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甘い香りと苦い毒

作者:卯堂 成隆
 あぁ、また今年も冬が終わる。

 冬が終わると春が来る。
 春が近づくと蝋梅が咲く。

 桜は好きだが、蝋梅は嫌いだ。
 なぜなら蝋梅には苦い苦い毒があるから。

 たとえ御仏の甘露を授けられようとも、この身を犯す蝋梅の毒が消えることはないだろう。
 いや、消えることすら望むまい。
 なぜなら……この毒の苦しみこそが、今となっては私に許された唯一の誠意であるのだから。

挿絵(By みてみん)

 今は昔、まだ平清盛が北面に詰める武士であった頃のこと。
 その北面の武士の中に一人の男がいた。
 歌を詠ませれば都でも指折りの文人であり、弓を引かせれば当代一の流鏑馬の名手。
 北面に務めるだけあって見目麗しく、所作の振る舞いの美しさは公達の手本。
 まさに出世を約束された、実に煌びやかな身分であった。

 だが、故あって彼は二十歳を少し過ぎた若さにも関わらず仏門に下ることを決めたのである。
 その理由は、己の弱さを感じたからとも、友の死に無常を感じたからとも、許されぬ恋を断ち切るためとも言われているが、千年を過ぎた今もその心のうちは定かでは無い。

 なお、出家した今の彼の名を円維(えんい)と言う。
 国家の許可を受けぬ、私度僧であった。

 そんなある日のことである。
 円維は思うところありて北の国へと旅をすることにした。

 だが、なにぶん旅についてあれこれと教わる先達がいなかったことが災いしたのだろう。
 とある山の中の小さな村に差し掛かった頃、彼はついに大雪にあって身動きが取れなくなってしまったのである。

 しかも、悪い事はかさなるもので、その年は特に雪がひどい年であった。
 屋根から落ちて積もった雪が、もはやその屋根にまで届こうかというその有様を見て、円維はその逞しい肩をすくめてため息をつく。

 ――これも何かの縁であろう。 雪が溶けるまで、この村に留まるしかあるまい。
 円維は素直にそう諦めると、春までその村に逗留することを決めた。

 ……とは言っても、そう決めたからといって、気軽にこの村に滞在することが出来るわけでは無い。
 山間の村にとって、冬の間に余分な食い扶持が増える事は死活問題である。
 それゆえ、どうやって村の者と交渉しようかと思った円維ではあったが、なぜか意外にあっさりと村はずれの小さな空き家に逗留することを許された。

 都人であり、見目の良いという点が功を奏したのであろうか?
 それとも単に食料に余裕があったのか?
 真実は定かでは無いが、おそらく何らかの下心はあったに違いない。

 そして長い冬も終わりに近づき、春を告げる蝋梅の花が雪景色の中で鮮やかに咲き誇る頃。
 ……この村で一つの騒ぎが起きたのである。

******

 それは突然のことであった。

「円維さん、いらっしゃいますでしょうか?」
 円維の寝泊りしている庵の扉が、ドンドンと乱暴に叩かれる。
 いったい、何事であろうかと戸を開くと、そこには村の男たちが心配そうな顔で立ちすくんでいた。

「どうされました、そんなに慌てて……」
 たしか、今日は村長(むらおさ)の家で婚礼があるといっていたはずである。
 勘違いでなければ、今頃は宴の真っ最中のはずだ。
 めでたい席にいるはずの彼らが、なぜ血相を変えて余所者である自分を尋ねてきたのか、その理由がわからない。

 困惑した顔のまま首をかしげる円維だが、村人たちはさらに予想外の言葉を吐き出した。
「いや、どうしたもこうしたもありませんよ! キツネ憑きです! 花嫁がやられました!」
「ワシらの手にも、隣村の神主の手にも負えません! どうか何とかしてやってください!!」

 キツネ憑き!?
 物の怪の類が出たとなれば、たしかに自分を訪ねてくるのもおかしくは無い。
 だが……

「何とかといわれてもな……」
 縋るような村人の言葉に、円維は言葉を濁すしかなかった。

 そもそも、円維にそんな力は無い。
 彼は自らの心の弱さを克服するために出家した私度僧であって、法力を頼みとする密教僧どころか、国家から認められた僧ですらないのだ。

 出家して数年が経ってはいるが、おそらくは経を読むよりは蹴鞠や弓で矢を射るほうが未だに得意であろう。
 すなわち、キツネ憑きの相手などしたことも無ければ、対処の仕方も話しに聞いた程度でしかないのである。

 ――はて、どうしたものか。
 しばし目を閉じて考える。
 法力こそないものの、円維には文人として有り余るほどの教養があった。
 その聞き覚えた知識の中に、何かキツネを祓うものが無かっただろうか?

