Overdrive!
百八十センチ超のでかい体を窮屈そうに折り曲げて、一平はブランコをこぐ。ぎしぎしと、今にも鎖がちぎれそうなやばい音が響いている。
団地の敷地内にある小さな公園には、このブランコと砂場と「使用禁止」の張り紙のしてあるシーソーがあるのみ。
「やべー尻痛てえ。超ちっさいしこのブランコ」
一平がはしゃいだ声をあげるのを冷たい目で見ながら、あたしは「バーカ」とつぶやいた。
「なつかしーな、レインボー団地。ぜんっぜん変わってねえ」
よっ、とブランコから飛び降りて一平はにかっと笑う。
レインボー団地というのは通称で、ほんとうの名前はほかにある。一号棟から五号棟まであるすべての棟の壁に虹の絵が描いてあるからみんながそう呼ぶ。
あたしは生まれてから高校二年の今に至るまでずっとこの団地で暮らしてる。一平は五年生の秋までここにいた。違う校区にある新興住宅地のぴかぴかの家に引っ越してったんだ。当然、転校したし中学も別になった。
「くっそむかつく、一戸建てとか」
なんて言いながら一平にサッカーボールをぶつけたのはこの公園で、
「へへーん、いいだろいいだろ、ユメも遊びに来いよジュースぐらい出してやんよ」
とボールを蹴り返されたのをおぼえている。ちなみにボールはあてずっぽうのところに飛んでった。ノーコンなんだよね、一平。
結果から言えば。
あたしは奴の新しい家に遊びに行くことはなく、当時携帯も持ってなかったし、わざわざ手紙を出すのもなんかアレだし、連絡なんて取らないまま時がすぎた。
再会したのは中三の夏期講習だ。一平はバカみたいに背が伸びてたけど頭の中身はたいして変わってなくて、すぐにしょっちゅうつるんでた昔の感覚を取り戻した。そんで、同じ高校に進学した。しかも二年連続同じクラスだし。
で、今日。放課後、ヒマだねーなんて言いながら、ふたりでだらだらとマックでポテトなんぞかじっていたら昔の話になった。
「ブランコ、バカみたいに高く漕いでたよな?」
「そうそう。競争してたんだっけ、たしか」
「だよ。で、漕ぎ過ぎて一回転したよなあ?」
そうだ、回ったよたしかに、そう言って盛り上がって、久々に団地に行きたくなったとか一平が言い出したから連れてきた。
ここのちっさい公園のブランコを。漕いで漕いで漕ぎまくって、遠心力でくるりと一回転したんだ。確かにあたしにはその記憶があって、だけど誰に話しても信じてもらえなかった。「そんなことできるわけない」とか。「話盛りすぎ」とか。言われて。だけど一平はおぼえていた。
五時のチャイムが鳴った。電車の時間まで何すっかなーと一平は伸びをする。あたしが黙っていると、
「うちに寄ってけば? とか言うよね、ふつー。こういう時って」
と、一平はちらとあたしを見た。
「うち今親いないんだけど」
「えっ何? もしかしてやらしーことされるとか思ってる?」
一平が指差して笑ってきたから、すかさず腹にパンチを沈めてやった。
「なんもないからね? お茶菓子的なやつ」
「いいし。ハンバーガー食ったし」
そういえばそうだった、しかも二個も食ってやがった。一平はいつも、食っても食ってもハラ減るんだよねなんて言ってる。弁当は二時間目と三時間目の間の休み時間にたいらげてしまって、昼休みは購買に並んで、放課後も何かしら食ってるし。なのにぜんぜん太らない。身長はまだ伸びてるらしいけど。恐ろしい奴。
四号棟の四階の角っこがあたしんちで。とんとんと階段をのぼりながら、「なつかしーこの感じ」としきりに一平が言ってくるから、ずっと住んでるあたしとしては、ちょっとうざい。
