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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

歪んだ愛

死を以って

作者:jupiter
 目の前で死ねば、いつまでも覚えていてくれると思った。
 愛してほしかったけれど、それは叶わなかった。ならばせめて、記憶の片隅に私の存在を留めておいてほしいと思った。
 もう、生きている理由も、そうする気力も残っていなかったから。
 不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、救われるような、とても穏やかな気分だ。
 そして、首を切り裂いてもすぐに死ねるわけではないことを知った。しばらくは意識があるらしい。
 豪奢な内装に不釣り合いな、錆びた鉄の匂いが漂う部屋。血で染まった天井から、ぽつぽつと雫が垂れている。
 まるで赤い雨のようだ。もしくは、私の涙。
 遠くで誰かが泣き叫んでいる。聞いているのが辛くなる、この世の終わりのような悲痛な声だ。でも、声の主が誰なのか確かめる力は残っていない。
 私が鋏で首を切り裂いた時、あの人は呆然としていたけれど、すぐに駆け寄ってきた。血飛沫を浴びながら崩れ落ちる私を支えようとして、一緒に倒れた。
 必死の形相で私の名前を呼ぶあの人を見て、少しだけほっとした。自分の選択が間違いではなかったことがわかったからだ。
 赤く染まった視界の中で、あの人は私の首筋を強く抑えていた。私の中から溢れ出す血を止めようと白い手を汚し、その行為が全く意味を成さないことを知っているはずなのに、いつまで経っても手を離そうとしない。
 それが何だか滑稽で、あの人らしくなくて、私はつい笑ってしまった。笑いながら、盛大にむせた。
 体の感覚はほとんどなかった。手足は冷えきっており、血を流す首だけがやたらと熱く感じられた。
 逆流した血が口と鼻を塞ぎ、ごぼごぼと奇妙な音を立てては噴き出して、顔を汚す。
 おそらく、私の顔は血に染まって見るに堪えない状態だろう。
 先ほどから何度も名前を呼ばれているが、答えることができないでいる。代わりに笑うことにしたのだが、ひどく歪な表情になってしまった。これでは笑っているのか苦しんでいるのか、よくわからない。
 紫水晶のような双眸から零れる透明な雫を見て、この人も泣くのだな、とひどく冷静に思った。
 なぜ涙を流すのか、その理由は定かではないが、私のためではないことだけは確かだった。



  ※



 あの人―――オーティスは私の婚約者だった。
 幼い頃から決まっていた結婚相手で、初めて顔を合わせたのは私が五歳の時、オーティスが七歳の時だった。
 オーティスは美しい顔立ちで愛想もよく、大人たちに好かれていた。しかし、ふとした瞬間ひどく冷めた表情をする不思議な子どもだった。
 最初の頃、私はオーティスに嫌われていた。
 大人たちの前では笑顔で振る舞うのに、私と二人きりになるとひどいことを言ったり突き飛ばしたりした。
 ところが、何があったのか、ある日突然それがなくなり、私に優しくなった。
 何かきっかけがあったような気がするが、今となっては思い出せない。何をされてもめげずに慕っていたため、そこが気に入られたのかもしれない。暴言や乱暴はぴたりと止まり、普通に遊んでくれるようになった。
 それからは、私はオーティスのことが大好きになった。
 両親や周りの人間が妹を溺愛する中、オーティスだけは私を見てくれた。父のように無視したり、母のように容姿を貶したりしなかった。
 彼は私が両親の冷たい仕打ちや理不尽な言葉に傷ついていると、優しく慰めてくれた。
 次第に私は『オーティスしかいない』と思うようになった。早くオーティスと結婚して、彼とずっと一緒にいられるようになりたい、と。
 私はオーティスを盲目的に慕い続けた。
 しかし、オーティスは違った。
 少年から青年の域へ足を踏み入れた頃、オーティスは何人もの女と関係を持つようになった。そして、私にひどいことを言った。
 何があったのかわからないが、その頃のオーティスはひどく荒んでいた。
 夜会では私を放って恋人の元に行き、暗がりに連れ込んでは重なり合っていた。帰りの馬車ではその恋人と私を比較し、私がいかに劣っているか、笑いながら並べ立てた。
 私が何も言わずに黙っていると、行動は過激になっていった。
 どうやらオーティスは、私の反応を見て楽しんでいるようだった。欲を満たすためだけではなく、私を苦しめ、悲しませるために複数の女と遊んでいた。
 ある晩、オーティスとその友人の会話を偶然聞いてしまった。

