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第5章 緋い室
 午前中の授業は沙羅の学力を見るための小テストで終わった。三教科しか出来なかったが、沙羅は昼食のあと身体を休めるために昼寝をする習慣だそうなので、再開はその後ということにした。
 昼食の席に聖樹は姿を見せなかった。沙羅によると、いつも書斎で仕事をしながらサンドウィッチのような軽いもので済ませるそうだ。
 沙羅が自室に引き上げたあと、憂未は自分の部屋へ戻り、教えられたとおりチョークでドアの隅に星型を描いた。
 我ながら子供っぽいとは思ったが、これ以上わけのわからない幻影に悩まされるくらいなら迷信でもなんでも効果がありさえすればいい。
 しばらくの間、睨むように部屋を見回していたが、幽霊が出るかどうか見張っていても仕方ないので、読みかけの文庫本を持って外に出てみることにした。
 霧はとうに霽れてすっきりした青空が見えていた。綿あめのような白い雲の浮かぶ青い空、白樺とカラマツの林。からりとした涼しい風。
 生き返る心地がする。きっと東京は今日も真夏日だろう。梅雨が空けた途端、連日のように猛暑に見舞われているのだ。
(今夜、智子さとこに電話してみようかな。)
 憂未はこの仕事を紹介してくれた友人の顔を思い浮かべた。
(こっちは涼しくて快適よ、なんて言ったら、きっと羨ましがるだろうな……。)
 資格があったら自分が行きたいと、繰り返し言っていたのだから。
 憂未は今朝聖樹と散歩した道をぶらぶらと歩いてみた。彼が言っていたとおり迷いようもない一本道なのだが、何となく歩くのは白霧館が見える範囲内にしておいた。まさか、戻って来たら館が消えていた、なんてことがあるわけもないが、ふとそんな想像を巡らせてしまうような現実離れした雰囲気がこの館には確かにある。
 木立に見え隠れする黒い館を眺めつつ、ゆっくりと引き返した。最初、霧の中から現れた建物を見て何処となく不気味に思えたのが嘘のように、館は美しかった。
 黒い外壁のために実際よりも小さく見えることが今ではよくわかる。見た感じよりもずっと広く、奥行きがあるのだ。
 滴るような緑に包まれて、黒い館は声高にその存在を主張するのではなく、ひっそりと風景に溶け込むようにしてそこに在った。
 憂未は玄関前で立ち止まり、ちょっと考えて館の左手へ行ってみた。撞球室の前を通り、半円形に突き出した格好の喫煙室の角を曲がる。白い木製の階段が庭へ降りていて、喫煙室の扉は開いていた。ここから入っても構わないだろう。
 その隣は聖樹の書斎のはずだが、窓にはカーテンが下りていた。聖樹も日光が苦手なのだろうか。ふと考え、すぐに思い直す。ここへ来る時、カブリオレの幌を思いっきり開けていたではないか。
 そういえば車庫は何処にあるのだろう。西翼の下あたりだろうか。
 館の東側から南側に出ると、美しく輝く緑の芝生が広がっていた。館からなだらかな傾斜を描きながら奥の木立へと続いている。テラスの前や木立の手前あたりは花壇になっていて、綺麗な花がたくさん植わっていた。
 高い梢がざわざわ鳴る音以外には、人の声も何もしない。美しい庭は少し寂しいくらいに静かだった。
 憂未は何故かぞくりとするものを覚えた。美しく快適に整えられた場所に人が居ないというのは、どこか異様な恐ろしさがある。
 マリー・セレスト。
 唐突にそんなイメージが浮かんだ。
 無人で漂っていた客船。船内は争った様子もなく何もかもが整然としていたという。乗客と乗員が一人残らず消えていた以外は。
 憂未は頭を振って益体もない連想を追い払った。
 ここの住人はちゃんと存在している。沙羅は自室で昼寝をしているのだし、聖樹は書斎で仕事中。病室には馨と看護師がいる。メイドたちだって、きっと何処かで働いているか休むかしているのだ。