「夕焼け好きだった。さんざん遊んで家まで階段駆けあがって、ふと、外見たらすげー空赤くて。でも団地だからさ、隣にも友だちいたし、ユメもいたし、日が暮れてメシ食ってフロはいって、そんでずっと明日も続いてくって感じがして、なんか」
「はいはい着いたよー。センチメンタルタイムもう終了ー」
ドアノブに鍵を差し込んで回した。
だれもいない居間。一平は自分ちみたいに寝転がってテレビを観た。おやじくせーって言ってでかい背中をつま先でつついてみたら奴はくつくつと笑った。
なんなのバカなのこいつ。
学校帰りでふたりとも当然まだ制服のままで、あたしだってちょっぴりスカート丈短くしてみたりなんかしてるし、西日がオレンジに染まりつつあるし、へんな雰囲気になったらやばいじゃんってちらと思ったりしたけど、思ったのはあたしだけみたいだ。
一平はふわーとあくびをして、「眠くなったからそろそろ帰るわー」と起きあがった。あたしもつられて立ち上がる。向かい合って見上げる一平の顔は昔よりずいぶん高いところにあって首が痛い。ま、あたしがとくべつチビってのもあるけど。むかつく。
「んじゃ、明日な。また遊びに来てもいい?」
「もう来んな」
眠いってなんなの?
一平はあたしの頭にでかい手のひらを置いて、そのままぐしゃぐしゃとかき回した。
「ちょ、何すんのバカ」
「前から思ってたけどユメって小型犬みたいだよなー。よく吠えるやつ」
「ヤだよ。よく吠えるのって弱いやつじゃん」
「そっか。でもユメは弱くねーもんな。なのに吠えるよな?」
そう言って首をちょこっと傾けて、「ま、いーや」って笑って一平は手をひらひら振る。
まじで二度と来ないでほしい。
一平が帰ってがらんどうになって、テレビが発するわざとらしい笑い声だけが浮き上がっているせまい部屋で。あたしは膝を抱えた。
嫌いなんだよね。こういう感じ。一平といるときにふいに襲ってくる、こういう感じ。自分が自分じゃなくなるみたいなやつ。吠えたいけど吠えられないみたいな感じのやつ。
いつからこんな風になっちゃったんだっけ、あたし。両膝の上にあごをのっけて、目を閉じる。
あれは高校に入ってすぐのころだった。
隣のクラスの小森さん。髪の長いきれーなコ。女友達と連れだって廊下を歩くあのコを、一平、見てて。なんか、そのときの一平、ちょっとふわっとしてたっていうか。一瞬だけだけど、一平の存在がまるっとどこかに持ってかれちゃって今いるのは抜け殻みたいな、そんな風に見えて。胸がざわざわして一平の袖をひいた。するとすぐに一平はこっち側に帰ってきた。
あとから別の友達に聞いた。小森さんは一平のもとカノなんだって。中二のとき、一か月ぐらいつき合ってたんだって。
ふーんって思った。ふーん、って。
どうして別れたのかとか知らないし本人にも聞けないけど。だけどいまもたぶん、一平は、小森さんのこと。
もう十月になるというのに日中は相変わらず暑い。しつこく鳴いていたつくつくぼうしはさすがに姿を消したみたいだけど。雲のかたちも。もこもこしたやつじゃなくて、うろこ状のがうすい空いっぱいに広がってる感じになってって。
「へったくそだなあ」
フェンスに指をからませてグラウンドを睨みつけるあたしは客観的にみると結構あやしい。
放課後、こうやってサッカー部の連中がちんたらボールを転がしてんのを眺めていたら、一度、女子の友達に「結芽ってサッカー部に好きなひとでもいるのー?」なんて聞かれてしまったけど。ふり返ったあたしの顔がよっぽど怖かったらしくて、ごめんって、ソッコーで謝られてしまった。
うちの学校のへなちょこサッカー部の連中になんぞ惚れるわけがない。サッカーやめて三年経つあたしのほうが、あいつらよりはるかに上手いと思う。思う、けど。
