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百年の眠りにつく前に

作者:藤藤キハチ
I love you.
Therefore murder me.
『愛してるわ、だから…―――』




挿絵(By みてみん)




「あなた、いつまでうちに居座るつもり?」
 コルセットで締め上げた華奢な腰に手を当てて、居丈高に彼女は胸を反らした。
 結い上げたブロンドの髪は細い金糸のようで、同じ色の睫毛が孔雀緑(ピーコックグリーン)の瞳を縁取っている。仄かに橙色に灯るオイル・ランプが瞳を照らし、見上げてくるそれはどこか鉄錆色にも似ていた。
 立ち塞がる愛くるしい顔立ちの娘に無言でいると、居た堪れなくなったのか居心地悪そうに身じろぎ、腕を組んだ。
「いくらお父様のお弟子だからって、いつまでもいられると思わないことね」
 吐き捨てるように言い、つんと澄まして身を翻した彼女の背に一つの問いを投げかける。
「なぜ、貴女にそのようなことを言われなければならない」
 足を止めた彼女はこちらを真っ直ぐに射抜くと、頬を紅潮させて一息に言った。
「気に入らないからよ!!」
 確かそれが、彼女との初めてのまともな会話だった。



 天使の歌声とはよく言ったものだ。
 ピアニストの父とオペラ歌手の母を持った彼女が、歌の女神に愛されない理由などどこにもなかった。中規模のホールで彼女が歌った回数はわずかで、無名の乙女の名は瞬く間に広まり、あっという間に歌劇場の歌姫(ディーバ)となった。
 確かその日は、使用人しか屋敷にいなかった。彼女は公演で、彼女の両親はサロンへ出かけていた。サロンへ共に行かないかという誘いに私は何かと理由をつけ、屋敷に居残った―――正当な理由は、ある。
 本当のことを言わなかっただけで。
「きみ」
 オイル・ランプに火を入れて回っていた使用人は、途切れたピアノの音の後に続いた私の声に背筋を伸ばした。
「はい、なんでしょう」
「こちらへ、ここを見てみてくれないか」
 鍵盤を指差せば、躊躇いながらも歩み寄ってきた家女中は一定の距離を保ちながらも、素直に鍵盤を覗き込む。
 触れるのも躊躇うほど整ったローズウッドの化粧版を持つピアノにどこもおかしなところは見当たらず、女中は小首をかしげた。
 その腕を掴み、引き寄せたのは一瞬。お仕着せの襟を剥き、首筋に牙を立てれば短い悲鳴はその喉の奥に引っ込んだ。
 いくらか、女中の立ち振る舞いに支障の起こらない程度に血液をいただくと、そっと首に埋めていた顔を離す。
「埃がついていたよ」
 口元に笑みを上らせ、襟から何かを摘まむ仕草をしてみせれば、女中はぱっと頬を赤らめる。一時的な吸血であれば、人間は血を抜き取られたことさえ気づかない。
 ましてや、餌を引き付けるための術は身の内に数多ある。それらを発揮すれば吸血鬼などと疑われることは露ほどもない。恥ずかしげに逃げていく女中のように。
「あらまあ」
 入れ替わり怪訝そうに入ってきた彼女は、私を見てまるで汚物でも見たかのような顔をした。
 何が「あらまあ」だ。呆れたような声とは裏腹に、孔雀緑(ピーコックグリーン)の瞳には侮蔑の色が浮かんでいる。頬を赤らめた女中とすれ違い、どうせ『主人が留守のあいだに女中に手を出した』とでも思ったのだろう。
 苛立たしげな雰囲気を纏う彼女にさほど興味がなく、ピアノに視線を落とす。否、なぜ歌劇場にいるはずの彼女がここにいるのだろうか。
「公演は」
 ふんと鼻息も勇ましく、彼女は斜に構えた。
「開場前に幕が落下して、急遽中止よ」
「それはそれは」
 残念なことで、と平坦な声音で呟いた。幕ならば、“運悪く”窒息死だろうか。照明では確実に助かるまい。現にそういった歌姫がいたことを、遠い記憶の中に思い出す。
「あなた、いつまでうちに居座るつもり?」
 唐突な質問に答える気はない。せっかく『有名ピアニストの弟子』という場所に落ち着いた。餌も豊富にあり、食餌には事欠かない。あと五年はこの暮らしの中に安穏といられるだろう。
「いくらお父様のお弟子だからって、いつまでもいられると思わないことね」
 タラシとでも思ったか、言葉を交わすのも不快極まりないといった(てい)で部屋を出て行こうとする。
 小娘に追い出される謂れはない。つい、彼女の背を声で追った。
「なぜ、貴女にそのようなことを言われなければならない」
「気に入らないからよ!!」
 バッサリと切り捨てた彼女だけが、いっかな私になびかないたった一人の女性だった。初めて顔を合わせ挨拶を交わしたときも、彼女は不快そうに目尻を吊り上げていた。
 初めてだった。
 微笑めば、誰しも虜に出来る―――そう思っていたし、実際そうだった。この容姿は男にも女にも魅力的に映るはずで、油断を誘うはずだ。
 だが、なぜか彼女だけがなびかない。気を許すどころか頑なに警戒する。
 そんな中、食餌をしているところを見られたのは数日後のことだった。存在に気付いたときには遅かった。女中の首筋に吸い付いた私を目の当たりにした彼女は目を見開き、ふいに息を吸った。
 叫ぶ。
 口を塞ぎ、壁に押し付ける。ほんの少し力加減を間違えれば潰れそうで、怯えに震えた瞳と視線が合う。
「誰かに言えば、殺す」
 そのとき、手の平にまで伝わってくるほど震える彼女から手を放したのはなぜか。その場で殺してしまえば良かったと思い至ったのは、家を飛び出してしばらくしてからのことだった。
 なぜ殺さなかった。
 面倒だっただけだ。
 血の一滴も残さず食い荒らしてしまえば良かったものを。
 そうしなかったのはなぜ?
 薄暗い街に漂う霧のように晴れない気持ちを抱えたまま何食わぬ顔で戻ると、彼女は脅した通りに口外しなかったようだ。
 そう、それでいい。殺すことなどいつでもできるのだから。



