いつか見た幻は幻想とかそんな美しい単語じゃなくて、ただ遠くに見える蜃気楼のような……そんな感じの幻だったと僕は今でも思っている。
その幻は単に神様が気まぐれに僕に与えた罰かもしれないけれど、僕はその蜃気楼のような幻をずっと覚えていたいと思った。
これはそう言うお話。
いや、物語にもなり得ないただの蜃気楼だと僕はそう思う。
【蜃気楼〜陽炎に消えゆくオモイデ〜】
『まもなく二番線に電車が通過致します。ご注意下さい』
女性声の機械音声がホーム全体に響き渡ったが、誰もそんな事など気に止めた様子もなく。自分が乗り込む電車を今か今かと時間だけを気にして、人それぞれ自由気ままな暇つぶしと共に列車を待っていた。
音楽を聴く大学生。友達とくだらない話で盛り上がってる女子高生。新聞片手に携帯で電話しているサラリーマン。指先が見えないくらい早くメールを打つOL。
どこにでも見られそうな朝方のよくあるラッシュ風景だ。
規則的に二列に並びドアの予定位置に群がる姿は、どこか幼稚園のおやつの時間を思い出す。言うことを聞かない子供が唯一、先生のいうことを聞く時間で、誰も言わないのに何故か先生の前で一列になって並んでいた頃の時だ。
案外、三つ子の魂百までと言うのはあながち嘘でも無いらしい。
小説片手にその風景を見ていた僕はキリがいい所で栞を挟み、右足近くに置いていた黒鞄を手に持った。
いつからかスーツに黒鞄が標準装備になった僕にとって、今更なんの感情も沸かないが、学生から社会人になった時には酷く格好よく見えたものだったが……それこそ何を今更である。
高校入学の時に親に買って貰った一万するかしないかの時計を見ると長針は二十四分を回っていて、少しばかり電車が遅れているようだった。
少しJRの脱線事故を思い出したが、まさかなと嫌な思考をどこかに消し飛ばした。
『まもなく列車が通過致します。白線の内側までおさがり下さい』
機械音声と気の抜けそうな警告音がホームに流れ、勢いよく列車が通過するかしないかのその瞬間。
――ホント。0コンマ何秒の差に。
僕は時間はぜんまいの廻さない古時計のようにカチリッと音を立てて止まった。
長い髪を風に遊ばして、お気に入りの泡のような淡いブルーの色のワンピースを着た女性は、嬉しそうなでもどこか悲しそうな,相変わらず彼女独特の泣き笑いの表情を浮かべながらその両眼でしっかりと彼女は僕を見ていた。
「なぎ……!」
そう叫んだ瞬間、急行の列車が僕と渚を遮るように目の前を塞ぎ、急行の通過音と人の喋り声にかき消されて僕の声はだだの雑音となった。
列車が通過した後、向かいのホームには彼女の姿はどこにも無かった。
最近疲れてるのかもしれないと思った。だからあんな幻を見るのだと……だけどもう一つの大事な事も思い出した。
「そうか……もうすぐ一年か」
呟いた言葉はやはり雑音の中にかき消された。
意識などしてないのに遠くの方で微かに蝉の声が聞こえた。
もう夏なのだと当たり前な事を思った。
昔から走る事が大好きだった。
人よりかけっこが早いとか逃げ足が早いとか持久力があるとかそんな理由で好きな訳じゃなくて、ただ走る事が好きなのだ。
事実、運動会のかけっこは三番という平凡な記録で、逃げ足だけじゃなくて追い足も遅くて、毎年恒例の持久走は下から数えた方が早かった。
だけど僕にとって走るというその行動は、ギタリストがギターを弾くような感覚とでも言ったらいいのかな? 上手くなりたいから……じゃなくて、好きだから。みたいな感覚なのだ。
それでいてタイムが早くならないという事は、ひとえに僕に走る才能というものが無いのかもしれない。
だから、毎日毎日決まった時間に決まったコースを走るのが僕の日課なのだけど今日は何故かランニング中に不思議な女の子に出会った。
蝉がよく鳴いているそんな炎天下の日だった。
「……何してるの? って聞いたら笑う?」
初めに僕がそう声をかけた。
その時の渚はまだ髪が短く、どこか人よりも達観していて、それでいて人を近付けさせない雰囲気を醸し出していた。
「あんた誰?」
彼女は虫でも見るような目つきで僕を見上げ、口をへの字に形作りながら睨らむ。
でもその時の僕はそんな彼女の雰囲気などどこ吹く風で、彼女が大事そうに右手に持っていた四分の一くらいのウサギの人形の方が気になっていた。
「ん〜誰と聞かれたら僕としか言えないんだけど……」
高校一年生にしてこの返答である。
自分がどれだけバカだったか思い知らされる。いや、今でもそんなに変わらないかな?
