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人間兵器
作:蒼乃雪花



意馬心猿・2


 凛が、ちらりと腕時計を見遣った。
 六角形のフェイスの淵が、形押しされた花のような図柄で囲まれている1970年代頃の老舗時計メーカーのアンティークもので、彼女のお気に入りの一本であった。
 時計に時折かかる、見慣れないものの存在に、藍はようやく気がついた。いつもは厳つい印象すら与える左手の漆黒の手袋が、今日は無い。変わりに彼女がはめているのは、手首までの短めのレース手袋である。藍の記憶の中では、彼女の左手が重々しい漆黒の手袋以外のものに覆われていた事はないはずであった。
 アイボリーのレース地から僅かに透けて見える彼女の左手は、露わになっている右手に比べても雪のように白く、錯覚かもしれぬが、一層、華奢のようにも思われた。凛と行動を共にするにあたり、彼女の左手から発動される恐るべき能力は聞いたが、藍は彼女が左手を隠す理由をまだ、知らない。
 藍も自身の左手の時計を見た。場に相応しいように、リュウに借りた高級時計は、十九時四十五分を示している。パーティーの終了予定時刻は、ニ十時―――。脳内に響く声の多くは、相も変わらず、保身に汲々きゅうきゅうとする卑しい思念ばかりで、特別に不穏なものは感じない。
(無駄足か…)
 小さくついた溜息に、壁に凭れたまま、真波氏の挙動と、彼を取り巻く人間たちに注視する凛の心の声が、重なった。つと視線を彼女に動かせば、示し合わせたように彼女もこちらを見る。
「聞こえた?」
 無邪気な彼女の問いに、藍は困惑しながらも小さく頷いた。まるで人の秘密を許可なく盗み見た時のような苦い罪悪感が、じんわりと広がっていく。しかし、問うた張本人は、強大なリーディング能力を持つ能力者を初めて前にして、どこか楽しげですらあった。
 二人の視線の先で、真波氏は終いの挨拶の為に秘書に先導され、壇上に上がるところであった。真波恭三が偽善的な笑みを浮かべながら、用意されたマイクに手をかけた次の瞬間、藍の脳内を眩暈のような不快な感覚が襲った。
「藍――?」
 彼の異変に気が付き、訝しげに凛は藍の顔を覗き込む。
 雑音が蔓延る(はびこる)脳内で、突如頭を擡げた不快の正体を探す。ラジオのチューナーを合わせるようにして、さほど苦労もせずに藍はそれを探り当てた。
「外か……」
 独白した藍の言葉を聞き逃すほど、凛は鈍くはない。
「どうせ、能力者では無いでしょ?」
「でも、一般人ではないよ」
「プロってこと?」
 藍は、無言で頷いた。
「さすが巨額の経費を割いただけあって、セキュリティーは万全のようね」
 凛は憂鬱そうな溜息とともに、警備に隙はないと豪語した主催者を皮肉った。万全を期したのは「白凰の間」だけで、敷地内は管轄外とでも言うのだろうか――。そこまで考えて、凛の頭に好まざる考えが沸きあがった。
「巨額の経費を使った相手は、国かもしれないわね。私達を動かすのには、かなりの額が必要だったでしょう」
 自らは安全な場所で命令を下すだけの、特殊能力を持たない司令官の脂ぎった顔を思い浮かべた。
 そもそも、ARMという名の凶悪なテロリストの始末を命じらている二人が、今回真波恭三の護衛に当る事になったのは、彼の命を狙う者がテロリスト共と直接的な関係があるやもしれぬという、情報が入った為である。彼らに関する情報が希少である現状を踏まえれば、一刻も早い事態終息の為には、二人への出動命令は妥当だ。しかしながら、それは二人を出動させる為の単なる「建前」である事に、彼らは薄々気が付き始めていた。大体にして、その情報の出所すらも明かされないのだから、その信憑性を疑うのは当然である。
国の極秘組織であるSASをも私兵として動かす、真波恭三の強大な力を政財界の人間達はどう見るだろうか。
「聞こえてるでしょう、どう思う?」
 自身の考察について意見を求めたが、藍はやや困惑したような顔で凛を見た。
