放浪者
放浪者
墓を前にして初めて死を実感する。二度しか顔をあわさなかった父は自分に『運命』や『宿命』という重責を押しつけて世を去った。イゼルは場違いなアネモネを墓にそえ、生暖かい風を肌で感じ、鈍重とした曇り空をみあげ、そして問いかける、閣下……いや、父……いや、閣下、おれはもう避けて通れない道へ入ってしまったのですね。
遺言として託された封書を今はじめて読んだ。懐にしまっておいたのに妙に冷たい。目にはいった文字にも温かみはない。夏の光が雲間からさしこむ。冷たい、むしょうに体が震える。イゼルは再び問いかける、あなたは〈天神告解〉を成就したかったのですね。
社の前に戻ってかがり火に遺言をほうりこむ。焚火守がおそるおそると注意してくる、変な物を投げこまれては困りますよ、これはいちおう神聖な火ということになっているのです。ならば故人と共に天へ飛ばしてください、火葬は人体を炭化させる行為にすぎないと日頃から考えていながらも昇天を肯定した反論をする自分に笑いが出た。
鉄門を出て参道のエニシダ並木を歩きながらイゼルは曇天をみあげて三度問いかける、逃げてもいいですか? 帝都のシャプル大聖堂内、〈第五の界〉で会った少年も父親に人生を翻弄された、自分と同じ被害者だったらしい。マギ公爵サイファに、帝都を去る直前に聞かされた。かれの名はシゲンという。運命に与えられた役柄は〈ハランの使徒〉。告解によれば〈神狩〉に殺される定めにある。その神狩こそ自分自身……
待ち受ける未来は混沌との戦いだった。だが決意は固まらない。おれには化物に対抗できる力なんてありませんよ。
参道入口にある特務隊時代に行きつけだった食堂は相変わらずさびれていた。給仕は店の奥で料理人としゃべっている。客はいない。おや、ひさしぶりで。会釈して定位置につくとアニス酒の瓶が出された。君が飲んでくれ、もういらない、今日でここへ来るのも最後だから。給仕は何も返してこないで酒瓶をさげた。代わりに酢漬けのオリーブとチーズを盆に乗せてくる。我が家での安心感とはこういうものなのかな、とイゼルはオリーブをつまみながら家庭という見知らぬ存在を考えた。
30分ほどで一通りの食事を終えて勘定を多めに払って表に出ると怪しかった雲はいよいよ雨を落としていた。霧雨の中、イゼルは思いたったように貧民街へ足を向けた。その町はアルカサルの中で数少ない雨が似合う風景を持っていた。幼少を暮らした我が家からは母がたてていたような機織の音がしていた。のぞいてみると髪を後部でしばった女が織り機を動かしながら息子らしき少年に伝承歌をきかせている。昔日の思いが頭をよぎった。考えてみれば母さんはおれが〈神狩〉になる可能性があることを承知していたのかもしれない――ふとそんな思いがする。母はよく〈聖王雅歌〉を語り、最終章のあとには決まって質問してきた、ところでイゼルは秩序と混沌、どちらが正しいと思う? 最初の答えは「秩序」、次も、その次も。しかし最後となってしまった14回目は違った、どちらも正しくないかもね。
「何か用ですか?」
追憶は終わった。いつしか織り機の手を止めていた女が不審な目を向けてきていた。少年は腰に吊った剣を物欲しそうに見ている。自分は以前ここに住んでいた者だ、と告白した。だからなんなのだ、と女はいいたそうだった。少年は、じゃあお兄ちゃんもビンボーだったの、と希望に満ちた答えを期待する雰囲気をただよわせていたので、イゼルは、ああ、そうさ、がんばれば君も騎士になれるよ、と軽はずみに答えてあげた。と、女はすごい剣幕で、帰って、と吐き捨て、再び機織をはじめた。
執政官官邸前の広場にある駐留宿に戻る頃には霧雨もやみ、風は分厚い雲を吹き散らかして空に星を浮かばせていた。出発を見送るつもりでいた意思も星空を見ているとにぶった。だからこそ番台であくびをしていた小使に出発するから代金を算出するように頼んだ。部屋の荷物を取って戻ってくる頃には明細ができあがっていたが数字を見て、ふっかけやがって、と滞在10日にしてはかなりの高額を要求されたので少々頭にきたが、ことあるたびに「わが店は創業350年の老舗でして」を口癖にしている店だから、どだい、安価で済ませようというのが無理な話だった。言い値の金を放った。
翌朝はカシャーサの村にいた。帝都への道からややはずれた、この山村へ足を運んだのは親友に別れを告げるためだった。臨終の際にキュアンはいった、あいつには頼んであるんだ。海が見える高台に見覚えのある剣が突き立っていた。手前には好きだった果実酒がグラスについで置いてある。キュアンの妻カイは未亡人のままで、雑貨店の店主は、もったいない話で、と下品な声でいった。「ここら辺では有名なんですよ。先日なんてクレイバー家の子爵様が噂を聞きつけてきて、是非とも嫁に、と。あなた様もその口?」
3年前、タラの村からの帰還後におこなわれたアルカサルでの仮面裁判が終わった後、キュアンの最後を話し、形見を渡すためにカイには会っていた。だがあれ以来、かのじょと顔を会わせたことはなかった。しかし何も変わっていなかった。村の外れにある水車小屋で再会した時も悲哀は抜けきらず、黒い服で体を覆い、空ろな目をしているところを見るといまだに亡夫を忘れていないようだった。
「もちろん覚悟はしていました」墓の周囲には木の柵があり、ベンチがあり、花壇があり、人工池すらあった。すべて作ったとカイはいう。海を前に弁当を食べ、改めてイゼルは感じた、あいつは幸せだな。「ですが時間が止まってしまいましたよ。キュアンはいつも冗談半分にいっていたんですけどね、おれが死んだらもっといいヤツと暮らせよな」すべてがキュアン中心に動いている。弁当もキュアンの好物ばかり……あらかた平らげるとカイは遺体が存在しない墓――形見の剣を前に黙祷した。
「カイさん、もう充分じゃないんですか――」
口をさえぎられた。「バティスト様……キュアンの夢を……どうか……身勝手ですけど……でも……」何がいいたいのかイゼルにはよくわかっているし、今の自分ならば夢を語りあった時よりも、それに近いことも自覚している。なんせ自分は神狩なのだ。世界の運命はみずからの肩にかかっているといっても過言でない。しかし首を縦にはふれない。結局、逃げ口上のような文句になった。
「時間をください。継承するか、ここ数日ずっと悩んでいます。あいつもあつく語った後は悲しそうによくいってたんです、一人の力なんてたかがしれてるけどな、と。でも……今は答えられないけど、いずれ……もう目を逸らしたくないから。だからおれとも約束してください。カイさんはカイさんの道を歩んで欲しい。もうあいつの影を捨てるんだ。そのほうがあいつだって喜ぶ」
未亡人は首を振った。「ごめんなさい、それだけはできません。わたし、不器用ですから。バティスト様の言い分は正しいと思います。キュアンも今のわたしを見たらきっと怒るでしょう。でも、ダメなんです。あの人の顔しか見えないんです」
無理強いはやめた。
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