3手目
出会ったときに言葉の通じなかったグレイブがいきなり日本語を話せるようになったことを忘れていたわけではなかった。だがやはり薫も現代日本の育ちである。魔法のようなものに対してまともに考えることについてはどこか逃げの姿勢があった。
その結果、不意打ちのようにこのような事態になって、相当焦るが、囲碁で鍛えた精神力と持ち前の感情コントロールでなんとか耐え、周囲を観察する。
夜空、あるいは宇宙をイメージするような深い青の世界に、薫とグレイブはいた。
間には碁盤と碁石がある。
そして、グレイブの目の前には、パソコン画面を彷彿とさせるような大小の長方形が浮いていた。
「さて、対局方法はどうするかな。“通常対局”で持ち時間60分とすればいいか――」
グレイブは何やら呟きながら人差指で長方形を叩いていく。その操作はどこかタッチパネルの操作に似ているように見えた。最後にひときわ高くグレイブが板をはじくと、盤上の碁石が自動的に両者の手元に動く。また、薫には読めない文字が周囲をくるくると回った。グレイブが定めた対局ルールでも表示されているのだろうか、雰囲気はさながら近未来の囲碁ゲームである。
「グレイブさん……それはいったい?」
質問する薫に対し、グレイブは不思議そうな顔を見せる。
「それって……何か変なことをやっているかね?」
そして、合点がいったように頷いた。
「ふむ……囲碁を打てるのに、“対局空間”のことは忘れている、と。どうにもバランスが悪いね、カオルの記憶は」
薫の背を冷や汗が伝う。記憶喪失者のふりというのも、やはり時間が経てばぼろをだすのか。
しかし、グレイブはそれ以上追及せずに、盤面に向かった。
「まあ、細かい話は後にしよう、ボクは君と囲碁が打ちたいんだ。その対局開始のボタンを――ああ、その赤いボタンだ――触ってしてくれたまえ」
にっこりと邪気なく言うグレイブの笑顔は、薫の世界にも多くあったものだった。
囲碁が打ちたくてたまらない、という表情をされては、薫も先のことはあまり考えていられない。
異世界の棋士とはどれほどの“強さ”を持つものなのか。ブランクを少し後悔しつつ、期待と不安で半々の薫は盤上に向かった。
――そして、2時間後。
「……何ものなんだ、キミは」
顔面を蒼白にしたグレイブがいた。
「いや、その……」
一方の薫も、なんと返事をしたらいいのかわからない。これからお世話になるかもしれない人に対して、あまり失礼なことを言ってしまえば先々に不安が残る。
かといって……事実はあまりにも残酷に盤上に存在した。
方々に千切れ、あるものは無残にも殺され、またあるものはかろうじて二眼の生きとなり、またあるものは攻め合いを一手どころか二手も負けている。グレイブの陣営は壊滅状態と言って差し支えなかった。
そう。
弱かったのだ。
グレイブは。
いや、世間一般の常識で言えば、決して弱いという部類には入らないかもしれない。
囲碁を打てる人100人の中でなら、トップを取れるかもしれない。
ただし、それはあくまで、アマチュアの――贔屓目に見て――5段レベル。
薫のような10000人に一人のトップアマ、あるいはプロ棋士と比べれば、それは余りにも弱く――
局面は大差で黒よしだった。
グレイブには申し訳ないが、そもそもこの盤面が存在すること自体がグレイブの弱さを物語っている。強い者は負けを悟るのもまた早く、自ら負けを認める“投了”を告げるタイミングもまた一つの力量のパラメーターなのだが、盤面はグレイブがはっきりと負けの形勢になってからも随分進行していた。無論、負けを早く認めることを潔しとする日本とは異なり、ぎりぎりまで諦めないことをよしとする文化圏においては、投了のタイミングが異なってくることもありえるが、おそらくこの場合はそういう事情ではないだろう、と薫は考えていた。
「仮に……イミハビット――“神殺し”の二つ名を持つ、王国最強の近衛棋士が相手だとしても、ボクはここまでの負けを喫することはないと思う……いや、思っていた。カオル、教えてくれ。頼むからボクが一夜で弱くなったのだと言ってくれ。ボクが弱くなってないなら――君の棋力は一体何だ?」
絶望と疑問が合い混ざったような顔でグレイブは問う。自分の身になってみれば、その気持ちは想像がついた。同期で天才と呼ばれ、今は十代の若さで名人位に挑戦している今出川と打った時でさえ、自分の力のなさに愕然としたものなのに、それよりも明らかに格上の相手が現れれば一体どういう気持ちになるものか。今までの人生全てを壊されるような気分になったとしても不思議はない。
ここまで来てしまっては隠し通すのは難しいと薫は思った。もともと、不信感を持たれてしまっていたこともあるので、薫は正直に、自分はこの世界の人間ではないことなどを話した。
「……そして、カオルのいた世界には、カオルと同じ力量の人間だけではなく、カオルより強い人間もいて、そうなって初めて“棋士”として認められる……と、にわかには信じられないね」
「まあ、この世界の“棋士”とまったく同じ概念ではないと思いますが……大まかにはその通りだと思います」
異世界から来たなどと言って、普通は信じてもらえるものではない。しかし、グレイブの力量は“この世界で”トップクラスであり、そのグレイブをここまで完膚無きままに倒せる人間が、しかも無名で存在するなどとは、この世界の“常識”ではありえないことだった。
薫がパライウを見て異世界に来たことを確信したように、グレイブは盤面を見て薫が異世界から来たことを確信する。
