032
「レナちゃん。こいつの言う事なんか、気にしなくて良いんだよ。ごめんね? もう泣かないで」
リビングのテーブルに突っ伏して泣きじゃくっている酔っ払いの女の背に、テルがそっと手を添えて語りかける。隣に座って困り果てていたユイネの表情が少しだけ和らぎ、テル君、と口の中で呟いた。
「う、……」
女は僅かに首を上げ、それから勢い良く身体を起こした。涙でめちゃくちゃな顔を向けて食い入るようにテルを見つめている。
「え……天使?」
「テルだよ」
「テンシ?」
くすりとテルが微笑むと、途端にレナは赤面して息を飲んだ。
「僕らね、ユイネの産みのお母さんの遠縁にあたる親戚で、いつもは外国で暮らしているんだ。今は少し事情があって、ここに居候させてもらっててね。君を驚かせちゃいけないと思ってたんだけど……。ごめんね。あいつ、ちょっと馬鹿なんだ」
あいつ、と言う時にテルが俺を指さした。
「レナちゃんがとっても可愛いからさ、照れちゃってるんだよ」
やめろ。虫唾が走る。……と、怒鳴ってやりたいところだが、この場をおさめる為には無言でいるしかない。
呆けたようにテルを凝視していた女の瞳から、また少しだけ涙がこぼれた。
「い、いいのっ。分かってるもん! どうせあたしは並よりはちょっとだけ可愛いだけだもん! 普通の女よりはちょっとだけモテて、ちょっと足が長くてスタイル良いだけだもん! アイドルとかにはなれないもんっ」
うぬぼれも大概にしろ。……と、言ってやりたいところだが、ここも我慢だ。
「そっか……。君って可愛いくて頭も良いんだね」
テルがいたわるように呟くと、レナの表情が歪み、またテーブルに突っ伏しておいおいと泣き出した。
「わ、分かってるわよ! 唯音にひどい事言ったから、怒ったんでしょ!? あたしが唯音に八つ当たりしたから、だからなんでしょっ」
「麗奈……」
「謝れば良いんでしょっ! わ、悪かったわよ! これで良いんでしょっ」
「おいクソ女。それは謝ったうちに入らん。土下座しろ」
それでも俺の気はおさまらんがな。
「ひ、ひどいぃぃ……」
「タロさん。もうやめて下さい」
きっ、とユイネが俺を睨んだ。ぎくりとして、背筋に寒気が走る。
「麗奈。私の事なんて良いから。あんまり泣いちゃ、目が腫れちゃう」
「ううー……お、怒ってないの?」
「全然。それより私の方こそ、ごめんね」
どっと疲れが押し寄せ、ソファに倒れ込むように腰を下ろした。久々に至近距離で毒々しい気に当てられたせいもあるだろう。めまいがしそうな程のダメージを受けた気がする。しかしそんな事は二の次だ。それよりももっと大きな問題がある。
何故この俺が、あんな気の弱いふにゃふにゃユイネにひと睨みされただけで、ここまで焦らなければならんのだ。くそ。
……やっと俺に心を開きはじめたというのに、また一からやり直しか。いや、もっと悪いかも知れん。
それから騒々しいユイネの妹の機嫌も何とかおさまり、高級ベッドで眠り始めたのを確認してユイネとテルがリビングに戻って来た。
「はああ。こうやっておおごとになっちゃうから、我慢してって言ったのに!」
「あれはあの女が悪い。あそこまで言われて黙っていられるか!」
俺はソファにふんぞり返って腕を組み、二人に背を向けたまま言葉を返した。
「……ごめんね、テル君」
「ユイネが謝る事なんてないでしょ。謝んなきゃいけないのは、そこの大男だよ」
「俺は悪くないぞ。正しく事実を述べたまでだ! よって謝る必要は一切ない」
とは言ったものの、背後を振り向けない。またユイネに睨まれたりでもしたら、情けない事だが、落ち込んで立ち直れないかも知れない。またあいつが心を閉ざしてしまったかと思うと、それだけが反省点だとさえ感じる。
「タロちゃんてば」
「テル君、もう良いの。お茶でも入れるね。座って。……タロさんも」
ユイネの声音は既にいつものトーンに戻っていた。控えめで柔らかく、心地の良い声だ。
*
「……たしかに、麗奈は甘やかされて育っているとは思うんだけど。でも、それって仕方のない事でしょう? そうやって育ってしまったのは、回りの環境のせいでもあると思うから。それに今日は、オーディションに落ちちゃってショックを受けてて。……私は麗奈が、小さい頃からずっと頑張ってたのを知ってるから」
だから、とユイネは手元を見つめて静かに語った。俯き加減のその横顔から、いたわりの感情が滲み出ていた。傷ついて疲れた妹を思いやる、姉の顔だ。
「そうやってあいつは姉であるお前にも甘えて、しなだれかかって生きているわけだ」
ユイネがゆっくりと顔を上げ、俺を見上げる。俺は真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
そうやってお前は相手の気持ちをくんで、受け入れてやるのか。だが、相手はお前の気持ちをくんでやった事があるのか? 一度でも、相手がお前の心を優先しようとした事があったのか?
