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八握の檻 作者:田鰻
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10月:小さな秋の捜しもの - 1

寒かった。
まだ秋とはいえ、夜ともなれば冷え込む日もある。
しかし悲しみが心を、時に肉体までもを凍てつかせるのであれば、この身を切るような寒気は、間違いなくその感情を源として生まれている。

他の何処にも無い。
他の誰にも感じられない。
ただ己が内のみを焦がす、その凍え。

「……九縄、どうか……」
「見苦しいぞ」

無感動に言い捨てた化け蜘蛛に、もはや力無く項垂れる以外の術を、想子は持たなかった。救いを求めるように――あるいは何かに縋るように、何かを掴もうとするかのように、白い手が宙を彷徨う。

「無駄だ」

その手が、ぱたりと床に落ちた。
フローリングに手の甲が当たり、鈍い痛みが骨を打つ。
僅か三音。たかがそれだけの言葉が、最後に残された糸を断ち切ったのだ。
希望という名の、糸を。

「わかっていたのだろう」

わかっていた。

弱々しく、想子は頷く。
こうなるのは途中から――否、はじめから、わかっていた。
情で動かせる事ではなかった。奇跡を期待できる相手ではなかった。
わかっていて、わかっていて。それでも、決して有り得ない一条の光明を求め続けるのを、やめられなかった。

それこそが、自分の愚かさ。
心持つ生き物である、人の愚かさ。

「もう、お前に打つ手は無い」

見る者に鋭利な印象を与える目が、辛そうに伏せられる。
睫毛の下に隠れた、黒い瞳は潤んでいた。
涙が外へ零れ落ちようとするのを、想子は震える拳をぎゅうと握り締めて、それだけはと、必死に耐える。
泣かないと、決めていたのに。せめて笑って終えようと、あれほど自分に言い聞かせたのに。
そんな誓いを無慈悲に嘲笑い、涙は勝手に、次から次へと込み上げてくる。

「諦めろ」
「ああ……」

喘ぎに似た呻きが、想子の唇を割って出る。
視えているのだ、想子の目には。
九縄の足先から伸びた一本の糸が、今まさに、ゆらりと立ち上がったのが。
見えなければ、少しは楽にこの瞬間を迎えられただろう。
異能であるとは、何と残酷な事なのか。

「ああ、九縄……待って……」
「黙れ。きりが無いわ」

九縄の声は、ぞっとする程に平坦だった。
冷たさすら無い。真っ平らな音の連なり。そこには言葉の持つ意味以外に何も読み取れず、何も感じられない。どれだけ苛烈な否定の文句よりも、強く、強く、一切の哀願は通じぬと聞く者に悟らせる虫の声音。あるいはこれこそが、九縄本来の声なのかもしれなかった。
その声が、何よりも雄弁に語っている。
どのような時を共に過ごし、どのような言葉をかわしてきたのであろうとも。
今この時、それら全ては、幻想に過ぎないのであると。

「これで」

――滲んでぶれた視界の中で、銀光を放つ糸が振り被られ

嫌だ。
そんな瞬間、見たくない。
想子は目を閉じようとしたが、瞼は縫い付けられでもしたように動かなかった。
瞼のみならず、手も、腕も、足も、動かせないというのに。
唇だけは勝手に開いて、絶叫の形を作っていた。

――打ち下ろされる

「終いだ」
「あああああああああああああっ!!」

パチン。

小気味良い音を立てて、白の石が最後の升目に置かれた。
申し訳程度に残っていた黒石が、端から順にぱちぱちぱちと裏返されていく。
汚れなき白一色へと塗り替えられた8掛ける8の盤面を前に、九縄は10秒間ほど沈黙を保っていたが、やがて、甚く感じ入るものがあったとばかりに呟いた。