 周囲に他の別荘がない一軒家だから、静かなのは当たり前だ。東京の騒音に慣れてしまっているから、実際以上に静かに感じてしまうのだろう。
 現代の日本人は騒音に鈍感なのだと聞いたことがある。電車やバスでは企業広告を含むアナウンスがひっきりなしに流れ、街頭放送も途絶えることがない。
 いつからか、私たちは静寂に耐えられない体質になってしまったのだろうか。昔は蛙が池に飛び込む音にさえ興趣を覚えたくらいなのに。
 ただ風の音しかしないというだけで、この世界に自分ひとりが取り残されたような気がしてしまう。誰もが自分の存在に現実感を持てないでいるのかもしれない。
 とりとめもない不安から、実体のないものに依存している。絶え間ない騒音やリアルな仮想現実、意味もなく頻繁に取り交わされる携帯メール。
 そして、自分は決して傷つくことのない、身勝手な優しい夢。
「憂未さん」
 快活な声が呼ぶ。振り向くと、テラスに聖樹が立っていた。その立ち姿にどきりとする。それはまさしく夢の中のあの人そのものだ。
 今、自分はどちらの側に立っているのだろう。夢か、それとも現実か。呼んでいるのは聖樹なのか、それともあの人なのか。
 聖樹は少年のような屈託のなさで手を振った。
「一緒にお茶をどうですか」
 憂未は微笑んだ。
 どちらだって構うものか。これが夢ならいつかは覚める。どうしてしばしの間幸せな夢に浸っていていけないというの?
 これが現実だとしたら、二カ月もすればまた忙しない日常へ戻らなければならないのだ。どうしていま、ハンサムで人当たりのいい青年の誘いを断る手があろうか。
 いずれにせよ、ここは別世界なのだ。深い霧と木立に囲まれた小さな別世界。ここにいるのは聖樹と沙羅と私だけ。残酷で高慢な生徒も、自分に都合のいい女しか認めない身勝手な男も、信頼を踏みにじった弟もいない。
 理想の恋人そのままの青年。素直で可愛い理想的な生徒。どうして彼らから離れて汚穢に満ちた現実へ急ぎ帰らなければならないのか。
「……いま行きます」
 憂未は黒い館に向かってゆっくりと歩き出した。
 ほら、聖樹が私を待っている。まるで家族のように出迎えてくれる。
『今ならまだ間に合う……』
 頭の中で、警告を発する少年の幻像が、脆い砂のように崩れてゆく。
『逃げるんだ……』
(いやよ。私は帰らない。)
 白い木の階段を一段一段踏みしめるように登る。
『捕まってしまうよ』
 少年が血の涙を流し、光る蝶が狂ったように闇に舞う。
『どうしてわからないの?』
 朝食室の前のテラスには鋳鉄製の優美な脚のついたテーブルと椅子が出されていた。モザイクタイルを貼ったテーブルの上に、銀のポットとアラベスク模様のカップがふたつ。憂未がテラスに上がると、聖樹がすかさず椅子を引いてくれた。
 憂未は椅子に座り、聖樹を見上げて微笑んだ。
 見知らぬ少年の声など、気にしなくていい。
『捕まってしまったら、もう二度と戻れないんだよ。僕みたいに』
 戯言たわごとよ。そんなもの。



 ゆったりとした歓談のうちに時は過ぎ、聖樹は書斎へと戻って行った。
 また夕食の時に、と言ってにこりと笑った聖樹の顔を思い出すと、自然と頬が緩んでしまう。聖樹は、もう何年ものあいだ、まさしく夢に見ていた人にそっくりだ。好意を持たずにいられるわけがない。
 はたと我に返り、ともすれば茫洋としてしまう頭を、憂未は激しく振った。
(いけない、いけない。これからまた仕事なんだから。)
 残り二教科のテスト問題を持ち、憂未は教室へ戻った。
 薄手のカーテンが引かれた部屋は無人だった。灯も点いていない。壁面のスイッチを入れると、すりガラスで花を象ったシャンデリアがふたつ点灯する。