 聞くところによれば、蕃木鼈(まちん)と鉄粉と黒大豆を処方した物を飲ませれば憑き物落としに効能ありという。
 だが、こんな雪に閉ざされた場所でそんなものが手に入るはずも無い。

 ならば、キツネに関わる神仏の真言でも唱えてみようか?
 キツネといえば荼枳尼(だきに)天ではあるが、あれは男女の交わりを伴う邪法という話もある。

 それに、そのような外法の経典には目を通したことも無いし、むしろあれはキツネを取り憑かせる側の術では無いか。
 あぁ、いかんいかん。
 こう気持ちが急いては、ロクな事を思い出さない。
 だいたい、キツネ憑きの相手はそもそも陰陽師あたりの仕事であろうに……。

 そんな愚痴言ったところで、いないものは仕方がないのだ。
 いずれにせよ、村人を安心させるために自分が現場に行かなくてはならないだろう。

 そこまで考えて、円維はようやく重い腰を持ち上げた。

「まずは状況を確認しよう。 案内してくれるか?」
「は、はい、ただいま!」
 すると、村人は円維が外出の身支度を整えるのを待つことなく、円維をおいて駆け出していってしまった。

 やれやれ、よほど切羽詰っていたのだろうな。
 円維はその後ろ姿を見送りながら溜息をつく。

 この大雪の中を、部屋着のまま飛び出すことなど出来るはずも無いだろうに。
 おそらく、円維がついてきていないことにも気づいてはおるまい。

「やれやれ、この雪の中を外に出るというのは厄介なことだな」
 膝まである藁沓を足にはめながら、円維はうんざりとしたように呟いた。
 外を見れば、今日も掌ほどもある雪がヒラヒラと布のように舞い散っている。

 半ば本能的に白妙の……と雪の白さにかかる枕詞を脳裏に浮かべ、円維は小さくかぶりを振った。
 美しい風景だが、こんなことをしている場合ではない。
 今はキツネを追い祓うのが先決だ。
 自分自身にそう言い聞かせると、円維は気合をいれてから外に出た。

 幸い、村長の家までの道のりは知っているし、男たちの残していった足跡もある。
 その足跡をなぞるように雪の中を進むと、やがて雪交じりの風の中に甘い香りが漂ってきた。

 あぁ、これは蝋梅の香りだ。
 目をやれば、一際大きな屋敷の庭に黄色い花が咲き乱れている。
 まだ寒い時期に咲いて人の目を喜ばせるため、黄梅、水仙、山茶花と並んで雪中四友と呼ばれる春告げの花だ。

 ――そしてあれが村長の家だな。
 その鮮やかな色を目印にたどりつけば、円維を呼びにきた男たちが村長らしき男に叱られていた。
「この馬鹿共が! お前らは使い一つ満足にこなせんのか!!」

 村長は髪のほとんどが白くなった初老の男で、いかにもアクが強そうな……どうにも好きになれない感じの男である。
 ただでさえ感じの悪い奴ではあるのだが、今日はさらに輪をかけて醜悪であった。
 なぜなら、彼が花婿の衣装を身に着けているからである。

 おまえ、その年で若い女房を迎えるというのか。
 老いてなお盛んとはいうが、呆れたことだな。

 円維が思わず心の中でそう呟いたとしても、仕方の無いことであろう。

「そこまでだ、村長。 キツネ憑きが出たと言われてきたのだが?」
「おお、お待ちしておりましたぞお坊様! アレは奥の部屋に閉じ込めてあります」
 いつまでたっても終わりそうに無い村長の小言を見かねて円維が声をかけると、村長は媚びへつらうような笑みを浮かべて頭を下げた。
 だが、その目は品定めをするかのように、じっとりと蛇のような光を湛えている。

 ――あぁ、これだから田舎の権力者は嫌いなのだ。
 円維は心の中でそっと眉を顰める。
 都の人間が清廉潔白と言うわけではないが、このように鄙びた場所を治める者には、なぜか独特の暗くていやらしい性格をした者が多いのだ。

「では、こちらへ」
 嫌悪感を隠したまま、村長の案内で円維は屋敷の奥にある部屋へと通された。
 そこかしこに婚礼の準備の痕跡があるのが、なんとも痛ましい。
 本来ならば、めでたい日となるはずだったのだろうに……
 まぁ、花婿がコレでは、いずれにせよめでたいとは限らないか。

「では、拝見する」
 襖を開けると、そこは庭に面した広い部屋だった。
 おそらくここで婚礼を揚げる予定だったのだろう。
 部屋の中は障子を通した冬の日差しが柔らかな光となって全てを包み、その向こうからは蝋梅の甘い香りがとりわけ強く漂っていた。

 だが、まるでその穏やかな景色を憎むように異質な空気を放つ存在が一つ。
 ――花嫁である。
 彼女は白い花嫁衣裳に身を包み、乱れてほどけた鬼隠しから、長く癖の無い黒髪が蛇のようにのたうっていた。
 その姿、まさに魑魅魍魎。

 だが、そのおぞましさを補って余りあるほど美しい娘であった。
 歳はおよそ十五歳ほどであろうか?
 雪のように白い肌と、強く抱き冷めれば折れてしまいそうな細い手足。
 切れ長の目は長い睫に彩られ、ほっそりとした瓜実顔はまるで夕顔の花を思わせる。

