ひかりほのか
その朝。
目の前の山積みのレポートを前に、ぼくはできの悪い学生の一人一人の顔を思い浮かべてため息をついていた。
借りてきた文章を多少脚色したからと言って見抜けないほど間抜けだと思われているのか。容赦なく点数を落とせば将来に響くと思って手加減してやってるのに。
ここはひとまずコーヒーだ、とがさがさとドリップパックを捜したが、それすらも見つからない。牛乳をコップに注ぎながらポテチに手を伸ばした。
と、卓上のアイフォンが鳴る。
少し迷った後、左手にアイフォン、右手に箸を持ってそれでポテチをつまんだ。
いやだ。それ、オカマがやることよ。
妻にくどくど言われても抜けない癖だ。なぜかといえば、多分、母にそうしつけられたから。
『祐樹か、久しぶり。おれだよ、誠二』
「あ? 兄さん。久しぶりというか、まあ、……珍しいね」
四年はあっていないし、電話も三年ぶりぐらいだった。
『元気か。高校のセンセイ業やってんだよな。忙しいか』
「まあ給料に比してやりがいはないよ、そっちは。ていうか、何の用?」
兄の誠二は少し言いよどんだのち、抑揚なく言った。
「松本ほのかちゃんが、亡くなったそうだ。覚えてるか。一応今の名前だと、柚木ほのか」
「ほのか……」
聞いた途端、そのささやかな三文字のひとつひとつが刃のようにぼくの胸の一番奥に刺さった。その傷から、素朴な線で描かれたりすや子ぎつねや沢蟹が、次々と顔を出した。
ぼくと彼女だけの、遠い日の秘密。古い紙の香りとともに匂い立つ、もう二十何年も前のしずかな日々。
「なんで。……いつ?」
「おととい。脳梗塞だって」
「……」
「おまえと同い年だから、今年三十九か。若いよな。おれ、こないだ東北の友達のとこに遊びに行ったとき、彼女がそいつの地元の蕎麦屋でパートしてるって聞いてさ、一度食いに行ったんだ。相変わらずきれいだったよ。それがほんの一週間前だ、お前に話そうかと思ってたらこの訃報だ。
人間って、あっけないもんだな」
「蕎麦屋で……」
「それはだから、パート。地元の診療所の医者の奥さんだったってよ」
茶色がかった髪、透き通るような肌が目に浮かんだ。初めて会った十五の頃、彼女はまるで妖精のようだった。そうか、結婚していたのか。きっと幸せだったんだ、そうあってほしい。嘘でなく、心からそう思った。
「葬式さ、……お前、どうする」
「そりゃ、一応高校の同級生だし…… でも昔の話だしなあ」
「それだけじゃないだろ」
「え……」
一応そんな風に反応して見せたが、兄の言いたいことは痛いほど伝わってきた。
「告別式、いつやるのかな」
「あさってらしい。ごく身内だけになるらしいけど」
「まあ、あさってなら、予定あいてるからいけると思う。小旅行と思っていこうかな。兄さんは?」
「おれは大して付き合いもない相手だろ。それに出版社は休みなしだ。一応、葬儀の場所と時間、伝えておくな。あまり周りに告知してないらしいから、たいしてひとは集まらないと思うけど」
電話を切って、窓越しの空を見た。
いつもと変わらない、六月の青空。何度も二人で見上げた、あの頃と同じ青。
この空の下におとといまで彼女はいた、そして今はもう、どこにもいない。
二十何年もあっていないのに、そのことが突然、胸を切り裂くような悲しみとなって迫ってきた。
こんなかなしみはいんちきだ、今日の今日まで忘れていたくせに。
忘れていた? ……いいや。
ぼくは壁の本棚に目をやった。
彼女とぼくはよく一緒の本を読んだものだ。
シートン動物記、宮沢賢治文学全集、星の王子さま、くまのプーさん……
古びた本の背表紙を見るたびに彼女の表情が蘇り、何かが後ろめたくていつも手を伸ばせなかった。
彼女の笑い顔は泣き顔とよく似ていた。目の端が下がり、眉も下がり、なにかくしゃっとしたなさけない表情になって、そのたびにみっつもよっつも若返る気がした。
美しさよりも何よりも、彼女を思い出して真っ先に頭に浮かぶのは、その表情だ。
それをいったら、だって、泣くのと笑うのとは、いっしょだもん。と、言い訳するように答えたっけ。
空がすかんと抜けるようにただ青かった、彼女と初めて会ったあの春。
自分の実力相応の高校ではない。入学式でも、ずっとそのことばかり考えていて、ここに三年間埋もれる悔しさだけが頭を支配していた。たまたま努力不足だった自分が、ここを第一志望にしていた連中と三年間机を並べるのは、屈辱以外の何物でもなかった。
講堂から教室に向かう人の群れの中で、思わすふーっとため息をついたその時、首筋に手をやって前の女の子が振り向いた。
「あ、ごめん。息かかった?」思わず謝ると、
「びっくりした、小象に鼻息吹かれたみたいだった」
「小象?」
くしゃっとした笑い顔でこっちを見たその目は茶色く透き通り、明るい色の髪もあいまって、まぶしいくらい綺麗な子だと思った。多分数秒、黙ったままぼくは見とれていたと思う。モデルでも芸能人でも、これほど整った顔を見た覚えがない。
多分その瞬間、ぼくにとっての灰色の高校生活は、ワット数を上げた電球のように、俄かに輝きだしたのだ。
容姿のわりに(わりにというのも妙な話だが)気さくで人なつっこい彼女は、翌日から一緒に帰り道を歩いてくれた。施設育ちという彼女は奨学金でこの学校に通っていた。
ハーフなの、という不躾な質問に、両親の顔は知らないの、とさっくりと答えてくれた。
「でも、名前はほんものなの。松本ほのか。これは、施設の前に捨てられていたとき、産着の中に入ってた紙切れに書いてあったんだって」
「へえ」
日差しの眩しい大淀川の川べりに座り、ぼくらは水面に石を投げていた。
「今朝ね、職員室に呼ばれて、その髪が地毛だという証明書を出しなさいって、無理なこと言われた。カールも天パだって証明がないとダメなんだって。施設では普通にハーフ扱いだったんだけど、わたしにはそれを証明するものなんてないわけだし」
「とことん腐ってんな、学校って」