『あの赤毛の泣き顔を見るのが楽しいなんて、自分でも悪趣味だと思うよ。しかもあいつ、何をされても俺から離れようとしないんだぜ? 馬鹿な女だよな』

 彼は友人たちと笑い合っていた。
 オーティスにとって、私は玩具に過ぎなかった。
 からかって、いじめて遊ぶための玩具。加虐心を満足させるための道具。 
 しかし、私は彼を想うのをやめられなかった。彼に振り回され、何度も傷ついたのに、それでも離れることができないでいた。
 なぜなら、彼だけだったから。私にはオーティスしかいなかったから。
 オーティスに愛されたかった。私だけを見てほしかった。そのために何でもした。
 彼が好ましく思ってくれるよう、容姿を磨き、性格を直した。何をされても、何を言われてもただ微笑んでいた。
 だが、無意味だった。
 あの人は私ではなく、今まで関係を持った女性たちでもなく、よりによって私の妹を選んだのだ。
 誰からも愛される妹。生まれた瞬間、両親の愛情を独占した妹。
 私と違って妹は美人だった。
 黄金の髪にサファイアのような瞳の、人形のように愛らしい顔立ちをした少女。私が知る限り、その美貌に見惚れなかった人間はいない。
 対する私はみっともない赤毛に暗い緑色の目の、ごく平凡な容姿の女。美しいと言われたことはほとんどなかった。唯一、オーティスを除いて。
 妹は美しく、姉の私は醜い。
 妹は明るく、姉の私は卑屈。
 妹は優しく、姉の私は利己的。
 妹が誰からも愛され、姉の私が誰にも見向きされないのは当然だった。
 オーティスが妹を選んだのも―――。




 薔薇が咲く初夏の庭で、オーティスは突如として婚約の解消を告げた。
 私は絶望の底に叩きつけられた。果てしなく広がる、深い闇の底に。
 そこから這い上がることは到底不可能で、私の心は一瞬で真っ黒に染まってしまった。
 目を見開いて立ち尽くすことしかできない間抜けな私を、オーティスはひどく冷めた目で見下ろし、形の良い唇を動かして言った。

『お前には失望した』

 その一言で気づいてしまった。ひどく疲れていることに。 
 私は疲れていた。何をしてもオーティスの愛を得られないことに。

 ―――そうか。

 失望されたなら仕方ない。きっと私が何をしても、何を言っても無駄なのだろう。零した水を元に戻すことができないように。
 私では駄目だったのだ。
 私は精一杯オーティスを愛したつもりだったけれど、彼は違った。別の女を好きになった。
 その時、どう答えたのかよく覚えていない。
 確か、そうですか、とだけ言ったような気がする。
 オーティスは蔑んだような視線を投げつけて、頭を下げることしかできない私の前から去って行った。
 オーティスが去った後、私には何も残らなかった。
 なぜなら、彼こそが私のすべてだったから。




 次の日からオーティスと妹は人目を気にすることなく寄り添い合うようになった。口づけを交わし、抱き合って、何度も愛を誓い合っていた。
 どうやら二人はずっと前から、私の預かり知らぬところで愛を育んでいたらしかった。
 そのことを、周りの人間たちは知っていたようだ。
 両親は二人の仲を祝福していた。愛しい娘と恋人が仲睦まじく過ごす様を温かい目で見守っていた。使用人たちもだ。
 一人絶望に沈んだままの私は、暗闇の中で死を想っていた。
 外の世界に興味を失くし、部屋から出なくなると、オーティスがやって来るようになった。飽きて捨てた玩具に未練があるのか、まだ遊べると思ったのか、嘲笑うためにわざわざ足を運んでいた。
 その頃の私は日によっては寝台から起き上がることさえ億劫おっくうで、髪をかすこともせず、寝間着のまま横たわっていた。
 すると、身形みなりを整えることもしないなんて女として終わっている、だから婚約者から捨てられるのだ、と捨てた張本人が笑った。
 オーティスはどこまでも残酷だった。笑いながら私の心を抉った。

『本当に、可愛げのない女だ。お前は』

 優しかったオーティスはもういなかった。
 いや、そんなものは初めから存在しなかったのかもしれない。
 私はたぶん、幻に焦がれていた。幻を愛し、幻から愛されたいと望んでいた。
 血を流し過ぎて蒼白になった心は鈍い痛みを訴え、私はその痛みから逃れるため、ますます死を想うようになった。




 死への憧れは日に日に膨れ上がり、ある日突然、音も立てずに弾けた。
 私は寝台から抜け出した。布を裁断する鋏を手に持って、オーティスの元に向かった。
 彼の前で死のうと思った。
 私の存在を鮮烈に焼き付けて、忘れられないようにしてあげよう、と。
 オーティスはここのところほとんど毎日、妹に会うため屋敷を訪れていた。だから、今日も屋敷のどこかにいるはずだった。
 思った通り、オーティスは談話室にいた。
 妹と二人で仲良く長椅子に腰掛け、お喋りに花を咲かせていたが、髪も結わず薄い寝間着姿で現れた私を見て顔色を変える。
 彼は私を追い出すつもりのなのか、立ち上がり、不満を言いながら近付いてきた。そこで鋏をかざして牽制けんせいしてあげると、妹の愛らしい唇から小さな悲鳴が発せられた。