 だが、そんな彼女は床の上で弓反りとなってヒクヒクと痙攣し、ギッ、ガッと獣のようにうめき声を上げていた。
 しかも、その苦しげな奇態にも関わらずなぜか彼女は満面の笑みを浮かべている。

 ――なんだこれは!?
 その姿を見るなり、円維の背筋に真冬の風とは違う寒さが走り抜けた。

 面妖……そうとしか言いようの無い光景である。
 これがキツネ憑きというものか!?
 なまじ少女の姿が美しいだけに、鬼気迫るなにかが感じられた。

 だが、その時である。
 円維は床に転がる小さなものに気がついた。
 よく見れば、花嫁の手の中にも同じ物が握られている。

 はて、これは何かの種のようであるが?
 妙に気になって拾い上げる時である。
 外から忍び込む蝋梅の香りが一際強く鼻を掠めた。

 その香りに誘われるかのようにして、円維の頭の中で一つの記憶が蘇る。
 ――あぁ、これは……蝋梅の種だ。

「村長よ、水だ! 水を大量に用意せよ! 事は一刻を争うぞ!!」
「なんですと!?」
 突然の言葉に、村長は目を見開いて言葉を聞き返す。

「えぇ、何を突っ立っておる、使えぬ奴め!!」
 驚き戸惑うばかりである村長を突き飛ばし、円維は土間にあった汲み置きの水の瓶と柄杓を持ち出した。

 先輩である僧から聞いた話ではあるが……蝋梅の花と(つぼみ)は風邪の薬になるが、その種には毒があるという。
 その毒を飲んだ者は全身が痙攣し、体は弓反りとなって悶えるのだが、奇妙なことにその顔は笑っているかのように歪むのだ。
 まさにこの状況と一致する。

 だとしたら……祈りなど無用。
 まずは毒を吐き出させるしかない。

「さぁ、飲め!! えぇい、飲まぬか!!」
 そして暴れる花嫁を仰向けにすると、無理やり口を開かせ、さらには柄杓ですくって喉の奥まで水を流し込む。
 息を詰まらせてしまう恐れもあったが、早く飲み込んだものを吐き出させなければならない。

 そして水がもう入らないと見るや、今度は花嫁の喉に指を突っ込んで胃の中のものを全て吐き出させる。

「……え、円維様! なにとぞ! なにとぞおやめください!
 それ以上やれば死んでしまいます!!」
 まるで悪鬼のような形相で花嫁に責め苦を続ける円維の姿に、見るに見かねた村長が、おもわず取りすがる。
 だが、円維は言葉をかけるよりも先に村長を乱暴に蹴り飛ばした。

「えぇい、下がれ! このキツネを落とすにはこれしかないのだ!!
 いずれにせよ、このままではキツネに取り殺されてしまうぞ!!」
 円維の必死の形相に、村長たちはただ言葉も無くただ呆然と打ちひしがれる。
 そして円維はというと、村長に声をかけるのも惜しいといわんばかりの様子で、再び花嫁の口の中に水を注ぎ込んだ。

「あぁぁ、サキ! サキ!! おのれキツネめ、なぜに私の妻にこのようなことをするのだ!!」
 お前の嫁になるのが嫌だったからじゃないのか?
 喉元まででかかった言葉を、円維はなんとか飲み込む。

「えぇい、うるさい! することが無いなら、部屋の隅で神仏にでも祈っているがいい!!」
 すると、村長たちはうろ覚えな経文をそらんじて、ちぐはぐな言葉で祈り始める。
 皮肉にも、祈るのが本業である円維が医者の真似事をし、祈ることが本業でない村人たちがただ必死に祈りを捧げて見守っているという状況が出来上がっていた。

 こんな時に真言の一つも口にしながらであれば、いっぱしの僧侶らしくみえるかもしれんな……と、円維は花嫁の胃の洗浄をしながら心の中で呟く。
 ――あいにくと、そもそもこれがキツネ憑きではない以上、坊主の出番は無いがな!

 だが、勘違いはそのままにしておこう。
 花嫁がなぜ毒を飲んだのかはわからないが、それなりの理由があるからに違いない。
 ならば、その真意を聞いたうえで村長に真実を話すか決めたほうが良いだろう。
 だが、そんな話はすべてこの娘の命が助かってからだ。

 そのまま円維は暴れる娘を力づくで押さえつけながら、もはや治療と言うのも憚られる行為を繰り返す。
 それはまるで、地獄の責め苦を行う獄卒のようであった。
 村人たちは鬼気迫るその有様を恐れ、ただ震え上がるばかり。

 やがて夕暮れも近づく頃。
 サキと呼ばれた花嫁はようやく症状が落ち着いたらしく、その息が穏やかになりはじめた。
 どうやら一命は取り留めたようではあるが、まだ安心は出来ない。
 円維は彼女の胃を洗って毒物を吐き出しただけであり、その体には未だに毒が残っているはずなのだから。

