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コーヒー
 ボーナス時期の貯金と重なるように持ち込まれる年賀状の量。毎年、繰り返される繁忙期。今週末は、愛の家で以前から約束していたパーティーがあるけれど。
でも……今となっては、正直、マスターと過ごしたい。朝からマスターの顔を見てしまったら、もう駄目だ。事務作業をしながら、ふと、途中で抜けてマスターのところに行こうかなって考えが浮かんだ。そうしよう。愛たちには悪いけれど。
 私がいなくたって、全然影響ないんだし。何せマスターとの付き合いは、今、はじまったばかり。少々、付き合いが悪いことくらい許されて欲しい。
 小一時間ほど残業して、マスターの言うとおり『黒薔薇』には寄らずに帰宅した。仕事中は、考えないようにしていたけれど、後になって、今朝のやり取りがよみがえってくる。
 まさかね。マスターが職場に現れるなんて……。だけど、ずるい。会ったと言ってもほんのわずかの時間。しかも局員として他人行儀に振る舞うしかなかった。まぁ……嬉しかったんだけど。
 自室にこもり、マスターが落ちつきそうな時刻を見計らうと、私は携帯のボタンを押した。
 3コールほど鳴らしたところで、呼び出し音がプツッと途切れた。
「はい。喜和子ちゃん?」
「マスター! もうっ。ビックリした。心臓に良くない」
 開口一番、マスターを責めるように言ってしまった。あの熱を出した夜からずっと会っていなかったんだから、すごく、すごーく嬉しかったんだけど、気づいたら叫んでいたのだ。
「あー。一回、行ってみたかったんだ。喜和子ちゃんの職場。でももう行かないよ」
 マスターは、好奇心を抑えきれず、お店のオープン前に郵便局に顔を出したと言った。
「喜和子ちゃん。ちゃんと仕事してたね!」
 心なしか弾んだ声。うっ……当たり前なんですけどっ。
「もう。職場で仕事しなくて何するのよ」
 中途半端に会えば、もっとゆっくりと会いたくなる。それをわかってるの? マスター。
 でも、『黒薔薇』も郵便局も今の時期は忙しいし。そんな私の思いを先読みしたようにマスターは言った。
「ごめん。年内は店を開くって常連さんに宣言したから、あてにされてさ」
「ううん。別にいいよ」
「大晦日だけは早めに閉店するよ。元旦も休むし。泊まりに来る?」
 私は絶句してしまった。この……このおっさんは! どれだけドッキリする発言をするんだろう。私の事をからかって。本当は、マスターの事をおっさんだなんてひとつも思っていない。
 考えてみれば、元々そんなキャラだった。由香里さんも「黙っていれば良い男なんだけどね!」って言っていたし。
「マスターったら。からかっているんでしょ。私が行けないってわかっていて」
「当たり! 俺も元旦は実家に年始の挨拶に行くつもりでいるし」
 笑い声交じりに答えるマスター。
「マスターのいじわる。何で好きになったんだろ。私、泣きたくなってきた」
「そんな簡単に泣くんじゃないよ。大人なんだから」
「マスター。昼間は、あんなに優しかったのに」
 なんだかね。嬉しいんだけど前途多難かも。私は……このおっさんをつかまえきれるのかしら。さしづめ私は、厳しい冬の海に漁に出たら、思いの外、大きな魚が釣れてしまって手に余ってしまった、そんな心境? ううん。私は、マスターを釣った覚えはない。
「ごめん。もう言わないよ」
 笑い声混じりにマスターが今しがたの会話の流れを断ち切った。すっかりマスターのペースに乗っかってるみたいで悔しい一方で、包み込まれているような安堵感がある。
 一呼吸置いて私は言った。
「明日。持っていくね。マスターに借りた残りのお金」
「おいおい。まだリボ払いの請求がくるんだから余分に残しとけ。繰り上げて払ったっていいんだし」
 早くお金を返そうと焦っていたけれど、マスターは、先にカード会社からの請求分を払うようにと言う。自分は、後回しでいいからって。リボ払いは、オークションで臨時収入があった時に月づきの支払いを五千円増額していた。
 なんたって、まだ三十万円ほどの支払いを控えているのだから。
「マスターが、そう言ってくれるなら、甘えてもいい?」
「いいよ」
 今日、マスターが渡してくれたお金は、今後の請求に充当する事にした。
「マスター。明日は、『黒薔薇』に行くね」
「無理しなくていいよ。年の暮れはそっちだって忙しいだろうに」
「だって、マスターに会いたいんだもん」
「わかった。待ってるよ」
 私の話すことをふんわりと受け止めてくれるマスターの口ぶりにもう悪ふざけの色は、感じられなかった。
        
 翌日。久しぶりの喫茶『黒薔薇』カウンターに座った私の前にトンとアメリカンが置かれた。コーヒーは、苦いだけじゃない。香りに酸味に苦味にコクにいろんな要素が混じり合っている。それプラスその時の私の心境によって、微妙な味の違いが生み出されていく。 
 ブラックで、まずは一口。口の中の液体は、ふわりとほのかな甘みを残して舌を通り抜けた。
「おいしい」
 顔を上げ、マスターに告げる。毎度、ひねりのない感想でマスターに申し訳ないけれど。私は、コーヒーに対して薀蓄を垂れるほどのボキャブラリーを持たない。見守るようなマスターの瞳。職場での仕事の顔を解く事が出来て、なおかつ家にいるときみたいな居辛さはない。このカウンターが私を一番癒してくれるところなんだ。
 まもなく、他のお客さんからオーダーが入り、マスターはコーヒーを落とし始めた。
「マスター。年内無休で頑張って疲れているかと思ったら、結構、肌の色つやがいいねぇ」
 常連らしい二人のサラリーマンの一人がマスターに向かって声をかける。
「当ったり前じゃないか」
「まぁ。マスターは、働き盛りの年代だしね!」
 マスターとお客さんの会話をBGMみたいに聴いていた。ゆっくりと一杯のコーヒーを舌の上で転がし、味わう。他のお客さんもいるこの『黒薔薇』を私だけのものになんて出来ない。それでもここにくれば、マスターに会える。二人きりで会いたくないのかと言えば、嘘になるけれど、好きな人と心が通っていて、その人のことを見ていられるこの場所がある事が私にとって幸せだった。
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