【00】
彼女といた時間はとても短く、だからこそ私は、彼女と交わした言葉を、今もはっきりと思い出せるのかも知れない。
「『取り返しのつかないことを償うには』か。随分と難しいこと考えてるのね。学校のレポートとか?」
「うん、まあ、そんなところ」
カウンターを挟んで彼女と向かい合った私は、頷いた。
「アドバイスを貰いたいかなって」
「構わないけれど、ありきたりなことしか言えないわよ」
彼女は少し考えてから、口を開いた。
「まずは……謝ることよね。謝って、許してもらう」
「あはは、ホントにありきたり」
「だから言ったじゃないの。それともなあに? これは心理テストかなにか?」
「違う違う。ただ訊いてみたかっただけなの。……じゃあ、謝らなきゃいけない人に謝れないときには、どうしたらいいかな」
「……うーん……許してもらえるように、何かをする、とか? 罪を償うって、そう言うことでしょう?」
「……それじゃあ、」
私は、喉につっかえそうになる言葉を、無理矢理押し出した。
「いくら償っても、絶対に償いきれないときには、どうしたらいいの?」
「…………」
彼女が言葉を失ったようにぽかんと口を開けて、私の顔をまじまじと見た。
私はいつの間にかカウンターから身を乗り出していた。私はハッとなって、慌てて身を引いた。
「ご、ごめん」
「……ううん。こっちこそ、ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「やってしまった事の大きさなんていうのはそれぞれでしょうし、当事者になってみないと、その度合いは分からないから、一概にどうこう言える問題じゃないと思うし……恥ずかしい話だけど、そういうの、今まで考えたこともなかったから」
「そう、だよね」
「……それとも、あなたは既に当事者なのかしら」
私はドキリとした。
「どうして?」
「そうかなって思っただけよ。あなたにしては少し遠回しな質問ばかりだったから。それに、凄く真剣だった」
「…………」
私は黙ってしまった。図星だった。結局のところ私は、こういう回りくどい方法でそのことを彼女に訊くぐらいしか、考えつかなかったのだ。彼女に相談したところで、彼女に謝ったところで、それが何かの解決に繋がる筈もないのに。逃避にしかならないのに。
「取り返しの付かないことっていうことがどんなことなのか、具体的に訊かせてくれるなら、あなたに何を伝えればいいのか、分かるかも知れない。勿論、言いにくいことなら言わなくてもいいけれど」
「……えっとね、あのね、凛さん」
言いかけたその時、私にだけ聞こえる指向性のアラームと共に、ボイスチャットの着信を知らせるアイコンが私の視界に浮上してきた。
「ごめん、佳子那からボイチャ来ちゃった」
「構わないわよ。その間にお茶でも淹れてくるわ」
彼女は席を立つと、カウンターの奥の小さな調理場で、湯を沸かし始めた。
私はいつも、彼女は骨董屋なんかやめて喫茶店でも開けばいいのにと思うときがある。広い部屋の中に無造作に陳列されている骨董品の中には古くてどっしりとしたテーブルや、ぴかぴかの椅子もある。内装として使えば凄く雰囲気の良い店が出来上がるのではないだろうか。
「ボイスチャット、出なくって良いの?」
「え? あ、そうだった!」
視線を彼女に釘づけていた私はその言葉にハッとなって、慌てて目の前のアイコンを、ぱんっ、と手のひらで挟み潰した。
私の視界にウィンドウが開いた。
『遅―い! 何秒待たせるのよ!』
ウィンドウの中から、ネズミとリスの中間みたいな小動物が身を乗り出した。大きな黒縁眼鏡を掛けているそのアバターは、頬をぷくーっと風船のように膨らませ、見るからに怒っていた。
「ごめんごめん。てか、普通のチャットでもいいじゃん」
『指動かすより話した方が早いでしょ。それとも、今取り込み中だった?』
「いや、そんなんじゃないんだけどね」
ネズミはウィンドウの中で、大げさに嘆いてみせたりニヤニヤと笑ったりと忙しなく動き回っている。通話をしている相手が実際にこの動きをしているわけではないのだが、表情豊かな声とピッタリ合ってるおかげで、そのアバターが本当に喋っているかのようだった。
『あ、分かった』
と、ネズミは唐突にと漏らして、ぽんっと手を打った。
『まだ凛さんのお店にいるんだ』
「……うん」
『そっか、ならいいや。ゆっくり話してきなよ』
「ああでも、今日はもう帰ろうかなって。家に帰ったらまた連絡するから」
『ううん、大丈夫大丈夫。私の方は大した用事でもないし。ああ、でも明日は予定開けておいてよね。いつもどおり新作アプリ持ってくるから』
「あはは。分かった、楽しみにしてる」
『今回のは先週持ってったエルシィ以上の出来だからね。覚悟しててよ。ルル』
アバターのネズミがひらひらと手を振って、ウィンドウが音もなく閉じる。紅茶のポットとカップをお盆に載せて、カウンターの奥から彼女が戻ってきた。
「まだ帰らないでくれると嬉しいんだけどな。せっかくお茶も準備したんだから」
私は彼女の言葉に甘えて、それからしばらく店に居座っていた。けれど、佳子那からのボイスチャットが入る以前の話題に戻ることは結局無く、私が彼女に『あのこと』を告白する機会は、永久に失われた。