることに、心の底から安堵していた。
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