「円維様。 キツネは落ちましたでしょうか?」
 ようやく一息ついた円維に、青褪めた顔の村長がそっと尋ねる。
 だが、円維は力なく首を横に振った。

「いや、これからが本番だ。
 ……申し訳ないが、全員この家から出てもらってもよいだろうか。
 今から最後の仕上げにかかるつもりだが、近くに誰かがいると、抜け出たキツネが近くにいた者に取り憑くやもしれん。
 私が良いと言うまで、村長も別の家に泊まってこの屋敷には近づかないほうがいい」
「……ひっ!?」
 すると、村長は座布団の下からムカデでも出てきたかのように飛び上がり、急いで家人たちに指示を出した。

「た、ただちに! お、お前ら! 全員外に出よ!! キツネに取り憑かれるぞ!!」
 村長の声にバタバタと慌しい音が屋敷を駆け巡る。
 そしてしばらくすると、こんどは重苦しいほどの静寂が訪れた。

 どうやら誰もしなくなったらしい。
 はさり、はさりと雪の降る音が、やけに大きく耳に響いた。

「さて。 せっかくここまでがんばったんだ。
 どんな理由があったかは知らないが、その話ぐらいは聞かせてくれよ」
 まるで人形のように白い少女の顔を見下ろし、円維はただ少女の回復を待つ。

 娘が意識を取り戻したのは、次の日の朝のことだった。
 障子を通して小春日和の真っ白な光が降り注ぐなか、一睡もせずに見守っていた円維の目の前で、娘はそっと目を開く。
 そして目を開くなり、隣にいた円維を見つめ、少女は掠れた声でこう呟いた。

「そのような姿で出迎えてくれるとは……地獄の鬼と言うのは話と違ってずいぶんと気が利いてらっしゃるのね」
「残念だが、私は鬼ではない。 君はまだ生きている」
 そう答えると、少女の顔に深い悲しみがよぎった。

 命が助かったというのに、なぜそんな顔をする?
 生きる事がそんなに苦しいとでもいうのか。

 あぁ、苦しいのだろうな。
 私も、その苦しみは知っている。
 実に……この世を生きるという事は、実に辛いばかりだ。

「もうキツネ憑きの振りはしなくてもよいぞ」
「……キツネ憑き……ですか?」
 円維がそう告げると、少女は不思議そうに首をかしげた。
 どうやら、あの狂態は意図した物ではなかったらしい。

「お前、毒であることを知りながら蝋梅の種を煎じて飲んだな?」
「……はい」
 毒を飲んだことをたずねると、少女は素直に頷いた。
 もっとも、隠したところであまり意味も無いのだろうが。

「その有様があまりにも異様でな。
 皆がキツネ憑きだと思って私を呼んだのだ。
 なぜこんなことをした?」
 口にしてから後悔しても、もう遅い。
 辛いことを思い出してしまったのであろう。 少女の目からは光が失われ、ぼそりと暗い言葉が呟かれる。

「……そのまま死なせて下さればよかったのに」
「そ、それは出来ぬ。 御仏に仕える私が、黙ってお前が地獄に落ちるのを見過ごせる訳も無かろう」
 必死に自分の言葉を取り繕おうとする円維に、少女は老婆のように掠れた声で寒々とした無情を歌った。

「死ぬも地獄、生きるも地獄であるならば、好きなほうを選ばせて下さってもよろしいでしょうに。 なんとも冷たいお坊様です」
「娘よ……」
 自らも同じことを思ったことがあるだけに、娘の言葉を頭ごなしには否定できない。
 だが、何か言わなければ。
 円維が何か声をかけようとして言葉に詰まっていると、彼女は力なく微笑んだ。

「えぇ、わかっております。 死ぬなと言うのでございましょう?
 なんとまぁ、ひどい方だこと」
 ぎこちなく苦笑いをする娘に、円維はかける言葉も無い。
 思いついた言葉の、なんと陳腐なことか。
 そもそも、苦しみから逃れるために自ら死を選んだものに、苦しみから逃れるために仏に頼ることしか出来なかった自分が、いったい何を言えばよいというのだ?

「ねぇ、お坊様。 私に生きよというのならば、私のくだらない身の上話を聞いてくださいますか?」
「この世にくだらない身の上など無い。 胸に秘めておくのが苦しいものがあるならば、私がお前のはけ口になろう」
 説得の言葉も思いつかず、真面目腐った顔でそう告げる円維に、少女は思わず笑いながら咳き込んだ。
 むっ、これはお前などが格好つけるなといわれたのだろうか?
 そんな悪い想像をして、思い円維は少し慌てる。
 だが、そんな様子がおかしくて、少女はまた笑った。

「申し遅れましたが、わたくしはサキ。 母を一つ前の冬の間に亡くした、ただの身寄りがない娘でございます」
「身寄りがない? 父はどうしたのだ」
 思わず尋ねた円維であったか、すぐにそれが失言であったことに気づく。
 そんな存在がいれば、自分のことを身寄りのないとは言わないからだ。

「私の父は、最初から誰とも知れぬのでございます」
「……すまぬ。 辛いことを聞いてしまった」
 だが、少女は力なく首を横に振る。

「都ではどうか存じませんが、このような山奥の村では珍しくも無い事です。
 そして、厳しい山の中の生活の中で、女が一人で生きて行けずに誰かの後添えとなることも」
「それで村長と祝言を?」
「はい。 私の身請け先として村長が名乗りを上げ、私は村長の家の後家として嫁ぐことになったのでございます」
 だが、それだけなら別によくある話である。
 この娘と村長の年の差を考えなければと付け加わるが。

