2手目
「……ここは?」
目に入ってきたのは、キラキラと輝く木漏れ日。
どうやら、森か林の中に倒れているようだった。
直前まで大学にいたはずの薫にとって、それは違和感を禁じ得ない。自然がまったくない環境にいたわけではないが、記憶に不連続が認められるのは気味が悪かった。
ふらふらする頭を押さえながら、立ちあがって周りを見渡す。するといよいよ疑問が深まっていく。自分はどうやら林道のようなところに倒れていたらしく。前後に地表が見える一本の筋が続いている。
だが、それ以外の周囲は高々と茂る木々に覆われていた。
どう考えても大学の敷地内にこれほどの森はない。
しかも、生えている木々にはどこか不自然な点があった。植物について深く学んでいるわけではないが、なんとなく日本の木ではないような気がする。
漠然とした不安感を覚えながら、とりあえずここにいても仕方がないということで、薫は目の前の林道を歩きだした。
林の終わりは突然現れた。
30分ほど歩いたときだろうか、いきなり視界が開け、薫は思わず顔をひきつらせた。
村。そう言うしかないような集落が広がっている。どう考えても大学近郊にこのような集落が存在しているとは信じられない。いや、それを言うなら30分ほど歩かないと出られないような林の時点で存在しているわけはないのだが。
家々は木造建築のようで、屋根には植物由来の――藁、だろうか。とにかく、薫が見たことのないような作りの家が、都会の常識からしてみれば非常に広い感覚を開けて建っており、畑や田んぼのような(薫にはそもそも麦畑と田んぼの区別がつく自信がなかった)農業用地が広がっている。
はっきり言って、現代日本の光景とは思えなかった。いや、車や機械、アスファルトの類が見えない時点で、現代世界の光景かすら疑問を覚えてしまう。アフリカや南アメリカにはまだこのような風景があるんだったっけ?
薫は自問したが、答えが得られるはずもなかった。ちなみにこのようなときに日本人の心強い味方となるスマートフォンは、残念ながらずっと圏外である。林を抜けてもしやと思ったが、あいにくそんなことはないらしかった。まあ、電波塔のようなものはまったく見えないし、こうなるだろうということは予想がついていたが。
とにかく、仕方がないので薫は更に歩を進める。視界に入った家々までの距離はまだ少しあったが、さすがに若い薫は疲れを感じることもなく一番近くにあった一軒に辿り着いた。門はなく、玄関がそのまま道に面している。
遠くから見れば良く分からなかったが、近くで見れば立派な広さのある家である。木と藁が主な建材だろうか、コンクリートやレンガのような堅そうな素材はないようだった。他の家もだいたい似たようなものであるが、広さで言えば村の家の中でも特にこの家が広いようだった。そんな家がやや外れにあることに少し疑問を覚えつつも、薫は家の戸をノックしようとして、ふと手を止めた。
声が横から聞こえたような気がしたからである。ちょうど、薫がやってきた方向と反対側。そろそろと薫はそちらに移動する。すると、家の壁際にうずくまっている金髪の男が目に入った。
どうやら、修繕でもしている様子。男の横には、金づちや鋸といった大工道具が転がっていた。これらも、ホームセンターで売っているようなプラスチック製のものではない。年季の入り方を感じさせる、金属と木でできた道具だった。
そこで、そうやく気配を感じたのだろうか、金髪の男がこちらを向く。
歳は40代といったところか。体の張りは若さを失いつつあるが、かといって衰えているとはいえない、そんな印象を与える。髪の色から考えて欧米系の顔立ちをしているのかと考えていた薫だったが、予想に反して、ややなじみ深い東洋系の顔立ちをしていた。かといって、その金髪は日本の若者が染めた髪のような不自然さを醸し出してはいない。
「えっと、ここはどこですか……?ウェア、イズ、ヒア?」
かなり怪しげな英語と、自身のなさげな日本語で薫は聞く。まあ質問の内容からすれば不自然に思われるのは仕方のないものだった。
だが、その返答は、
「×○、☆★△?●○■☆、★&@×?」
何を言っているのかさっぱりわからなかった。
日本語ではないことは勿論のこと、おそらく英語でもフランス語でもない。
さすがにスワヒリ語ではないと断言することはできないが、薫の直感はこれが地球の言語ではないのではないかと告げていた。
一方の男の方も、どうやら薫に言葉が通じないということを理解したようで、肩をすくめたあと、少し悩むような素振りをしてから、小さな石のようなものを懐から取り出した。
(――碁石?)
