プロローグ
仕事帰りの私の足は、そのまま行きつけの喫茶『黒薔薇』に向かっていた。
いつもなら茶道教室を終えた帰りにお稽古仲間の由香里さんと立ち寄るこの喫茶店に今日は一人で。
中心部のビジネス街に位置した喫茶『黒薔薇』は、昭和三十年代から営業していて、現在は二代目マスターが経営している。リニューアルを繰り返しつつも古き良き雰囲気は、少しも失われていない。入り口に立ってドアノブに手をかけると、私は思い切り手前に引いた。
カラカラとドアに取り付けられた鐘の音が鳴る。目の前に広がる馴染みの空間。カウンターは誰も座っていなくて、中で作業しているマスターとまともに目が合った。
私に向けられた軽い笑みは「来たか……」って言ってるみたいだった。
どうして今日、職場からここに直行したのか。
その理由は、昨日……。ううん。それ以前にもさかのぼる。
◇
――こんなに買い物したっけ?
私は、カード会社からの請求明細をぼう然と見つめた。心臓がドキドキして、背中がカッと熱くなる。もっと早くに気づくべきだった。カードを使用した買い物は、すべて把握していたつもりだったけれど、締め日の関係なのだろう。明細の中には、とうに忘れていたものまでが載っている。私は、引き出しにしまったクレジットカードの利用控えと請求明細の照合を始めた。
間違いはない。しかも利用控えは請求明細の項目以上に手元に残った。これらの利用控えの請求が今後やって来る事を意味する。
通帳残高に示された残額は、請求分には到底満たないものだった。
今回の請求額は203,500円。通帳残は88,735円。
ざっと見ただけでも十万以上は赤字だ。引き落としが来週の火曜日。十二月のボーナスも引き落とし日には、間に合わない。
私は、杉木喜和子。郵便局に勤める二十六歳。今年の八月に茶道教室仲間の由香里さんと、行きつけの喫茶『黒薔薇』のマスターとの三人で宝くじを共同購入した。それがなんと三等一千万円に当選したのだ。三人で分配して約三百三十万円が手に入った。
それでも私は、宝くじに当選した事を家族には内緒にしておきたかった。とは言え、一緒に生活していれば気配でわかってしまうだろうと、私は宝くじの共同購入で百万円が当たったと、嘘の金額を言ったのだ。母は当然のごとく、半分、家に入れるよう言ってきた。私は大人しく母に五十万円を手渡すことにした。言い方はきついけれど、母は、お金はすべて私の為にと貯金してくれているのだ。それは私にだってわかっている。
杉木家は、母と私と兄一家の六人暮らしだ。父を病で亡くしたために、母は私をお嫁に出す事に責任を感じているようだった。だからお金の管理についてはとても厳しい。
私の給料からはオート定額で毎月五万円が積み立てられ、更に二万円が生活費として母に渡っている。
これらの残りで茶道教室のお稽古代を支払い、遊び代その他を捻出するのだから、毎月、結構きつい。しかし通帳の類は、母がしっかりと管理しているから、貯金を引き出す時はお伺いを立てなくてはならない。
母から通帳を受け取る為にいちいち使用目的を言いたくない。もう私もいい歳なのだから金銭管理くらい自分でしたいのだが、母曰く、私が自立してなくて頼りないんだそうだ。それならば家を出て一人暮らしをすると言えば、生活費が二世帯分かかるから不経済だと言う。
そんな事をさせたら私が好き放題するに違いない。あなたが家を出るのは、お嫁に行く時だと手厳しい。そして自分で結婚相手を見つけて連れて来なさいと言うし。兄も母に輪をかけて厳しかった。こちらは世帯主たる自覚がある上に職業が警察官ときている。
こんな母や兄の締め付けにあっていれば、うっぷんも溜まろうと言うものだ。
だから私は、こっそり隠していた当選金でブランド品を買い漁った。一つ、買い物をする毎にすかっとした。そうして次々とブランド品に手を出したが、無茶なことはしない。
ブランド品を買えば、三百万なんてすぐになくなるだろう。依存症になってからでは遅いと自分なりに歯止めはかけていた。次第に普段のお給料でも買えるような化粧品などの小物を買うようにしたのだ。でも細々と買った事が逆に使った金額をつかみにくくしていたと言える。
ばれないように気をつけていたつもりだけれど、一緒に生活している母の目はごまかせなかった。問い詰められて、渋々、通帳を見せて本当の当選金額を告げると、母は、その減り具合に呆れて、そして……。とくとくと説教を受けてしまった。
どうして自分が当選した宝くじを好きに使っちゃいけないのか、私は大いに不満だったのだけど。
そんなわけでこの期に及んでお金が足りないなんて、とても母には言えない。自分でなんとかしないと。
計算すると、まだ請求の来る分は、三十万円ほどある事がわかった。今回の請求とあわせて約五十万円。母に渡した分がそのまま赤字になっている。
お給料は郵便局の総合通帳に振り込まれる。総合通帳の定額部分に貯金した三十万円ほどを担保にお金を借りるしかない。
それと、通帳にボーナスが振り込まれれば、マイナスになった残高に充当される。そこからまた諸々の引き落としがあって再び残高は赤字に戻るだろうけど。
しかし、そうやって月々のお給料から少しずつ借金に割り当てていくしかない。
私は、つい数日前の事を思い出した。母に本当の当選金額がばれて叱られた時のことだ。
茶道教室のお稽古帰りに寄った喫茶『黒薔薇』で、私は、マスターに母に怒られた事を話してしまった。
「元気がないね」とマスターが話しかけてきたから。でもそうしたらマスターのお小言まで受けてしまった。
「もう、家で散々言われたんだから勘弁してよ」
そしたらマスターは、悪かったと。
宝くじに当選してから、由香里さんとマスターと私は、秘密を共有する間柄となり、以前に増して親密になったのは確かなんだけど、言いすぎだと思ったようだ。
その後も、私はついつい家の愚痴をこぼしてしまった。マスターにすれば人の家の話なんて聞かされたって面白くも何ともないだろうに。
「ごめんなさい。家の事ばっかり言って」
マスターは、ちっとも気にしない風だった。
「いいよ。居づらかったらここに遊びに来ればいい」
それから茶道教室を終えた由香里さんがやってきた。しばらく会っていなかった由香里さんは宝くじが当選した事で周囲のやっかみやら何やら酷かったらしい。
いつも元気な由香里さんが、相当気に病んでいたと言う。悩んでいたのは、私だけじゃなかったのか。もっとも私は、自業自得なのだけど。
三人で話すうちにマスターは、私の先ほどの話を話題に出そうとした。
別に由香里さんに知られるのは構わないのだけど、私本人でなくマスターの口から、伝わる事に違和感を覚えた。
「由香里さんにそれは……」
言いかけて私は口をつぐむ。こんな言い方、由香里さんが感じ悪いだろう。
上手くその場を収められなくなった私は、とっさに「バスで帰る」と言って『黒薔薇』を飛び出してしまった。
あの時、いきなり帰った事は、大人げなかったと反省している。
「家に居づらかったら遊びに来い」と言ってくれたマスターの言葉をふと思い出す。
社交辞令だったのだろう。それでもあんな帰り方をして、ずっと後味が悪かった。
謝りがてらにほんとに遊びに行ってみようかな。
そうしたら、借金でふさいだ気分も少しは晴れるかもしれないと思えたから。
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つぶ庵
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