第4章 光る蝶
目覚めは唐突にやって来た。
薄暗い部屋の中で、憂未はしばし動けずにいた。茫然と天井を眺め、眼球だけを動かして横目で左半身を見る。
自分の肩が見えた。ゆっくりと左手を動かしてみる。布団の中から抜き出した腕にはかすり傷ひとつなかった。
憂未は弾かれたように起き上がり、布団を撥ねのけた。どちらの脚も健在だ。こわごわ脚を動かしてみたが、何ともない。指も膝も踵も臑も腿も、全部大丈夫……。ようやく肩のこわばりが解け、憂未は両手で顔を覆って長い溜め息を吐き出した。
「……何て夢……」
すべて夢だったのだ。獣に襲われたことも、脚や腕を喰われたことも。
今まで見たこともないほど凄まじい悪夢だった。夢だとわかってもしばらく手足に力が入らなかった。
枕元に置いてあった携帯電話のアラームが鳴り出す。それを止める気力も出ず、憂未はぼんやりしていた。アラームが止まる頃になってようやく気だるく身じろぎをし、携帯電話を開いて五分おきのスヌーズになっているアラームを切った。
ベッドから降りると、気のせいかふらつくような感覚があった。悪夢の影響か、脚がうまく動かない。よろめきながら窓辺に歩み寄り、カーテンを開けた。
外は濃い霧に包まれていた。射し込む陽光を乱反射しているのか、霧全体が発光しているように奇妙に仄明るい。
窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。ふと、残り香のように幽かな百合の香りをかいだような気がしたが、清涼な風に紛れてすぐにわからなくなった。
新鮮な空気を深々と吸い込むと、だいぶん頭がすっきりした。顔を洗って化粧をすれば悪夢の残滓も脳裏から追い出せるだろう。ともかく着替えようと憂未は自分を奮い立たせてワードローブを開いた。
教えられていたとおり朝食室へ行くと、食卓には聖樹がひとり座って珈琲を飲んでいた。憂未を見てにこりと愛想よく微笑む。
「おはよう、憂未さん。よく眠れましたか」
「はい……」
憂未は無理に頷いたが、聖樹は眉をひそめた。
「何だか顔色が悪いですね」
「ちょっと、夢見が悪くて」
憂未は曖昧に笑って席に着いた。
「どうしたんです?」
「ちょっと脚を――」
人狼みたいな化け物に喰われる夢を見た、とはさすがに言いにくい。憂未は当たり障りないように言い換えた。
「脚が痛いなぁって感じの夢を見たもので……」
聖樹は、ああ、という表情で頷いた。
「そういうの、僕も時々ありますよ。脚が疲れてだるいと、夢に見るんです。走らなきゃいけないのに、脚が重くて走れないとか。きっと昨日は移動で疲れたんでしょう」
そうかもしれない、と憂未は頷いた。聖樹が珈琲を注いでくれた。憂未はミルクをたっぷり入れて静かにカップを傾けた。
そのうちにメイドがやって来て、朝食一式を並べてくれた。スクランブルド・エッグにカリカリに焼いたベーコン。焼きトマトと小さめのソーセージ。銀のパン立てに薄切りの三角トースト。果肉たっぷりのマーマレード。グレープフルーツジュース。……
憂未は大学の卒業旅行で行ったイギリス湖水地方のB&Bを懐かしく思い出した。また少し、平常心が戻って来る。
卵を食べていると、英字新聞を読んでいた聖樹が自分のカップにお代わりを注ぎながら話しかけて来た。
「朝食が済んだら少し散歩でもいかがですか。ご一緒に」
憂未はまるでデートに誘われたようにドキッとした。
「ありがとうございます。……ぜひ。あ、でも沙羅ちゃんは」
「あの子はいつも朝遅いんですよ。宵っ張りでね。まだ当分起きて来ないと思います」
実際、憂未が食事を終えても沙羅は現れなかった。憂未は底が平らなサンダルに履き替えて外に出た。聖樹は玄関前のアプローチで待っていた。
