ジャズ喫茶ハラダは、夕方から客が増える。
「マスター、お代わり」
浜口義人は、もう、ぐだぐだに酔っていた。
無精で伸ばした髪の中に、面積の小さい四角い縁なし眼鏡のレンズが光っている。その奥の瞳は潤んでいるのだが、誰もそれには気がついていない。
「帰れるのか?」
マスターの原田は、口では、もうそれ位にしておけと同義の疑問文のイントネーションでそう言いながらも、浜口の前に新しい水割りを置く。
「夏も終わったのに、なかなか寒くならないね。やっぱり温暖化かしら」
浜口の一席おいて左のカウンター席に座った女が、マスターの原田に向けてそう言った。
近畿中部の、田舎とも都会とも言えない人口五万人ほどの先頃、市町村合併して面積だけ大きくなったT市。その郊外の田園地帯にぽつんとジャズ喫茶ハラダは建っている。
外面、スレート葺きで、骨格は太い木の柱で二階建て。二階にマスター夫婦が住んでいるが、店の空間は、住居と壁一枚隔てて一、二階ぶち抜きの吹き抜けのような高い天井で太い梁が通っている。倉庫のなかに居るようだ。否、柱の匂いがつんと鼻をさすので、日本の倉のなかに居る感覚と言ったほうが合っているかもしれない。
深夜の十一時半だ。
法律では、十二時以降、営業してはならないのだが、原田はいつも、客を引き留め、午前二時頃まで酒を出す。表向きには、十一時半でオーダーストップにして、店内に居る客だけをとどまらせて語り合い、さらに自らも飲むのだった。
「マスター、この人、大丈夫なの?」
右隣の浜口を目で示しながら、女が、原田に言った。
「いいの、いいの。浜ちゃんは、いっつも、こんなんだから」
浜口義人は、自分の頭の影のなかで何かを弄くっているようだった。
水割りのグラスは、一杯のままで彼の前のコースターの上にある。
「あー、夏も終わったし、何か淋しいね、マスター」
女が言う。
「キヨちゃん、どした? 別れた?」
と、原田が応える。
「別れたって……、私、つき合ってるとかもマスターに言ってないよ」
女は、水割りを一息に呷る。
「つき合ってたの?」
「だから、つき合ってるとかつき合ってないとか、言ってないでしょ」
「じゃあ、別れてないんだ?」
「いや……、それは……」
女は、原田の戦術に嵌ってしまった。
「清美さん、正直だから、すぐ言っちゃうのね?」
原田の奥でコップを洗っていた、原田の妻の奈津子が、要所だけ会話に混ざってくる。
関口清美というその女は、銀色のシガーケースからパーラメントという煙草を一本抜きとって口に轡え、ガスライターで火をつけると、一息、吐いた。
「そうです! 別れました! 私は!」
少し自棄になって清美は認めた。茶色のコートの袖から金のブレスレットと華奢な時計が覗く。
「いててててて、とれない。どうしよう?」
右隣で浜口義人が急に声を挙げた。
が、清美には、浜口の手や顔が見えないので何の事だか分からない。
浜口は、長髪の影に手元も風貌も隠してしまっているのだ。
原田は、我関せずという風に、カウンターのなかに立ってショートホープを吸っている。
「浜ちゃん、後でいいやん。酒、酒、先に飲みぃよ。氷、溶けちゃうって」
原田は、すぐ向かいにカウンターを挟んで浜口に言う。
「あー!」
と、浜口は呻き上体を起こしながら両腕を展開という感じに広げた。
ガラスの砕ける大きな音がした。
カウンターを滑って、浜口のグラスがスタッフ側の床に落ちて割れたのである。
「あー、ゴメン!」
浜口が原田にあやまる。
「いいよ、いいよ。又、創るから」
原田は笑って浜口に返す。
奈津子が手早く、破片を片づける。
清美は、浜口の左手に白く光る指輪を見た。
「あの…、指輪が抜けないんですか?」
「そうです」
浜口はそう言ってから新しい水割りを舐めるように、少し飲んだ。
「浜ちゃん、……あんまり、従業員からお客さんに、言うことじゃないけどさ、……もう、嵌めない方がいいよ」
