意馬心猿・1
翌朝早く離れを出た藍は、凛から受け取った数枚の書類と、国への忠誠を誓う宣誓書に記入、持参し、二度目となるSAS認定試験に臨む事となった。彼のSASとしての素質、能力は試験を受けるまでも無く、誰もが認めるものであったが、形式上を省くわけにはいかなかったのである。
変性意識への移行速度、トランス状態の維持時間、能力の精度等、数十にも及ぶ項目をオール優で難なくクリアした彼は、当たり前のように再度クラスSSに認定、晴れて正式にSASとして復帰する事になったのである。
通常、訓練生は認定試験に合格し、SASとなるまで名前を持たず、ナンバーによってのみ識別される。SASになると同時に、自身によってコードネームを選択し登録、それが名前となるのである。既に登録済みの、あえて変更する必要のないそれを、藍は″アイ″から″ハギリ アイ″に変更して登録する事にした。
SASに復帰する条件として、「特務にのみ従事する」事を彼は提示した。契約書の特記事項としてそれは書面にも明記され、受理された―――― 筈だったのである。
「なんでこうなるわけ?」
イギリス紳士のように髪をタイトにまとめ、黒のスーツ姿の美丈夫が、憮然としていた。
「特務の一環、かもね」
一方凛の姿は、柔らかいベージュの一つボタンのジャケットに、タイトスカートといういでたちである。彼女の完璧なプロポーションに沿うようにデザインされた、オートクチュールのスーツは、見事なまでの曲線美を一層際立たせていた。
任務といえども、つい愚痴めいた言葉を藍が漏らすのも無理もない。そもそも彼は、その能力の都合上、大勢の人間がいる空間を好まない。それに加え、今、彼の耳には一つしかピアスが付いていないのだ。
二人がいるのは、開業百年を超える老舗ホテル「ヴァロック」の大広間である。磨き上げられた大理石の床と、白亜の天井にはイタリア製の最高級のシャンデリアを吊り下げられ、アーチフォルムの窓の下には、イルミネーションに彩られた中庭が広がっている。
世間知らずの藍ですら見覚えのある顔が多いのは、招待客の大半が財界、政界の著名人である為だ。さらに、その談笑している人間の半数程が、「いわくつき」であり、叩けばうんざりするほど、埃が出るはずである。婚約披露パーティーという名目の下、権力者達の威信をかけた腹黒い探り合いが繰り広げられ、会場内は妙な熱気とどす黒い空気とが蠢いていた。
「SAS養成施設のバックに、財界の大物がついていたとは知らなかったな」
自身に注がれる、イヴニングドレスを纏った令嬢達の窺うような視線を知ってか、藍はやや声を落としてそう言った。
「養成施設だけなら、国の資金だけで充分よ。五兆円近い防衛関係費の予算の内、非公開組織でありながら、施設にはかなりの額の予算が当てられているんだから―――。ホント、税金なんて何に使われているか解ったものじゃないわね」
隙あらば近づこうと機会を狙う、資産家やら政治家の御曹司達を、片っ端から鋭い眼光で威圧して凛は寄付けない。会場内のドレスを纏った女性の華やかさに比べれば、露出も少なく、彼女の装いはかなり控え目である。瞬きをする度に、瞼の上の粒子の細かいゴールドのアイシャドウが、シャンデリアの灯りを受けて、複雑に煌く。レッド系のルージュも、彼女をいつもよりも妖艶に見せた。肩を覆うほどの緩いウェーブのかかった黒髪は、いつものように無造作にまとめたのではなく、きっちり結い上げており、露わになった白い首筋は噎せ返るような色香を漂わせていた。男性陣の視線を集めるのは、彼女が纏う、隠し様も無い優美な空気と、浮世離れした美貌の為せる技であろう。
「今、俺がここにいるのは、彼のおかげって事か」
「そういう事にもなるわね。ARMの実用化は彼の融資が無ければ実現しなかったのだから」
二人の目線の先には、窮屈そうにタキシードに身を収め、突き出した腹を揺らしながら笑う、老齢の男の姿があった。その人物こそ、真波コンチェルンのトップにしてSAS養成施設の最大の出資者、真波恭三である。彼ら二人の記念すべき初任務は、真波氏の護衛と相成ったのである。
真波恭三がファントムハウスへの資金援助を申し出てきたのは、ニ十年以上も前の事であった。当時、公的資金のみで運営されていたSAS養成施設、通称ファントムハウスは、SASの育成に手一杯で、かねてから実現を渇望されていた「ARM」の研究には、本格的に着手出来ていなかったのが実状であった。しかし、ある筋からその情報を手に入れた真波氏は「国家の保全の為」という名目で、莫大な資金援助を申し出たのである。尤も、その見返りに何があったのかは、彼らの預かり知らぬところではあるのだが――――。とにかく、その甲斐もあって、その後数年の間に六人のARMが研究開発され、実戦配備されるという素晴らしい功績に貢献した人物の一人なのである。
「だからって、公務員を私兵にしてもいいものだろうか」
