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八握の檻 作者:田鰻

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8月:太刀塚想子 - 2

「そう言われましてもねぇ」

革張りのソファに腰掛けた男は、白いものが混じり始めた頭を掻いた。
向かいに座っている女は、想子である。出されたぬるいお茶を一口飲むと、この不動産屋を訪れてから何度目かになる懇願を口にした。

「お願いします。安ければ安いほどいいんです」
「安い部屋ならあるにはありますが、どれも若い女の子が一人で住むような所じゃあないですよ」

眉を寄せて書類をめくっていた男の動きが、とある一枚で止まる。

「ああ、これは……」

想子は勢い込んで身を乗り出した。

「なんですか、あったんですか」
「いえ、まあ、あるにはあるんですがね、ここはやめておいた方がいいですよ、絶対に」
「あの、家賃は……?」
「ええと、1万って条件ですね。月1万です」

思わず真上から書類を覗き込んだ想子は、そこに書かれている間取りを見て目を丸くした。どう考えても、ひと月1万で住めるような部屋ではない。その他の条件も確認したが、金銭的にも場所的にも申し分なかった。

「ここ、ここにします!」
「ですが……」

即断する想子に、やはり不動産屋の男は渋る態度を崩さない。
眼鏡を持ち上げ、鼻当ての下に滲んだ汗を指で拭うと、深刻そうな表情で溜息を吐き、言った。

「ここ、出るんですよ」





目的地へ向かう車の中で、男が改めて一から説明してくれた。
この物件は、いわゆる事故物件であること。
事故物件とは、前の借主が病死や自殺などにより室内で死んでしまった物件を指すが、それだけならここまで極端に安くなりはしない、と男は言う。
事実、最初の死者が出て暫くしてから行われた募集で、次の借り手はすぐに決まった。死因は不明だったが、自殺ではなかったらしい。まあおそらく心臓発作か何かでしょう、という話を、新しい借り手である会社員の男にも話した。その男は想子と同じように全く意に介さず、他の部屋に比べて2万安くなっている家賃のみに興味があるようだった。

十日後、男は死体となって発見された。
異臭に気付いた住人による通報があったのが十日後だったから、実際には入居して数日から一週間後には死んでいたらしい。
同じ部屋で立て続けに二人、という事もあって、今度はちょっとした騒ぎになった。
しかもこの頃から、他の部屋でも異変が起こり始めたのである。
誰もいない筈なのに、人の気配を感じる。夜中に不気味な笑い声がする。突然テレビが転がり落ちる。棚にしまっておいた食器が粉々に砕けていて、フライパンには爪で引っ掻いたような跡が幾つも走っている……。
死人こそ出なかったものの、気味悪がってマンションから出て行く者も出始めた。全ての部屋の家賃を値引きし、問題の部屋は破格の四分の一にする苦肉の策で何とか流出は止み、その部屋も三番目の入居者を得たのだが――。

二日後、その男も死んだ。
真夜中の絶叫で跳ね起きた住人は、これまでの事もあって即座に警官と救急車を呼んだが、彼らが到着した時には、既に手遅れだった。死因はまたも不明。自然死だろうという結論だったが、直前の悲鳴と経緯を知っている住人に、そんな話を信じる者はもはや一人もいなかった。同時に、残ろうとする者も。
こうなると、貸す側としても勧め難くなる。
たまに興味を示す客がいても、一連の話をするとさすがに尻込みしてしまう。
そのうち最後の住人が出て行き、間もなくマンションは無人となった。
取り壊すにも金がかかるので、そのままにしておくしかないのだという。
まぁそういう事ですよと不動産屋は話を結び、ハンドルを横に切った。

「あの、こんなこと聞いてすみません。例えば、お祓いとか、しなかったんですか?」
「したみたいですよ、私は直接見てませんがね。何でも、その道では有名な霊能者だかお坊さんだかだったとか。マンションを見た瞬間、悲鳴をあげて逃げていったらしいですけど。
それで皆さん、ますます怯えちゃってね――ああ着きました、そこです」