原田が、声を小さくして諭すように言う。
「わかってる……」
浜口は、そう言ってから、眼鏡をとってレンズをハンカチで拭った。
男の頬骨の上が湿っているのを、清美は初めて知った。
「石鹸で、とれるかも」
と、清美が浜口の顔を見ずに誰に言うともなく呟いた。
浜口は、マスターの原田に促されるままに、左手をカウンターのさらに奥へ差し出して、原田が洗剤の泡をつけて、ひとしきり指輪を引いたが、指輪はとれなかった。
第二関節の奥できつきつに締まり込んでいる。
とれないまま、原田が浜口の左手をタオルで拭いた。
ぼおーっとしながら、皆、水割りを飲んだ。
テーブルの客は、それぞれの話しに夢中である。
「浜ちゃん、指輪したいから、つけたんでしょ? 嵌めたままでいいじゃん」
原田がそう問う。
「いや、外す。……家に帰って何とかする」
と、浜口が言う。
それから、浜口は、床下に置いていたショルダーバッグを膝に上げ、手帳を出してペンで何かを書きはじめた。
「ガスで炙ったら、熱で膨張してとれるんだけどなぁ」
と、清美が言った。
「おいおい、怖い事、言うなぁ」
と、原田。
「アンタ、死人とくっつくつもり? 死ぬつもりなの!?」
清美は、見抜いていた。
浜口は、初めて、その女、清美の目をにらんだ。
「何を言うねん。初対面で! アンタにそこまで言われたーないな!」
「あー、怒る元気は有るんだ?」
浜口は、左手の指を、カウンターの上で握り固めた。
少し、腕が震える。
「女ぐらい、いくらでもつくりなさいよ」
浜口は、清美には言葉を返さず、水割りをさらに飲んだ。
から揚げやステーキをつまみながら、浜口は、さらに飲んだ。
生牡蠣を食ったりしながら、清美は、水割りをワインに換えてさらに飲んだ。
ウィントン・マルサリスのLPが一枚終わり、次にかかったマイルス・デイビスのLpも終盤にさしかかっていった。
浜口義人の指輪については、「ニッパで、切ってしまおう」と清美が提案し、原田もその意見に同調して浜口に囃したてた。
奈津子だけが、「ご自分のことだから、他人の意見で簡単に決めたらイケンわ」と言った。
「よく、昔、付き合ってた人のプレゼントした物なんて、全部捨てる、とか処分するとか言う人が多いけど、私は、その反対の意見やし、私自身も、そういう物、とって置いてるんです。…よく、それで、今の相手、苦しめるとか言ってですけど、そうは、私は思わない。大事な思い出ですもんね。それ位で、嫌う相手ならその人の性格の方が問題あると、私は思いますもん」
と、原田奈津子は言うのだ。
結局、自分で決めたらいい、という事になって、その話しは、一旦終わったのだった。
マイルス・デイビスのLPが終わってMJQのLPになった。スティーブ・ガッドがメンバーの時のその初期のLPだった。
午前一時半を回り、テーブルに居た客は皆、帰ってしまった。
ごおーという音がジャズ喫茶ハラダを包んだ。
豪雨が降り始めたようだった。
「11月で雨か……、地球はどうなっていくんだろうね?」
清美がぽつりと言った。
夏が終わったなどと言い合う季節ではないのだ。本来は。
鈴虫の声も消えていた。
「温暖化なんて、人間がさわいでるだけで、星である地球から観たら二酸化炭素排出規制なんて、大した問題やないよ。……人間が困るからやってるだけで、例えば、マグマの活動を活発にしたら、人間なんて一日で滅んでしまうわ。……人間は、おこがましいねん。特に最近」
と、浜口が清美に向いて言った。
清美は、しばらく目をまるくしていたが、
「最近なの?」
と、浜口に返した。
「アンタ、何してる人?」
清美があさりのバター蒸しを口に運びながら浜口に訊く。
「仕事はしてない。ここ二年くらい」
と、浜口は、水割りを置いて、セブンスターを右手にはさみながら応える。
「お金、困らないの?」と、清美が訊く。
「キヨちゃん。あんまり、それは言うたらんと……彼自身、自覚してるから」