程度の低い学校はだから嫌なんだよと、喉まで出かけていた。
肩の少し下まで伸びた彼女の明るい茶色の髪は、毛先が少しだけカールしていて、前髪も同様にふわりふわりと好きな方向を向いていた。その合間から見える済んだ瞳は、キラキラ感を増すために装着する「涙レンズ」をはめたような、潤んだブラウンだった。
「施設長さんに、子どものころからの写真出してもらって、それ見せて、それで許してもらったの」
「それ、今持ってる?」
「うん」
鞄から取り出した数枚の写真には、幼いころからの彼女の姿があった。
ベビーベッドで眠っているももいろの頬の赤ん坊、幼稚園の遠足の芋ほりで芋をぶら下げている笑顔、小学校の卒業式のまじめな顔……
「小さいときはむしろ金髪に近いね」
「うん、だからむかしはよくガイジンなのって言われてた」
「……親に会いたいとか、やっぱり思う?」
無遠慮に、ぼくは聞いた。そういう環境で育つことの明暗のどちらも分からない、わかりようもない身だった。だが、彼女のすっきりした横顔には、どんな質問でも風を吸うように呑みこんで答えそうなさばさばした気配があったのだ。
「さあ……。 ちっちゃいころは、ただ単に、今いないだけでいつかは迎えに来るとか思ってた。
家庭の事情で一時預かりになってる子たちは、お盆とか暮れには家族が迎えに来て帰っていくの。そのたびに置いてけぼりになるのが一番辛くてね。さすがにその間だけは結構荒れちゃった。
もう恨んではいないけど、一度は会いたいかな。会って、どんな人から自分が生まれたかは知りたいし、どうして捨てたのか、どうして名前だけつけていったのか、聞いてみたい。それで、生んでくれてありがとう、今幸せですって、いつか言ってみせたい」
「ほのかって、いい名前だよね」
「そうかな。でも、キラキラネーム一歩手前かなって」
「そんなことない、いい名前だよ。やさしくてかわいくて、なんていうかささやかで」ぼくは繰り返した。彼女は頬を赤くした。
「……ありがと」
「何も知らずにこんなこと言うの変だけど、お母さん……かお父さん……はきみを好きで捨てたんじゃないと思う。きっときみのことはすごく大事に思ってて、それでも何かがしかたなかったんだよ。だって、そんなきれいな名前を付けてくれて、それをちゃんと書き置いてくれたんだもの。
きっといつかその名前を頼りに、きみを見つけたいんだね」
彼女が黙り込んだので、ぼくは不安になってそっと横顔を見た。長い睫の陰に涙がたまっていた。ぼくはどぎまぎして言葉を失った。そんな近くで女の子の涙を見るのは初めてだったのだ。午後の光にきらめくそれは、何かたとえようもなく美しいものに見えた。
「あのとき、祐樹のことが好きになったんだと思う」
後になって聞いたことだ。
「だって、わたしが親からっもらったのは、わたし自身とこの名前しかないの。その名前を、あれだけ親ごと褒めてくれたのは、あなたが初めてだったから」
たぶん彼女があれほど美しくなかったら、ぼくは当然あれほど優しくはなかっただろう。だがそこは神様は許すべきだ。美貌にひかれて恋が始まったとしても、誰も責められるべきではない。だって彼女は「そういう風に生まれついてる」のだから。
クリーニングされた黒い式服をスーツケースに詰め込んで、ぼくは新幹線に乗った。
「いつ何時どういうことがあってもいいように、きちんとしてあったんだからね」
妻はこういうどうでもいいことで胸を張る。東北はお酒もお米もいしいのよねえと、旅行気分で勝手に羨ましがっていた。恩師の娘さんで学生時代世話になったのなんのと、妻には適当な嘘を言ってあった。 当然、若干の後ろめたさはあった。
東京から新花巻まで、三時間弱。新聞と缶コーヒーを買って、うっすらと煙草臭い禁煙車両に乗り込む。通路を通してはいってくる煤煙が忌々しい。いつも愛車を転がしているので、新幹線に乗り込むのは久しぶりだ。
……いまさら葬式に行って、それで、なんになるのだろう。遠い場所だ、多分知り合いに会うこともないだろう。それでも、胸の中の何かが、行け、行けと自分にささやきつづけていた。
……お前には彼女に会いに行く義務があるだろう。言いたくて言えなかったことがあるだろう。
音もなく、新幹線はホームを滑り出した。
彼女は本が好きだった。
特に、どこの図書館にも必ずおいてある名作の類が好きだった。背表紙はボロボロになり、手あかにまみれ、何人の手に渡ったか知れないぐらいの、誰でもが知っている名作。
「読んで」
妙な話だが、彼女はぼくに朗読させることにこだわった。それはファミレスの片隅だったり、公園のベンチであったり、ぼくの家であったりした。彼女の好む本は、動物が出てくる児童書だ。なかでも宮沢賢治の童話集が大のお気に入りだった。
「〝やまなし″がいい」
何度ぼくはこの物語を彼女に読んで聞かせただろう。
クラムボンはわらったよ。
クラムボンはかぷかぷわらったよ。
クラムボンは跳てわらったよ。
もうその三行で、彼女は泣いたような笑ったような笑顔を浮かべている。かぷかぷ、の表現が大好きだと言う。かぷかぷと繰り返すたびに、彼女はぼくの腕を横から掴み、本を覗き込んでは、「こんなかな」と言っていろんな笑顔を見せてくれた。
「クラムボンて泡だろ」
「でも名前があるし、殺されるのよね」
「そもそも笑うしね」
「だからクラムボンはクラムボンなの」
「きみが読んだ方が似合うと思うのに。好きなところを自分で読んでごらんよ」
……水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔を上げ、やまなしは横になって木の枝に引っかかって止まり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。……
その声をぼくはどんなにうっとりして聞いただろう。二人でそうして過ごす時間の透明なことは、今から考えても奇跡のようだと思う。