「……どうやれば、こうまで見事に敗北する事ができるのだ?」
「あああああ……」

断末魔の残滓が、掃除したてで珍しくもさっぱりした景観の室内に木霊する。
力尽き前のめりに崩れる想子。それを見詰める九縄。
時は、静かに流れていった。





翌日は突き抜けるような快晴だった。
まだ秋、されど秋。直視すれば目を細めてしまうほど強い日差しでも、肌が汗ばむ事はない。
時折吹き抜けていく乾燥した風が、心地良く想子の髪をそよがせる。春と並び、外に出るには絶好の季節といえた。あと一回カレンダーを捲った後には、秋風は寒気へと名を変え、人々はコートに身を埋め、背を丸めて足早に行き交うようになる。想子の故郷と違い、この土地が白雪に覆われる事は滅多にないとはいえ、やはり冬の寒さは厳しい。長袖一枚を羽織っただけで気軽に出歩けるのは、今の時期だけに許された特権である。
午前の路地はしんとしていて、歩く人影は想子のみ。とりとめなしに進みつつ、たまに頭を上に向け、空の青を見る。
ありふれた眺めといえばそうだが、想子の気分は悪くなかった。不規則に曲がるアスファルトの道は、所々がひび割れ、また盛り上がっていて、人工物でありながら何とはなしに剥き出しの土が持つ生命感がある。

「若い娘が、休日の朝からあてもなく徘徊趣味か。
さてこれを、表に出るだけ進歩したと儂は褒め称えるべきかね」

想子の帽子が僅かに持ち上がり、その隙間から九縄が脚先を覗かせた。被るというよりも、ほとんど頭に引っ掛かっているといった有様だが、中で九縄が支えているため落ちる事はない。
九縄の用いる力、妖気の結晶とも言える糸とは異なり、九縄自体を見る事は誰にでも出来る。人通りが少ない路地といっても、外を歩くのにまさか堂々と肩に止まらせておく訳にはいかなかった。潜伏場所としてバッグを使った事もあったが、動くたびにやたらと揺れる、小物が当たって邪魔、咄嗟に飛び出し難い、等の理由で、狭い場所を好む九縄といえど流石に不愉快になったらしく、最近は専ら帽子手法に切り替えている。
身体は、部屋での姿よりも更に縮んでいる。この状態なら、想子の掌とほぼ変わらない。いっそ更に更に縮んでしまえば帽子さえ必要なくなるのだが、これ以上は耐久性と戦闘能力に明確な悪影響が生じる。この大きさが、想子の身を守る事のできる、本当の限界なのだろう。
嫌味たらしい物言いに、想子はささやかな抵抗を試みた。

「楽しいじゃないですか、おさんぽ。ほら九縄、あそこに、いい感じに渋い和菓子屋さんがありますよ」
「今のお前に、団子を食いながら茶をすする余裕があると思うなよ」
「うう……」

そして落ち込む、うなだれる。
懐が寂しい。給料日前だからという言い訳は、最低限働くという行為をした人間のみに許されるものだ。紙のお金ばかりで軽くてね、と気取れれば良いのだが、紙幣だって集まれば重くなる。現金を持ち歩かないだけだよ、カード主義なんだ、なんて台詞、一度でいいから口にしてみたい。
想子は貧しかった。というと語弊があるものの、この調子でいくと、数ヶ月以内に深刻な資金難に陥るのは確かである。そろそろ真剣に稼ぐ手段を探さなければならない。だが仕事という単語を思い浮かべると、それに関する最も新鮮な記憶――今朝の電話をも一緒に思い出してしまい、想子の気はひたすら滅入ってくる。

「……気晴らしに、あてもなく歩きたくだってなります。朝一番が、あの電話では」

つい、愚痴も出る。

「世の中、相手が気に入らないから殺してしまえ、って短絡的な考えの人が多過ぎですよ」
「気に入らんから、で頼めるほど儂は安くないがね。加えてそこまでオープンでもなかろう、お前の家は」

喋るだけでは暇になってきたのか、九縄は髪の分け目を爪で辿っている。

「ひとつくらい受けてみればいい。儂に命じて突っ立っているだけで、何万本でも団子が食える金が手に入るぞ」
「人命を団子の本数に換算しないでください。それに九縄、あなたは人間が食べたいだけでしょう」
「お前に代替わりしてから、とんと御無沙汰なのでな。
……とはいえ、こうも世に食い物が溢れてしまっては、格別に美味いというものでもなくなった。美味い事は美味いが、言ってしまえばまぁ、ただの肉だ。味云々よりも、たまに食いたくなる嗜好品といったところか」