確かに公僕には違いないが、手段によっては、数名で国家を転覆させる程の力を持つSASを、平然と公務員を言い放った藍に、凛は思わず苦笑を漏らした。
「大人の世界は複雑なのよ」
四歳程年長の凛に、子供扱いされた事に憤慨するのでもなく、呆れるほどに魅惑的なこの上司に、任務中でありながら危うく見惚れそうになって、藍は慌てて視線を外した。
真波氏の孫娘の婚約披露パーティーといえども、主役は彼であるといっても過言ではない。グラス片手の真波氏の周りには入れ替わり立ち代り、政界、財界、の著名人がそろって諂う(へつらう)ような笑みを浮かべ、さして面白くもなさそうな話を長々と喋り散らしている。一介の公務員にすぎない凛と藍は、滑稽にも見えるその様を、壁に凭れかかりながら冷やかな眼差しで見詰めていた。
しかしながら、藍にはその滑稽な光景など、瞳に映っているにすぎず、実際のところ彼は、脳内に無秩序に入りこんでくる、膨大な量の人間の思考の選別作業に必死であった。彼が探しているのは、この場にいる人間の大多数が持つ、自身の利益の為に権力者に阿る(おもねる)浅ましい思いでは無く、真波恭三の暗殺を目論む輩の不埒な思考である。
一個人の護衛にSASが――― しかも、トップクラスの二人が出動する事になったのには、無論、彼が大事な出資者であるからではなく、別の理由によるところが大きい。
認定試験の為に早朝から実験室に監禁状態であった藍が、全過程を無事終えてその身を解放されたのは、太陽が、冬の低い空を昇り切った頃であった。
部屋を出た途端、視界に飛びこんできたのは晴れやかに笑う、雪のような白肌をもつ美女の姿である。凛は藍を連れ立って、中庭を臨むホールへ向かった。並んで安っぽい革張りのソファに腰をかけると、彼女は唐突に言ったのだ。
「あなたを店で襲った首謀者は、ARMよ」
彼女の第一声は雷となり、藍の体を打った。口を開き、言葉を紡ぐのに彼はたっぷり三秒程の時間を要した。
「ARMだって―――?」
眉を跳ね上げた藍に、凛は神妙な顔つきで頷き、事の顛末を話し始めた。
発端は、一ヶ月前に遡る。
任務中であったはずのARMの一人が行方をくらまし、同時に数名のSASも所在不明になった。それから、二週間後、所在不明とは別の、待機中であったSASの惨殺死体が発見される。首しかない遺体の口には、「私達ハ 選バレタ人間ダ 新人類ノ時代到来ニ 祝福ヲ」と書かれたメモが挟められていた……。
行方をくらましたARMの識別番号はNo.7、コードネームは″アラタ″。存在するARMの最年少にして、攻撃系最強の能力者と謳われる彼の能力は、「物質を液化する」という恐るべきものである。目立った証拠を残す事も無く、容易に破壊行為を可能にする彼の使途は、暗殺など物騒なものが大半であった。惨殺されたSASの遺体は、首から下が無く、特異能力を駆使した捜索をもってしても、胴体が発見できなかった事、サイコメトリーによる検証などからも、彼の仕業である事は明白だった。しかしながら、上層部がその事実を認めるのは、末期癌の告知を受けるのと同じである。何しろ、あまりにも強大な力を持つこの人間兵器をいかにして制裁すべきか、解らない。手に触れた、地球上に存在するすべての物質を、すべての生命体をも液化してしまう能力を持つ彼を前にして、文明的兵器の何と無力である事か―――。皮肉にも、ARMの反逆という未曾有の危機に直面して、初めて彼らは、己の手によって造られた人間兵器の脅威を実感したのである。
「萩理はARM研究の中心人物よ。独力でARMを造るのは彼以外には不可能であり、彼は研究を永久に凍結し、誰にも教える気は無いと言っている」
「萩理所長さえ抹殺すれば、彼らに対抗し得る強大な力を持ったARMは生み出されない―――という事か」
あまりにも短絡的で幼稚極まりない思考回路に、藍は眩暈を起こしそうであった。
「それ以上に彼らは、あなたを強く欲している。存在する、最高のリーディング能力の保持者であるあなたを自分達のものにしたいのよ」
『最高のリーディング能力の保持者』という賛辞ともとれる言葉が、まるで非人間の烙印を押されたようで、ひどく重たく心にのしかかる。気が付けばそれは言葉となり、うめくようにして口から漏れていた。
「リーディングの能力が、一体何になる…?」
自身が持たされた、この忌まわしい能力を呪ったことは数え切れぬが、ありがたいのなどと思ったことは一度たりとて無い。
「世界は物ではないわ。多くの人間の意思が複雑に絡まりあって、世界を動かしているのよ。それを一つ一つ紐解くように知っていけば、世界を手中に収める糸口も見つかるとは思わない?」
「世界を――― 手中に収める?」
知らぬ言葉を聞かされた子供のように、繰り返す。背中を、氷塊が滑り落ちていった。
「そうよ。愚劣な選民思考に支配されて、国益の為にその身を捧げるべき人間兵器が、今や凶悪なテロリストに成り下がったのよ」
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