男は、道路脇に車を停めた。想子も外へ出る。
あれですと男が指差した先には、ほぼ新築という言葉通り、真新しい2階建ての建物がひっそりと佇んでいた。マンションという単語から5階も6階もあるビルを想像していたのだが、一口にマンションといっても定義は様々のようだ。
男の話によれば、今は誰も住んでいない筈である。

「中を見たいんですけど」

想子が言うと、男は僅かに戸惑った表情を見せた。
あまり近付きたくないのだろう。内心を察した想子は、にっこり笑って片手を差し出す。

「大丈夫です、一人で行ってきますから。鍵を貸して頂けますか?」
「あ、ええ、ですが……」
「何かあったら大声で叫びます。それに昼間なら、幽霊さんもお休み中だと思いますので」

尚もそう続ける想子に、ようやく男も苦笑して、こちらへと言うと先に立って歩き出した。

「行きましょう」
「でも……」
「まさか、お客さんだけで行かせる訳にもいきませんよ」

階段を上がりながら、想子は問う。

「皆さんが亡くなられたのは、どの部屋ですか?」
「2階の、真ん中の部屋です……が、どこでも家賃は同じですよ。お客さんは幽霊は怖くないみたいですが、わざわざ遺体の出た部屋にするこたぁないんじゃないですかねぇ」
「そうですね」

想子は、2階で一番奥の角部屋を見せてもらう事にした。このマンションは2階建ての各階3部屋という構造であるから、件の部屋とは隣り合わせである。
緊張した面持ちの男を置いて、想子はさっさと部屋に入っていく。
ざっと室内を回ったが、見れば見るほど、これ以上の物件は存在しないと思えた。広さ、新しさ、そして何よりも安さ。絶好条件の三拍子を前にして、想子が決断を下すのに時間は要らなかった。
玄関先でそわそわしていた男の元に戻り、借りますと告げる。
男がまじまじと想子の顔を見、本気ですかと言った。想子は頷く。

「本気も本気です。早く帰って手続きしましょう、他の人に借りられてしまうかも」
「その心配はないと思いますけど……しかし、本当にいいんですね?」

念を押す男に、想子は再度大きく頷いた。

「はい、いいんです。ね、もしわたしが死んでしまったとしても、不動産屋さんを恨んで化けて出たりしませんから」

真剣な眼差しの想子に、男はまたしても苦笑する。
事務所に戻って各種書類手続きを行い、あっさりと契約は終わった。





それから、幾らかの月日が過ぎる。
慌ただしい引越し作業も済み、想子は新しい家での初めての夜を迎えた。
遠い実家から運んだ荷物はそう多くないのだが、どうにもこういった作業を苦手とするため、ほとんどの荷物はダンボール箱に詰め込まれたままになっている。通販で買ったベッドと布団だけは、これが無ければ寝られないので渋々封を解いた。あとは、服の入った箱をひとつ。それであえなく力尽きた。
食器や調味料、その他歯ブラシ等の日用品を揃えに向かうついでに買ってきた弁当とお茶で遅い夕食を済ませ、当然のようにそれらの袋を床に放置したまま、早々に疲れた身体をベッドに横たえた。

どれだけ、経っただろうか。

異様な暑苦しさに、想子は眠りから引き戻された。
いや、暑苦しいというよりも、ひどく部屋の空気が重苦しい。
次いで、音。キイィ、という、ガラスを釘で縦横に引っ掻くような不快で甲高い音が、想子の耳を打った。目を擦りながらベッドの上で上半身を起こし、暗闇の中、音の聞こえてきたと思わしき方角を向く。