「オッペルと象」もよくせがまれた。
……オッペルときたら大したもんだ。稲こき機械の六台も据えつけて、のんのんのんのんのんのんと大そろしない音を立ててやっている。
「のんのんのんのん」彼女は今度は機械になって笑った。
「今の音、大そろしなかった?」
「おおそろしい、の意味自体よくわかんないし」
「のんのんのんのん、のんのんのんのん」
飛びぬけて綺麗な割に、いまいち男どもが寄ってこないのは、この妙な天然ぶりにあるのかな、とぼくは思った。それはそれでありがたい話だ。この妖精のような子が、今はぼくだけの彼女なのだ。なんという奇跡だろう。
九州の高校を中退してから、彼女の音信は途絶えていた。
次に彼女の消息を知ったのは、今から三年前だったか。偶然つけた夕方のテレビニュースで、久しぶりにぼくは彼女の名を聞いた。名字は変わっていたが、友達のつてをたどって聞きだして、それがやはり彼女であることを確認した。
家族を捨てて、どこかのヤクザと逃避行の最中、交通事故を起こしてヤクザは死亡。その男の体には彼女の撃った銃弾が食い込んでいたという。
母親の乗った車を止めようと車にしがみついていた息子も、振り落されてけがをしていた。
男が少年を撃とうとしたところを止めた結果の暴発ということで、彼女はその件では起訴猶予になっていた。
どんな事情があったか、ほんとうのところは知る由もない。ただわかったのは、彼女が望んだ普通の幸せの中に安住はできなかったらしいということだけだ。
働き者で気のいい象は、オッペルに重い鎖を繋がれ、ご飯の量を減らされ、次第に労働の量を増やされても、気づかない。オッペルの役に立ててうれしい、ありがたいとしか思っていないのだ。
だがある日、毎晩挨拶していたサンタマリアと月に別れを告げて、象は倒れてしまう。月は哀れな象に、助けを求める手紙を書けと言う。泣きながら書いた手紙は妖精の童子が受け取り、仲間の象たちに急が伝えられる。
「ぼくはずいぶん目(*1)にあっている。みんなで出てきて助けてくれ」
グララアガア、グララアガアと象たちは押し寄せ、オッペルは銃を撃つ。
ドーン、グララアガア。ドーン、グララアガア。ドーン、グララアガア。象は、負けない。
彼女はこの時は笑わずに、真剣にぼくの朗読を聞いていた。何度読んでも、このシーンでは息を詰めて真剣にぼくの目を見ていた。
ドーン、グララアガア。
車窓に目をやりながら、ぼくは考え込んでいた。
彼女が放ったという銃弾。ドーンだったかバーンだったか、あの細い指で引き金を引いて、彼女はその音を聞いたのだろう。
あの彼女が、ひとを撃つ。どんな修羅がそれまでにあったのだろう。
オッペルの象のようにやさしく人懐っこい彼女は、たとえば象がオッペルにまきつけられた重い時計や飾りの鎖を喜んだように、男にいろいろなものを巻きつけられているうち身動きが取れなくなったのだろうか。それでもそれを、自分のためのアクセサリーだと、男の思いやりだと、最後まで思っていたのだろうか。……
いちど、家族が留守の時に彼女を家に上げたことがある。父はともかく、母にだけは彼女を合わせるわけにはいかなかった。
母親は私立の保育園に勤めていた。よく気が回るとかで、保母としては子どもにも親たちにも人気があった。
小さいころからぼくは、時間つぶしの為に幼児教室や英語教室に通わせられていた。英語教室の最初の日、ほかの母親たちとお茶していた母が、こんなことを言っていたのをはっきりと覚えている。台湾から来たという、まだ日本語が片言の女性が、おともだちのつくりかたがむつかしい、とぼやいていたときのことだ。
「じゃあ、最低限のことを教えておいてあげるわ。あのね、病院の裏手とか墓地の近くに住んでる人とは、付き合わないこと。特にこの地域では」
「どうしてですか?」
不思議そうな彼女に向かって母親は平然と言った。
「〝程度の低い人たち″が住んでいるからよ」
周囲の母親たちが困ったような顔をして、今はそんなことないわよね、と囁き合い始めると、
「本当のことは知っておいたほうがいいのよ」と言ってのけたあと、
「ご自分のために覚えておいてね」とわざわざ付け加えた。
その時まだぼくは小学校二、三年だったが、よくわからないなりに、母親のいっていることがなんだかとても恥ずかしく、ただ下を向いていた。 いつもどの子にも分け隔てなく接しているように見える優しい保母さんが、程度の低い子と高い子を、こんな根拠のないことで仕分けして接しているのだ。彼女の価値観はきっぱりしていた。自分と釣り合わない人間とは友だちになっても得るものがない。育ちや過去は本人の責任ではなくとも、変えられない。だから、たとえ一時的な友達であっても、相手は選びなさい。「程度の低い人」と馬鹿と不良は付き合うだけ時間の無駄。無駄な付き合いはやめなさい。
施設育ちの彼女が母に接することがあれば、母の研ぎ澄まされた言葉の刃はぼくよりもまず彼女に向けられるだろう。
誰もいないと思ったら、玄関を入ったとたん家の奥から兄が出てきた。ぼくは一瞬彼女の前に立ちはだかり、彼女は反射的にぼくの後ろに隠れた。
「いいじゃないか、何びくびくしてるんだよ。上がってもらえよ」
「……うん」
同じ高校の三年の兄は、ラグビー部に入っており、こだわりのないさっぱりした性格だった。そして何より、母親とは無茶苦茶に仲が悪かった。
「お袋には言わないから安心しろ。かわいい子だな、大したもんだなお前」
耳元で囁かれて、あのさ、と小声で言い返しながらも、ぼくはまんざらでもなかった。
「こんにちは、お邪魔します」
笑顔で頭を下げる彼女を、ぼくは居間に通した。
「部屋に入れてやれよ、お前のさ」飲み物を取りに入った台所で、兄が耳打ちする。
「それはしないの。健全なふたりだから」
ぼくは笑って答えた。とにかく彼女が大事だった。急に深く、ではなく、遠くまで大事に、ただ大事に、今の関係をつなげたかったのだ。