「……あんたバカじゃないの?」
「よく言われる」
「だろうね。私だってそう思うもん」
渚はぷいっと僕から目を背け、目前に広がる河川敷に目をやると、右手に持っていたウサギの人形を膝小僧の上に乗せる。
「何してんの?」
「あんたには関係無いでしょ」
「気になる事は聞いておきたいタチ何だよ」
「その駆け足止めてくれないかな? ウザいにも程がある」
相手の話をあまり聞かない女の子らしい。駆け足を止め、渚を見下ろすと彼女はウサギを膝小僧に乗せたまま、何も言わなくなった。
河川敷にはおじいさん達が集まって囲碁などを打っていて、遠くの方では女子大生がジョギングを兼ねて犬を散歩している。向こう岸には自転車のカゴと荷台に新聞を山積みした新聞配達のお兄さんがえっちらほっちらと自転車のペダルを漕いでいた。
「いつまで居るのよ……」
沈黙に耐えかねたのか彼女は呆れたようにそう言う。少しだけ声のトーンも低くかった。多分バカにしてたんだろうと思う。
「ん〜もしかして僕って邪魔?」
「初めに言わなかったっけ?」
「聞いてない」
「……はぁ」
渚が大きく溜め息を吐く。
真性のバカか新手のナンパかどちらかに思われたに違いない。今更ながらにそう思うが、この時の僕はそんな事考えるよりも好奇心旺盛で、なによりそうだな……今でこそ振り返ると一目惚れだったのかもしれないなあ
「……あんた変な人ね」
初めて彼女の笑顔を見た僕はハッとして、ハッとした分少しだけ慌てた。
彼女の笑い顔は独特の泣き笑いでその顔はどことなく悲しげで、どことなく悲観的で、どことなく寂しそうだったからだ。
その時の僕は精一杯考えた。考えたけど彼女が何で泣き笑いなどという表情を作れるのかが分からなくて、それでも何とか泣き笑いの『泣き』だけを取りたくて、それでいて彼女が笑う理由など思い付かなくて……だから精一杯笑った。
両頬を吊り上げて精一杯自然に見えるように目を細め、愛想笑いに見えないように精一杯自然に。
でも彼女には見破れてたようで、彼女は声を上げて泣き笑いの表情のまま大層面白そうに笑うと自分の顔を指差した。
「これはね、もともと何だよ。もともとこういう表情でしか笑えないの。何であんたがそんな頑張って私を笑かそうとするのよ、やっぱりあんたは変な人ね」
彼女はそう言って楽しそうに笑んだ。
僕も釣られて笑う。
これは愛想笑いだったけど。
「やっぱり変な人ねあんたは……」
彼女はそう言ってお尻についた砂を払うと、ウサギのぬいぐるみを抱えて立ち上がった。
「じゃあね変な人。また逢えたら“またね”」
僕は何も言えなかった。
引き止める資格も、理由も、訳も、名前すら聞いてなかったからだ。
それから僕は同じ時間。同じ場所。同じ天候。など彼女と逢えた条件を満たしそのコースを走ったが彼女はその日以来、僕の前には姿を表さなかった。
それでも、僕は一日も欠かさず何日、何ヶ月と彼女に会う為にただひたすら同じコースを走った。その頃からもう走る事は趣味ではなく彼女に会う為の口実。もしくは彼女を探す為の理由となっていたのだけど、自分では何も気付かなかった。
それから四季がまた夏になったある日。
あの日と同じ時間。同じ場所。同じ天候。同じ座り方で同じ泡のような淡いブルーのワンピースを着て、右手にウサギの人形を持ったままの彼女が河川敷を眺めていた。
だから僕も同じように彼女に聞いた。
「……何してるの? って聞いたら笑う?」
「笑わないわよ。変な人」
彼女はそう言って、ウサギの人形を一年前のように膝小僧に乗せた。
「ホントに“また”が来たね」
「うん」
言いたい事、訊きたい事が山ほど、それこそエベレストに負けないくらい大量にあった筈なのに、その質問の山は季節外れの雪のように顔を見た途端、小さくなって掠れて消えてしまった。
「何? なんか不思議な顔してるよ?」
「んー…いやまあ、訊きたい事が色々あったんだけど……顔見た途端忘れちゃって」
それがどうしようも無く悲しくて、辛くて、泣きそうで、でも何も言えなくて、だから彼女の顔を見て笑うしか無かった。
彼女はその真意が判らずただただ僕の顔を見て、また泣き笑いの表情を浮かべる。
夕焼けというには些か遅い時間だったが河川はその夕焼けが反射して光の帯が遠くからでも微かに見えた。
それが凄い綺麗でそれでもいつ、また彼女が『帰る』と言い出さないか心配で、そればかりが頭にあって、僕はただ静かに河川敷を見守る事しか出来なかった。
「そう言えば前にあった時に『何してるの?』って聞いたよね? 二回会う人は結構珍しいから特別に教えてあげる。このウサギにね……」
彼女が膝小僧の上に乗せているウサギの人形を右手で掴みぴょんぴょんと跳ねる真似をする。
「景色を見せてたの」
僕はその意味がよく判らなかった。
「どういう事?」