「ユメ」
うしろから頭をぽこんとはたかれた。「いてっ」と反射的に声をあげる。まったく痛くないけど。ふり返ったらにやけ顔の一平がいると思ってたのに、意に反して奴は真顔だった。
「聞こうかどうかずっと迷ってたんだけど」
一平はフェンスの向こうへ視線を飛ばした。
「ユメって、なんでサッカー辞めたの? ……ケガ?」
首をゆっくりと大きく横に振った。
「さっき一平があたしの頭はたいたけど、ぜんぜん痛くなかった。むかしはもっと痛かった。そういう理由だよ」
「なんじゃそりゃ。わかんねーし」
わかんないだろうね。男子にどんどん身長抜かれてって、カラダが変わってきて、みんなが遠慮してぶつかってこなくなったからだよ。言いたくないけど。
「弱いし。うちのサッカー部」
「ま、な。でもさ。うちの市にもできたじゃん、女子のサッカーチーム。知ってる?」
知ってる。だけどあたしはなにも答えない。
「俺詳しくないんだけど、あそこって年齢制限とかあんの? 観に行ってみれば? 一緒に行く? もったいないって。ユメ、あんな上手かったのに」
「いいって」
一平の話を強引にさえぎった。なんか、サッカーがどうのとか、それだけの問題じゃないんだよ。だけど自分でもうまく説明できる気がしないから何も言わなかった。
「それより」
それより。……小森さんのこと、どーすんの。って。聞こうかと思ったけど。一平が妙に悲しげな目をしてあたしをまっすぐに見つめてたから。だから、やめた。
なんとなくそのまま並んで歩きだす。ホイッスルの音が聞こえる。
あたしの身長は百四十八で止まった。いっぽう、一平はぐんぐん伸びていく。もうすぐ百九十センチに届くらしい。タケノコかよ。
「好きでこんな伸びてんじゃないし。バレー部に入れとかバスケ部に入れとか勧誘うるさくて。そろそろ止まんねーかなって思うわ」
「あんま得意じゃないもんね、球技」
まーねと一平はため息をついた。
「スポーツよりちまちました手作業とかのほうが好きだし。でも猫背になるから肩凝るし、へんな目で見られるしな」
四年生のころ、一平ははじめて自分で編んだというマフラーを巻いて学校にきた。得意げに鼻をふくらませてたけど、クラスの男子にからかわれて、そんでキレてケンカして相手の家まで謝りに行った。悪いのは一平じゃないのに。からかわれたことを言いたくなかったんだろう。
昨日はマックだったから今日はミスドにしようかとか言って、でも金欠だからたいして食べれないなんて笑って。笑っているけどちょっとだけちくちく痛かった。一平の声がすごい高いところから降ってくることにも、奴があたしに歩幅を合わせてゆったり歩いてくれていることにも、なんだかいらいらした。
駅前のミスドの自動ドアが開いた瞬間、一平は固まった。なに、どしたの、ってその視線の先を追いかけたら小森さんがいた。奥のテーブル席で男子生徒とふたりで笑ってる。向かい合わせじゃなくって、わざわざ隣合って座ってて。男子は小森さんの長い髪をひとたばすくって自分の指に巻きつけて、いとおしそうに微笑んだ。
「あれ、エース野上だ」
あたしの心のつぶやきはそのまま声になって口からこぼれてしまっていたようだ。一平は表情の消えた顔をちらとあたしに向けて、そのままきびすを返して店を出た。
「あ。ちょっと、待って」
小森さんの連れの男、エース野上。バスケ部のエースだからそう呼ばれてる。そのまんまだけど。高身長イケメン運動神経抜群。やばいよ一平絶対かなわないじゃん。いくら、中学の時につき合ってたとはいえ。
