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切なさブレンド
 仕事を終えた私の足は『黒薔薇』に向かっていた。以前に比べると少しだけ日が長くなっている。外気は冷たいながらも日の光が僅かに春の訪れを感じさせた。正面のドアを開けると、カラカラとなる鐘の音。私はカウンターのいつもの席に座った。
「マスター。これ……」
 お客さんの切れ間を見計らって、茶封筒を渡す。マスターはわかったという顔でそれを受け取った。
「おい。いつもよりも多いんじゃないか」
中身を素早く確認したマスターが言った。
「でも無理してない。支払える範囲のお金。なんかね、マスターと私の間にお金が介在するのが厭なの。母にマスターと付き合っている事がばれたから尚更かな。あ。勿論、借金の事は、母には言ってないけどね」
「わかった。無理してないなら受け取るよ。それじゃ、これで今度どこかに遊びに行くか……」
 すぐに了解して納めてくれたマスターだけど、そんなんじゃ返済している事にならないような。やがて時計が九時になった事を確認すると、マスターは、待ち構えたようにCLOSEDの札をかけに行った。
 店内の時計が九時二十分を指した頃、『黒薔薇』は、本日の営業を終了した。店を閉めた後は、マスターの部屋に場所を移す。
 あらためてマグカップに二人分のコーヒーを注ぎいれるとマスターは、ひとつを私に差し出した。
「ありがとう」
 カップに口をつける。話題は、自然と昨日話していた由香里さんとの一件に流れていく。
「おおっぴらに言うつもりこそなかったけど、隠し通すつもりもなかったし。喜和子のお母さんにしてもね」
 でもその母はあんまり好意的ではない。マスターの事を生活感がないなんて言っていた。どう言うつもりなのとも。でもマスターを厭な気分にさせたくはなくて、何も言わず、熱いコーヒーに再び口をつけた。
「あのさ……喜和子」
「何?」
「唐突なんだけどさ。一生分のコーヒーチケットをプレゼントしたいんだけど、受け取ってくれるか?」
 軽い調子で話すマスター。でもね。いくらなんでも一生ってすごすぎる。
「勿論よ。もう毎日だって通う。今だってそうしているじゃない」 
「誰が通えと言った」
「……え?」
 少しばかり声の調子が変わった。何だろう。私はまたからかわれてるんだろうか。いいえ。本当はわずかに去来するものがあったのだけれど。
「喜和子にはずっとここにいて欲しい。俺が毎日コーヒーを淹れてやる」
「マスター。それって……」
「うん。結婚しようか」
 私は、マスターを見据えたまま、ただ固まってしまった。喉の奥がちくちくと痛みはじめたかと思うと、涙がこみ上げてきた自分に気づく。
 まばたきすると頬にいくつもの熱い筋を引いていく。反射的にこぼれる涙に、私はマスターにいつかそう言って欲しかったんだと悟った。
「まだ付き合い始めて二ヶ月でこんな事を言うのは早すぎるかもしれないけど、周りにもわかってきたし。今がタイミングなんだと思う」
 私は言葉もなくうんうんとうなずくしかなくて、マスターに抱きついていた。あふれだす想いを理性的な言葉で、整理されたくはない。びっくりしたような表情を見せたのマスターだったけれど、すぐにそれ以上の腕の強さで抱きしめ返してくれた。
 そのまま重なり合うようにして、二人ホットカーペットの上に倒れ込む。勢い余ってマグカップのコーヒーがひっくり返り、ガチャンと音を立てた。
見ると、テーブルの反対側でこぼれたコーヒーが丸い染みを作っている。
「マスター! コーヒーが……」
「あー。後から片付けよう」
 ああ、飲み終えておけば良かった……。黒薔薇ブレンドの味は最高なのに勿体無いなんて。いえ、今はそんな事を考えてる場合じゃない。
 もっと、マスターに触れたくて。マスターで頭を一杯にしたかった。
次回、最終回です。
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