先程よりは薄くなったが、やはり館の周囲には霧が立ち込めていた。振り仰ぐと、ところどころ霧を透かして夜露を含んだ梢や青空が垣間見える。小鳥の鳴き交わす声も盛んに聞こえ、高原の朝というイメージどおりの爽やかな空気に包まれていた。
歩くに連れて霧の粒子が生き物のようにゆるゆると周りを流れて行く。雲の中を歩いているような、不思議な感覚だった。湿った黒土の地面も時折霧に紛れて見えなくなる。
「すごい霧……」
思わず憂未は呟いた。さすが白霧館と名付けただけのことはある。振り向くと、背の高い白樺の木立とたなびく霧の向こうに黒い洋館がひっそりと佇んでいる様は、幻想的で神秘的ですらあった。
隣を歩く聖樹の姿も気のせいか霞みがちで、粒子の荒いモノクロ写真のようだ。それがまた聖樹の端整な相貌を引き立てているような気もする。聖樹はちょっと眉を寄せ、前方を見遙かした。
「もう少しして空気が温まればだんだん霽れると思いますよ。この辺、朝と夕方は特に濃い霧が出るんです」
「何だか道に迷いそう」
不安そうな憂未の声に聖樹は軽く笑った。
「一本道だから大丈夫ですよ。木立の中に入り込んだら迷うかもしれませんが。僕は沙羅を連れてよくここらを歩くから慣れてます」
そう言っている間にも霧は濃くなり、まるで行く先を遮るように道を塞いで何も見えなくなってしまった。さすがに聖樹も歩みを止めた。
「うわ、今日は凄いな。これじゃ歩いても何も見えないや。引き返しましょう」
「そうですね」
憂未は何となく不安にかられて従った。このまま歩いて行ったら何処か知らない世界に迷い込んでしまいそうだ。憂未の不安を察したのか、聖樹が自分の左腕を軽く示した。
「よかったら摑まってください。足元がよくないから、転んだりしたらいけない」
「はい……」
憂未はためらったが、見れば足首の辺りが定かでないほど霧が濃い。それに、聖樹の目の前で小石にでも蹴つまずいて転ぶなんてみっともないところは見せたくなかった。憂未は遠慮がちに聖樹の腕に右手を添えた。
正直言うと、けっこう嬉しかったりして、胸がドキドキした。頬が緩むのが抑えられない。霧が濃いことがありがたかった。にやけた顔を見られないで済む。
まるで夢の中にいるようだ。夢で繰り返し出会った人とそっくりな人物と腕を組んで歩くなんて。夢の中のあの人と同じように聖樹は優しい。夢の中でもこんなふうに腕を組んで霧に取り巻かれた小径を歩いたような気がする。
そして家へ帰るのだ。ふたりの住む家が霧の中から現れる。白い窓枠に深紅の薔薇が絡まる、ひっそりとした黒い館。
木立と霧のあわいから影のように白霧館が姿を現す。
夢で見た家は、本当にこの館にそっくりだった。
夢と現実が交錯し、憂未は自分がどちらに居るのかわからないまま立ち尽くした。傍らで訝しげな聖樹の声がする。
「憂未さん?」
「あ、はい」
はっと眼を瞬き、憂未は聖樹を見上げた。皓歯を見せて聖樹は笑った。
「着きましたよ」
白霧館の黒いシルエットが目の前にあった。壁を這う蔓薔薇の花びらは、霧の中で朝露を含み、にじんだ水彩画のようだ。
朝食室へ戻ると、沙羅がひとり食卓に着き、つまらなそうにフォークで料理をつついていた。憂未に気付いた途端、ぱっと表情が明るくなる。
「あっ、先生」
「おはよう、沙羅ちゃん」
「おはようございます。憂未先生、朝御飯はこれから?」
「何言ってるんだ」
聖樹が呆れたように口を挟む。
「僕たちはもうとっくに済んだよ。散歩に行って来たところさ」
「ええーっ」
沙羅は不満そうに唇を尖らせた。
「ずるーい。私も行きたかった」
「朝はだめだよ。わかってるだろう?」
「それは、わかってるけど。でも朝御飯はご一緒に……」
「だったら早起きしなさい。そうすれば日が昇る前に外にも出られるだろう。夜遅くまで本を読んでるからいけないんだ」