 サロンに付き合った帰り道のことだ。師匠は晩餐会に出席するからと言って別れ、私は一人、ガス灯の滲む薄靄の中を歩いていた。粉塵で薄ぼんやりと霞んでいる夜の街を闊歩する輩は私の他にはいなかった。
 背後から喧しい音で近づいてきた馬車は舗装された道路をすり減らし、砂埃を上げて追い越し、遠のいていく。やがて靄の中へ消えた馬車から奇妙な音がしたのは、ややあってからだった。
 血の臭い、かすかな馬の(いなな)き、やがて止まる車輪の音。馭者(ぎょしゃ)が操り損ねたか、しかし、この血の臭いは異常だ。人の視力では到底見えないであろう靄の先で、馬車から転がり出てきた娘の姿に目を見張る。
 なぜ、と思う間もなく体は動いた。倒れ込んだ彼女に迫ったナイフを止め、もう一方で覆いかぶさる黒い影を衝いた。が、指先は虚空を薙いだ。飛び跳ねた影はあっという間に闇にとける。
 人の身でたいした手練れだ。外套(コート)の埃を払うと、地面に座り込んだ彼女に問うた。
「命を狙われる覚えは」
 ないわ、と震える声が答える。随分と後になって知ったことだが、彼女を邪魔に思ったオペラ歌手の差し向けた暗殺者(アサッシン)だったそうだ。
「あなたは、私を殺さないの?」
 いつも彼女の問いは唐突で不可解だ。なぜ今、それを聞くのか。
「なぜ」
「前は、私を殺そうとしたわ。でも今は助けてくれた」
 助けたわけじゃない。
「いい吸血鬼なのね」
 なぜそういう結論になる。
 わからない。なぜそれで安堵するのか。なぜそれで信用するのか。なぜ―――。