 午前中、沙羅が使っていたテーブルの上には何もなかった。お昼に引き上げる時、沙羅はノートもペンケースもすべて持ち帰ったのだ。
 ギリシャのスフィンクスを象った置き時計を見ると、約束の三時を少し過ぎていた。まだ寝ているのだろうか。あまり長く昼寝をすると夜寝られなくなる。沙羅が宵っ張りなのはもしかして昼寝にその一因があるのかもしれない。憂未は沙羅の部屋に行ってみようと教室を出た。
 確か、沙羅は北東側の続き部屋を使っているのだと言っていた。ホールの角にはドアがふたつ直角に並んでいる。どちらから入ったものかと考え、とりあえず両方ノックしてみたが返事はなかった。
 ノブを回してみると角部屋の方は鍵がかかっていた。真ん中の部屋は開いている。ドアを細く開けて覗いてみたが、暗くてよくわからない。呼びかけても返事はなかった。やはりまだ寝ているのだろうか。憂未は部屋に入り、ドアを閉めた。
 部屋はカーテンを閉め切り、ごく小さな電灯だけが燈っていた。天井の中央には古い教会にでもありそうな黒い鉄製のシャンデリアが鎖で吊るされていたが、灯は点いていない。部屋を照らしているのは壁に取り付けられた燭台風の電灯だった。
 大きな上げ下げ窓を覆うカーテンは床まで届く緋色のベルベット。遮光になっているのか、まるで暗幕のようだ。壁は憂未の肩辺りまでが作り付けの本棚になっており、その上には壁を埋めつくすかのように様々な絵画が飾られていた。
 部屋の中央、灯の点いていないシャンデリアの下にはどっしりとした円形のテーブルがあって、いろいろな物がごたごたと載っている。
 部屋の奥に天蓋付きの寝台があった。馨の部屋にあったのと同じような古風な造りで、誰かそこで眠っているようだ。やはり沙羅は寝過ごしているらしい。起こさなければ、と憂未は足を踏み出した。
 不意に右手できらりと何かが光り、憂未はぎくっと足を止めた。人の顔が見えて一瞬竦み上がったが、それは人形だった。脚の長い装飾的な椅子に座った、六十センチほどの人形だ。アンティークドールだろうか。
 近寄って見てみると、それはいわゆる球体関節人形だった。精緻な美しい少女の顔が憂未を見返している。現代作家のものなのだろう。顔だちはアンティークドールのそれとはかなり異なっている。
 あるかなきかの笑みを含んだ、ふっくらとした唇の艶やかさ。焦点が微妙に合っていないような、何処を見ているのか判然としない不思議なまなざし。ガラスの瞳は昏い赤、髪はゆるやかに波うつ黒。
 細い首に古風なチョーカーをつけ、コルセット風の金と緋色のドレスを着ている。そっと指を伸ばして頬に触れてみると、かすかにざらりとして冷たかった。
 ビスクなのだ。
 憂未は腰を屈めて少女人形の顔を覗き込んだ。
 見つめるほどに惹き込まれていくような、冷艶な表情をしている。
 人形には何処か沙羅に似た面影があった。彼女から無邪気で人懐こい笑顔を消し去ったら、その美貌に秘められた蠱惑的な魅力がきっとこんなふうに妖しく輝き出すのであろう。仄昏い灯を映すガーネットの瞳は、謎めいた微笑をたたえて静かに憂未へと向けられていた。
 もっと見ていたかったが、そういうわけにもいかない。憂未は身を起こし、そろそろと歩き出した。足元が暗い上、床の上にも無造作に物が置かれている。うっかり蹴飛ばして壊れ物でもあったら大変だ。
 作り付けの本棚には古めかしい革の装丁を施された本がぎっしりと詰まっていた。全部洋書で、かすれた背表紙には英語やフランス語らしき題名がどうにか見て取れる。しかし、見覚えのあるタイトルは見つからない。どうやら小説や詩の類ではないようだ。
 そして、書棚の上の壁面を覆う様々な絵画。何気なく見上げ、憂未は眼を瞠った。