沙羅は肩を竦めた。
「だって、誰が犯人なのか気になって仕方ないんだもの」
「寝る前に読むのは推理小説以外にしろって何回言ったらわかるんだ」
もっともな小言に、憂未はこっそり笑ってしまった。憂未も好きな作家のミステリを読んでいて、つい徹夜してしまうことがある。
「それじゃ、憂未先生。僕は仕事をするので、あと頼みます」
「はい、わかりました」
聖樹は憂未ににこりと笑いかけ、沙羅の頭を軽く小突いて出て行った。沙羅は桃色の舌を覗かせて兄の後ろ姿を睨んだ。憂未は笑みを抑えながら沙羅の向かいに座った。
「お兄さん、ここでも仕事してらっしゃるの?」
沙羅は口に放り込んだトマトを咀嚼しながら頷いた。
「昨夜トランプをした部屋の南側が、お兄様の書斎なの。東京からパソコンを持って来て、昼間はずっと書斎に籠もりきりよ。パソコンと電話があれば何処に居ても大抵何とかなるんですって」
「まぁ、確かに今はそうよね」
インターネットが普及して、SOHOという働き方も珍しくなくなって来ている。ふと思いついて憂未は尋ねた。
「沙羅ちゃんもパソコン持ってるの?」
「持ってるわ。そうだ、使いたかったらいつでも言ってね」
「ええ、ありがとう」
憂未も自宅にパソコンを持ってはいるが、デスクトップ型なので持ち運びが出来ない。テレビのないここではニュースぐらいインターネットでチェックした方がいいだろう。
憂未は沙羅が食事を終えるころ席を立った。今日の授業に使う本を選んでおくのをうっかり忘れていた。とりあえず今日は沙羅の学力を見て計画を立てるくらいで終わってしまうだろうが……。教室として使うのは二階の北側の部屋だということを確認し、憂未は朝食室を後にした。
階段室まで来た時だった。目の前を、すっと光るものが通った。顔を上げると、薄暗い階段の手摺りの辺りを青白く光る蝶がひらひらと飛んでいた。
憂未は昨夜の悪夢を思い出した。もうだいぶイメージは薄らいで来ていたが、怪物じみた獣の頭上を狂ったように飛び回っていた蝶が一匹いたことははっきりと覚えている。
蝶――、それとも蛾だろうか。確か、蛾の中には青白くて大きな種類もあったような気がする。ひょっとしたら、夢現に部屋の中を飛び回る蛾を見ていたのかもしれない。憂未はその蛾だか蝶だかをよく見てみようと眼で追った。
どうも羽の形としてはアゲハチョウに似ているような気もする。だが、アゲハチョウのような黒いすじは見当たらない。全体に夜光塗料のような青白い感じで、模様もなかった。何処かに止まらないかと見ていると、蝶はひらひらしながら階段の上の方へ移動し始めた。憂未は手摺りに掴まりながら後を追った。
二階のホールはかなり暗かった。四方を壁に囲まれていて、直接外光が入るのは玄関上のバルコニーに出る扉だけなのだ。扉は区切られたガラス張りだったが、厚めのレースがかけられており、また北向きでもあることから薄明が射しているだけだった。
蝶は階段を昇りきった辺りを飛び回っていたかと思うと、館の西翼へ続く廊下の方へ消えた。急いで後を追ったが、角を曲がった時にはもうその姿は見えなくなっていた。この先には馨の病室まで廊下がまっすぐ伸びているだけだ。窓から外へ出たのだろうか。廊下の先まで探しに行くのはためらわれた。
何となく、馨の部屋には足が向かない。ただでさえ薄暗い館の何処よりも暗い、奇妙に澱んだ闇の気配に満ちた部屋。むせ返るような濃密な百合の香り。……
そうだ。あの息が詰まりそうなほどの芳香の記憶が、あんな悪夢を見せたのだ。きっとそうに違いない。
満開のヤマユリ。一輪だけでも匂いのきつい花なのに、花瓶には二、三本は挿さっていた。一部屋にあんなにたくさん置くなんてどうかしてる。しかも病人のいる部屋に。いくら百合の香りが好きだと言っても、あれはちょっとやりすぎではないだろうか。