「できればコミュニケーションは、会話で取りたいだ。人の心をいつも盗み見ていると思われるようで、嫌なんだけど」
 真面目くさってそう言われ、凛はきょとんとした顔で藍を見詰めたが、次の瞬間には吹き出した。
「今度からそうするわ。でも時間がないから、今回は答えてもらっていい?」
 眼の端に涙まで浮かべて笑う彼女に、幾分憮然としながらも藍は自身の見解を口にする。
「……あなたの考えている通りだと思う。俺達は、真波恭三氏の権力と財力の誇示の為に呼ばれただけだ」
「状況は?」
 凛は笑いを収めて問った。
「狙撃手は一名、恐らくプロの殺し屋だが、能力者ではない。ホテルのドアマンに扮して、真波氏が車に乗りこむ寸前に射殺を目論んでいる。現在は、エントランスで待機中―― この距離だとこのぐらいの情報しかわからない」
 このぐらい、とは随分な謙遜だと凛は思う。もっとも本人は謙遜しているなどとは思っていないであろうが。
「たった一名の狙撃手で、一般人。私達の出番ではないわね」
 彼女がこれまで相手にしてきたのは、特殊訓練を積んだ諜報員や、特殊部隊、軍隊や国そのものを相手にしてきた事もある。殺しに慣れているとしても、彼女にとっては一般人と変わらない。
「帰還しますか?」
 意識的に言葉遣いを正して、藍は、世にも美しい上官の顔を見遣った。藍も彼女に同感であった。自分達の出動はこの時点で大義名分をほぼ失ったこととなり、任務を放棄しても罰を課される謂れはない。全ての行動の決定権を持つ、たった二人きりの小隊のリーダーは、華奢な顎に、レース手袋で包まれた細長い指をかけ、数秒思案する。
「ここで恩を着せておくのも悪くないわね。さっさと片付けて戻って、リュウの報告を受けましょう」
 No.25コードネーム″リュウ″―――彼は単身、情報収集の任についているのだ。
「了解」
 上司の決定は絶対である。正式にSASに復帰した以上、悲しいかな藍も階級制度の立派な一員である。もっとも、彼女の決定に異論があるわけではないのだが。
 凛に数歩遅れて、藍が続く。真波氏は饒舌家としても有名であった。長たらしいスピーチを人々が熱心に聞くフリをしている中、二人は早足で白鳳の間を後にした。
 会場の外に出てからは、藍が凛を先導して歩く。一歩も止まらず、まるで見てきたかのように案内する彼の姿に、凛は心の内で感嘆せずにはいられなかった。
 ホテルのエントランスまで辿りつくと藍は足を止め、回転ドア越しに立つ、一人の男に視線を定めた。襟が詰まったベージュのジャケットとパンツに、金ボタンが眩しい。ドアマンの制服を違和感なく着こなした長身の男は、柔和な笑みをたたえて宿泊客を案内していた。
「間違いない?」
 行動を共にするのは初めてといえども、彼の能力に絶対的な信頼を置いている。ARMであり、クラスSSの保持者である。クラスSSはダテではないはずだ。黙って頷いた藍に、待機するように言い残して凛は行動を開始した。
 状況の把握、情報収集が藍の役割だとすれば、凛の役割は任務の実行である。男が案内を終えて回転扉から外に出たのを見計らい、彼女も外に出る。
 男の正面に回り込むと、彼女はにっこりと笑ってみせた。突如現れた絶世の美女に、大輪の花のような笑顔を向けられて、戸惑いながらも恍惚としてしまう。次の瞬間、凛が動いた。
 音もたてずに滑るような動きで前進し、男との距離を一気に縮める。アフロディテの微笑みに自失していた事も、彼の反応を鈍らせた要因の一つであったには違いない。しかし、正常な状態であっても、男の反応速度を上回るほどに凛の動きは速かった。彼女は男が懐の拳銃に手をかけるよりも速く、自分の身を小さく屈ませて男の懐に滑りこませた。彼女の右手はしっかりと男の胸元を握っている。
 刹那、男の視界で世界が反転した。彼自身は何が起こったのか理解できていなかっただろうが、少し離れた場所で藍は、長身の男の体が宙を舞うさまを目にしていた。凛が鮮やかに背負い投げを決めたのだ。
「ご心配なく。ドラマの撮影ですから」
 柔よく剛を制す――その言葉を見事に実証してみせた張本人は、現場に居合わせた、口と目をOの形にしたままの通行人と客に、つらっとして言ってのける。