 赤い筋肉を骨にまとわりつかせた骸骨がこちらを見ていた。何故か顔だけは生きているようで、年齢も性別もはっきりしないなめらかな顔に、かつらのような白い髪を長く垂らし、骨だけの手で黒い屍衣のようなマントを広げている。
 これは死神だろうか。何とも言えない不吉な雰囲気だ。憂未は気味が悪くなって別の絵に視線を移した。
 しかし、この部屋に飾られた絵画はどれも一風変わったものばかりだった。ラファエル前派や象徴派の絵画が多いようだが、それにしても……。
 憂未のわかる限りでも、クノップフの『愛撫』『眠れるメドューサ』、モローの『スフィンクス』『サロメ』、ウォーターハウスの『ヒュラスと妖精たち』『シャロットの女』、エドワード・ロバート・ヒューズの『夜が星をしたがえて』等々……。
 暗澹たるルドンのリトグラフ。悪夢を写し取ったようなゴヤの連作『カプリチョス』。そして、憂未の知らないさまざまな廃墟の絵。寝台からずり落ちそうなほどのけぞった女の胸にゴブリンのような怪物が座り込んでいる絵もある。
 部屋の奥へ進むほど、描かれる世界は暗く混沌としてゆくようだ。憂未は息苦しさを覚え、暗黒の絵画に埋もれた壁に背を向けた。
 今度は大きなテーブルが目の前にあった。さまざまな様式の椅子がテーブルを囲んでいる。最初から統一する気がないのか、ひとつとして同じ椅子はなかった。テーブルの真ん中には五つに枝分かれした燭台が載っていて、それぞれで細い蝋燭が燃えている。
 何気なく燭台を眺め、憂未はぎくりとした。
 それは人間の手首を象っていたのだ。
 蝋燭が燃えているのはそれぞれの指先だった。もちろん作り物だろうが、骨のかたちが浮くほど貼りついた皮膚は奇妙にヌメヌメしていて、死蝋というものを思わせた。
 燭台の隣にはくすんだ金色の鳥籠。蔓草が絡んだような凝った造りで、中は空っぽだ。あちこち欠けた小さな怪物の石像。中世の騎士のミニチュア人形。玩具のギロチンの刃は実際に切れそうなほど不吉な光をはらみ、悪い冗談のようにバービー人形が首枷に挟まれている。
 開かれたまま放置された本には人体解剖図が載っていた。すべて写真で、若く美しい女性が内臓をさらけ出して横たわっていたり、眠るように眼を閉じた青年の頭蓋が切り取られて脳の断面が見えていたりする。
 側に置かれた大判のノートにはそこから写し取ったらしい頭蓋骨や手足の骨、心臓などの臓物の絵が描かれていた。
 憂未は吐き気を催してよろよろと後退った。
 いったいここは何なのだ? 沙羅の部屋ではないのか。こんな不気味なものばかり飾ってある部屋なんて――。
 踵が何かに当たって一瞬倒れそうになる。どうにか踏みとどまり、憂未は泣きそうになりながら振り向いた。大きな肘掛け椅子に骸骨が座っていた。反射的に喉がぐっと鳴る。変な具合に悲鳴を飲み込み、憂未は喘いだ。
 まさか、本物の骸骨のはずがない。きっと等身大の骨格標本だ。もちろんプラスチックか何かで出来た……。
 だが、骸骨が座っている椅子が何なのかに気付いて、憂未は飛び出しそうなほど眼を見開いた。その椅子は表面すべてに鋭い棘が付いていた。こんなところに座れるわけがない。つまり、これは普通の椅子ではない。拷問用の椅子なのだ。
 見れば骸骨は両手首と足首を革のベルトで椅子に括りつけられている。そして、膝の上には重しが載っていた。憂未は無意識に首を振り、顔を背けた。
 よろよろと歩き出すとまた目の前に何かが現れた。今度はずんぐりした等身大の人形のようだ。優しげな女性の顔が見て取れる。マリア像だろうか。三角形の頭巾を着けて、穏やかに微笑んでいるようにも見える。だが、首から下はマントで覆われたようになっており、腕も脚もなかった。憂未は、有名な処刑道具〈鉄の処女〉を思い出した。
 ギギ、と奇妙な音がした。見ると像の真ん中に切れ目が入っている。観音開きに開くようになっているのだ。
(まさか、本当に……!?)