「タロさん……」
怒られるかと思い無意識に身構えた。しかし予想に反して、ユイネは笑った。
ほにょ、としか形容出来ないような、柔らかな笑顔。
「ユイネ。……お、怒らんのか」
「もう良いです。だってタロさんは、私の為に怒ってくれたんでしょう」
ふにゃふにゃと笑う。心なしか、恥ずかしそうに笑っている。
どく、と、俺の心臓が鼓動を打った。
無意識に手を伸ばし、マグカップに添えられているユイネの手に触れた。すると、あたたかな気が触れた指先から伝わってくる。疲れ切った細胞が、じわりと癒されていく。
ああ……こいつは今でも俺に心を開いているのか。
……良かった。
心の底から嬉しさが込み上げ、思わずそのまま小さな手を掴んだ。
「わっ」
「こらこらっ」
ぎう、とテルが俺の手の甲を思い切りつねった。その痛みに力が緩み、ひゅっと素早くユイネの手が引っ込んでいった。
つねられた手の甲をさすりながら無言で美しい子どもを睨みつけると、澄ました顔で返される。
「調子に乗っちゃダメ。油断も隙もないんだから」
ね、とテルがユイネに微笑みかけ、二人は穏やかに笑い合った。
その夜はレナという女がベッドを独占してしまった為、俺達はリビングで眠る事になった。俺が叩き起こそうとするのをテルとユイネが必死になって止めるので、まあ仕方なくだ。
真夜中、時計の針が時を刻む音を聞きながら、薄暗い視界の中で意識を集中する。ゆっくりと息を吸い込み、細く長く吐き出していく。寄せては返す波のような曲線を描く感情を、徐々に平らかな状態へと落ち着かせる。風一つない、ぴんと張った水面のイメージだ。これは俺が大の苦手とするところだが、やって出来ない事はない。段々と心が凪いでいく。すっと身体が沈み、ゆるやかに落ちはじめた。暗黒の闇は物音ひとつ立てずに俺をすんなりと飲み込んで、俺の身体は速度を増して闇の底に落ちていく。
それは単なる好奇心だったのか、気まぐれだったのかは分からない。ただ純粋に知りたいという欲求からだった事はたしかだ。穏やかで控えめな空気をまとい、どこにでもいるような地味な容姿。誰もが通り過ぎるであろう薄い存在感しか持たないのに、他の何よりも、どんな者よりも美しい魂を秘めている。そいつの事をもっと知りたいと思った。その旋律を。その生を。
ユイネの事を。ユイネの過去を。
十八年前にあの漆黒の珠を手にした頃の幼いユイネが、どのようにして今まで生きて来たのかを。
*
身体に振動を感じた。右に重力を感じ、中央に寄り、それから急に左へと転じる。
次に聴覚が戻り、ごおおお、という音と人の話し声が聞こえてきた。フィルターを通したような男の声が何かを告げ、ふわりと身体が浮いた。
「この駅で降りるんだ。良いかい。これから行く家で、家族みんなで暮らすんだ。お父さんがさっき言った事、分かるよね。唯音は頭が良くて優しい子だから、大丈夫だ」
ふっと頭に重みを感じ、次の瞬間、溢れんばかりの光が世界を覆った。