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人間兵器
作:蒼乃雪花



暗中模索・4


 藍は実に奇妙な光景を目の当たりにしていた。
 およそ二週間後にバレンタインデーを控えたこの日、仲睦まじそうなカップル達が手を繋ぎ大通りを闊歩している。国内チョコレートメーカーの策謀はまんまと成功し、菓子メーカーのみならずバレンタイン商戦に凌ぎを削る百貨店やファッションビルのショーウィンドウはどこも赤とピンクのハートで埋め尽くされ、男性向けのギフト商品やブランドチョコレートが大々的に紹介されていた。
 春の訪れを感じさせる余地もないというのに、早くも全身薄物で固められた高級ブランド店のウィンドウに、それは映っていた。
「これとか、どう?」
 ガラスに映る、二つの影。一つは背の高い男。もう一つは、国を陰から支えるSASの柱であり、藍の直属の上司であり、共に謹慎処分中であるはずの、目も覚めるほどの美女のものであった。
 から見ればさぞかしお似合いの、万人が羨むような美男美女のカップルであろう。しかし藍にとって凛は上司であり、日常という言葉とは無縁のところで会うのが当然の人である。休日の街中で、共にショーウィンドウを見上げるこの姿のなんと奇怪なことだろうか。
「つきあってくれる?」の後に続く言葉が「―――買い物に」ということだったのが発覚したのはつい先刻のことであった。
 何に付き合されるのか全く知らされないまま、寝巻き姿から着替えた藍を伴って凛が訪れたのは、非番であった空間移動の能力を持つSASの元である。
 未だあどけなさを色濃く残した少年の顔には、藍も見覚えがあった。任務完了後、彼らを回収しに派遣されてくる能力者の一人だ。
「わあ、リンさん!!珍しいですね、非番ですか?」
「まあ、そんなところ。サイは非番だって聞いたから。あのね、お願いがあるんだけど…」
「リンさんの頼みなら、お安い御用です」
 就業中以外では能力を濫用してはならない。また、監督者は濫用させぬよう監督を怠らぬこと―――。
 かくして藍の優秀な上司は、謹慎中にも関わらずその規定をもいとも簡単に踏みにじった。
 凛と藍がサイと呼ばれた少年の力によって、ものの数秒でやってきた場所は、藍が落世してから三年間を過ごしてきたその土地であった。
「ね、どう思う?」
 凛が振り向く。
 感慨深く並んだ二つの人影を眺めていた藍は、慌ててウィンドウの中身を見た。
「……いいんじゃない?」
 言ってから、はたと気づいた。ウィンドウにディスプレイされているのは、男性のボディだったのだ。適当に返事をしたのは明らかだ。
 気まずそうに藍は視線を動かす。凛は横目でそれを見遣ってから肩を竦め、藍一人では足を踏み入れることすら憚ってしまいそうな高級店に、そば屋に立ち入るかのごとく気軽に入っていったのであった。
 大きな什器の上には、寸分違わぬ大きさに畳まれたニットやカットソーが、一枚ずつ並べられている。十分すぎるほどの間を空けてラックに掛けられたハンガーと合わせて、噎せ返るような高級感に支配された空間を、藍は所在なげにうろうろしていた。奥のカウンター近くでは、馴染みの店員らしき男性と凛が和やかに談笑している。
「藍、ちょっときて」
 手招きされた藍は凛の傍らに立つ男性スタッフと目が合い、軽く頭を下げた。
「これはまた今日は一段と素敵な方をお連れで」
「何か彼に似合うものを選んでくれる?ウィンドウで着せていたのもいいけど、まだ寒いから、春物でもう少し厚手の物がいいんだけど」
 凛の発言に驚いたのは藍だけであった。黒のスーツをそつなく着こなした男性スタッフは、藍の頭からつま先までを一瞥しただけで、素早く動き始める。広い店内を闊歩してものの数分ののちに、藍と凛の前に幾通りかのコーディネートを用意した。
「顔立ちも整っていらっしゃいますし、長身でスタイルもいい。何を合わせてもお似合いになるとは思うのですが…」
 と彼は前置きしてから、呆然と突っ立ったままの藍をフィッティングルームに押しやり、用意したコーディネートを手渡す。藍はされるがままにパンツを履き、ブラウスを着てその上にニットを着る。ニットの襟元についていたタグがちらりと視界に入った瞬間、眩暈に襲われた。ウェイターをしていた時の給料の一ヶ月分に相当する。
