エピローグ
「マスター。今、何時?」
言った後で、瞬間、熱を出した夜の事がリフレインした。
時間を訊いたのは、携帯はかばんの中に入ったままだし、今の私は腕時計だってつけていないからだ。マスターは、ベッドの縁に腰掛けて、Gパンに足を通している。
「十一時二十分……」
「えーっ!」
その言葉に私は甘い倦怠から引き剥がされた。マグカップのコーヒーを飲んでいた時は、まだ九時台だったのに。
「帰らなきゃ……」
マスターは、上半身裸のまましゃがみこんで先ほどのコーヒーの片づけをしている。
「大丈夫。日付が回らないうちに送っていけるから……」
カーペットを叩いて染みを移し取りながら言う後ろ姿をまぶしく見つめながら、マスターには生活感よりもサバイバル能力があるかもと、ちらと思った。
まぁ……別に遅くなったら遅くなったでいいかな。結婚したら、ずうっとマスターと一緒に暮らすんだし。
◇
それからは……とんとん拍子に話が進んだ。
もとより私が頑固な事は、母は知っている。と言うか、この頑固さ自体、母譲りなんだと思う。最初はごねていた母だったけれど、私の決意が固いことを知るや、今まで預かっていた通帳をすべて私に引き渡してくれた。そのお金で私は、私はマスターへの借金とカード請求の返済をそっと終わらせた。
マスターのご両親に至っては、二人の結婚に大賛成だった。もっともマスターのお母さんは、私に何度も「本当にいいの?」って訊いてきて、マスターは、大層、憤慨していたけれど。
郵便局の同期の仲間の驚きようは大変なものだった。全然、関係なさそうに振舞っていた私をサカナに次の同期会が開かれるなんて、誰も予想だにできなかったようだ。
それはそうだろう。新年会が開かれた一月には何の気配もなかったのに三月には結納が入り、結婚が六月と決まるなんて、私にだって予想できなかったんだから。
それは、気が変わらないうちにと、親達が盛り上がって急スピードで動いた為もあって、当の私が一番驚いている。
日が経てば経つほど、するべき事が出てきて忙しくなってきた。平日の夜や週末は、結婚準備が必要になり、『黒薔薇』もしばしば臨時休業するようになった。結婚ともなると、二人だけの問題じゃなく互いの家が絡む。あまりの面倒さにうんざりして、愛にうっかりと、結婚は一回で充分だよねって発言し、二回以上するつもり!? って、絞められてしまったのは言うまでもない。
季節はもう六月になっていた。しばらく休業しますとの札が貼られた『黒薔薇』のカウンターを一人で貸し切る。明日が結婚式。マスターが私の前にコーヒーを置く。カウンターに腰掛けていただくコーヒーもこれが最後になる。一人の為にわざわざ器具を使ってコーヒーを入れるのも手間がかかると言ったんだけど。
「毎日、コーヒーを淹れてやるって約束したろう?」
コーヒーカップを手に椅子をくるりと回すと、フレアースカートの裾がふわりと揺れた。
椅子を回しながら、西日の当たる店内を見回す。すべてはここから始まった。四年もの間、由香里さんとずっと通い続けてきて、すっかり顔馴染みになって。ひょんな借金をきっかけにマスターが好きになってからは、わずか半年余りの事だ。
「喜和子」
「はい」
「愛してるよ」
え!? 初めて言ってくれた……。嬉しかった。
でもその言葉を反芻する暇もなかった。何故って……。
「なんて、言ってみたものだよ!」
マスターは、慌てて言葉を継ぎ足して苦笑いすると、すぐに後ろを向いてしまったんだから。
もう、仕方ないなぁ。マスターだもの。仕方ない……。
じゃぁ、私も言ってみようじゃないの。
ある思いつきに私は、うつむいて両の手を合わせ、スカートの上に拳銃の形を作ってみる。
「宏樹さん!」
初めて、マスターを名前で呼んでみた。
驚いたように振り向くマスターに照準を合わせると、私は、その胸をずぎゅんと打ち抜いた。
〜終〜
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つぶ庵
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