(そういえば、あの看護婦さん。どうしてるんだろう。)
食事の時も全然姿を見かけない。部屋が暗くて顔もよくわからなかった。ただ印象に残っているのは綺麗に揃えられた両脚と、腿の上で重ねられていた指の長い白い手だけ。まるでマネキンがそこに座っているように、生きてる気配を感じなかった。
憂未は頭を振った。変な夢を見たせいで、まだ頭がうまく働いていないのだ。とにかく、授業に使う本を出さなければ。段取りを考えながら、憂未は自室の手前にある予備室のドアを開けた。大きな上げ下げ窓の下が開いていて、透ける白いカーテンがさっと翻る。ドアを閉めると同時に背後で声がした。
「どうして帰らなかったの」
憂未は飛び上がった。蒼白になって振り向くと、部屋の隅に昨日見た少年が立っていた。昨日とまったく同じ、白い半袖シャツに蝶ネクタイ、サスペンダー付きの黒い半ズボン。ただ、昨日よりもずっと顔が青白く血の気が失せて見える。
「あ、あなたいったい……」
憂未は震える声で囁いた。本当に幽霊なのだろうか。確かめようにも、手を伸ばして触れるなどとんでもない。それどころか一歩も近寄りたくない。がくがく震えながら少年の背後を見て、憂未は限界まで眼を見開いた。
少年には影がなかった。窓から射し込む光で憂未の影は壁に映っているにも関わらず、少年の後ろには薄い濃淡すら見えないのだ。
「……誰なの、あなたは」
少年は答えず、悲しげな黒い瞳でじっと憂未を見つめている。
「昨日、あんなに言ったのに。聞かないからあんなことになるんだ」
はっと思い当たり、憂未は少年を睨んだ。
「あなたね! あなたがあんな酷い夢を見せたんでしょう」
少年の表情はますます悲しく絶望的になった。少年はゆるゆると首を振った。
「……今ならまだ間に合う。早く逃げて。逃げなきゃだめだよ、――――」
最後に呟いた言葉はよく聞こえなかった。憂未は勇気を奮い起こして尋ねた。
「どうして逃げなきゃいけないの」
「捕まってしまう」
「何ですって?」
「捕まってしまうよ。僕みたいに」
少年の瞳から、突然涙がこぼれた。それは血のように赤かった。憂未は短い悲鳴を上げ、口許を手で押さえた。少年の頬を赤い涙が伝ってゆく。
「捕まってしまったら、もう逃げられない……」
コンコン。
場違いなほど明るく、ノックの音が響く。無造作にドアを開き、沙羅が顔を覗かせた。そちらに一瞬気を取られ、視線を戻したその時にはもう少年の姿は消えていた。憂未は口許を押さえたまま無意識に首を振った。訝しげに沙羅が呼んだ。
「先生? どうしたの。何かあった?」
憂未は黙って首を振り、そそくさとカーテンを閉めた。沙羅は部屋の中をぐるりと見回した。嗚咽を堪えているような憂未を見上げ、沙羅は細い眉をひそめた。
「どうしちゃったの、先生。まるで幽霊でも見たような顔してる」
憂未はぎょっとして沙羅を見た。硬玉のような光沢を帯びた底光りのする瞳で、少女はじっと憂未を見上げている。まるで何もかも見通しているかのような透徹としたまなざしだ。憂未は声を震わせて呟いた。
「……見たの」
「見たって、……幽霊?」
憂未は頷いた。きっと笑われる。いい大人が何を言っているのかと。だが、沙羅は小さく溜め息をつくと、後ろ手を組んで居心地悪そうにもじもじと足を動かした。
「やっぱり」
「……やっぱり、って?」
「出るのよ、ここ」
沙羅は上目遣いで憂未を見た。
「幽霊、本当にいるの」
憂未は茫然と沙羅を見下ろした。沙羅は言い訳のように部屋の中を歩き始めた。
「先生を怖がらせちゃいけないと思って黙ってたんだけど、ここね、幽霊が出るの。本当に。私も時々見かけるわ」
沙羅は困ったような表情でゆっくりと歩き回っている。
(冗談のつもり?)