『気でも狂ったのか。そんなものを持って、俺たちに危害を加えるつもりか』 

 オーティスは言った。私は首を横に振り、違う、と答えた。

『もう、終りにしようと思ったの。疲れたから』

 オーティスが怪訝な顔をして、どういう意味だ、と尋ねた。
 私はその言葉を無視し、笑った。

『さようなら。私のすべてだった人』

 切っ先で首を斬り裂く。ためらわず、一息に。
 痛みはなく、あるのは異様な熱さだけだった。
 鋏を引き抜くと血が吹き出し、体を、近くにあった家具を赤く染めた。
 私は温かい血を浴びながらさらに微笑んだ。
 オーティスは整った顔を歪めながら駆け寄ってきて、血に染まりながら私を抱き締めた。私が崩れ落ちると同じように崩れ落ち、血が溢れて止まらない首を手で必死に押さえていた。
 それから何度も私の名前を叫び、驚いたことに、泣き始めた。
 私はそれを不思議な気分で眺めていた。

「エヴァ! 何故だ!? どうして、どうしてこんな―――!」

 オーティスは美しかった。特に紫水晶に似た瞳は神秘的に煌めいて、吸い込まれそうなほど深い。

 ―――今さらになってそんなことを聞くのか。妙な人だ。

 とても簡単な理由だった。ただ、覚えていてほしかった。哀れで滑稽な私のことを。愛する人を得られなくて死ぬ愚か者のことを。

「何故なんだ、エヴァ、エヴァンジェリン。あれは全部誤解なんだ。君の本心が、気持ちが知りたくてしたことなんだ。アデライドと君の両親には協力して貰っただけで、すべて芝居なんだ。くだらない芝居なんだ。今までのだって全部……! だから―――」

 言葉の意味を理解することはできなかった。とても重要なことを言っているようにも、とても馬鹿馬鹿しいことを言っているようにも聞こえた。
 もしかすると、本当はわかっているのに、理解したくないだけなのかもしれなかった。 
 なぜなら、遅すぎたから。誰にも時を巻き戻すことなどできないから。

「お姉様、本当です。嘘じゃありません」

 そう言って視界に入ってきたのは妹のアデライドだった。彼女は人形のように愛らしい顔を涙に濡らし、私の体に縋り付いた。
 血溜まりに膝を付いているせいで、淡い色のドレスが赤く汚れていた。

「騙すような真似をしてごめんなさい。でも、オーティスはお姉様をとても愛していて、お姉様の想いを確かめたいって。だから私も協力して……まさか、こんなことになるなんて思わなくて。ああ、どうしてなの、お姉様」

 美しい妹。可愛い妹。憧れであり、自慢でもある妹。
 小さい頃、私たちはとても仲の良い姉妹だった。何をするのも一緒で、アデライトはいつも私の跡をついて回り、私の真似したがった。
 それなのに、いつから仲違いするようになってしまったのだろう。
 違う、仲違いしたのではない。
 私がアデライドを避けるようになったのだ。
 美しい彼女が妬ましくて。醜い自分が嫌いで。

「お姉様、お姉様。本当です。本当なんです。お父様とお母様にも話を聞いて」
「エヴァ、エヴァ、聞こえているか? 愛している。好きなんだ。……お願いだ、死なないでくれ」

 ―――ああ、こんな時に見え透いた嘘を吐くなんて。

 オーティスは残酷な人だった。最後まで。
 アデライドもいるのだから、本当のことを言ってもいいのに。
 たとえ何をされても、私はもう、傷ついたりしないのに。

「お姉様! ごめんなさい、お姉様!」

 アデライドが泣き叫んでいる。
 オーティスが私を抱き締める。
 とても寒い。体が寒くて堪らない。
 首は熱いのに、流れる血は、涙は熱いのに、なぜ―――。

「君が死ぬなら俺も死ぬ! だから、だからエヴァ―――!」

 どうか、私のことを覚えていてほしい。

 ―――愛している。誰よりも、何よりも愛している。

 だから、忘れないで。私のことを死ぬまで覚えていて。



 死を迎えようとしている私の心はいつになく満ち足りていた。
 目蓋が重く感じられて、とろりと目を閉じる。
 暗闇に向かって落ちる最中、魂を切り裂くような絶叫を聞いた気がした。
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