 触れもしないのに、像はゆっくりと懐を開いてゆく。憂未は金縛りにでもあったように動けなかった。内部に仕込まれた無数の鋭い針が灯を反射して鈍い光を放った。それがどうしても赤く濡れているように見えてしまう。
 中は空だった。憂未はほっと肩を下ろした。悪趣味な人形も骸骨も入っていない。ただ、像の底に赤い薔薇が一輪、落ちていた。仄昏い灯のもと、薔薇は驚くほど瑞々しく艶めいて見えた。まるで流されたばかりの血のように……。
 射竦められたように眼を離せないでいると、薔薇の傍らにぽたりと小さな雫が落ちた。それは花びらと同じ色をしていた。
 またひとつ、ぽたり。無数の針の先端から、ひとつ、またひとつと赤い雫がこぼれる。血の滴る音が静まり返った部屋に鮮明に響いた。
 ぽたり。
 ぽたり。
 ぽたり。
 ……
「――いやああああっ」
 憂未はついに悲鳴を上げた。部屋の奥の寝台へ駆け寄り、眠っている沙羅を必死に揺り動かす。
「沙羅! 起きて、沙羅!」
 だが、沙羅は眼を覚まさなかった。固く瞼を閉ざしたまま、静かに横たわっている。憂未は恐る恐る沙羅の頬に触れてみた。
 冷たい。
 滑らかな頬にはぬくもりのかけらもなく、固く冷えていた。少女は眠ったまま死んでいた。
「沙羅……!」
「なぁに、先生」
 茫洋とした声が背後から聞こえて来た。憂未は悲鳴を上げて振り向いた。白い袖無しのネグリジェを着た沙羅が、眠そうに眼をこすっている。
 憂未はすっかり混乱して寝台に横たわる沙羅と欠伸をしながら立っている沙羅を交互に見た。沙羅は欠伸を噛み殺し、顔をしかめた。
「ごめんなさい、先生。目覚ましが止まってたの。電池が切れちゃったみたい」
「沙羅……?」
「はい?」
 憂未の様子がおかしいのにようやく気付き、沙羅は訝しげに首を傾げた。寝台の傍らにへたり込んでいる憂未を見て、眼を丸くする。
「まぁ、先生。どうしたの。気分でも悪いの?」
「い、いえ……」
 沙羅は寝台の上の自分を見て、得心が行ったように頷いた。
「ああ、それ。よく出来てるでしょ」
「沙羅ちゃん……、これは……」
「蝋人形よ、それ」
 沙羅はこともなげに答えると、憂未の腕を取って助け起こした。
「蝋人形……?」
「ええ、そう。私の寝室はこっち。ここは違うの。勉強部屋よ」
 沙羅は憂未の手を引いて隣室へ導いた。ドアを抜けると眩しいくらいの電灯が点いていて、憂未は思わず眼を細めた。
 明るさに慣れると、そこは隣室とはまったく異なる別空間だった。厚いカーテンが同じように引かれてはいるが、ロココ調の花柄だ。室内を照らすシャンデリアは白い枠に花やビーズが飾られた可愛らしいもので、細長い蝋燭型の電球が皓々と燈っている。
 壁は珪藻土で、塗り跡がほどよく残っている。壁の下半分は黒褐色の腰板張り。置いてある家具はやはり湾曲した猫脚付きだが、どれも新しく白い家具だった。いかにもロマンチックな女の子の部屋、という感じだ。机の上には薄型のノートパソコンも置かれている。
 暖炉の上に一枚だけ、大きな絵がかけられていた。金色の装飾額縁に入った絵は、小舟に横たわる若い女性を描いたもので、どうやらリトグラフのようだ。マントルピースの上には天使の飾りの付いた燭台と小皿に盛ったポプリが飾られていた。
 くすんだ金色の枠がついた寝台は枕がずれ、上掛けがめくられたままだ。確かに今起きたばかりらしい。沙羅は憂未の手を放し、ワードローブに向かって歩きながら可愛らしいピンクの二人掛けソファを示した。
「その辺に座って待っててくださる? すぐに支度するわ」
「え、ええ……」
 憂未は落ち着かない心持ちのまま、おどおどとソファに腰掛けた。着替える沙羅に背を向け、ちょうど眼に付いた本棚を見るともなしに眺める。『人狼』という単語が飛び込んで来てどきりとしたが、それは憂未も読んだことのある推理小説のタイトルの一部だった。
 そういえば、わりと最近その小説を読み直したのだ。そのせいで人狼のような化け物が出て来る夢を見たのかもしれない。