 やや細身のベージュのパンツにストライプのシャツ、その上には黒のセーター。なんてことのないコーディネートだというのに、洗練されたシルエットと上質な素材は藍の持つ雰囲気と体型にぴったりと合っていた。さらに、男性スタッフが奥から取り出してきたジャケットを藍に羽織らせて、ボタンを留める。
 ソファに腰かけて見上げていた凛が、満足気に頷いた。
「とてもお似合いでございます」
「それ、着ていくわ。いい?」
「それはよろしいですね。すぐにタグをお取り致しましょう」
 呆気に取られたままの藍を余所に、販売員は素早く彼の着ているパンツ、シャツ、ニット、コートからタグを取り除いていく。その作業で乱れた裾を手早く整え、ジャケットの襟を正し、「よし」と小さく呟いた。
「どういうこと?」
 財布からカードを取り出して販売員に渡した凛に、藍は戸惑うような視線を向ける。
「私と歩くのにその格好はないでしょう?」
 常人が口にしたら白い目で見られそうな台詞を、この絶世の美女は平然と言ってのけた。
 しかし、この人が言うならば誰も異論は唱えないであろう。藍も反論しようとは思わなかったが、それは彼女の美貌ゆえではなかった。
 実際、彼の今日の服装は彼女の横に全く相応しくないものだったのだ。
 需に借りたくたびれたニットは横幅が余っており、パンツは逆に丈が足りていない。取る物も取らず着の身着のままでファントムハウスに戻った藍は、凛の粋な計らいで上下一式とコートは確保したものの、それを毎日着るわけにもいかず、需の服を借りて過ごすのが常であった。SASに復員して以来は、仕事に忙殺され、服を買いに出る暇などまるでなかったのだ。
「せっかく男前と歩くなら、飾らなくちゃもったいないじゃない」
「……一つ聞いてもいい?」
「いいわよ」
「お供に俺を選んだ理由は?」
「他に非番の人間を探すのが面倒だったのと、見栄えがいいから」
 予想していた答えであったものの、あまりの即答ぶりに藍は大いに脱力したのだった。
 藍を着飾らせて満足したのか、凛は意気揚揚と店を後にした。
 道行く男性の多くが、彼女とすれ違うと振り返る。そしてその視線は次には決まって藍に注がれる。こんな美人を連れて歩く男の顔を一目見てやろうという、嫉妬と羨望の入り混じった視線。
 大抵は納得がいくのか溜息をついて視線を外す男が多いが、彼らは皆、根本から大きな勘違いしている。
生憎と藍が彼女を連れているのではなく、彼女に連れられて歩いているに過ぎない。あくまでも荷物持ちなのだ。
 現に彼女が一つ店を出るたびに確実に紙袋は増えていく。それも、小さなものではなく、ほとんどが特大だというから性質が悪い。あっという間に藍の両手は紙袋で溢れた。
 いかにも敷居が高そうな高級店に入るのにも、藍はもはや躊躇わなくなっていた。荷物が増えて小回りが利かなくなってきた為、店内に入ると荷物達とソファに座り、彼女が目当てのものを見つけるのをただ待つ。
 藍の視線の先で、凛は薄く重ねられたニットを指先でめくっては戻し、店内をゆっくりと一周する。
 目を輝かせる。
 首を傾げる。
 溜息をつく。
 真剣に鏡を覗きこむ……。彼女の表情は驚くほどよく変わった。
 仕事もできるし、頭もキレる。氷の美女などと呼ばれ任務となればいとも簡単に人を殺めたりもする。彼女と同じ陣営にいるものならば羨望と畏敬をこめて、敵対する組織のものならば恐怖と憎悪をこめて皆彼女の名を呼ぶ。
 しかし、目の前で真剣にカーディガンの色を悩むこの姿のどこが、そこらを歩く女性と違うというのだろう。
「藍!どれが似合うと思う?」
―――――どれでも似合う。
 出しかけたそんな言葉は飲み込んだ。
 彼女の美貌とプロポーションをもってすれば、例えどんな洋服であっても形になるだろう。しかし、彼女が望んでいる言葉はそれではないはずだ。ピアスは全て付けているから凛の思念は聞こえないし、元より女心などまるで分からない。
「……紫。紫が似合う」
 周囲の人間が嘆くくらいにファッションに無頓着な藍のこと、何か説得力のある裏付けなどももちろんない。彼女が身につけるものにモノトーンが多いのも脳裏を掠めたけれど、彼女の白皙の面にはその色がよく映えた。
「じゃあ、紫にする」
 凛の顔がほころぶ。それはまた嬉しそうに―――。自分に向けられた大輪に花のような笑顔に気恥ずかしさを覚えながらも、目を背けるのも惜しいような気がして藍はその場に硬直した。
 考えてみれば、彼女の顔には大抵笑みが浮かんでいる。時々それに苦いものであったり、皮肉めいたものであったり別の要素が混じることはあるが、彼女の表情は柔らかいものであることが多い。