 だが、まだ解せぬ。
 たしかにあの村長はあまり人として好ましい人物ではないが、だからといって祝言を挙げるのが嫌だから毒を飲んで死のうとまで思うか?
 思わず首をかしげる円維だが、そんな彼にサキは嘲るような声で告げた。

「その程度で……とお思いでしょう? 顔に出ておりますよ」
 その言葉に、円維は思わず自分の顔を指でなぞる。
 そんな事をしても意味は無いと知っていても、人に心を読まれるというのは実に気持ちの悪いものだ。

 そんな円維の様子を見て、彼女は花がほころぶように笑う。
 なんと愛らしい笑みだろうか。 だが、そこについているのは成熟した女の体である。
 柔らかくて、滑らかで、白く匂い立つようなその色香に、円維の雄の部分がいやおうもなく刺激された。
 ……あの年老いた村長が血迷うのも無理は無い。
 円維は心の中でそう呟く。

「ええ、当然それだけではありませんとも。
 あの男は知っていたのでございます」
 怒り、嫌悪、絶望、様々な暗いものを混ぜた声で、彼女は恐ろしい言葉を口ずさんだ。

「誰も知らないわたくしめの父親こそ……自分自身であることを。
 ねぇ、お坊様。 実の父に花嫁として求められた私の心を、お分かりになりますでしょうか?」
 その告白に、円維はおもわず吐き気を覚えた。
 あの老人と言っても良い村長がこの若い娘を妻として迎えるだけでも気持ちが悪いというのに、実の親子とは……あまりにもおぞましい。
 それが本当ならば、畜生にも劣る行いである。

「かつて……入り婿であった村長は、村一番の美人だった私の母親に懸想しておりながらも、村長の地位を得るために別の女と結婚しました。
 しかし、その時すでに母のお腹には私がいたのです」
「つまり、婿入りの先から追い出されぬよう、お前の父親が誰かを秘密にしたという事か?」
 すると、サキは貼り付けたような笑顔を浮かべたまま小さく頷いた。

「そして父親が誰かもわからぬ私を産んだ母は、その後も誰とも夫婦の関係にはなろうとしませんでした。
 理由は知りたくもございませんが。
 そして私の父親についても、一度も口にした事はありませんでした……母が死ぬ直前までは」
「……だが、それならば養女にでもすればよかっただろうに。
 なぜ妻として娶ろうなど、口にするも憚られるようなことを考えたのだ」
 話からすると、すでに村長の妻は亡くなっているはずである。
 ならば、改めて娘として引き取るのが筋と言うものだ。

 その疑問に、サキは意味ありげな、そして黒く煙るような悪意を滲ませて笑う。
「それは当人に聞いてください。
 でも、たぶん娘にするだけじゃ物足りなかったのでしょうね」

 サキは言葉を区切ると、笑みすらもなくし、まるで底なしの闇のような気配を漂わせて告げた。
「なにせ、今の私は亡き母の若い頃に瓜二つだそうですから」

 その言葉に、再び円維の背中を悪寒が走る。
 自分の保身のために女と子供を見捨てながら、なおも許されぬ罪を犯してまで好いた女の面影をむさぼるつもりか。

「おぞましい」
 口をついて出た言葉はそれだけだった。
 まさにその言葉は、そのような所業のためにあるのだろう。
 人の身でありながらこうも深い畜生道に落ちる者がいるとは、信じがたい話である。

「えぇ、ですので私は、秋に集めておいた蝋梅の実を煎じて飲んだのです。
 蝋梅の実には毒があると、生前に母から聞いておりましたから」
「だが、どうせ死ぬにしても蝋梅はやめておけ。
 あれは、あらゆる毒の中でももっとも激しい痛みと苦しみを伴うと聞く。
 自害するにも、もう少しマシなものがあろうに」
 円維が溜息混じりにそう告げると、サキは苦い笑みを浮かべて反省をした。

「えぇ、二度と口にしません。 あんなに苦しい思いは二度とごめんです」
 その瞬間、サキは激しく咳き込んで体を丸める。
 彼女の背中を、円維は優しく撫でた。

「しばらくは動かないほうがいいだろう。
 だが、私一人ではお前の面倒を見る事はできない。
 誰か信用できる女の者はいないか?」
 女の世話は、女に任せるに限る。
 男であり、僧である円維が世話をしようにも、下の世話を含めて女というものにはいろいろと問題があるのだ。

「では、松の(おうな)と呼ばれる方を。
 村長の家の使用人ですが、信用できます」
「わかった。 では、しばらく安静にしているがいい。
 無理をするでないぞ」
 そう告げて、円維が席を立とうとしたその時であった。
 彼女の手が、縋りつくようにして円維の手を掴む。