 以降、ぽつりぽつりと街を濡らす雨のように、言葉を交わすことが増えた。



 彼女はよく話し、よく笑い、ときに茶目っ気も見せる美しい娘だった。私がピアノを弾けば彼女は歌った。透き通る高音は気持ちの良いぐらいにどこまでも伸びる。
 もっと聴いていたいと思うようになったのは、いつからだろうか。
「ねえ」
 薔薇色の唇にささやかれ、演奏の手を止めた。彼女はピアノにもたれ、くすぐったそうに笑った。
「あなた、最近とても楽しそうに弾くわね」
「そうか」
「ほらその顔! あなた普通に笑った方が素敵よ、タラシの作り笑顔よりずっとね」
 タラシは余計だ。
 横顔にかかる髪にたおやかな指が伸びる。わずかに触れる一歩手前でおずおずと引いていった。
「愛してるわ……」
 心の臓を―――とうに脈打つことを忘れて久しい心の臓を掴まれた気がした。酷く甘やかな囁きは、毒のようにゆっくりと全身を痺れさせる。
 アイを囁ければどれほどいいだろう。だが私にはアイを受け入れる肉体がない。血の通わない冷たい肉に、どうしてアイを囁けるだろう。人を捨て、神を捨てた私が、いまさら愛を受けるなど。
「『アイシテル』。変ね、たくさん歌で愛を歌ってきたけれど、まさかたった一人に言葉で伝えることになるなんて思わなかった」
 彼女は、今、どんな顔をしているだろうか。少し顔を上げれば見える。だが、その簡単な仕草すら出来ず、視界に映る白い手だけを見つめた。
 指先を薔薇色に染めた柔らかそうな白い手は汚れることを知らない手だ。ガラス細工のように触れれば壊れてしまいそうなそれは、間違っても握れない。
「愛してるわ、だから、私を殺して」
 眠りにつく前の、睦言のようだった。
 こんな小娘、いつでも殺せると信じていた。だが、どうして、一体いつから躊躇うようになったのか。
「……できない」
「じゃあ、私をあなたの仲間にして」
 目の前が真っ暗になった気がした。
 このうら若い娘に、この先どれほどの輝かしい未来が待っているだろうか。むざむざそれらを捨てさせ、奪ってしまうと考えると、躊躇う前に答えは決まっている。
「できない」
 どうか闇に落ちないでほしい。生き方を間違えた、これが私の罰なのだから。
「そう、そうね……」
 震える吐息を一つ吐き、彼女は部屋を出て行った。
 こうなった以上は、ここにはいられない。このまま何事もなかったように姿をくらませればいい。彼女の心に例え小さな棘を残したとしても、過ぎゆく日々でとけるだろう。いつか、若い日の思い出として蜃気楼のように時折思い出してくれればそれで。
 それで、いいのか。
 愛してる、失いたくない。初めてそう思ったんだ。長く暗い闇の中で心を揺さぶるものなど一つもなかった。
 初めてなんだ、こんなことは。きみの笑顔に乱される。きみの声に魅せられる。きみが笑ってくれれば、それで―――
 私の心は満たされる。
 いてもたってもいられず、彼女を追い掛けた。「外出されました」という使用人の言葉を信じ、重たい外套(コート)に袖を通す。
 冷たい雨が降っていた。砂埃の代わりに白濁として(けぶ)る雨の中、遠く、先に見慣れた後姿を見つけた。艶めく暗褐色の傘で頭は隠れている。仮にも有名な歌姫が、女中もつけずに外出するものではない。そのあたりは叱ってもいいだろうと、大股に一歩踏み出した。
 そのとき、彼女の傘が持ち主の手を離れて舞った。飛び出してきた馬車にはねられた彼女の体は、実にあっけなく、ぼろきれのように道端に転がる。水しぶきを上げ、けたたましい音を立てて馬車が駆け抜けていく。
 血の臭いがした。酷く、甘い血の臭いが。
 泥と血の中に沈んだ彼女に呼びかける。震えた睫毛の下から現れた瞳は、いつかのように鉄錆色に見えた。
「―――で」
 なんだ、なんて言った、聞こえない。
 頬に張り付くブロンドの髪を指で掻き上げる。いつも華やかに染まっていた頬は、今は色を失くしていた。真白な指を握り締める。細くて、折れてしまいそうな指が冷え切っているのは、雨の所為だと思いたい。
 頬を手で包み、ふっくらとした唇を親指でなぞる。降り注ぐ雨が何もかも洗い流してしまって、彼女の肌は色づけ前の陶器の人形のようだった。
 なぜか、彼女はゆるりと微笑んだ。
「泣かないで」
 泣いてない。
 誰が泣くか。なんのために追い掛けて来たんだと思ってる。伝えに来たんだ、貴女を。
「愛してる……だから、いかないでくれ」
 どうか、彼女を連れていかないでくれ。お願いだ、いまさら、神を捨てた身でいまさらだ。でも、どうか、この人を連れていかないで。





 神様。





どうか、願わくば

次に目覚めた彼女に笑顔があるように


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