憂未をからかって愉しんでいるのだろうか。それにしては口調が普通すぎるような気がする。まるで虫が多くて困るわとでも言うように、少しうんざりした調子で、ごく普通の会話の延長のように沙羅は話を続けた。
「幽霊って、見える人には見えるけど、見えない人には全然、でしょ? 先生がどうなのかわからないし……。それに、幽霊って言っても別に悪さをするわけじゃないのよ。『カンタヴィルの幽霊』みたいに鎖をじゃらじゃら鳴らして歩き回ったり絨毯に血の染みを作ったり冷たい手で突然触ったりはしないわ。ただ、暗い隅にぽつんと立っていたりするだけなの。ほら、この家はもともとフランスにあった古い館を移築したものでしょ。きっと向こうから幽霊もくっついて来ちゃったのよ。別に家付き幽霊はイギリスの専売特許ってわけじゃないものね」
「……それは小さな男の子の幽霊なの?」
「いろいろだわね」
沙羅は立ち止まり、小首を傾げて考えた。
「男の子は、私はあまり見ないわ。大人の女の人や男の人が多いかしら。」
「そ、そんなにたくさん?」
憂未はびくびくして辺りを見回した。こんな素敵な館がまさか幽霊屋敷だったなんて、思いもしなかった。憂未の恐れ戦慄いた様を見て、沙羅は慌てて手を振った。
「そんな毎日出て来るわけじゃないわ。時々よ時々。それにね、本当に何にもしないの。ただの通りすがりみたいなものよ」
通りすがりの幽霊……。ちょい役でもいてほしくない。
「でも、私が見た男の子は変なこと言ったのよ」
憂未はとにかく怖くて、辺りを横目で窺いながら訴えた。
「早くここから出て行けって言うの。私、幽霊さんに気に入られてないみたい。何かされたらどうしよう」
それを聞くと、沙羅は憤激して眉を吊り上げた。
「まぁ、ひどい。先生にそんなこと言うなんて。絶対、許さないんだから!」
沙羅は机の抽斗を開けて何か探し始めた。
「……沙羅ちゃん?」
「確かここに……、あった!」
取り出したのは赤いチョークだった。呆気にとられる憂未を尻目に、沙羅は部屋の隅に屈み込んで何やらごそごそと書き始めた。
「何してるの?」
「おまじない」
真剣な声が返って来る。見ると、沙羅は壁と床が接する辺りに小さな星型を描いているのだった。そこが終わると、別の隅に飛んで行って、同じものを描き始めた。
「それを描くと幽霊が出ないの?」
「そうよ」
自信満々に沙羅は答えた。あっというまに部屋の四隅に星型を描き終え、沙羅は予備室を飛び出した。
「先生のお部屋にも描いてあげる」
「だめよ、入っちゃ」
慌てて憂未は沙羅を引き止めた。
「カーテンが開いてるの。日光に当たっちゃいけないんでしょ?」
「そうね」
しぶしぶ沙羅は頷いた。
「でも、心配だわ」
「大丈夫、後で自分で描くから。チョークを貸して」
赤いチョークを受け取り、憂未は予備室へ戻った。
「四隅に星型を描けばいいのね?」
確認すると沙羅は頷いた。憂未はチョークを机の上に置き、積んであった本を手当たり次第に抱えた。
「遅くなっちゃったわ。さ、始めましょう」
「先生」
「なぁに」
「帰ったりしないわよね?」
憂未は思わず沙羅の顔をまじまじと見た。まるで泣き出しそうに悄気た表情をしている。憂未は両手で本を抱えながら大きく頷いた。
「もちろん、帰ったりしないわ。言ったでしょ、まだ来たばかりなのよ。そんなに早く追い出されたら困っちゃう」
「よかった」
「沙羅ちゃんがおまじないをしてくれたから、もう幽霊さんも出ないでしょう」
「そうね。でも、先生の部屋にも忘れずに描いておいてね」
「はいはい」
(おまじない、か。)
自分が中学生くらいの年頃には、やはりおまじないとか占いとか、そういうものにすごく興味があり、それなりに信じてもいたものだ。そういうものは時代が移っても変わらないらしい。
弾むような足取りで先を行く沙羅を眺め、憂未はほのぼのした気分で微笑んだ。
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