人喰いの妖怪も飽食の時代かと、知ったところで欠片も嬉しくない人肉についての豆知識を仕入れつつ、想子は思う。そも、生命維持としての食事を必要としない域に達している九縄にとって、全ての食物は嗜好品なのであるが。

「お前の団子と変わらん、ははは」

あくまで団子基準で話を進めるつもりらしい。
嫌がらせか。
絶対に嫌がらせだ。

「……あのですね、九縄。わたしは、きっと世界から争いはなくせる筈だーとか、人は話せば必ずわかり合える筈だーとか、そういった絵空事を信念にしている訳じゃなくて、自分で人を殺すのは嫌だっていう、ごく普通の感覚で話をしてるだけなのですけど」
「お前が直接手を下すのでもあるまいに」
「ですが決断を下すのはわたしです。あなたという必殺の存在がある限り、わたしが意思を示すのも、自分の手で殺すのも変わりはありません。
……この考え方、そんなにおかしいですか? ねえ九縄、わたし普通ですよね?」
「蜘蛛に人間の感覚を聞く奴があるかよ。だが、それで普通だろうな」
「あっ、そこはあっさり認めるんですね」
「これだけ長く人と関わっていれば、何がお前達の普通で、何が普通でないのか程度、誰にでも理解できるさ。理解の上で儂は勧めてみただけだ、無理強いはせぬよ。その気も無ければ、その権限も無い」

帽子に潜む蜘蛛の妖怪は、それきり誘惑を打ち切った。
それを戯言と断じず誘惑だと感じてしまった事が、報酬の為に人を殺す行為を強固に拒絶してみせながら、まだ何処かに、そちらの道へ走ってしまえば楽という気持ちがある証のように思える。
だとしたら、悪魔はこの蜘蛛ではなくて、自分自身の心だという事に――

(やめましょう、不毛不毛)

想子は小さく首を振った。
堂々巡りに突入しそうな思考は、こうして放棄してしまうに限る。
ただでさえ妖怪だの怪物だの絡みの話に追われているのだから、このうえ悪魔にまで登場されるのは御勘弁願いたい。
考えようによっては依頼の電話より殺伐とした会話をしてしまったが、思いがけない収穫といおうか、想子の憂鬱な気分は、いまやほとんど収まっていた。言葉にして吐き出すというのは、発散手段としては常に一定の効果が見込めるようだ。
話しながらだいぶ歩いたというのに、いまだすれ違う人は無し。
実家にいた頃は、都会というと始終どこにでも人が溢れているようなイメージを持っていた想子も、一歩大通りを外れれば、田舎とさして変わりない静寂に満ちている場所も多いという事を、上京して初めて知る。
もっとも、この一見寂れた路地も、平日の早い時間となれば、学校や駅を目指す人々で多少の賑わいを見せるのだろう。
何もない空間に行き交う人影をぼんやり思い描き、適当に横を見たり上を見たりしつつ、歩く。歩く。疲れ切ってしまえば余計な事を考える暇もなくなるなんて考えて、いやいやそれは後ろ向きかと考え直して。定期的な間隔で姿を現す電柱に何気なく目が行った時、はたと想子の足が止まった。

「……しかしだな、想子よ。稼業の好き嫌いとは別に、お前に金が要るのは動かせぬ事実だろう」
「………………」
「人殺しには関わりたくありません、なるほど立派、立派。
かといってスーパーの店員も水道局もガス会社も、お前の道徳観を値引き率に還元してはくれんぞ」
「………………」
「そろそろお前も……おい、想子。聞いているのか、想子」
「九縄」
「むう?」
「これ」

短く促されて、ようやく九縄の注意が、想子の視線の先にある物へと向いた。
灰色いコンクリートに貼られた、真新しい長方形のポスター。
そこには、太く強調された字でこう書かれている。

『迷い猫、探しています』
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