と、原田が流しの奥から口を挟む。
「アンタこそ、何してるの? 仕事は?」と、浜口は言い、「それに、人に色々訊くなら、まずは自分が名乗るもんや。違うか」と続けた。
清美は、革ベルトの腕時計を外してカウンター面に置いてから、
「ああ、ゴメン。いや、すいません。……私、関口清美。仕事は事務のパート」
と言った。
「そうか。……僕は、嫁が死んで脱力してもてな。それに、健康が優れへん。せやから、細々と、貯金くずしながら小説書いて過ごしとる」
「そう……余分なこと言って、ごめんね。……アタシ、アンタが普通の会社員かと思って訊いてしまったの。気ィわるうせんといて……」
浜口は、髪は長くて少し乱れていたが、清潔感のある身なりをしていた。顔色は白く、ウールのこげ茶のブレザーも細い身体に似合っている。
「事務職て、一日中事務所におんのか。しんどいないか。ワードとかエクセルとかできんの?」
浜口は、黴のついたチーズを口に運びながら訊く。
「いやー、私は、パソコンは全然。……他の正社員の人がやっとるわ、それは。……アタシ、派遣だし、一日中じゃないよ六時間」
しばらく言葉が止まって、二人は、それぞれに酒を飲んで肴を食っていた。
浜口は、一旦、ハイネケンに切り替えた。
「ところで、歳は、何歳なん? 言いたくなければ大体でいいけど。僕より上かなぁ」
清美は、えびす顔になってワインで頬をふくらませてから、
「三十代、とだけ言っとこうか」
と言った。
「僕も三十代やで。後半?」
「そう、後半」
「独身なんですか」
「そう独身。……縁遠いから」
僕も、同じだ、縁遠いというカテゴリーに含まれている、と、浜口は思った。
「マスター、僕、指輪、切るわ」
浜口が長髪を指で後ろに梳きながら言った。
「ええのか?」
奈津子が奥の階段を昇って、居室に上がり、ニッパを持って降りてきた。
清美も、興味津々な態度を改めて、浜口の隣の席に詰めた。
皆が、浜口に覆いかぶさる。
「一寸、待って。……切る前に、あの曲かけて…」
義人は、気圧される空気のなかで希みを口にした。
「ああ、あれね」
原田は、そう言って、ゆっくりとカウンターを出て縦置きターンテーブルのLPを入れ替える。
テナーサックスが唸りはじめた。
ブルースのリズムをドラムがとる。
どっかで聴いたメロディーだな、と清美は思うのだが曲名がすぐには出てこない。
後乗り気味のリズムだ。ベースの音が強い。否、はっきりしすぎている。エレキベースなのだ。ワンフレーズ終わる度にシンコペイションを入れるドラムのフィルインが硬い。ムチで攻められているような感覚になる。そうだ。本当は、こんなリズムの曲じゃなかった。原曲はオペラからだったのを思い出した。
「ああ、サマータイム!?」
誰も返事をしなかった。
マスターも、奈津子も、浜口も、皆、自分の心の奥で聴いている。 私一人だけ余所者のようだ、と清美は思った。
全曲が終わると、浜口が言った。
「マスター、わるいけど、もう一回」
原田は、浜口の言葉に準じて、又、ステレオ装置に向かう。
「この曲はねェ、浜口さんのお気に入りの曲なの」
奈津子が清美に語りかける。「浜口さんの奥さんねェ、去年、亡くなったの。ご病気で……」
マスターがカウンターのなかに戻って、奈津子の言葉を引きつぐ。「浜ちゃんねェ、今でも有希ちゃんが忘れられないんだよ。……サマータイムは色んな人が演奏してるけど、浜ちゃんには、このブルースのバージョンじゃないと駄目なんだよ。マイナーなバンドだから、誰も知らないLPだけど、浜ちゃんには、これがいいんだー。有希ちゃんがベース弾いて、浜ちゃんがドラムで、昔、ウチの店でもこれやってくれてたからなぁ……」
テナーサックスの、琴線を正面から押してくるようなテヌートが清美の心臓のすぐ下を抉る。
清美は、右脇の浜口を見る。