一平はずんずん遠ざかっていく。小走りで追いかける。自慢じゃないけど足は速い。すぐに追いついてブレザーの袖をひいた。だけど一平はふり返らない。ふり返らないでほしいとあたしも願っていた。今の一平の顔を見たくなかった。
「あたし、きょうはもう帰る」
とだけ、告げた。一平は何も言わなかった。
帰りの電車に揺られながら考えた。中学時代の一平と小森さんのこと。つき合ってたって、さっきのエースみたいなことしてたのかな。あたしと一平も高校生になってからしょっちゅう一緒にいるけど。つき合うってのはきっとちがうんだろう。
あたしは所詮、トモダチだしさあ。一平、傷ついてたし。小森さんたちのこと見て。
真横に首を傾けて、車窓に、こつんと頭をぶつけてみた。そのまま降りる駅までずっとそうしてた。
次の日もその次の日も一平は腑抜けたカオしてて。なんかもう見てらんないって感じ。バカなんだよね。とられて後悔するぐらいなら、なんで小森さんにもう一度告白してみるとかしなかったんだろう。
って。言いかけたけど、なんか胸のところがつっかえて言えないんだ。だからかわりに、机に頬杖をついてぼけっとしてる一平の後頭部をぼかんとはたいて、喝をいれてやった。
「シャキっとしろよシャキっと!」
一平は相変わらずぼんやりした顔であたしの目を五秒ほど見つめた。なに? なんなの、と思わず身構えていたら、奴はかばんから一枚の紙を取り出した。ついっと、あたしの目の前に突き出す。
「こないだ言ってた、女子サッカーチームのチラシ。俺の中学のそばでビラ配りしてた。たぶん所属の選手たちが自分で作って自分で配ってんだと思う」
言われてみれば、なるほど、それはいかにも手作りですって感じの素朴なチラシで。
「今度の土曜、体験会って。行ってみようよ」
あたしはチラシを一平につき返した。
「なんでこんな。余計なお世話」
「だっておまえ、いっつも未練がましくサッカー部の練習見てんじゃん。このチームがどんなとこなのか知らないけど、ビラ配ってた人たち、一生懸命だった。きっとユメも、」
「あたしのことはどうでもいいんだよ!」
どんと机に手をついた。
「自分はどーすんの? うじうじしちゃってさ、辛気くさい。一回、小森さんにぶつかって思いっきり振られてすっきりしてくれば?」
「はあ?」一平は思いっきり眉間にしわを寄せた。「なんで小森がそこで出てくんだよ」
「だっておかしいし。小森さんとエース見てからおかしいし、一平。ていうかあたし気づいてたし。一平が、ずっと、小森さんのこと」
つんと鼻の奥が痛くなって、続きの言葉がどうしても出てこない。喉の奥にひっかかって、ぎゅってなって。なんでこんな風になんの、あたし。
ふう、と。一平が長い息を吐く音がした。
「なんだかよくわかんねーけど。俺が小森にコクればいーんだな? そしたらユメの気が済むんだな?」
こくりと、うなずく。一平の顔は見れない。
「わかった。でも、そのかわり」
一平の出した交換条件は、件の女子サッカーチームの体験会に行くことだった。土曜日の午前十時、快晴。運動公園グラウンドに吹き渡る風はさらりと涼しい。
ジーンズとカットソーっていう普段着で来たあたしを見て、一平は眉を寄せた。
「ジャージで来いよジャージで」
「観るだけだから。別に練習に参加するわけでもないし」
だいいち、練習に参加するには事前に申し込みが必要なのだ。チラシに書いてあった。
グラウンドの脇の土手から練習の様子を眺める。赤いユニフォームを身に着けているのがクラブの所属選手たちなんだろう。いやに人数が少ない気がする。四人、五人、くらい? これで全員? チーム成り立ってんの?