居間は壁一面が書棚になっていた。会社役員の父は本が好きで、豪華な画集や写真集をシリーズでそろえていた。その隅に、小さいころからぼくが愛読していたシートン動物記があった。彼女は感動したように本棚を見上げ、「いいなあ」とひとこと言って、そのシートン動物記を取り出した。
「図書館で何度も借りてただろ」
「祐樹が読んで育った本だから、これが今読みたい」
シートン動物記では、旗尾リスの話、というものがたりを、一番たくさん彼女に読んだと思う。
親兄弟を失った旗尾リスは、心優しい猫に拾われ、子猫と並んで乳を飲んで大きくなる。住処である納屋が火事に遭って家族を失った後、リスは本能のままに森へ戻り、自分の家族を作り、自然の掟の中で野性を取り戻して成長してゆくのだ。
ふかふかした尻尾の手入れが、何よりリスにとっては大事だった。思い切り膨らんだ尻尾は、木から木へ飛び移る時のパラシュートの役目をする。朝は喜びの歌を歌い、巣を狙う敵と戦い、大好きなヒッコリーの実を集め、森に埋める。95%は思い出して掘り出すが、残りの5%の実は埋まったままだ。この5%が、豊かなヒッコリーの森を育て、次世代の森となり、実りを約束する。
森のリスの暮らしに、彼女は目を輝かせた。豊かなヒッコリーの森とリスの素敵な関係。天敵を威嚇するときの旗尾リスの叫び声が、彼女のお気に入りだった。
「このやろう、ばかやろう、スカーアアア、スカーアアア」
ぼくがそこを読むと、いつも彼女は大笑いした。
「違う違う、こんな感じじゃない? このやろうばかやろう、スカーアアア、スカーアアアア」
ああ、もう彼女はいないのだ。あのかわいらしい威嚇の声を、ぼくは表現できない。彼女を真似て読んではそのたび笑われた、あのリスの声。ほのかの声が聞きたい。唇をとがらせて、真剣に鳴いていた、ぼくだけのいとしいリス。
「でも、猫はリスの子を育てたりはしないわよね、ほんとうは」
うちの居間で初めてその話が出た。今までは物語だからとそこには触れたことがなかった。
「シートンの自叙伝によると、これはシートン自身の経験をもとにしてるらしいよ。彼にも残酷な子ども時代があって、戯れにリスを殺したあと、その赤子であるリスもどうせ死ぬだろうと、猫にくれてやったんだって。ところが猫は、喰うどころか乳をやったんだ。でも結局、子リスたちは死んでしまったけどね」
ぼくはシートンの自伝を取出し、その個所を彼女に見せた。
「逃げる野生動物を追いまわして殺すというのが、わたし達の圧倒的な衝動であった。
だがその母ネコの心を動かしていた衝動は、同情と憐れみだったのだ。
ぺちゃんこになった子リスの死骸を持ちあげた時、わたしの目には涙がたまっていた。わたしは叱られたような気がした。
その心優しい老いた母ネコから、わたしはきびしい叱責をうけたのだ」
読み終わった後、ほのかの白い頬を、すうっと涙が流れた。ぼくの感動は胸でいつも止まるが、彼女はすぐにあふれ出る。涙の海で胸がいつも満たされているのだろうか。ぼくは彼女を見つめ、ぼくに見つめられながら彼女は手の甲で涙を拭いて、わたしってきもちがかんたんだね、と言った。
その日、枯葉のようなにおいのする書架の前で、ぼくたちは初めてのキスをした。ぼくは覚えている、彼女の薄い歯、舌先で触れた八重歯。頬の柔らかさ、長い髪から薫る知らない花の香り。
スプリングフィールドの狐の話が載っているシートン動物記。彼女はそれを家で読みたいと言った。ぼくはその本を彼女に貸した。感想の手紙を挿んでやりとりする、それがいつものやり方だった。
その本が帰ることは、ついになかった。
その翌日の日曜日、ぼくは厳しい声で母に呼ばれた。居間に行くと、掃除の終わった部屋で、母がソファに座ってこちらを睨んでいた。
「これはなんなの」
その手にあったのは、茶色く光る長い髪。
絹のような手触りと花の香りが、一気に痛みとなって甦った。
父はその向こうで新聞に目を落としている。
「一応お父さんにも聞いたのよ、聞きたくもないことを。恥ずかしい話だわ。あなた、お友達をうちに上げたの?」
「……」
「いいじゃないかそれぐらい」
否定も肯定もしないうちに、廊下で聞いていた兄が割って入った。
「中学まで清く正しく何の問題もなく来たんだから、植物系男子に女友達のひとりぐらいできてもいいだろ」
「じゃあ、来たのね。あなたも見たのね」
母の戦闘態勢はもう固まっていた。つまらない嘘をつかずに済んで、むしろぼくは兄に感謝していた。
「居間で話をしただけだよ。一緒に本を読んでた」
「どこのどういうお嬢さんなの。あちらの親御さんは帰り道で男の子の家に寄ってるなんてご存じないでしょうね、申し訳ないわ」
状況は絶望的だった。親御さんはいない、施設出身で奨学金で通学している。施設は十五歳までだが厨房の賄いや下仕事をする契約でひと部屋に住まわせてもらっている。説明したところで「今度のことは許してあげるからもう会わないのよ」と勝手な約束をさせられて終わりだ。
「そのぐらいならいいじゃないか、これからは学校で会いなさい、なあ、祐樹」父がいなすように声をかけてきた。さらに兄が追い打ちをかける。
「そのぐらいもこのぐらいも、誰といつ会おうがこいつの勝手だろ。なに時代だよ、今」
「あんたは黙ってなさい!」
母の目がつり上がった。
「あんたはいいのよ、分相応の高校だからね。でも祐樹はたまたま失敗してこの高校にいるだけでしょ。でもこれからはやる気を出してきちんと大学は実力相応のところに入るっていうから私もうるさく言わなかったの。でもなんなの、一学期の成績は。あのレベルの高校でクラスで十番とか、恥ずかしくないの」
恥ずかしいのは母親のアタマだ。話がどんどん別方向にそれていくのはむしろありがたかったが、家の中の空気を支配しているこの母親とこれから一生付き合うのかと考えると、うんざりを通り越して絶望感が広がるばかりだった。