浜口は、両肘をテーブルについて右手の指で左手の指輪をつまんだまま顔を正面に向けている。浜口の下瞼から涙が溢れてはこぼれ溢れてはこぼれしている。
清美は、新しいパーラメントに火を点ける。
そして、誰に言うこともなく語りだした。
「サマータイムは、デュボース・ヘイワードの作詞で、ジョージ・ガーシュインの作曲なんだけど、ヘイワードの書いた物語りのなかで歌われる子守歌なの。……そのストーリーは、どろどろした悲劇なのよ。それは、ガーシュインが移民の息子として薄幸な半生を送った彼の境涯にもかぶるものがあるんでしょう。……そして、結局、物語りのなかで孤児となって置き去りにされた赤ん坊に対して歌われる子守歌なんだけど、その物語りが有るんで、平易な言葉の歌詞が泣けてくるのよ。それに、ガーシュインの、この旋律ね。……『夏がきたから暮らしは楽だ お魚跳ねて、綿の木伸びる 坊やのパパはお金持ち 坊やのママはべっぴんさん だからいい子ね、泣かないで ある朝坊やは立っちして歌う 翼を広げてお空も飛ぶよ その日が来るまで安心おしよ 何にも何にも怖くない パパもママも一緒にいるよ』って、そんな事は、皆、知ってるか…」
曲が終わって豪雨の音だけになった。
二分ほど、皆、何も言わなかった。
原田も奈津子も、皿やコップは洗ってしまったので、スィング・ジャーナルを見たり、煙草を吸ったりしていた。
清美は、ボトルのワインを自ら注いで飲み、空になった浜口のグラスにも注いだ。
浜口がカウンターに指を開いて手の甲を上にして置いた。
「マスター、切って」
「いいよ、やめとくよ。…家へ帰って一晩、寝てからにしたら?」
「ニッパ有るんやろう? 奈津子さん、切って」
「私は、切らない。そういう考えやないって言ったじゃないですか」
「じゃあ、ニッパ貸してよ」
原田が、カウンターの上から、ニッパを浜口に渡した。
浜口は、ニッパを少し開いて逆さに立て、薬指の皮膚に当てた。
「やめなさい!!」
横から覆いかぶさって清美が浜口の右の手首をつかんだ。
「アンタ! 捨てろって言うたやんか!!」
「違う! アタシも考え、変わった。切るべきじゃない!!」
浜口は、原田に、ニッパを返した。
「二人とも傘有る?」
と、原田が訊く。
「ない」
「僕も」
「家、近いの?」
と、清美が浜口に訊いた。
「すぐそこ、アパート」
原田が店内の照明のテーブル席側のを落とした。
「俺が、貸したげるわ、今日は」
と、原田は言って玄関まで歩き、ゴルフ用の緑と白のストライプの傘を二本出してきた。
「さあ、閉店です」
と、原田は言った。
「お勘定は?」
と、浜口が言う。
「つけでいいよ。今度でいいから、二人とも」
「そうか、分かった」と、浜口。
「ごめんね。マスター」と、清美。
浜口と清美は、それぞれ傘をさして外に出た。
雨は、豪雨よりは少し弱い降りになっていた。
「君は、家ちかいの?」
「うん」
「名前は?」
「清美」
二人は、歩いて国道まで出た。
「どっち?」
浜口は、訊いた。
「こっち」
「同じだ」
「アンタのとこ行っていいかなぁ?」
浜口は、自分の傘を畳み、清美の傘に入って肩を抱いて歩きだした。
「痛いんだけどなぁ」
と、浜口が言った。
「どこが?」
「指輪の指が……僕、一寸、太ったから」
「ぷぷっ」
と、清美は噴いた。
傘を持たない右手で、清美は浜口の左手を握っていた。
「奥さんの嫉妬ね。天国からつねってるのよ」
アパートで清美と交わった。
終わったあと、指が痛んだ。
浜口は、清美と暮らしはじめた。
指輪は切らなかった。
雪が降って、本当の冬が来た。
清美は懐妊した。
その頃になって浜口の指から指輪が外れた。
清美にさわられているとき、指輪は落ちて廊下の木目の穴から床下に落ちていった。
畳を上げて探しても、指輪は見つからなかった。
年が変わろうとしていた。
浜口のアパートは、雪に埋まった。
ジャズ喫茶ハラダに行く道も雪で見えなくなった。
(了) |