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喫茶「黒薔薇」(2)
 私は、マスターを直視したまま、絶句してしまった。マスターが十二万円も貸してくれるって言うのだろうか。一万二千円じゃない。桁が一つ違う。言葉を失った私に、マスターは落ち着いて言った。
「毎月五千円ずつでも、少しずつ返してくれたらいい。そのくらいなら返せるだろ」
 確かにお勤めしている私に月々五千円は、返せない額じゃない。でもマスターからそんな大金、借りていい筈がない。借金は私の目算が甘かったからだ。
「喜和子ちゃんは宝くじ仲間だから……」
 マスターは、ぽつりと言った。ずっと当選金の使い道を報告し合ってきたから、マスターは他人事じゃないと思っているのかな。私だって由香里さんやマスターと共通の秘密が持てて楽しかった。結局、当選金額は家族にばれてしまったけど。
「でも、大金だよ。そんなに貸してもらって大丈夫なの」
「借りると金利が高いだろ。俺は貸しただけ返してくれればいいから」
 マスターの言葉には迷いがない。貸してくれると言ったら、貸してくれるんだ。返済は、どうしよう。リボ払いの額を一万五千円にして、マスターに五千円ずつ返そうか。そうすれば無理がない。ボーナスが出たら、ある程度まとまった額は返せるだろう。この際だからマスターの言葉に甘えよう。
「じゃぁ、貸してください。お願いします」
 私は椅子から立ち上がり、マスターにぺこりと頭を下げた。
「よし。じゃぁ、明日」
 マスターは、微笑んだ。
「明日」
 私もそれだけ言うと、バッグのストラップを腕にひっかけ、マスターに手を振って『黒薔薇』を後にした。
 思いもかけない救いの手に気分が高揚してくる。ずっとひっかかっていた胸のつかえが下りたような。そんな思いが自然と表情に出ていたのかもしれない。
「喜和子。ずいぶん機嫌がいいみたいね」
 晩御飯の食卓で母が言う。借金作って機嫌がいいなんておかしな話。でも私は、今日マスターの心意気に触れた気がして、ちょっと嬉しかったのだ。また私がお金を貸せるような信頼できる人物だと思われたことも。
「そんな、母さん。私がいつも機嫌悪いみたい。普通よ。普通」
 私は、意識してきっとした表情を作ると、さっさとご飯を口に運んだ。
「そうかねぇ……」
「ごちそうさま!」
 立ち上がり、自分の食器だけを流し台に運んで洗い、自分の部屋に引っ込んだ。クローゼットの扉を開ける。ここにバッグをはじめとするブランド品の数々がしまってある。発作的に買って使っていないものまで。私には身分不相応なもの。ブランド品の一点や二点なら自分へのご褒美と買ってもいいだろう。でも私は、宝くじに当たったために、熱に浮かされたように一気にあれこれと買ってしまった。あの時、キラキラ輝いていたブランド品も今となっては色あせて見える。これらのブランド品に借金の苦い思い出が刻印されたみたいで。お気に入りのいくつかは残そう。それを見て借金のことを思い出したなら戒めにもなる。けれど、あとはいらない。これ。売れないかな。ふっと頭にそんな考えが浮かんだ。例えば委託販売とか。マスターは商売柄、顔が広いから、そんなお店を知らないだろうか。ブランド品が売れたら、そのお金を借金の返済に当てればいい。
 翌日の勤務を終えると、私は再び『黒薔薇』に立ち寄った。昨日と同じカウンター席に腰を下ろす。盆の上に空のコーヒーカップを回収してきたマスターが私の前を通過していった。
「マスター。こんにちは」
「おう。喜和子ちゃん。待ってて」
 私は、適当に雑誌を一つ選ぶと、カウンターの上に広げ、マスターの仕事の手が空くのを待った。うつむいて活字を追う私の耳にカチャカチャと食器の触れ合う音が響く。やがてマスターは作業が一区切りついたみたいで、一旦、奥のスタッフルームに引っ込んだ。茶封筒を手に戻ってくると、それをカウンターの上に置き、私のほうに滑らせる。
「確認してくれ」
 この中に十二万円。マスターが促すような目で指し示す。私は、封筒を取り上げると、中の一万円札を半分出した。確かに。私は、うなずいてお金を封筒に収めた。
「ありがとう。マスター」
「いや、ちゃんと補充しておくんだぞ」
 本当に貸してくれた。マスターを見ていると、親心と言う言葉が浮かぶ。うちの兄と同じ世代だし、私みたいなのは、頼りなげでふらふらしてるように見えて、ほっとけないのかもしれない。
「私もう何日かしたら、ボーナスが入るの。だからそこから返せると思う」
 借りたままになんてしておけない。少しでも早くマスターにお金を返したかった。
「無理するなよ。少しずつでいいんだから」
「うん。あの、全額と言うわけにはいかないけど」
「いいよ。無理のない範囲で」
「じゃぁ、お借りします」と、封筒をバッグにしまう。このお金をすぐにでも入金しておきたい。私は椅子から立ちあがった。
「あの、マスター。来たばかりで悪いんだけど、これをすぐにATMに入れてきたいの」
 まだコーヒーすら注文していなかった。申し訳なかったけど、その方がマスターの気持ちに答えられると思ったから。
「ああ。行って来い」
 マスターは、微笑んで言った。 
「ごめんね。コーヒーも飲まずに。明日ゆっくりコーヒーを飲みに来るから。マスターに聞きたい事があるの」
「聞きたい事?」
 マスターは一瞬、不思議そうな顔を見せた。でもすぐに「ああ。わかったよ。明日聞くから」と。
「じゃ、明日ね!」
 私は、それだけ言い残して『黒薔薇』を出た。
 自宅に帰る途中の最初に見えたコンビニに飛び込む。ATMを操作して、封筒を逆さにして出てきた束をつかむと機械に入れた。これで引き落とし日に無事に落ちる。ほっとした瞬間。店内の時計は午後六時四十五分を指していた。『黒薔薇』に戻る時間は充分にあるけれど、今日のところは帰ろう。明日、また行くのだし。明日はゆっくりコーヒーを飲んで、ブランド品の売れるところを相談するんだ。これで昨日今日明日と、三日連続でマスターの所に行く事になる。気分転換に遊びに来いとは言ってくれたけど。毎日、通っている自分が何だか可笑しかった。
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