 上等なイタリア製のスーツを着こんだ男が、伴っていた夫人に向かって「あの美しくて勇ましい女優は何といったかな」と問い掛け、二人で首を捻っていたことは余談である。
 今宵、真波恭三の殺害という密旨を遂行するはずであった男は、よもや突然現れた美女に、背負い投げを食らわされるとは予想しておらず、まともに受身を取ることすらできずに、固い大理石の床の上で頭を強打し、半ば意識を失っていた。
 凛は、ドラマの撮影と信じきった見物人達が、近くにカメラが無いことを不審に思い始める前に、男を引き摺るようにして人気のないホテルの側面に回った。藍がそれに続く。
「だれの差し金か、教えてくれる?」
 芝生の上に男の体を転がせて凛が問う。右手には男の懐から取り上げた拳銃が握られ、銃口は、無論、男に向けられている。
「……それは言えない」
 いまだ星がちらつく視界の中で、銃口を向ける美しいシルエットを見据えて、男は言った。しかし、凛にとって男の言葉は全く予想通りであり、一グラムの衝撃も失望も感じなかったのである。彼女はひょいと眉を上げると、右手に持っていた拳銃を何気なく左手に持ち替えた。
男の口から、驚愕の声は発せられなかった。正しく記せば、発することができなかったのである。それを目の当たりにした彼を支配したのは、驚愕を上回るほどの身も凍るような恐怖であったのだ。
 何気なく拳銃を持ち替えて、彼女は瞬きを一つした。それだけのことだった。
 しかし、その直後起こった出来事はただならぬものであった。
 左手にしていたレース手袋が、彼女の掌に吸いこまれるようにして消え、握りこぶしの指の隙間から、砂のようなものが落ちていく。むろん、姿を変えたのはそれだけでは、ない。
 真波恭三の命を失うはずであった兇器さえもが、粒子状に変化し、彼女の指の間からさらさらと音を立てて零れたのだ。目の前で起きた、出来が良すぎるマジックショーは、彼の数十年の人生経験の中で培った常識というものを、容易く踏み倒してしまったのである。
 凛は左手の拳を広げて、まつわりつく元拳銃であったものの屑を、鬱陶しそうにして払った。スカートのポケットからレザーの黒い手袋を取り出して、いつものように左手にだけはめる。
「だれの差し金か、教えてくれる?」
 表情を全く変えずに、先刻と同じ質問を繰り返す。心持ち、言葉が孕む冷気の度合いが増したように思えるのは、恐怖という新たなスパイスが加わったせいかもしれない。
「待って―――。俺が聞くよ」
 開けっぱなしの口から、今にも泡を吹き出しそうな相貌の男があんまり憐れに思えたのか、それとも女王様めいた凛の姿に呆れたのか定かではないが、藍が拷問役を買って出る。
拷問などという惨たらしい言葉は、彼には全く似合わない。拷問などしなくても、藍は容易に情報を得られるのだから。
 それまで凛の後ろに控えて事態を静観していた藍は、男の正面に回りこみ、じっと顔を見据えた。惹きこまれてしまいそうな漆黒の瞳が、小刻みに揺れる憐れな殺し屋の眼を捉える。森羅万象すらも見通すような深い黒の瞳は、男に、先刻感じた種類とは別次元の新たな恐怖をもたらす。
しかし、瞬き二つ分のごく短時間で漆黒の双眸は男から外され、傍らの白皙の美女に向けられた。
「言えないんじゃなくて、本当に何も知らないよ。報酬は1000万、仕事を持ちかけてきたのは、クラブ『リード』のマスターで、マスターは彼らに仕事を斡旋してくれるボスのような存在らしい。報酬の一割をマスターに渡すと、また別の仕事を紹介してくれる。この人はただの傭兵だ」
「完全に私たちの管轄外ね。すぐに捜査員を派遣してもらうわ」
 立て続けに起こった非現実的な出来事に、理解の範囲を越えたのだろう。幸福にも彼はすでに現実世界から旅立ってしまっていた。白目を剥き、今度こそ意識を失った男を見下ろして、凛は深い溜息をついたのだった。












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