母が瞬く間に情報を得るのを止める手立てはなかった。おまけに翌日、最悪の噂話を母は得意げに披露してきた。昔里親に預けられていたこともあるらしいけれど、そこで何か悪いいたずらされたとかで施設に返されて……かわいそうよねえ……そういうところで育つと結局……
兄が飲んでいたお茶を母親にひっかけたことで、夕食の場は戦場になった。母親は即座にビンタで対抗した。何枚かの食器が犠牲になった後、兄は後ろから羽交い絞めにしようとした父を突き飛ばし、父は食器棚にしたたかに頭をぶつけた。母は悲鳴を上げた。お父さん、おとうさんとわざとらしくわめき散らす声をBGMに、兄はぼくに言った。
「男なら貫け、決めたことを。人生一度きりでいいから本物の勇気を出せ」
そのまま玄関から静かに出て行き、翌日も翌々日も戻らなかった。
母は兄の行方を求めてほうぼう手を尽くした。友だちの家を泊まり歩きながら、一度は沖縄行の便のチケットまで買ったという話だが、結局一週間目に兄は黙って戻ってきた。
母と兄はもうやりあわなかったが、かわりに会話そのものが消えた。
彼女と最後にデートしたのは、二人でよく行った公園の池のはたのベンチだった。
並んで座って、池の向こう側の木々が、夕焼けを背景にくっきりとシルエットになっていくのを見ていた。丈の高い葦の一群の中に、俯くようにカワセミが留まっていた。
「うちには来ないほうがいいみたいだけどさ、今まで通り何も変わらないから。好きな時に好きな場所で会おう。あのババァには、心底うんざりだ」
「お父さん、怪我大丈夫だった?」
「こぶができた程度だよ。あいつがあいつでしっかりしてたらおふくろがあそこまでのさばることもなかったのに」
「……ごめんね」
「やめろよ、ほのかが謝ることじゃないよ」
水鳥が高い声で一声鳴いた。葦の向こうで、魚がはねる水音が聞こえた。
「シートンの本、ありがとう。まだ全部読み終わってないんだけど」
「いいよ、どうだった」
「狐の話は呼んだことなかったから、なんか感動した。それで、一番辛かったかも」
「辛い、か……。うん、そうだよね」
「厳しくて、美しくて、悲しかった。お母さん狐」
スプリングフィールドの狐の話はこうだ。
シートンの叔父の家から次々に鶏が盗まれる。
子育て中の母狐、かしこいビクセンの仕業だった。ビクセンは四匹の子どもたちを何よりも大事にしていた。
子狐たちに狩りの本能を目覚めさせるため、餌となる動物たちは息の根を止められていない。半死半生の動物たちをもて遊び苛め抜くことで、彼らは狐の本能に目覚めるのだ。
やがて叔父は狐の巣穴を見つけ出し、父狐を射殺、一匹を残して子どもたちも皆殺しにする。母ビクセンは逃げ延びた。そして、ただ一匹生き残り、鎖につながれた愛しいわが子のもとに、毎晩生きた餌を運んできた。
子どもは母狐からもらったものしか食べない。母はその傍らで、牙から血を流しながら鉄の鎖をかみ切ろうとするが、どうしてもはたせない。
もはや我が子を救い出す方法がないことを悟ったビクセンは、ある夜、毒入りの餌を子狐に与える。
子狐は喜んでかぶりついたが、やがてもだえ苦しみ始め、そして死んだ。
以後二度とビクセンは姿を現すことがなかった。
「母狐の誇りっていうか、気高さっていうか。人間に養われるぐらいなら、子どもに死を与える。って、すごい覚悟だと思う」
「……そうかな」
ぼくは珍しく、彼女の意見に対抗した。
「誇りとか意地とか、それは母狐のものであって、子どもは関係ない。プライドの犠牲になって、子どもは可哀想だと思う。母親を信じていたのに。ただ生かしてやれば、それでよかったんだ」
「……」
多少、言葉にとげがあったかもしれない。ほのかはそのまま黙ってしまった。まずかったかな、気分を害したかな、という幽かな後悔があった。ぼくはなんとなく居辛くて、立ち上った。
「ちょっとコーヒー買って来るね」
50メートルほど離れた自販機に駆け寄り、ちゃりちゃりと百円玉を入れる。
あんな家出てってやる、大学の間の学費は親に出してもらうしかないけど、たとえば彼女のように奨学金をもらえないだろうか。そのための勉強ならいくらでもしてやる。
そんなことを考えながら戻ると、ベンチの彼女は数人の男に囲まれていた。
胸の中が嫌な予感で縮みあがった。
ゆっくり近づくと、まず彼女の怯えた目がぼくに気づき、そして一番背の高い男がこちらを振り向いた。擦り切れた革ジャンをひっかけて、ヴィンテージのジーンズからはやたらと金属の飾りがぶら下がっている。
「握手したほうがいいのかな、俺」
鷹揚に男が聞く。ぼくは声を落ち着けて返事した。
「どうも、……はじめまして」
「初めまして、かよ」
男はげらげらと笑い、周囲の似たような風貌の連中を振り向いた。
「草食系兄ちゃんにとって挨拶ってのは最高の武器だよな。そう思わないか」
男は手袋を脱いで乾いた手を差し出してきた。
「こういう縁で知的な兄ちゃんと平和に知り合いになるのも悪かないな。さて、このままバイバイするか、それとも一戦交えるか、どっちにする?」
こんな理不尽な話はない。異様な状況の中で握手をしながらぼくは狼狽していた。漫画かドラマにしかない展開だと思っていた。だがいざ現場で主役になってみると、言える台詞がひとつもないのだ。
ぼくは黙って下を向いた。兄の言葉が蘇る。
男なら貫け、決めたことを。人生一度きりでいいから勇気を出せ。
ぼくはだらりと下げていた手を拳にして、ゆっくりと胸のあたりに持ち上げた。何も考えちゃだめだ。
そのとき、彼女の細い声がはっきりと響いた。
「やめて」
ぼくは目を上げて彼女を見た。彼女はそのまま首を左右に振った。必死、とはこういう瞳だと思った、そういう色をしていた。
「わたしはいいの、いいから、知り合いだから」
「そういうことだ、そう真剣になるな。草食系のお時間は終わりだろ、彼女は返してもらうぜ」
返してもらう?