「しかし、世界を越える“棋術”となると、いったい何モク消費したのやら……想像もつかない。もしもカオルの来訪が誰かによって仕組まれたものだと仮定したら、の話だけどね」
「あの、さっきからいろいろと気になっていたんですけど、あの魔法みたいなのって何なんですか……」
「そうか、カオルのいた世界では囲碁は純粋にゲームなのだったね。ボクにとってはその世界の方が想像しにくいので、変な説明になってしまうかもしれないけれど、がんばってカオルに理解してもらえるように話そう。ボク達の常識、ボク達の囲碁のことを」
そう前置きして語りだしたグレイブの言葉は、薫を驚愕させるに充分だった。
「つまり――この世界では囲碁を打つことがすなわち魔法につながるということなんですね」
「魔法というのは不思議な、説明できない力のことを言うのだから、カオルにとっては“魔法”ということになるのだろうね。ボク達には“当たり前”の力だからそう言うことには違和感があるんだけど――代わりに、ボク達はこの力のことをこう呼ぶ。――“棋術”と」
「“棋術”――」
正確には、囲碁を打って“モク”を得ることで“棋術”が使えるようになる、と言うべきだろう。“モク”とは、最初グレイブが薫と意志の疎通をするために使った碁石のような物体のことである。“モク”に対する日本語の概念は存在しないが、強いて言うなれば“魔導石”ということになるだろうか。“モク”には“魔力”のようなものが封じられ、誰でもそれを用いて様々な現象を引き起こすことができる。
この、“誰でも”というところがポイントであり、“モク”は他者に譲渡することが可能となっている。そして、その希少性から、高額貨幣の代わりとしても扱われていた。
そんな“モク”は、おいそれと一般市民に使えるものではない。それでもグレイブが薫と出会ったときに“1モク”を使って通訳をしてくれたのは、勿論彼の人間性に依るところも大きいが、当然それだけでなく彼が“モク”を手に入れやすい立場であったことに由来する。
それが、“棋士”。
この世界で“モク”を生産する手段である、“囲碁”を生業とする者である。
日本とは異なり、“棋士”を名乗るための明確な基準は存在しない。一応この世界にも“段位”というものはあるそうだが、そこまで強い縛りを持っているわけではない。むしろ、“モク”を生活の糧にしているかどうかという実質的な面が重視されるそうである。
ちなみに、“棋士”のうち優れた者は“近衛棋士”として王の側近となったり、“師匠”として地方の有望な若者を探し出し、鍛える役を与えられることとなる。これらの職業は、この世界では最も誇り高いものの一つとして扱われるとのことだった。
さて、“モク”の獲得手段については、二通り存在する。
一つは、“名局”。
“対局空間”で行われた対局終了時に、“名局”と認定されることが取得の条件だ。
では誰が“名局”か否かを認定するのか、グレイブはその存在を、“妖禅の魔”と言った。
“妖禅の魔”
実在するものなのか、架空の存在なのか。グレイブの口調では実在を確信しているようだったが、それはいわゆる神の実在を信じる宗教家と似た雰囲気でもあった。だが、事実として“名局”は何らかの存在が判定している。
通常の棋士ならば月に一度か、多くて二度。実力が確かな近衛棋士や師匠であっても、まず月に五回を超えて認定されることは無い“名局”。その認定が下りれば、対局者のうち勝者が一つの“モク”を手に入れることができる。
たった一つと侮ることなかれ。“モク”一つなら一般市民の月収三倍以上の値が付く。つまり月に一度“名局”を打ち、“名局”三回に一回勝てば充分普通の生活は送れるというわけである。
他にも、この“妖禅の魔”は“対局空間”を通して人間世界に働きかける。その最たるものが、“妖禅の問”。
“妖禅の魔”は、王宮に詰碁の問題を出題する。
具体的にどのようなプロセスが辿られるのかは王に近しい者しか知らないが、毎月数十題、あるいは百題以上の問題が“妖禅の魔”によって示され、それらを解けた者には褒美として大量の“モク”が“妖禅の魔”より与えられる。勿論、最初に問題へ挑戦する栄誉を与えられるのは王と、その側に使える近衛棋士だ。彼らが問題を解いて得た“モク”は、いったん全てが王によって集められ、その後に王・近衛棋士・師匠の間で再分配される。給料の代わりであり、近衛棋士と師匠が特権階級として人々の目標となる理由でもある。
しかし、中にはえりすぐりの近衛棋士達の力をもってしても解けない問題も存在する。それらは出題から一カ月をめどに公表され、広く挑戦者が求められることになる。これは“下賜問題”と呼ばれ、これを解くことができれば“妖禅の魔”から、普段目にすることのできないような量の“モク”をもらえるとともに、名声を上げ、近衛棋士や師匠に取り立てられるチャンスを得ることも出来るわけである。
いくら近衛棋士が精鋭の集まりとはいえ、人数には限りがあり仕事も多い。彼らが一月で解けなかったと言っても、腕に覚えのある者なら一つの問題に絞って何カ月か挑戦すれば解けることも多々ある。そうして、ほとんどの問題はやがては解かれてしまう。しかし一方では、あまり難しい問題については永遠の未解決問題として取り残されることもあるという。もちろん、それでも挑戦を続ける“棋士”もいるそうだが、大抵は骨折り損になるとのことだった。
“名局”と“下賜問題”
“妖禅の魔”からもたらされる“モク”は、ほぼこの2通りでしか得ることはできないという。