 印象に残った本や映画がコラージュされたような夢を見ることはこれまでにもよくあった。思っていたよりも影響を受けやすい質なのだろうか。
 沙羅はミステリが好きなようで、その手の文庫やノベルスが並んでいた。古典的な怪奇小説やゴシック小説、ファンタジーの本に混じって、沙羅の好みに沿ったファッション雑誌もある。年頃の女の子らしいところがようやく見えて来た。
「本当にごめんなさい」
 着替えながら沙羅が詫びた。
「てっきり動いていると思って、よく見ないで目覚ましをかけて寝ちゃったの。隣の部屋で先生の声がして、やっと眼が覚めたのよ」
「いいのよ。仕方ないわ」
 髪にブラシを当てながら、沙羅はふたたび謝罪を繰り返した。
「……それより沙羅ちゃん。あの、隣の部屋のベッドに寝てる人形は――」
「よく出来てるでしょう」
 沙羅は嬉しそうに応じた。
「あれを作るために写真を百枚以上撮ったのよ」
「そうなの。でも、どうしてそんな人形……」
「だって、日本は火葬でしょ」
 沙羅は唐突なことを言い出した。憂未はわけがわからず、そうね、と応じた。
「でも私は土葬にしてほしいの。絹張りのクッション付きの素敵なお棺に入れてもらって、この家のお庭に埋めてほしいのよ。蝋人形の屍体なら腐ることもないでしょう。永遠に美しいままでいられるわ」
 ブラシを手にしたまま沙羅は振り向き、不思議な笑みを浮かべた。
「私ね、十歳の時から毎年蝋人形を作ってもらっているの。いつ死んでもいいように。隣で眠っているのは今年の私よ。去年までの私は地下室にいるわ。ちゃんと柩に入れてね。私は納骨堂って呼んでるの。本当はカーヴなんだけど」
 柩の隣にワイン棚があるのよ、と沙羅は楽しげに笑った。憂未は呆気に取られて無邪気な沙羅を眺めた。
「……どうしてそんなこと」
「だって私、もうすぐ死ぬんだもの」
 沙羅の声はまるで悲愴感がなく恬淡としていた。憂未はびっくりして腰を浮かせた。
「何言ってるの。そんなわけないじゃない」
 死ぬような病気とは聖樹は言わなかった。ただ日光に過度に反応して火傷するのだと、そう言ったはずだ。それとも沙羅の手前婉曲に言っただけなのだろうか。
「大丈夫よ、先生。私は死んでも死なないわ」
 沙羅はまたしてもわけのわからないことを言い出した。ひょっとしてまだ眼が覚めずに寝ぼけているのだろうか。それとも憂未をからかってるのか。
「何を言っているのよ、沙羅」
「ねぇ、先生。私、お日様に当たれないでしょ。それって、もしかしたら私が吸血鬼だからだとは思わない?」
「吸血鬼、って……」
 どうも突拍子もないことを言い出す。やはりからかわれているのか? しかし沙羅は至極真面目な顔で憂未を見つめていた。
「私、吸血鬼なんじゃないかと思うの。吸血鬼にはね、〈生ける吸血鬼〉と〈死せる吸血鬼〉がいるのよ。ルーマニアでは、現在は生きているけど死後は吸血鬼になることが運命づけられた者のことを〈生ける吸血鬼〉と言うんですって。〈生ける吸血鬼〉はモロイイ、〈死せる吸血鬼〉はストリゴイイと呼ばれていて、モロイイは死ぬとストリゴイイになるの。そしてモロイイはね、たいてい女なのよ」
 沙羅はブラシを置き、滑るように部屋の一隅へ歩み寄った。そこには脚の長い、彫刻を施した椅子があり、両手で持てるくらいの少女人形が座らされていた。昏いガーネット色の瞳。波うつ艶やかな黒髪。謎めいた微笑……。憂未は思わず息を呑んだ。
 沙羅は椅子の傍らに屈み、人形に無邪気に頬を寄せた。
「綺麗でしょう。名前はリリトよ」
 リリト。
 何処かで聞いたことのある名前だ。でも、何だったろう……。
「ねぇ、先生。私が死んだらこの子を形見にあげる。この子は天使よ。私が死ねば天使になるの」
 憂未は混乱した。あの人形は隣の部屋にあったはず。いつのまに移動したの? 沙羅が持って来る時間などなかった。それともあれは幻? 最初から、ここであの人形を見たのだった?