体験会の参加者には小学校低学年ぐらいの小さいコから、あたしより年上っぽい雰囲気のおねーさんまでいて、選手たちも含めて輪になってストレッチしている。
「もっと近くに行こうぜ」
一平があたしの腕をとった。無理やり引きずられるようにして土手を降りる。
グラウンドの端っこのあたりで、小中学生の保護者っぽいおばさんたちが練習を見守ってて、そこからちょっと距離をあけたところに一平とふたりで突っ立ってる。
体験会の参加者たちは三つのグループに分かれて、たぶん、年齢とか経験とかそういうので分けてるんだろうけど――、それぞれに練習をはじめた。いちばんちびっこのグループで指導している選手が、リフティングを披露している。わあっと歓声があがる。選手はボールと目に見えない糸でつながってるみたいにあざやかにボールをさばく。からだが弾むのにあわせて彼女のポニーテールも揺れた。
「すげーな。けん玉名人みてえ」
「なに、そのたとえ」
あたしだって。あのくらい。できたし。
やがてちびっこたちはグラウンドに広がってドリブル練習を始めた。すごい、うまいよ、ってポニーテールの選手の声がひびく。時おり、蹴り方をレクチャーしてみたりして。
「すげーな。めっちゃ楽しそうじゃん」
あたしのとなりにしゃがみこんだ一平がなぜか得意げな顔して、あたしの顔を見上げてきた。なんだかむしゃくしゃして、目をそらす。すると一平は立ち上がってあたしの腕をとって高く上げた。
「ちょ、なにすんの」
「すいませーん! ここにもサッカー経験者がいまーす!」
いきなりバカでかい声を張り上げやがった。
みんながいっせいにこっちを見た。駆けよってきたのは、あの、ポニーテールの選手だった。ちびっこの練習相手はもうひとりの担当のひとがやっている。
「高校生? いつまでやってたの?」
「中一で。辞めました」
また始める気はありません、と続ける。ふーん。そっか。と彼女は言った。そして、ちびっこたちのところまで戻って行った。
正午のチャイムが鳴るまえに散会となって。続々と練習参加者たちが帰っていくなかで、あたしはずっとその場を動けずにいた。一平はそんなあたしに何も言わない。
「ねー。あなたー」
声がする。ポニーテールの彼女がこっちに手を振っている。
「あたしとやろーよ。ボール遊び」
「ヤです!」思いっきり怒鳴った。
「やりません!」
「サッカーじゃなくって。ボール遊び。しようって言ってんの! 遊びならいーでしょ!」
行って来いよ、と一平があたしの背中を押す。その勢いであたしの足は前へ出る。
「よろしくね。あたし坂下凜」
ボールを小脇にかかえて、ポニーテールを揺らして。凛さんはあたしに手を差し出した。仏頂面で、しぶしぶ彼女と握手をかわす。
な・ま・え、と。ほほ笑まれて。
「……松永結芽です」
と。ぼそりと名を告げた。
「ユメちゃんね。おっけー。んじゃ、あたしのゴールはあっち。ユメちゃんのゴールはあっち。一対一、キーパーはなし。ゴールにボール入れたら一点!」
凛さんはボールをぽんっと高く蹴り上げた。あたしに片目をつぶってみせると、そのままボールを腿の上で受けて、ドリブルを始めた。
「なにボーっとしてんの? はやくおいでよ」
凛さんは忍者みたいに素早くゴールにボールを転がしていく。はっとして、思わず、走って追いかける。追いつけない。あっという間に凛さんはゴールにシュートを放って一点とった。
「えー? なんかぜんぜん手ごたえないんだけどー? ユメちゃんってこの程度?」
汗ひとつかいてない、すずしげな顔をして、凛さんは不敵に笑ってみせる。むっとした。ううん、かちんと来た。この程度、だって? 冗談じゃない。
凛さんからボールを奪う。ひゅうっと凛さんが口笛を吹く。前へ、前へ。ボールを蹴り転がしていく。ざっ、ざっ、と土の削れる音、脛に当たるボールの感触。ゴールに向かってボレーシュートを決めようとしたところで、横から足が割り込んできてカットされた。あっ、と思った瞬間にはもうボールは凛さんの足に吸いついてて、素早くからだをひねると凛さんは反対方向のゴールへ向かって蹴りすすめていく。走る。追いついた。あたしの影に気が付くと凛さんはうっすらと笑みを浮かべ、スピードをあげた。なんの、まだまだ。凛さんはついっとボールを右へ左へ転がし、まるでわざと翻弄するかのようにあたしの足をすいすいとかわしていく。
「よっ、と」
ばしゅっと強烈な音がした。凛さんがミドルシュートを放ったのだ。ゴールネットが揺れている。凛さんのチームメイトの選手たちが歓声をあげた。
「いえーい。余裕、余裕っ」
めっちゃ笑顔でみんなにダブルピースしてみせている。
なんなの。腹立つ。猛烈に、腹立つ!