男は彼女を立たせ、その背に手を回した。
「行こうか」
夕闇の中に後姿の群れが遠ざかって行った。
頭の芯が痺れていた。
ぼくは彼女を手ばなし、彼女は母の言う程度の低いバカの集団に持ち去られた。これが現実のすべてだ。
ポケットを探り、携帯を出す。警察に連絡……。いや、これのどこに犯罪性があるだろう。彼女は自分から行ったことになっている。知り合いだとも言った。でもきっとぼくに手を出させないための言い訳だ、あれは嘘だ。ああ、もしなにかあったら。
事件ですか事故ですか、……110番すると真っ先に聞かれる言葉。どっちでもない。警察に連絡する、名前住所を聞かれる、家にも連絡が行くかもしれない、母親にばれる、絶対に会わないと言わされたあの母親に……
お兄ちゃんはもういいわ。母さんあなたがいるから頑張れる。あなたがいるから……
ぼくはがっくりとベンチに腰を下ろした。
弱虫でちっぽけで、心の中で意気がること以外、きれいな言葉を並べたてること以外何も、ほんとうになにもできない、虫けらのような自分がそこにいた。
翌日、彼女は普通に登校してきた。
頬にうっすらと痣が見えるような気がした。机でうたた寝しちゃってね、と女友達に笑いながら言っているのが聞こえた。
自分から近寄る勇気はなかった。その日一日、ぼくは彼女と視線を合わさないようにして過ごした。卑怯者、臆病者。刃のような言葉が一日中自分の中の自分に向けられた。
彼女も一度も話しかけてこなかった。
これでたぶん終わりだ、もう取り返しがつかない。それは予感というより、確信だった。
あの公園で、ぼくは逃げた。とにかく、逃げたんだ。彼女はぼくを許す気はないだろう。
そしてその予感通り、ぼくらの距離が縮まることはなかった。
彼女に関してネガティブな情報を集めるのに余念のない母親は、それからも仕入れたネタを嬉しそうに報告してくれた。ぼくの落ち込みに対して少しでもカンフルになるとでも思ったのだろうか。
……あの子には「本当の彼氏」がいるらしいわよ。ランチの時、○○さんのお母さんから聞いたわ。
高校中退してホストやってるっていう、暴走族崩れの男の子。ていうか、もうハタチ?
取り巻きを連れてのし歩いてる、いまどき珍しい古風なお馬鹿さんよ。
あの綺麗な、施設出身のお嬢さんが手下に乱暴されかけたことがあって、そこを止めに入ったのがご当人なんですって。当事者連中をぼこぼこにして、俺の女だ宣言したらしいわ。深夜にデートしてる現場を、何人かの生徒さんが見ているそうよ。
お似合いじゃないの、ねえ。マンガみたいで。
あなたは草食系ぼっちゃんとして、持ち駒の一つにされかけたのよ。早く目が覚めて、よかったわよね。
母から聞いた情報は、たやすく公園での記憶と一致した。
ああ、なるほど。卑怯にもぼくは、そんな風に納得しようとしていた。
だからクラスの連中は、あれだけ目立つ彼女とぼくが接近していても、羨みもしなければ揶揄もしなかったのだ。たぶん周知の事実だったのだ。 親しい友達も作らなかったから、誰も忠告してはくれなかった。ぼくはとんだピエロだったわけか。
……握手したほうがいいのかな、俺。
彼女は返してもらう。
わたしはいいの、いいから。知り合いだから。
その段になって、醜いことに、本当に醜いことに、彼女が昔里親に乱暴されたことがあるという話が同時に脳裏に浮上してきた。
早く目が覚めてよかったわよね。無駄な付き合いはやめなさい。母の言葉がそれに続く。
ぼくは自分の恥と向き合う勇気もなく、ただ諦めという都合のいい罰を自分に課して、言い渡した。
彼女は美しく優しかった。感謝だけを胸にしまおう。つまるところ、別世界の住人だったのだ。
それなりに、いい日々だったじゃないか。
新花巻駅から、ローカル電車とバスを乗り継いで、山間の村に着いた。
里山風景の見本のようなのどかな光景が、目の前に広がっていた。緩やかにうねる田畑と鎮守の森と小川と、小さな集落。
夏の日差しが容赦なく照りつける中、汗を拭きながら手元の住所を辿る。
やがて、古い小さな洋館のような建物についた。平屋で、低い緑の垣根には黄色い小さな花が咲き乱れている。よく見れば垣根ではなく、フェンスにつる性の植物が絡みついているのだ。花々からは何とも言えない甘い芳香があたり一面に漂っていた。
彼女が世話したものだろうか。
葬式を思わせるような表示はあまりなく、ただ、低い白い木の門に、忌中、と紙が貼ってあった。表札の、柚木、の名を確認する。何かが胸に迫り、鼓動が高まる。
玄関先に案内役のような婦人が一人立っており、こちらの姿に目を止めると、静かに近寄ってきた。
「ご親戚のかたでいらっしゃいますか。わたくし、おなじ教会で学ばせていただいていたものでございます、お顔を存じ上げませんので失礼なことも……」
「あ、いや、親戚じゃないんです。ただ彼女とはその、高校時代の知り合いで、訃報をお聞きしたもので……」
「まあ、そうでしたか。失礼ですが、どちらからお出でですか」
「東京です」
「東京!」婦人は声を上げた。
「実は、家族葬という形を取っていまして、あくまで身内のみのお式とさせていただいているんですよ。でも、そうですね、東京からわざわざ……」
そのとき、玄関から男性が顔を出した。
「あ、賢治先生」
彼女の夫だ。……ぼくは思わず姿勢を正して彼のほうを見た。視線が合ったと同時に頭を下げた。
「駒田祐樹といいます。高校で、奥様の同級生でした。どうも、このたびは……」
彼も同時に頭を下げてきた。背はどちらかというと低い方だ。がっちりとした体形の、眉の太い、日焼けした男性だった。婦人から事情を聴くと、意外そうな顔をしてこちらを向いた。
「東京からですか。遠いところをわざわざ……。お暑いですから、どうぞ中にお入りください」
「いいんですか、でも、家族葬とか……」