「私たちが似てるってお兄様は言ってたわ。でもどうかしら。自分ではわからない。先生はどう思う?」
「どうって……」
 憂未は無意識に喘いだ。そう。確かに似てると思った。本質的な何処かが――。人形の不可思議なまなざしに奇妙な圧力を感じる。人形が笑っているような気がする。私を憫笑している。
「ねぇ、先生。この子を私だと思って、ずっと私のこと忘れないでね……」
 混乱して茫然としている憂未を、沙羅は真剣な顔で見つめていた。かと思うと、突然破顔して声を上げて笑い出した。
「あはははは。信じた? いやぁん、憂未先生ったら」
「――――沙羅っ」
 やはりからかわれたのだ。憂未はかんかんになって立ち上がった。笑いすぎて涙を滲ませながら、沙羅は両手を合わせて拝むふりをした。
「ごめんなさい。先生があんまり可愛いから、ついからかってみたくなったのよ」
 十歳以上も年下の少女から可愛いと言われて喜べるものか。憂未は憤然と眼を吊り上げた。
「か、可愛いって――、もしかして馬鹿にしてるの!?」
「違う違う。そんなんじゃないの。本当にごめんなさい」
 沙羅は身を縮めてしきりに謝っている。あまり本気で腹を立てるのも大人げないかと思い、憂未は腕を組んで沙羅をじろりと睨んだ。
「もう、大人をからかうんじゃないわよ。私はこれでもあなたの先生なんですからね」
「はい。わかってます」
 沙羅は殊勝に頷いた。
「もう二度と変な冗談は言わないわ。だからお兄様に言いつけたりしないでね」
「今度こんなことしたら言いつけます」
「だからもうしないってば。あぁん、先生、信じてよ」
「……わかったわ。まったくもう、私は本気で心配したんだから」
「ごめんなさい」
 沙羅はぺこりと頭を下げたかと思うと、憂未の腕をぐいっと摑んだ。
「お詫びに私の宝物を見せてあげる。こっちへ来て」
 沙羅は憂未を引っ張って隣の部屋へ歩き出した。憂未は仰天して抗った。
「い、いいわよ。見なくても。さっき見たから――」
「ねぇ、先生はああいう絵は好きじゃない? 私、ラファエル前派が大好きなの」
「別に嫌いじゃないけど――」
 あの変な拷問椅子とか骸骨とかは理解不能だ。沙羅のこの可愛い頭の中はいったいどうなっているのだ?
 沙羅は憂未の抵抗など気にも留めず、ドアの脇にあるスイッチを入れた。ぱっと天井のシャンデリアが灯る。思ったよりワット数の高い電球が付けられていたようで、部屋は皓々と照らし出された。
 大きな肘掛け椅子がすぐ眼に入り、憂未は竦み上がった。しかし――、何かがおかしい。さっきと違うような気がする。沙羅は憂未をぐいぐい引っ張って肘掛け椅子に歩み寄った。
「紹介するわね。彼はグレゴリーよ」
 古びた赤い革張りの肘掛け椅子に鎮座ましましているのは、スーツを着込み、ソフト帽を被った骨格標本だった。
「……グレゴリー?」
 沙羅は頷き、昔の美男俳優の名前を上げた。憂未も知っている名ではあったが、どうして彼なのか。
「だって似てるんだもの。そう思わない?」
 そう言われても、骸骨で見分けがつくものか。いや、それよりもこの椅子、さっきは棘だらけの角張った拷問椅子だったはず。それとも暗くて変なふうに見間違えたのか……?