それからしつこく食らいついて、凛さんと延々「ボール遊び」を続けたけど、あたしは一点も取ることができなかった。
疲れ切ってグラウンドにあおむけに倒れこんだあたしに、凛さんは冷たいスポーツドリンクを投げてよこした。
「あげる。水分補給しないと」
そう言って、自分もボトルのふたを開けてぐいぐいと飲んだ。あたしはゆっくりと身を起こして、軽く頭を下げた。凛さんはずっとあたしたちを見ていた一平のほうにも手を振った。
「おーい。彼氏くんもおいでー。君のぶんのもあるよー」
「ちょ。彼氏じゃないし!」
「あれ? ちがうの?」凛さんは小首をかしげて、「ま、いーや」と笑う。
ふたり並んで体育座りして、ドリンクを飲む。一平はそんなあたしたちとは少し離れたところで、ほかの選手たちと談笑している。
涼しい風が吹いて、汗で濡れた短い髪を揺らしていく。
「なんで辞めたの? サッカー」
聞かれたけど、答えられない。凛さんはふわっと笑った。
「ま。たぶんあたしと同じ理由だと思うけど」
思わず、彼女の目を見た。凛さんの瞳は澄んで、秋晴れの青い空を映している。
「あたしはさ、ずっと男子と同じクラブチームでプレーしてて。自分で言うのもなんだけど、活躍してたんだよ。でかい男子にもぶつかってってさ。でも、怪我しちゃって」
じっと、彼女のことばに耳を傾ける。
「潮時だって言われた。親にも。コーチにも。言われるまでもなく自分が一番わかってた。フィジカルではかなわない。どんなに技術を磨いても男子には追いつけない。無理し続けても体をつぶすだけ」
「凛、さん……」
「だけどあたしはあきらめられなかった。女子サッカー部のある高校へ行ってプレーした。卒業してもまだまだやり足りない。でもチームがない。だからつくった。まだまだメンバー足りないけど」
にこっと、笑った。
「ユメちゃんは? 今日のあれが百パーセント? 百二十パーセント?」
なにも答えられない。
「ちがうよね。あんなもんじゃないよね。ぜんっぜん、出し切れてないよね」
手を抜いたわけじゃない。むしろ必死だった。だけど、昔サッカーしたころの体の感覚とはまったく違った。思い通りに動かなかった。体が「オンナ」になったからじゃ、ない。三年も、ボールに触れてなかったせいだ。
「サッカーやりたくなったら、いつでもおいで。待ってるから」
凛さんはそう言って立ち上がった。
帰り道の一平はあたしに、サッカーのことは何も聞かなかった。駅で別れてひとり電車に乗る。百パーセント。百二十パーセント。あたしは自分の全力を、全力を超えた何かを、知らない。
団地の敷地にある公園では、小学生たちが駆けまわって遊んでいる。あたしはブランコに座った。
「あぶないから、みんな、離れてな」
そう告げて、漕ぎ始める。
覚えている。一平と一緒にムキになってブランコ漕いで一回転しちゃったときのこと。あのときのあたし、どうかしてた。なんか、リミッター壊れちゃったかんじで。危ないとか怖いとか、ちっとも、思わなかったんだ。
昔より窮屈になったブランコが軋む。あのときとなりにいた一平も、あたしも、変わってしまった。あきらめることが増えたし、感情の色まで変わってしまって。だけど。
思いっきり足を振り上げて漕ぐ。地面が遠のいていく。ブランコは大きくしなって地面と水平になった。振り子は揺れる。