「どうした、まだ何かあるのか?」
「私を……北の国まで連れて行ってくださいませぬか?」
 ここにいれば、彼女は実の父によって陵辱されるのだ。
 もしも救いがあるとすればこの村から逃げるしかないのだが、彼女一人でそんな事が出来るはずも無い。
 そうでなくとも毒を飲んだ後である。
 後遺症もあり、この先も一人でまともに歩けるようになるまで回復するとも限らないのだ。
 彼女にとって、円維の存在は仏の手から垂れた蜘蛛の糸のように見えたことだろう。

「それはできない」
 だが、円維は首を横に振った。

「かつて私は……申すも恐れある、さる高貴な女性に恋をした。
 妻と子がある身にも関わらずだ」
 あえて恥を語るのは、冷たくあしらったことに対する言い訳のようなものだろう。
 その証拠に、過去を語るその顔は附子(ぶす)の根でも齧ったかのように苦い。

「でも、その方とは結ばれなかったのですね?」
 結ばれたからこそ都を出なければならなかったのかもしれないが、サキはそうではないと確信していた。
 いや、もしかしたら彼女の願望がそう思わせたかっただけかもしれない。

 そんなサキに、円維は遠くを見るような目をしたまま、独り言のように過去を呟く。
「一夜だけ情けを頂いた。 だが、それっきりだ」

 そう語る円維の目には、まるで燠火のように強い熱が揺らめいていた。
 『それっきり』で納得しているような状態では無い事は、誰の目にも明らかであろう。

「あぁ、そうだ。 それでも私は諦め切れなかった。
 しかし、諦めねばならなかった。
 そして、私が諦めるよりも先に彼女が私を拒絶した。
 これは人に知られてはいけない恋であるし、逢い続ければ人の噂になる……そう言われては文を出すのもままならず、ただ思いは募るばかり。
 これ以上彼女のいる御所に身を置けば、私はいつか想いを抑えきれなくなる」
 もしもそうなったならば、自分のみならず周囲人間をも災いに巻き込むこととなるだろう。

「……だから大切な人たちの災いとならぬよう、その思いを断ち切るために妻も子も捨てて出家したのだ。
 だからわかってくれ。
 私の傍に君を置くわけには行かないのだ。
 私も男だ。 美しい君を傍に置けば、いつ情に流されないとも限らない。
 そして君におぼれてしまえば、捨てた妻と子に申し開きが出来ないのだ」
 だが、サキはその言葉に納得しなかった。

「私を……見捨てて行かれるのですか?」
 彼女からすればまさにその通りだろう。
 だが、同時にそれはひどく利己的なものの言い方であった。

「逆に問うが、私に何を求めているのだ?
 ただの行きずりの人間に過ぎない、この私にだ。
 私は君のことをよく知らないし、君も私のことをよく知らない。
 君が私に抱いているのは、ここから逃れたい一心から生まれた、ただの都合のいい幻想じゃないのか?」
 その突き放すような言葉に、サキは目を伏せる。
 そして、重い沈黙の後で彼女は告げた。

「では……一夜だけお情けをください」
 その言葉は、まるで蜘蛛の糸のように円維の心を絡めとった。

「この想いが幻想であるなら、それでも構わないのです。
 誰も愛せない未来がこの先にあるのなら、たとえ幻であったとしても誰かを愛した記憶がほしいのです」
 もしも嫌だというのなら、かつて円維が思いを寄せた人の情けを否定しなければならなくなる。

「貴方に情けを与えたやんごとなき人と同じように、私にも情けをください」
「君は……ずるい」
「はい。 私はずるい女です。
 そして弱い女です。
 もし……貴方がこの村に来て人目見たときから、私がお慕い申し上げていたと言ったら?
 貴方をこの村にとどめたい一心で、私が村長のところに嫁ぐことを条件に村に滞在する許しを得たからだとしたら?」
 それが嘘かどうかなど、円維に確かめる術は無い。
 だが、それが嘘だとも限らない。

「本当に、ずるい女だ」
「でも、後悔はしませんよ? たとえ地獄に落ちようとも」
 サキの細い腕が女郎蜘蛛ように円維の逞しい首を捕らえ、褥という名の地獄に引きずり込んだ。
 一夜限りという約束の下に。

 数日後、少女は実の父親と祝言をあげ、円維はその席に参加することなく村を立ち去った。
 この話はこれで終わり。
 そう、終わったはずだったのである。

******

 あれから数年の月日が流れた。
 北の国で修行を続ける円維の元に知り合いの僧侶がやってきたのは、そろそろ肌寒い秋の訪れを感じ始めた頃のことである。

「最近評判の旅芸人があるらしい。 たまには息抜きで見に行かないか?」
 正直に言えばあまり興味はなかったが、あまりにも熱心に誘われるので断ることも出来ず、円維はしぶしぶ芝居見物に付き合うこととなった。
 演目の名は、蝋梅の宿。
 ――嫌な名前だ。