素直にそう訊くと彼女は相変わらずの泣き笑いを表面に浮かべ、お尻に付いた砂をパンパンと払い、立ち上がる。
「そのままの意味」
彼女はそう言って立ち去ろうとする。
だから……
「また逢える?」
弱々しく口からそんな言葉が出た。
女々しいとは判ってる。
今日はたまたまかもしれない。
たまたま立ち寄っただけかも知れない。
それは判ってる。判っていたが彼女はまた泣き笑いを表情に浮かべる。
「運がよければね。じゃまたね」
彼女はそう言って歩いて行った。
離れていく後ろ姿を止めたいと思い、走り出して、ふと我に返って、グッと奥歯を噛み締めて彼女の後ろ姿が見えなくなるまで其処に立ち尽くした。
それからまた秋が来て、冬が過ぎ、春が立ち去った頃。
僕は高校三年生になって、受験に勤しむ毎日だった。親にはゼミに入れられ、大好きだった陸上部は予選敗退で幕を下ろした。でも散歩という名目で僕はやっぱり欠かさずに彼女との場所を歩き回った。今回は前回の教訓を生かす為に質問したい事を紙に書いて持ち歩く事にした。
その日やっぱり彼女は同じ時間。同じ場所で同じワンピースを着て、同じ格好で座っていた。
「……久しぶりね変な人」
一年ぶりに会う彼女は少し変わっていてどこか無理をしているように思えた。髪は長く伸び、手は血管が浮き出る程浮かび上がり、顔は少しだけ痩せ細っていて青白かった。ウサギのぬいぐるみはいつの間にか手に持っていなかった。
「……ウサギは?」
「ウサギ? 何の事?」
彼女は泣き笑いの表情を浮かべ、僕を見てくる。
「いや、いいや」
彼女が忘れているならそれでいいやとこの時の僕はそんな事を思っていた。だけど……この時はもう手遅れだったのだ。一年前に気付くべきだったのだ。
なぜ彼女が一年に一回しか此処に来ないのか。なぜ彼女がウサギの人形に景色を見せていたのか。なぜ彼女が僕の事だけを覚えてるのか……
「変な人? あのねちょっと今日は疲れてるからちょっとだけしか居られ無いんだけど……それでもいい?」
弱々しく、だけど決して僕の方を見ない彼女はそういうと小さな溜め息を吐いた。
僕は大量に質問の書いてある紙を取り出すと、彼女に質問しようとしたが、彼女の姿を見ていると、何も言えなくて……だから一番訊きたかった質問を彼女に聞いた。
「君の名前は?」
「私? 私は渚」
彼女は弱々しくそう吐き出すと、小さく俯いた。
「ああ……そうか、これだ。これだったんだ」
彼女はそう吐き捨てると、僕に向かって笑う。泣き笑いのようなそんな笑顔だ。
「あなたの名前は?」
「僕は……」
僕が名を告げようとした瞬間。たったの瞼を二回程した瞬間。とてつもないく、それでいて苦しい程短い時間に彼女の姿は煙のように消えた。
「なぎ……さ?」
彼女は消えるつもりだったのだろう。
だけど、僕という変人が現れたから彼女は僕に興味を持った。
だからこそ。三日間。
その経ったの三日間を三年という月日に伸ばしたのだ。時の狭間にその身を投げ打って神様にでも頼んだのかも知れない。
だけどやっぱり三日間は三日間なのだ。彼女の体は消え失せ、代わりに蝉の死骸だけがその場に残った。
その蝉の死骸を優しく包み、家の庭に埋めてやった。名前は渚という。そんな名前の蝉だった。
お盆休みという大型連休を使って、僕は一年振りの実家に帰った。久しぶりの実家は相変わらず変わらなくて、親父の背中はちょっとだけ小さく見えた。
僕は当たり前のようにジャージに着替え、走り出す。いるのかいないのか判らないけど……僕はそこに向かって走り出した。
河川沿いの道を久しぶりに走ると簡単に息切れを起こした。煙草なんて吸うもんじゃないなとやっきになったが何を今更である。
だけど彼女はそこに居た。
死んだ筈の蝉は同じ服を着て、同じ格好で、そこに居た。
「……訊いておきたい事があったんだ」
「何?」
彼女は後ろ姿を僕に見せたまま河川敷を眺めている。
「訊け無かった事なんだよ」
静かにゆっくりとそれでいて唄うアルト歌手のように彼女は言った。
「名前は?」
「石白 勇兎」
「やっぱりウサギさんだったんだ」
彼女は相変わらずの泣き笑いの表情を浮かべ、楽しそうにホントに楽しそうに笑んだ。
「訊いておきたい事はそれだけ……」
「じゃあ僕からも質問。蝉の寿命は一週間じゃなかったの?」
彼女は笑う。
「六年だよ? 幼虫の時からだから。でも三年……神様に上げちゃった。人間に恋なんてするんじゃ無かったなあ」
彼女は悲観的にそう言うと相変わらずの泣き笑いを浮かべ唄うように消えた。
「じゃあ……バイバイ」
その時僕は泣いた。
馬鹿みたいに馬鹿よりも馬鹿みたいにガキのように泣きじゃくった。
僕は“またね”を訊きたかった。
蝉が遠くの方で鳴いていた。
どこか悲しそうに思えた。
―完―
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