部屋の中央に、丸い顔が浮かんでいた。

造りは、人の顔に良く似ていた。
しかし全体の大きさは優に人の二倍はあり、見開かれた両の眼球が、脇からはみ出そうに盛り上がっている。顔面と頭には一本の毛も生えておらず、明かりひとつない室内で青白い燐光を不気味に放つ。首と胴体があるべき箇所には、何もない。ただ、頭だけがふわりと浮かんでいた。
ぎい、と頭が鳴く。それを合図とするように、唇が上下に捲れ上がった。口が大きく裂け、むき出しになった赤黒い歯茎から、多数の犬歯が出鱈目な向きに突き出している。
同時に、眼の横が左右共にぼごりと膨れた。それは想子の目の前でクリームを搾り出すように増殖を繰り返し、三本の指を持つ瘤だらけの腕となる。頭部は無毛だったというのに、太い腕にはまばらな茶の体毛が伸びていた。
耳から腕を生やした頭は、宙に浮いたまま口の端を吊り上げた。
異形でありながら、それは人の目にもはっきりと判る、獲物を追い詰めた残忍な歓喜の笑みだった。

想子は、動かなかった。叫びもしなかった。
いまだ目の前の事態が理解できていないのか、限界を超えた恐怖に金縛りに陥ったのか、身動ぎひとつせず、はじめと同じ腰から上を起こした姿勢を保っている。
化け物の笑みが深くなった。ねっとりと重い空気は、明確な腐臭へと変わりつつある。
がちりと歯を噛み鳴らし、久々の餌に、嬉々としてその醜悪な腕を伸ばそうとし――。

そこで、固まった。

想子は、相変わらず動こうとしない。
唇を開き気味にした無表情も、焦点の定まらない黒い瞳も、起こされた時からそのままだ。
化け物は、もう想子を見ていなかった。
その視線の先にあるものは、いつ現れたのか想子の肩にちょこんと止まっている、褐色をした一匹の巨大な蜘蛛だった。

硬直していた化け物の表情が、凄まじい恐怖に歪んだ。盛り上がった眼球は零れ落ちんばかりになり、耳まで裂けた口が何事かを叫ぶ形を作った瞬間、その顔が縦真っ二つに割れた。
間髪を容れず横。一瞬、閃光が走ったように見えた以外、そこには何の軌跡も見て取る事が出来ない。
綺麗に四等分された頭部がぐらりと傾ぐ寸前に、二本の腕が空中でそれぞれ三つに分解した。
勢いによるものか、つ、と肉が上下にずれる。化け物の眼が裏返った。元々流れていないらしく、血は一滴も出ない。
不恰好な全身に生じた美しい直線から、ぼたぼたという耳障りな鈍い音と共に、バラバラになった頭が、腕が、次々と床に落ちていく。

3人の先住者を殺した異形の化け物は、2秒の間に、磨き上げたかのように滑らかな断面を晒した8つの肉片となっていた。

想子の肩から、蜘蛛が飛び降りる。いかに大きいとはいえ成人男性の掌より数周り程度だった筈の蜘蛛が、脚が床に着いた時には大型犬並みの巨体になっていたが、蜘蛛はもとより想子にも驚く様子はない。
ぐちゃぐちゃと音を立てて行儀悪く蜘蛛が肉片を咀嚼しはじめても、まだ想子は無反応だった。が、やがて半開きの唇から、あふ、と短い欠伸が漏れる。ほっそりした指で、想子はもう一度目を擦った。
無表情も、無反応も、どうやら眠かったからのようだ。
寝起きのもごもごした声で、想子が蜘蛛に尋ねる。

「それが――?」
「そのようだな。1人目で味を占め、2人目を殺すのに一週間、3人目は2日。精気を吸うだけでは物足りなくなったか。3人食えば力もつく。ましてや若い娘だ。直に喰らおうとして大喜びで出てきたのだろうさ」
「そうですか……他には、何か」
「こいつだけだ」

そっけなく蜘蛛は言った。
死骸の残りは、既に半分の量に減っている。丸い眼球が牙に潰された。目を背けたくなる眺めだが、想子の瞳に嫌悪の色は無い。
しかしその時、はっと何かを思い出したように、想子が口元に手を当てた。

「大変です、九縄」
「どうした」

くじょう、と呼ばれた大蜘蛛は、いったん肉を食むのを止めて想子を見た。

「わたし、お風呂に入っていませんでした」

数秒間の沈黙を挟んで、九縄は再び顎を動かし始めた。
肉は、腕一本分だけになっていた。
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