ガトーショコラの味・4
目を開けて視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ薄いグレーと天井と、見覚えのある黒絹の髪を持つ、オリエンタルな美女である。
視点の定まらない彼の眼を捉え、アーモンド形の眼が笑った。白い手が伸びてきて、額を覆っていた冷たいカタマリが除かれる。
「気がついた?」
藍はぼんやりと周囲を見まわして、自分の置かれている状況の把握に努める。
聡明な頭脳は、途切れる前までの記憶を順序よく再生し始めたが、あまりにも正確な映像は二度と思い出したくない、苦々しい記憶までも克明に再生してくれてしまった。
藍は筆舌に尽くし難い虚無感と共に、己がどういう状況なのか、おおよそ認識したのである。
「……店を出たのは何時間前?」
紡ぎ出した言葉は、自分でも驚くくらい掠れていた。厚い射光のカーテンが閉まっている窓を見れば、まだ夜が明けていない事は容易に想像出来た。ただし、日をまたいでなければ、の話ではあるが。
「七時間程前よ―――気分はどう?」
「もう大丈夫」
ベットの上に半身を起こしてみたところ、鈍い頭痛の気配は完全に消え去ったわけでは無かったが、藍はそう応えた。
「薬、飲む?萩理から預かっているんだけれど」
差し出された見慣れた白い錠剤は、頭痛と不安感や恐怖心を和らげてくれると同時に、思考を鈍重にさせる。飲んでしまいたい気持ちは山々ではあったが、理性が彼の首を横に振らせた。
「事情の説明は必要?」
明晰な頭脳の持ち主である事は、需からも聞いているし、この短時間でもそれは実証済みである。その上彼はARMであり、リーディング能力者だ。凛は慎重に言葉を選んだのである。
「相手はどこ?」
「国でも無い、組織でも無い――――。残念ながら、私の口からは言えないわ。最高機密に指定されているの。それとも、トランスしてみる?」
彼女は柳眉を片方だけ軽く上げる。言葉の真意を図りかねて、返答に窮する彼の様子を見遣ると「冗談よ」と、短く笑う。
「施設に戻れば、萩理から説明があるかもしれないわ。あなたの身の置き方次第でしょうけど」
「一般人には、最高機密は明かされないからな」
「頭のいい人は好きよ。話が早くて助かるわ」
彼の聡明な頭脳を愛でるように、凛は目を細める。
「二時間後には出るわ。刺客が送られる可能性も無いわけではないし、あなたの身を一刻も早く、ファントムハウスまで送りたいの――――二時間後、地下の駐車場の入り口でね」
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、藍に手渡す。颯爽と部屋を後にしようとした、背筋の伸びた背中に藍は言った。
「……店は……どうなる?」
絞り出されるようにして出た、その言葉の重さに気が付き、凛は足を止めて振り返るのを一瞬躊躇う。
「政府からたっぷり損害賠償金が支払われるから、心配いらない。ただし、彼らの記憶の一部と引き換えにね」
振り返った彼女の顔は、無表情である。否「努めて」という言葉を付けたした方が良いかもしれない。他の人間には解りかねるくらいであろうが、数え切れない程の人間の心理を見て来た感受性の鋭い藍には、そう見えた。
「記憶の一部?」
「記憶操作の能力者が派遣されているはずよ。今日の事は彼らによって、偽造された記憶によってすり替えられる。もっと一般的に起り得る事故などのね」
何か言いたげに震えた下唇を、彼はぎゅっと噛んだ。
「私やリュウの事は勿論、恐らくあなたの事も―――」
彼女の涼やかな美声は氷の刃となって、藍の背中を突き刺す。息を飲み込み、彼は顔を強張らせた。表情を窺うような視線を凛は投げかけたが、小さく溜息をつくと踵を返す。その背中に、藍はポツリと謝礼の言葉を投げかけた。
「二時間後、下でね」
凛は言い放つと、今度は後ろを振り返らなかった。
早朝五時―――。冬の空はまだ日が昇らず、薄暗い空の下、彼らは白い息を吐きながらホテルの駐車場に集合した。
「男前だなあ」
定刻に姿を現した藍を見た、リュウの第一声はそれだった。
店を出たときは当然制服だったのだが、今の藍は、ダメージ加工やパッチが施されたデザインの凝ったデニムパンツに、シンプルながら細かいディティルにこだわりが感じられる、いかにも上質なピーコートといういでたちである。
まるで藍のものかのように、クローゼットに整然と並べられていた一式は、値札こそ付いてはいなかったが、縫い付けてあるタグは、着る物ににさほど頓着しない藍ですらも名を耳にした事のある高級ブランドのものだった。躊躇はしたが、着ていた制服は汗でびしょ濡れであった上、何よりも、この寒空の下ワイシャツ一枚では過酷すぎる。
「いい男にはいいものを着せなきゃ、もったいないでしょ」
彼の部屋にトータルコーディネートでいつの間にか服を用意した張本人は、ウィンクして得意げに胸を張った。
その一方で藍はつい癖でポケットを探り、財布を捜していた。しかし、当然財布も店に置いたままである。気まずそうに沈黙した彼に向かって、リュウが言う。
「男を着せ替え人形にするのも、彼女の趣味の一つだ。それに付き合ってやったんだと思って黙ってもらっておけばいいさ。どうせ、使い途のない金を腐るほど持ってるんだ」
給与に相当するSASが受け取る報奨金は法外な金額である。上級になればなるほど、任務に追われ、休日など無いに等しいのだ。
「目の保養の為に、それぐらいの投資は安いものよ」
とは言っても、恐らく藍一ヶ月分の手取りの給料くらいには値しそうではあるのだが、いかんせん財布が無いのでは、この場はどうしようもできない。
目が合うと、凛が優しく微笑んだ。
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