「家族とは言っても、妻は施設育ちでほとんど親類縁者もいませんのでね。わたしは実家とは縁を切った身ですし、ただ静かに送ろうと思っただけですよ、信心もないので無宗教でね。妻はまあ、一応教会には通っていましたが」
「では洗礼を?」
「それは受けてはいないのですが、まあ、心の拠り所といいますか。寂しかったんでしょうね」
彼は無造作にぼくを家に上げ、彼女の遺体が安置されている奥の間に案内してくれた。火葬は午後ですから、今なら顔を見ていただけます、結構きれいなのですよと言って、背の高い木のドアを開けた。冷房の効いた和室の中にはろうそくがいくつも灯り、白バラやカサブランカ、白いカーネーションの花々が並ぶその向こうに、横たわる彼女のからだがあった。
白い布団、白いシーツに覆われた顔。
長い長い時間と距離を飛び越えて、いきなり目の前に現れた遠い記憶、その悲しみと後悔と、いとしさ。残酷で厳粛な現実。それがいま、かたちになって目の前にある。
ぼくは眩暈を覚えながら、布団の前に座り、かすかに震える手を合わせた。
すっと誰かが背後に近寄ってきた気配があった。横目で見て、それが背の高い少年であると知る。
「高校時代のお友達だそうだ。顔を見せて差し上げて」
その言葉に、枕元につと寄った少年は、膝をつくと、静かに顔の布を外した。
……ああ。
蝋燭のゆらめきの中、ほとんど昔と変わらないかに見える、すっと鼻の尖った、少女の面影を残す彼女のうつくしい白い顔があった。閉じた瞼、長い睫。ゆらめく蝋燭の光の中で、映画のようにその陰影が揺れる。スカーアアア、スカーアアア。可愛らしいリスの威嚇の声が、その唇から漏れ出るのをぼくは耳の中で聞いていた。
ぼくと口をきかなくなって間もなく、きみは高校を中退した。最後まで、まともな会話もなかった。ぼくは逃げた。現実から、戦いから、母親との確執から。きみがどこでどんな思いを抱え、どう暮らしてきたか、今まで全く向かい合わずに来た。その事実の重みは、ぼくの中で軽くなることはなかったのだ。だが、そんな言い訳が何になるだろう。
手を合わせながら、ぼくは全身が悲しみでなく痛みで震えるのを感じていた。
顔を上げると、少年は俯きがちに母親の顔をじっと見ていた。その顔を改めて見て、彼もまた驚くほど美しい顔をしていることに初めて気づいた。だが、彼女とは違う。色白で鼻が高く、彫刻のように整っているという点では同じだが、その閉じられた表情には、彼女とは正反対の、ひとを簡単に寄せ付けようとしない、厳しく隔絶した空気があった。
夫の賢治氏は、息子とともにぼくを続きの間のほうに呼んでくれた。教会の女性とは違う、都会的な小綺麗な女性がお茶を運んできた。
「妹です」賢治氏が紹介してくれた。遠いところをわざわざどうも、暑かったでしょうと言って、女性は微笑みながら冷茶を茶卓の上に置いてくれた。
「実は、おいでいただいてよかった。駒田祐樹さんとおっしゃいましたね。さっき気づいたんですが、あなたにお見せしなければならないものがあるんです。いや、お返しすると言うべきか」
賢治氏は一冊の分厚い本を書棚から取り出して、ぼくの前に置いた。
「これはあなたのものじゃありませんか」
……あの日の。
居間でキスした日、彼女に貸した、シートン動物記がそこにあった。
多少黄ばんではいるが、あの日のままだ。
ぼくは思わず手を伸ばした。
「どうして、これがぼくのものだと……」
「中に、手紙が挿んだままになっているんです。妻には悪いが、目を通しました。そこに書いてある方にお返ししようと思っていたのですが、下のお名前だけでしたので……」
「拝見していいですか」
「どうぞ、あなたのものですから」
返してもらって、帰りの新幹線の中でそっと読む、それでよかったかもしれない。だが、彼はすでに目を通しているのだ。そして隣の部屋で横たわる彼女。ここで今ぼくはこれを読まねばならない、切実にそんな気がしていた。
……祐樹君。
きのうはごめんなさい。
わたしにはいろいろ知り合いがいて、あの人もその一人です。
心配させちゃったかもしれないけど、大丈夫です。というより、いままで騙していたみたいで、心が苦しいです。
わたしは頼れる人がほしいの。いつもそればかり考えていました。守ってくれる人、強い人。わたしを大事にしてくれる人。愛してくれる人。
それとは別に、わたしにいろいろなことを教えてくれる人。頭がよくて話すと為になって、いっしょにいると心が豊かになるような人。
わたしは欲張りなんです。祐樹君といっしょにいると、心がいいもので満たされる感じがして、幸せだった。昨日の彼は、また別なんです。でもこんなこと、きっと普通の人は許せないことなんでしょう。非常識なことなんでしょう。
狐の話、すごく考えさせられました。わたしは狐のお母さんの誇り高さに感動したけれど、子どもの立場から見たら、ただ生かしてほしかったと思う。優しいお母さんの持ってくるご飯を食べて、子どもは生きたかったと思う。祐樹君の言うことのほうが、きっと正しいよね。
祐樹君といると、勉強になることがたくさんあります。ほかの誰とも、祐樹君としているような話はできない。わたしにとって、大事なひとです。
祐樹君はきっと優しいお父さんになるね。わたしも祐樹君を見習って、優しいお母さんになりたい。いえ、そのまえに、優しい人になりたい。そうなれるよう、がんばります。
本を返すのが遅れて、ごめんなさい。返したらもう会ってもらえないような気がして、怖かった。このことを話すのが、書いて知らせるのが、怖かった。
こんなわたしだけど、ゆるしてください。
いつまでも、そばにいてください。おねがいです。
ほのかより
読み覆わってしばらく、ぼくは紙面から目を離せなかった。
右上がりの細い几帳面な字。
凄くすごく考えて、きっと、何枚も何枚も書いたのだ。