 凛から表情が失せるのは、人を殺める時だけだ。しかも、失せるのは表情だけではない。
 その瞬間、彼女の中では心さえも失せるのだ。
 その時、すぐ側にいるはずの凛から一切の思念が聞こえなくなる。それと対極的に脳内で響く、彼女に消される人間の、途方もない絶望と恐怖。彼らに絶対的な闇を与えるその行為の時、凛の心はなぜか真っ白なのだ。藍にはそれが、かすかな失望を覚えるとともに腹立たしくさえ思えることがあった。
「お待たせ。行きましょ」
 会計を済ませた凛が丁寧に包装されたカシミアのニットを、無造作に紙袋の一つに押しこんだ。
 店を出るとすでに空全体が淡い紫色のヴェールに包まれていた。
 仕事を終えて帰路を急ぐサラリーマンや連れ立って繁華街に消えていくOL、携帯を片手に待ち合わせする女子高生――――。慌ただしく人が行き交い、通りすぎていく。
 居酒屋やカフェにはディナータイムのメニューが掛けられ、中からオレンジ色の光と早くも楽しげな声が漏れ始めている。
 眼前に広がる光景は当人達にとっては、繰り返されるありふれた日常にすぎず、何ら特別なことではない。しかし藍にとっては恋焦がれてようやく手に入れて、そして理不尽にも奪われたものだ。
 忙しく行き交う人の群れから、世界から、除者にされたような気がして、とりとめのない孤独感が喉元に突き上がってくる。蓋をしていた飲み込めきれない思いが出口を求めて溢れ、どうしようもなくなる。
 斜陽が精巧な藍の横顔を照らし、睫毛が濃い影を落としていた。
「食事にしましょう。予約してあるの」
 場違いにも凛が弾んだ声を出した。その声音もさることながら、彼女が言った内容には返事をするのも忘れて呆れてしまった。
 SASの内でも最も多忙なこの上司の元には、たとえ謹慎中であっても頼って訪れる者が少なくないだろう。しかも二人は謹慎中の身であり、無断外出などが知れたらどうなるのか分からない。
「大丈夫。部屋の前に体調不良のため就寝中って札をかけてきたから。もちろん、藍の部屋にも」
 何という根回しの良さなのだろうか。こんなところにまで彼女の優れた頭脳は発揮される。
 まるで住み慣れた土地を案内するかのように凛は大通りから小道に入り、複雑に入り組んだ路地を迷うことなく進む。
 快調に歩を進める凛に反比例して、藍の足取りは重くなっていった。通りすぎていくのはつい先日まで見慣れていたはずの花屋、骨董品屋、クリーニング店―――。いやな予感は一歩進むごとに大きくなり、いよいよ藍の足取りは重くなる。
「予約してある店って……」
 言いかけて、とうとう藍は足を止めた。
 角を曲がってすぐにあるのは、藍が落世して就職したカフェレストラン。船瀬や保田がいるはずの、そこ。
「そう、あなたのお店よ」
 凛が振り返り目にしたのは、背を逆立てた猫のような青年の姿だった。
「無理」
「無理――ってなぜ?友人や店が心配でしょう。あの後どうなったか自分の目で確かめてみたくはない?」
 真正面から見返してきた凛の視線は、澄み切っているくせに熱がなく、藍を苛立たせた。
 あんな別れ方をしなければいけなかった友人達と、荒れ果てた愛着ある大切な場所。彼らがあの後どうなったのか、気にならないわけがない。
 ただ、それ以上に怖いのだ。
 保田が、船世が友人としてではなく、業務的にウェイターとして接客してくる姿を見て、自分はどうなるのだろう。自分がいなくなっても、当たり前のように営業している店を目の当たりにして安堵できるほど自分の心は成熟しているのか。
「行くわよ。予約の時間なの」
 凛の声は平時と変わらぬ冷静なものだった。それが、今はやけに癪に障る。
「そんな、人の傷口に塩を塗るような真似をして楽しい?」
 口をついて出た言葉は、自分で驚くくらいきついものだった。
 凛は一瞬驚いたように眉を上げたが、次には艶やかな唇で美しい弧を描いて微笑んだ。
「楽しいわよ。あなたがそうやって感情をぶつけてくるのは、ね」
「感情をぶつける?」
 知らぬ言葉を聞かされた幼児のように、彼女の言葉を繰り返してみても藍には彼女の言葉の真意が分からない。
 妙な沈黙が辺りを包んだ。しかし、その沈黙を破ったのは、二人のどちらのでもなかった。












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