 市の外れに行くと、目にも鮮やかな黄色い傍がいくつもひらめいている。
 おそらくは蝋梅の花を意識してのとだろうか。

 友人にすすめられるままに、円維はかなり前の席に座ることとなった。
 やがて舞台の上で楽師が琵琶をかき鳴らし、その物語の前置きを歌い始める。

 ――これは、今は無きとある山深い村の中でまことにあった恋物語。
 その村の最後の生き残りである、松の(おうな)より語られしところによると、その村に一人の娘がいた。
 娘の名はセン。
 父はおらず、どこの誰の子ともしれぬ娘であったが、雛にも稀なる美しい娘であったという。
 そんなある日、その村にエンケイと言う名の一人の目麗しい旅の僧侶が訪れたのであった……。

 舞台が始まり、円維はすぐにそれが自分とサキの物語であることに気がついた。
 主人公のセンとエンケイは、自分とサキのことで間違いない。

 物語はセンがエンケイを見初める場面から始まり、やがてセンが蝋梅の実を齧り、祝言の途中で狂ったように悶える様へとかわる。
 まるで覗き見でもされたかのように忠実な場面の再現は、いったい誰の手による脚本だろうか。

「どうした、顔色が悪いぞ」
「いや、なんでもない」
 なんでもないはずがなかった。
 ――なんと、恐ろしい。
 自分の犯した罪を、このような大勢の前でさらけだされるとは、なんという苦痛だろうか。
 円維は今にも卒倒しそうなほど青褪めていた。

 だが、ここで逃げるわけには行かない。
 知らなければ。
 自分が村を去った後、サキに何があったのかを。
 これは、間違いなく自分の罪であるのだから、自分には知る義務がある。

 円維が舞台の上の役者たちに自分とサキの姿を重ねる中、やがて物語は円維が知らない話へと変わる。
 一晩の契りを交わし、円維が村を去った後。
 物語の中のサキは少しずつ狂っていった。
 老いた父に妻として扱われ、夫として愛することも出来ぬまま、父の妄執のはけ口としてその褥へ組み伏せられる。
 すると、彼女はまるで救いを求めるかのように小さく円維の名を呼んだ。

 ――やめてくれ。

 そして、父の妄執を一身に浴びたサキは生ける屍となった。
 怒ることも、泣く事も無く、ただ誰もいない時に円維の名前を呼んでそっと微笑む。
 彼と交わした一夜だけが救いであった。
 二度と会えぬと知っていても、そのかすかなぬくもりの記憶に縋らざるをえなかった。
 なんという寂しい女。
 やがて狂ったサキは、もう一度蝋梅の実を口にすれば、再び円維が助けに来てくれるという妄執に取り付かれはじめる。

 ――やめてくれ。

 舞台の上のサキが、秋の落ち葉の舞い散る中、たわわに実った蝋梅の果実を手にとる。

 あぁ、苦しい。 苦しい。
 円維様、苦しゅうございます。
 身も心も苦しゅうございます。
 早ぅ助けに来てくださいませ。

 おのれ、この端女め。
 儂という夫がおりながら、他の男の名を呼ぶか!
 怒り狂った村長が現れ、嫉妬に狂いつつサキの体を殴りつける。

 父に殴られ、蝋梅の毒に全身を犯され、打ち上げられた海老のように仰け反りながら、不気味なまでに笑顔を浮かべ、ひたすら円維の名を呼び続けた。
 なんと、惨い。

 その凄まじい光景に、周りの観客からいくつも軋むような悲鳴が上がった。

 あぁ、あの日と同じだ。
 蝋梅の毒を口にした、あの日のサキがそこにいる。

 なぜ、あの日サキを救わなかった?
 どうして一緒に逃げてやれなかった?
 妻と子に合わせる顔が無いから?
 ちがう。
 ……お前はただ逃げただけだろう。
 彼女の誘惑に逆らえないお前の弱さから。

 ――やめてくれ! これ以上聞きたくない!!
「おい、円維殿! どこへ!?」

 呼び止める声にも、足を止める事はできなかった。
 舞台に釘付けとなった群集をかき分け、自らの庵へと逃げ帰る。

 あぁ、嫌だ、嫌だ!
 どうしてこんな悲しい結末を私に聞かせるのだ!
 舞台が始まって、あれが自分とサキの事だと気づいたときに逃げてしまえばよかった。
 せめて知らなければ、永遠に痛みを忘れていられたものを!!

「何が二度とはごめんだ!
 何が地獄へ落ちようとも後悔しないだ!
 そんな事など出来ないほど弱いくせに、よくもあんな嘘を!
 嘘つきめ! 嘘つきめ! 嘘つきめ!
 あの日、あの場所から連れ出してやれなかった私のことがそんなに憎らしかったのか!?」
 狂ったように叫びながら、円維は庵の中に追いあった観世音菩薩像に取りすがる。

「あぁぁ、御仏よ、お救いください。
 この思いを、この感情を私はどうすればいいのですか!?」
 だが、仏像の顔はただひたすら世の無常を憂えるばかりである。
 まるで悩める円維の心など瑣末なことだといわんばかりに。

 そして円維は、何もかもを忘れてただひたすら観音経を読み続けた。
 全ては、この苦痛から逃れたい一心で。

「世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音……」
 あぁ、嫌だ。 嫌だ。 自らの罪を認めるのが嫌だ。
 どうしてあの日、全て終わってくれなかったのか!?