ぼくにはその姿さえ思い浮かぶ。背を丸め、スタンドの灯りの下で手紙を書く彼女。
でも結局、その手紙を、いや、
その手紙を挿んだ本を、彼女はぼくに渡さなかった。その勇気が出なかったのだ。
ぼくが背を向け続けたから。彼女の顔を見ようとしなかったから。
そして死ぬまで、この本を手元に持ち続けたのだ。
……どんな思いで。
「ありがとう、ございました」
手紙をたたみ、本にしまうと、ぼくは俯き、目を抑えた。いちど決壊したらあとは止まらんぞ、と目の奥で涙のダムが言っていた。横を見る。花の中に、彼女が眠っている。
ああ。ぼくは歯を食いしばった。
ト、トイレはどこですか、とどもりながら問うと、あの少年が先に立って案内してくれた。ぼくより五センチは背が高かった。
トイレのドアを開けながら、きみいい男だね、もてるだろ、と軽口をたたき、困り顔の少年の前でドアを閉めると、ぼくは両手で顔を覆った。そしてそのまま、個室の中でしばらく嗚咽した。
生きているきみに会いたい。
会って謝りたい。
ちっぽけで醜く狡い、卑怯千万だったぼくを。自分のことしか考えていなかったぼくを。
優しいお父さんになるねなんて言ったまま逝かないでくれ。
きみの声が聞きたい。声が聞きたい。謝りたい。謝らせてくれ。
泣いても泣いても、涙は止まらなかった。
結局火葬が住むまで一日そこにとどまり、ぼくは最後まで彼女を見送った。
記憶は断片的にしか残っていない。
花に囲まれた顔。言葉少なに訪れて祈りをささげて行った金髪の神父。 青い青い空。
あの美しい少年の涙。
最後のお別れのとき、彼は母親の上に身をかがめ、両手で頬を覆って、額に額をつけて静かに目を閉じていた。
青白く透き通った、彼の祈りが見えるようだった。
顔を上げた彼と、自然に目があった。頬に一筋の涙の跡があった。
白い頬、すっきりとした顔立ち、たくさんの光源を生まれながらに宿しているような美しい瞳。彼を見ながらぼくは思った。
ほのか、きみはここに生きているんだね。彼は君ではないけれど、きみが抱えていたいのちと体のかたちを、彼は確かに受け継いでいる。
きみは死んではいない。
火葬場の煙突を見上げて、賢治氏は呟いた。
「彼女には苦労させましてね。ご存知かもしれませんが」
ぼくは少し躊躇してから尋ねた。
「一度交通事故で怪我されてますよね」
「悪いヤクザ者に引っかかりましてね。独身時代に彼女に惚れていた男です。本物の暴力団の構成員でした。結婚後もいつまでも妻を追いかけ回して、彼女はその男からぼくと診療所を守るために、一度息子を連れて家を出たんです。ぼくはわかってやれなかった」
「つまり、浮気だと……」
「息子の晶太を人質にして脅すような奴で。そして妻は息子も捨てて男の言いなりに逃避行に付き合った。世間じゃ何と言われてるか知らないが」
「息子さん、おいくつですか」
「今、十七です。あれにも苦労させました」
「……その年で、大変な経験をしたんですね」
「いつも、強い男にあこがれるんだと、妻は自分で言っていました。守るつもりで一緒になったのに、守られていたのはこっちだったんです。これからは幸せにしてやろうと思っていたのに、医者の身で、最後の最後に何の力にもなれなかった」
聞きながらぼくは、あの三年前のニュースを辿っていた。
少年は母親が心中しようとしていたあの車にしがみついて、怪我をしたんだっけ。男の写真をかすかに覚えている。頬の扱けた、男前の、どこか少年に似た……
お骨とともに洋館に戻ると、すっかり日も暮れていた。
「いろいろお世話になりました」ぼくが頭を下げると、賢治氏はこちらこそ、本をお返しできてよかったです、と答えた。
「そういえば、あの垣根の花の名前はなんていうんですか」
「あれはカロライナジャスミンです」
「すごくいい香りですね」
「花の季節には妻は家じゅうに飾ってました。少しお持ちになりますか、じき萎れてしまいますが、新幹線に乗っている間ぐらいはやさしい香りを楽しめるでしょう」
「それはありがたい。あの車内の匂いが苦手でして」
彼は手を上げると、息子を呼んだ。
「裁ちばさみを持ってきなさい。垣根の花を少し切って、お土産にお持ちいただこう」
「……きいていいかな。どんなお母さんだった」
花を切る少年に、ぼくは背後から聞いてみた。少し考えて、少年は答えた。
「ちょっと子どもみたいで、寂しがり屋でロマンチストで、衝動的で、人懐っこくて……」
ああ、……ずっと同じなんだ。
少しおいて、少年は付け加えた。
「本を読むのが好きだった」
「そうか、どんな本を?」
「絵本とか児童文学とか、宮沢賢治とか」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ」
「それ、好きだった」少年は即座に言った。
「お父さん、お魚はどこへ行ったの」
ぼくはちょっと茶目っ気を出して試してみた。
「魚かい、魚はこわいところへ行った」少年は難なく続けた。
「こわいよ、お父さん」
「いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れてきた。ごらん、きれいだろう」
「こわいよ、お父さん」
まるで、ほのかと掛け合いをしているようだ。ぼくは目頭が熱くなった。
「……きみも本が好きなんだね」
「小さいころから、枕元でよく母に読み聞かせをしてもらいましたから」
「羨ましいな」
少年はぼくに近寄ると、まとめた花を胸のポケットに刺し込んだ。突然のことにぼくが驚いた顔をすると、
「ちょうどいいところにポケットがあった」
そう言ってぽんとポケットをたたくと、ふわりと笑った。
冷たく美しい表情が、一瞬おさな子のようになった。
……たくさんもっていってね。乱暴に歩いて、花弁を散らさないでね。
ぼくの胸の中で、絹糸のような髪を揺らしながら、ほのかがそっと囁いた。