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八握の檻 作者:田鰻

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8月:太刀塚想子 - 5

ぶうんと唸るような音に、重い瞼を開く。
首を振ると、雑誌がばさりと横に落ちた。
少し、眠っていたらしい。
差し込む日の光で、部屋はどこもかしこも橙色に染まっている。これでカラスの鳴き声でもすれば完璧なのだけど。想子がそう思った瞬間、かぁという声が外から聞こえた。
小さく、唇を笑いの形に曲げる。
部屋の異変に気付くのが遅れたのは、寝起きの気だるい目を暫く窓に向けていたせいか、そこから窺えるのが、都会にしては珍しい、綺麗な夕焼けだったからか。

想子は一気に跳ね起きた。

「こ、これは……」

さながら爆撃でも受けたかの如きだった室内が、部屋としてあるべき姿を取り戻していた。即ち、本は本棚に、洗濯物は洗濯籠に、ゴミはゴミ箱――は容量的に無理なので、複数のゴミ袋にきちんと分別されて。
腕組みして呻き、ついでに頬など抓ってみる想子の視界を、ガラガラガラという車輪の音を響かせつつ、掃除機が走り抜けていった。自走する掃除機。科学は遂にここまで進歩したのだろうかと、あらぬ空想にふける。
掃除機はフローリング上で華麗にターンを決めると、ノズルで想子の方を指した。
咄嗟に後退り、ベッドの縁がふくらはぎに当たる。
本体の真上に、べたりと脚を広げた九縄が乗っていた。

「起きたか豚娘。お前もさっさと手伝え」
「誰が豚娘です! ……って、あなた一体何を」
「とうとう掃除という概念すら脳味噌から抜け落ちたか。どこまで人から退化すれば気が済むのだ」

ぶおん、とモーター音。
さも当然といった様子で強スイッチに切り替えてみせる九縄に、想子は些か頭を抱えたくなった。

「……まず、蜘蛛が掃除機を使っているのを疑問視するべきでは」
「こんなもの、プラグをコンセントに差し込んで決まったボタンを押すだけだろうが。何が難しい?」
「そうなんですけどね」

言われてみれば、難しい事は何もない。太刀塚家が特殊な稼業に身を染めてきたとはいえ、文明社会から隔絶された生活を送っていた訳ではないのだから、テレビだろうと掃除機だろうとパソコンだろうと、時代の流れに合わせて新しい知識が増えていくのは自然な事なのだが。
やはり、慣れている想子とて違和感は拭えない。そもそも違和感を語る問題でもない。ホースを宙に持ち上げ、ノズルで床を擦りながら進んでいく掃除機は、さながら透明人間にでも操られているようだった。
だが、それは断じて透明人間の仕業などではない。常人ならば何も見る事の出来ない空間に、九縄の爪からそれぞれ伸びた糸が、本体やホースに絡み付き動かしているのを、想子の目は確かに視ている。人間の腕が多数あるようなものなのだから、それは器用だろう。今は全部は出していないようだけど。
これをビデオに撮って送った方が手っ取り早く稼げるんじゃないかと考えていた想子の顔に、雑巾が投げ付けられた。

「拭け」
「……はい」

こうなっては仕方がない。項垂れて、想子も覚悟を決めた。
さっぱりした床を、長方形の布切れで清める。意外にも、床そのものの汚れはさほど酷くなかった。時折、何かの液体がこびりついた跡に遭遇するが、力を込めて何度か擦れば取れる。そのようにして黙々と掃除をこなしている間にも、ますます部屋は色の濃さを強めていった。

「良い、日の終わりだ」

ぽつりと九縄が漏らした呟きに、想子は手を止めた。
見れば九縄もまた作業をやめ、少し前に想子がそうしていたように窓を眺めている。

「日の始まりに陽が昇り、日の終わりに陽が沈む。こればかりは今も昔も、東も西も変わらぬ」
「あ、海外では沈まない太陽もあるみたいですよ」
「……ああ、言われてみれば、そんな現象もあったか」

どこか呆とした声音で、九縄は続ける。

「海の向こう側か……いつかは訪れてみたいものよな。想子、お前は夕日に浮かぶモン・サン・ミシェルを知っているか」
「フランスの観光地でしたっけ? 夕日のは見たことありませんけど、風景だけなら写真で」
「天の使いが司祭を脅迫して造らせたという修道院さ。
それが後に要塞や監獄に使われるのだから、人間の嫌味返しも中々だ」

それきり、九縄は静かになった。
下に敷いた機械を動かそうともせずにいる。まるで、遙か海を越えた先を見通そうとしているかのように。底知れぬ闇を湛えた眼が、きつい夕日の光すら全て呑み込んでいた。

「いつか」

想子の唇が動いた。
その先を続けるか少々迷ったのだが、部屋に落ちる沈黙に先を促されている気がして、続く言葉を紡ぐ。

「いつか、見れたらいいですね」

行けたら、とは言わない。
ただ、千年を縛られてきた九縄が、見たいものを見る事のできる日が来ればいいとは思う。
その日の訪れが、何を意味するのか判っていても。

「そうだな」

そう返してから、九縄はふと何か重要な事に思い至ったように想子を見た。
そして、本日何度目かの沈黙がやってくる。
一秒、二秒。秒針が時を刻むにつれ、穏やかで寂しげな微笑で窓の外を見詰めていた想子の頬に、つうと汗が流れる。

「……待てよ。おい、想子」
「ぎく」
「考えてみれば、海外に行くというのは、そのような遠い目をして語らねばならない程の大事か?」
「ああっ、気付いちゃいました!?」

絶望に、今度こそ想子は頭を抱える。

「パスポートと金があれば明日にでも実現可能だろうが。何が、見れたらいいですね、だ」
「だっ、駄目ですよ。お金なんて無いですし、日夜勉学に励まなければいけない学生が、海外旅行などしている訳には……」
「この30日間でお前がしていた事を教えてやろうか。食う、寝る、起きる。以上だ」
「……素晴らしい観察眼です、九縄。わたし、感服致しました」
「朝顔の方がまだ観察のし甲斐があるわ。
とにかく暇なら、明日から実家の仕事でも皿洗いでもレジ打ちでも何でも良いから稼……」

がらんごががん。

突如響いた騒音に、一人と一匹はぎょっとして言葉を止める。
想子が音のした方角――いまだ手付かずの隣室入口へそろそろと歩み寄り、恐る恐る、首を曲げて内部を覗き込む。
すぐに戻した。
物問いたげな九縄に、想子は首を振る。
特定は出来ないが、どうやら奥地で積みに積み重なった何かが、自重に耐え切れず崩落を起こしたらしい。
揃って、溜息。蜘蛛に息を吐く為の口はないが、雰囲気だけでそれと知れる。

「……まあ、その前に掃除だな」
「……ですね」

想子、大学生活はじめての夏休みは、こうして折り返し地点を迎えた。
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