「具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所……」
 どうしていまさら私に罪を突きつけるのか!?
 そもそもサキの望むままに死なせてやればよかったのか!?

「弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願……」
 飲むことも食べることも、体の中に穢れを持ち込むようで気持ちが悪い。
 眠って楽になることも許されない気がして、円維はただひたすらに読経を続けた。

 そして……体力の限界が訪れた円維は、やがて崩れるようにして意識を失ったのである。

 そして気がつくと夢を見ていた。
 死んだはずの少女の夢だ。

「すまない。 私は……」
 心の中であれほど恨み言を口にしながらも、出てきたのはそんな情け無い謝罪の言葉だった。
 だが、少女は柔らかく微笑んでから首を横に振る。

「円維様がお謝りになる必要はありませんわ。
 だって、私……幸せだったもの」

 だが、少女の言葉をそのまま信じる事はできなかった。
 ひどいことをした自覚はある。
 恨み言ならまだしも、幸せだったとは遠まわしな皮肉だろうか?

「本当でございますよ?
 たった一日だけしか愛されなかったとしても、私が誰かを好きで、その相手から愛されたことがどれだけ幸せなことか。
 貴方ならばわかるでしょう?」
 あぁ、わかる。
 その後の日々がどれほど辛いかということも。

「こうは考えられませんか?
 誰かを好きになることを知らないままあの地獄の日々を過ごすよりも、誰かを愛する記憶を持ったずっと私は幸せだったのです。
 灰のような昼も、屈辱的な夜も、貴方の腕の中を思い出せば耐えることが出来きた。
 ……つもりでした」
 そう、耐えられずに彼女は狂い、そして死んだ。

「寂しかったのか?」
「えぇ、とても寂しゅうございました。
 けど、どうすることも出来ませんでした。
 妄執に狂った父から逃げる隙などあるはずも無かったし、そもそもが一夜限りと言う約束ですもの。
 だから貴方の後を追いかける事はしないと誓って、それだけは最後まで守りきれたことを褒めてくださいませんか?」
「最後は私のほうから来いと、身勝手なことを望んでいたようだがな」
「まぁ、意地悪な方ね」
 夢の中のサキは、寂しげに笑う。
 なぁ、どうしてそんな風に笑えるんだ?
 どうして私をなじったり恨んだりしないんだ?

「けど、一日が過ぎるごとに、貴方の記憶が薄れて行くのが怖かった。
 貴方を忘れるのが怖かったのです。
 だから、貴方を愛した記憶が薄れぬ間に、私は死ぬことにしたのですよ」
「それもずいぶんと身勝手だな」
 だが、身勝手なのは円維も同じだ。
 臭いものには蓋をしろとばかりに、サキのことはすっかり忘れてしまっていたのだから。

「えぇ、身勝手です。 でも、私の恋とは、そして貴方の恋も、たぶんそんなものです」
 最後にわらって、少女の姿が消える。
 最後にもう一度だけ言わせてください。
 そして貴方が信じないというならば、信じるまで何度も言ってあげます。

 ありがとう、私、幸せだったの。

 ――だから。
 もう苦しまないで。

******

 今日もまた、目が覚めた。
 そしてまた、あの夢を見た。

 彼女の死を知ってから、どれほどの月日が経っただろうか。
 冬の寒さがまだ残る、春の近い晴れた朝は、いつもきまって彼女の夢を見る。

 これはいつまでも過去に囚われ続ける自分を叱るためにサキが夢枕に立っているのか。
 それとも自分が楽になるために都合のいい夢を見るだけなのか。
 いずれにせよ、夢の話だ。
 真実を確かめる術は無い。

 そして今でも考える。
 あのとき、自分はどうすればよかったのだろうか?
 目を閉じ、手を胸の前であわせ、ただひたすらサキの冥福を祈る。
 いや、祈るのは自分の小さな安寧のためだ。
 利己的ではあるが、むしろそれでいい。
 仏の教えも、神の教えも、等しくこのようなどうしようもない心と気持ちを救うためにあるのだから。

 気がつくと、重い雨戸の隙間から指した光が、障子を通して白くぼんやりと……まるで少女と始めて言葉を交わしたあの日のように周囲を照らしていた。
 障子を開けて外を見れば、蝋のように艶やかで作り物めいた花びらが、雪に埋もれるようにして黄色い花がつぼみを膨らませている。

 あぁ、また今年も冬が終わる。

 冬が終わると春が来る。
 春が近づくと蝋梅が咲く。

 桜は好きだが、蝋梅は嫌いだ。
 なぜなら蝋梅には苦い苦い毒があるから。

 蝋梅の毒は罪の毒。
 助けてくれとも、許してくれとも言えず。
 尽きる事のない罪の意識が毒となって自分の心を犯すのだ。

 いつか私が、彼女と同じようにあの一夜を……。
 あの、甘い香りと苦い毒に満ちた夜の記憶を、私が愛せるようになるその日が来るまで。

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