「おねーちゃん、あぶないよー」
いつの間にかわらわらと寄ってきた小学生たちが叫んでいる。
「今からいいもん見せてやるよーっ。離れたとこからしっかり見ときー」
振り幅が大きくなって、恐怖心がかすめるけど。振り払って漕ぎ続ける。強く。やれるんだろうか、あたしは。百パーセントを越えられるんだろうか。
やれる。そう思った瞬間。ふわって、からだが浮いた。空が近い。小学生たちの姿がはるか下にある。やばい。飛んでいきそう。ぎゅっとチェーンを握りしめる。急降下。ふたたびあたしは地面に舞い戻った。すごい。回った。一回転、した。あたし。
「すっげーっ!」
歓声があがった。足ががくがくする。すごい。飛びそうだった、あたし。ゆっくりと勢いを失っていくブランコの振動に身を任せて、意識がなくなりそうなほどの恍惚感に浸っていた。
そんで、その後。その様子を目撃してしまった団地のママさんからタレコミがあったらしくて。あたしは自治会長さんに呼び出されて長々と説教された。高校生にもなって何をしてるんだとか。子供たちがマネしたらどうするんだとか。一歩間違えば大けがだとか。
昼休み、一平と並んでベランダの柵にもたれながら。ブランコで回ったぜって得意げに話したら、バカじゃねーのってげらげら笑われた。笑われついでに、一平の背中をこづいてみた。
「……ありがと」
やっぱこういうことを言うのは照れくさい。サッカー、またやるんだろ、と一平は言った。うなずく。またやる。やれる気がする。
「つぎは一平の番だね」
本当はこんなこと言いたくなかったけど。でも仕方ない。一平が好きなのはあの子だし。
「つーかさ。小森に告白って、何言えばいいわけ? 恨んでますとかわざわざ言うの?」
「は?」
「小森のこと、トラウマなんだよ。背、高くてかっこいーとか言われて舞い上がってつき合ったけど。球技大会のあとからよそよそしくなってきて。挙句、思った感じの人じゃなかったっつってふられたんだよ」
一平の話を聞きながら、あたしはスカートの生地をぎゅっと握りしめていた。
「エースと一緒にいたじゃん、あいつ。そんで、あー全然変わってねーんだなって思った。背が高くてスポーツ万能なのが好きなだけなのな、あいつ」
「ふー……ん」
「だからさ。もうとっくに吹っ切ってんだよ」
ふわっと笑うと一平は、腕出して、と低い声でささやいた。
「目、閉じて」
何が何だかわからないまま、言われた通りにする。何かが腕に触れてくすぐったい。いいよと言われて目を開けると、腕に巻かれたのはミサンガだった。
「俺がつくった。ぜったいお前、またサッカー始めるって信じてたから。勝てるように」
「…………あ」
胸がいっぱいで、ありがとうって言えない。
「結構難しいんだぜ、それ。色合わせとか凝り出したら止まんなくて。おかげで最近ずっと寝不足で、……って。なに泣いてんの、ユメ。調子狂うわ」
って。言って。一平はいつものように、あたしの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
ブランコは、安全に気をつけて乗りましょう!
このお話はフィクションですが、知り合いの子ども時代には、実際に一回転しちゃう子がいたそうです。
だめ、ぜったい!