「沙羅ちゃん、これ、本物じゃないわよね」
「まさか」
 沙羅はころころと笑った。
「もちろんレプリカよ。でも、関節も全部ちゃんと動いて、好きな位置で止められるのよ。こうしてね――」
「いいっ、やらなくていいからっ」
「そぉ?」
 沙羅は残念そうに引き下がったが、めげずに言い足す。
「この服、お兄様のいらない服を貰って来たの。裸で恥ずかしそうだったから。だいぶさまになったわ」
「そう……」
 憂未はがっくりと頷いた。さっきは服なんか着てなかった。四肢を革ベルトで拘束され、重しを載せられて棘だらけの椅子に座らせられていたのだ。
(でも、そうよ。そんなことあるわけない。)
 十三やそこらの女の子が、そんな悪趣味なことをするわけがない。見間違えたに決まってる。この〈鉄の処女〉だって――。
「先生、これ見て」
 目の前にあったのは、これは見間違えようもなく〈鉄の処女〉だった。だが、沙羅は何の屈託もなく把手を掴んでぐいっと両開きの扉を開いた。反射的に眼を閉じてしまった憂未を沙羅が明るく呼ぶ。
「ねぇ、先生。ちょっと面白いでしょ」
 いやいやながら眼を開くと、〈鉄の処女〉の内部は大きな鏡になっているのだった。扉の内側には針などではなく、小物を入れるための戸棚が付いている。
「鏡台なのよ、これ。白雪姫の鏡台」
「……白雪姫?」
「『スノー・ホワイト』っていう映画に女の人の顔の付いた鏡が出て来るの。それにちょっと似てるかな、って思って。……あ、あれは継母の鏡だったっけ」
 ま、いいか、と独りごちながら沙羅は扉を閉めた。憂未は混乱のあまり頭がぼうっとして来た。先ほど見たものはいったい何だったのだろう……。沙羅に手を引かれるまま、憂未はよろよろと部屋を歩き回った。
 テーブル中央の燭台は死人の手などではなかった。ぱっと見には指のように見えるだけの枝分かれした銀の燭台だ。玩具のギロチンは聖樹が冗談半分にフランス土産にくれたもの。挟まれている人形は〈マリー・アントワネット〉という限定物のバービーで、沙羅が言うには「ちょっとしたジョーク」だそうだ。無論、憂未は全然笑えなかった。
 人体解剖図はフィレンツェにあるというラ・スペコラ博物館の写真集だった。すべて蝋人形で作られた精巧な模型なのだ。沙羅は理科の自習として人体図を写していた。そういうものを気味が悪いとは思わないらしい。
「だって、自分の身体がどうなっているのか知りたいじゃない?」
 確かにダ・ヴィンチも人体解剖を見学してデッサンしている。ごもっとも、と憂未は頷くしかなかった。
 首から下だけが骸骨になった人物像は、レオノール・フィニの『骸骨の天使』の複製だそうだ。沙羅は、憂未がウォーターハウスやクノップフはわりと好きだと言うのを聞いて喜んでいた。
 絵は、確かに先ほど憂未が見たものと同じだった。ルドンのモノクロのリトグラフやゴヤの『カプリチョス』も、明るい光の下だと不気味さはだいぶ薄らいで見えた。中のひとつを指さして沙羅は言った。
「私のお気に入りはこれ」
 それは机に突っ伏して眠る人物の背後に梟や猫、蝙蝠が群れをなしている絵だった。戯画のようでもある。
「……何か文字が書いてあるのね」
「『理性が眠るとき、怪物が目覚める』」
 沙羅はキラリと猫のように眼を光らせて憂未を見た。
「――それから、ルドンのはこれが好き。タイトルはね、『夢は死を通して完成する』というの」
 沙羅が指さしたルドンのリトグラフは、空中を浮遊するような髑髏と水に沈むような髑髏が描かれた陰惨な感じのものだった。沙羅は後ろ手を組んで、伸び上がるように熱心に絵を眺めた。
「どっちも真理よね……」
 沙羅は独り言のように呟いたかと思うと、憂未を振り返ってにこりと笑った。
「ねっ?」
「……そうかもしれないわね」
 憂未は曖昧に頷いた。
 まさしく、先ほど見た幻はそういうものだったのかもしれない。まだ慣れない環境で、わけがわからない少年の『幽霊』まで目撃した。平気なつもりでも、やはり心の何処かでは怯えているのだろうか。だから、薄闇にありもしない幻覚を見るのだ。
 そう。
 きっと、そうよ。
 すべて錯覚なんだわ……。
 憂未は沙羅を促し、小さな妖異博物館めいた部屋を後にした。


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