序章 運命の相手
どん、という鈍い衝撃と同時に側頭部がどこかにぶつかり、痛みで自然に瞼が開いた。
まず視界に映ったのは埃だらけのフロントガラス。
その向こうには砂漠の埃っぽい空が霞み、上空に鳶が輪を描く。路上には薄汚れた羊の背中と背中と背中がめえめえとせめぎ合っている。
隣席の運転手が窓から首を出し、外を見てアイヤァ、と短く叫んだ。
少年のものと思われる悲鳴が続いている、誰かの名前を呼んでいるようだ。運転手はそのままドアを開けて車外に消え、少年の叫びは泣き声にかわった。
ガラス窓にぶつけた耳の上をさすりながら、男は開いたままの窓から外を見た。車の前方右側に羊飼いらしき服装をした老人が倒れている。
生成りのシャツの上に羽織った刺繍入りのベストは頭部から溢れる血で染まり、砂上に投げ出した四肢はぴくりとも動かない。手の先には杖が転がっている。老人のそばに屈みこむ黒い帽子の少年の言語はウイグル語だ。運転手が突っ立ったまま戸惑ったように同じ言葉で言い返している。
「突然倒れ込んできたのはそっちだ。こっちだって轢きたくはなかった」
「爺ちゃんを助けて」
「ここじゃどうにもならない」
「じゃあどうするんだ。このまま行くのか!」
少年は車から降りてきた男を見ると、話し相手を変えた。
「病院まで連れていって!」
砂漠に似合わない上品な身なりの男は、麻のシャツの上に灰色のジャケットを羽織って萌木色のスカーフを巻いていた。突っ立ってポケットに手を突っ込んだまま、運転手に向かって中国語で言い捨てる。
「先を急いでるんだ。金でも渡せばいいだろう」
「金を渡したところでここに置いておけば死にますが……」
「じゃあどうする。タクラマカン砂漠に医者がいるのか」
「村まで。クムシュまで連れていって」少年は必死の形相で食い下がった。
男は少年の顔を見てウイグル語で言った。
「そこに医者がいるのか」
「ぼくの村なんだ。小さな診療所ならある」
「診療所程度じゃどの道助からないな。どれぐらいかかる」
「元来た方へだいぶ戻ることになりますが、この車でなら20分ぐらいです」運転手が背後から言った。
男は黙って少年の顔を見た。ウイグル帽の下の薄汚れた頬には涙が伝い、長めの癖毛が大きな目にかかっている。少年は自分をじっと見つめる男の切れ長の瞳を、ステンレスの刃のようだと思った。
男は首に巻いた薄いスカーフをゆっくりとほどき、老人のそばに屈んだ。懐から出した小さなウイスキーの瓶の蓋を外し、額の傷口に中身を注ぐと、スカーフできつく頭を縛る。
少年は大きな瞳を見開いて男の手元をすがるように見た。
「爺さんのカビ臭い血の匂いはご免だ」男はどこか言い訳するように呟いた。
運転手はぐったりした老人の足を抱え、少年とともに車内の後部座席に運び込んだ。
ばんとドアを閉めると、広い砂漠公路の上で車はターンを切った。
「今日が羊の解放日か」車窓を見ながら助手席で男が呟くと
「犬のロンが道を知ってる、いつも一日かけて同じオアシスまで行って草を食べさせて戻って来るんだ。ほっといても村に返してくれる」後部座席で老人を抱えたまま、少年は答えた。
地上に降りた綿雲のような羊の群れが車窓を後ろに遠ざかる。
男は前を向いたまま聞いた。
「今、幾つだ」
「十二歳」
「名前は」
「ハザク」
「……倒れ込んできたと聞いたが、爺さんは病気か」
「このところ貧血気味で、吐き気もあって、具合が悪そうだった」
「ずっとそうなのか」
少年は少し考えると言った。
「半年ぐらい前から……かな」
「医者には」
「一応みてもらったけど、年のせいだろうしどうにもならないって。いい加減羊飼いの仕事を辞めればいいだけだって」
「お前さんはどうなんだ」
「ぼくもよく鼻血は出る。日差しはきついし、きっと血の気が多いんだって爺ちゃんはいってた」
砂漠は岩塩の影響で白く光り、捲き上がる砂埃が視界を覆い続ける。少年はがさごそと背中の布のリュックを探る様子だった。 ふと斜め後ろを見やった男の目の前に、ラグビーボール形の黄色いウリがにゅっと差し出された。
「無事村についても、あんたにあげるものがないから、これを」
男は黙って受け取った。
「頭を縛ってくれてありがとう。おやつがわりなんだ。爺ちゃんが植えて育てているハミウリ。ぼくのために、いい種を見つけてきて植えたんだ。すごく甘い」
いったん言葉を切ると、少年は独り言のように続けた。
「……ぼくのせいなんだ」
「何が」
抑揚のない声で聞き返す男の視線の先で、少年は老人の頭を抱き寄せた。
「ぼくが、爺ちゃん羊が危ないよ、っていったんだ。先頭の子が道に飛び出して、一番ぼくが可愛がってたやつで、爺ちゃん慌てて飛び出していった。その先で」
数秒の沈黙ののち、男は尋ねた。
「今朝この実はどこにあった」
「どこって、テーブルの上の籠に……」
「朝起きてすぐリュックに入れたか?」
「……出かけ間際に気づいて、ちょっと待って、って言ってから」
少年は何を聞かれているのかといった表情で不思議そうに答えた。
「じゃあ今この運転手が爺さんをはねたのは、お前さんじゃなくてこのウリのせいだ」
「え?」
少年は大きな茶色の瞳を上げた。東の血が6、西の血が4、そんな塩梅に東洋と西洋が混じったシルクロードの顔だ。
「爺さんはお前さんを待ったことで出発がほんのちょっと遅れた。その遅れがなければあのタイミングでこの車の先に来ていなかったかもしれない。そもそも爺さんがウリを植えなければその実はならなかった、孫がおやつにする習慣もなかっただろう。そうすれば今朝事故にも遭わなかった。
だが孫が生まれなければ爺さんはウリを植えなかった、そしてお前さんの両親が出逢わなければお前さんは生まれなかった。じゃあ両親を出逢わせたものは誰だ?」
少年は黙って目をしばたたかせた。
「偶然に見えるどんなことも、丹念に張り巡らされた運命の糸の上に見事に位置している。お前さんとわたしが生まれて今までおこなってきた全てのことが、一瞬の事故に向けてきちんと用意されていたわけだ。そのどれか一つが欠けても今はなかった。運命とはそういうものだ」
少年は戸惑ったように、小声で言った。
「じゃあ、……つまり」
言いよどんだ後、思い切ったように続ける。
「じゃあつまり、ぼくにとっておじさんは、運命の人だってこと?」
運転席で運転手が小さく噴き出した。男は苦笑しながら言った。
「だとしたら最悪の運命だな」
「おじさんの名前は」
「だから聞いてどうする。二度と会うこともないだろう」
「ぼくは言ったよ」
男は前を向いたまま少し考えると、短く言った。
「張 家輝だ」
「わかった。覚えとく」
バックミラー越しに見る少年は、ウイグル帽を脱いでやわらかな笑顔を浮かべていた。男は黙って視線を少年から砂漠に戻した。