一瞬、見慣れた競技道具を連想してしまう。そんな薫の心境とはお構いなしに、男は何やらぶつぶつと唱え出した。
何を――と思った刹那、男の持っている石が光り出す。そして――
「やあ君、ボクの貴重な“1モク”を消費させてしまうなんて酷い人だね。これでやっぱり言葉が通じないなんてことになったら悲しいが、どうかね、ボクの言葉は通じているかね?」
今度は、まごうことなき日本語で話しかけてきた。
「ふむふむ、気が付いたら森の中にいた、自分がこれまで何をしていたかわからない、と。カオルには妖禅の魔のお導きでもあったのかねえ」
男はグレイブと名乗った。薫も正直に本名を名乗ったのだが、安岡という名字は発音しづらかったらしく、グレイブにはどうやら下の名前で呼ばれることになったらしい。
しかし気になるのは先ほどの出来事である。確かに言葉は通じなかったはずなのだが、グレイブが何かしたとたんに言葉が通じるようになった。もともと彼が日本語を知っていて、たちの悪い冗談に乗せられてしまったと考えるのが自然なのだろうが、薫にはどうもそうは思えない。
かといって、そうでなかったらいったいなんだと言うのか。
まあ、文脈から言えば、魔法とかそのようなものの類と考えることもできるだろう。
青春時代は囲碁漬け人間だった薫とはいえ、最低限の物語的知識や常識というものはあった。そしてもちろん、それが現実に存在していないこともよく知っていた。
だが、そもそもいきなり気を失って気付いたら見知らぬ林で倒れていた、ということも相当非現実的な出来事なのである。それを踏まえれば、この人のよさそうな男性が自分をかついでいる、と考えることとどちらが真実に近いかは薫には分からなかった。
薫は今のところ、自分の素性を詳しくは語っていない。とりあえず、記憶喪失ということで通している。幸い、グレイブは素直な人柄であったため、今はまだ会話が成り立ってはいるが、言葉の端々から聞こえてくる情報を加味すると、どうやら齟齬が生じるのに時間はさほど残っていないようだった。
少なくとも、薫は今現代日本にはいない。ぎりぎり薫の“常識”に照らし合わせて納得できる説明は“大学構内で気を失った薫を謎の人物がひそかに国外に運び、よくわからない国の林に放置し、しばらくしてようやく気がついた薫が、歩いて林をでたところ、運よく日本語がわかる、多少危ないジョークセンスの持ち主の、複雑な出自ルーツを持つおじさんと出会った”という内容だ。
ちなみに、薫の“非常識”に照らし合わせれば“どこかの異世界に転送された薫が、通訳系の魔法を使えるおじさんと出会った”である。
「さて、立ち話もあまり続くとよくないね。よかったら、上がっていかないか?」
複雑な思いを抱きながら、とにかくグレイブの勧めに従う薫だった。
玄関をくぐった薫には、もはや“異世界説”こそが真実としか思えなかった。
首に縄をかけられたペットが主人にじゃれつく。その容貌は、どう考えても地球の生命体とは思えなかった。
目が三つある。
それは厳密に言えば動物は先天的にごく稀な確率で目を三つ持つ可能性はあるが、出生後ペットとして生きられるようになる可能性は更に低い。さすがに“地球説”の降参と言ってもいいだろう。何より、その姿形も見たことがなかった。
トカゲと犬の間のような形態は、爬虫類なのか哺乳類なのかも判断のしようがない。どうやら毛らしきものが生えているが、恐竜だって羽毛が生えていたというらしいし――と考えながら、グレイブに甘えるその動物の動きを薫は目で追っていた。
「ノベリッサンのパライウだ、どうだ、可愛らしいだろう」
確かに、地球ではおよそ見慣れないシルエットと三眼の割に、恐怖や違和感といったものは薫の胸中にほとんど湧きあがらなかった。もしかしたら、この世界では意外と愛玩動物として人気があるのかもしれない。
「ウチのはいい狩人だ。見たまえ、この牙を」
前言撤回。その牙は薫に本能的な恐怖を感じさせるのに十分だった。どうやらただのペットではなく、時には猟犬のような役割をも担うらしい。
思わず眼をそらし――薫の眼はある一点に止まって、パライウを見た時以上の驚愕に見開かれた。
「――碁盤と碁石!?」
木製の大きな台と、その上に置かれているいくつかの石。
間違いない。とっさに交点の数を数えるも、十九路かける十九路。まごうことなき碁盤がそこにあった。そして何より、盤上の石が間違いなく囲碁の形を取っている。
にわかには信じられなかった。だがしかし、現実がそこにある。
遥かどうやら異世界まで来て、まさか再び出会うとは。
囲碁のルールは単純である。
例えば、将棋については駒の種類が多く、様々な動き方をするため、それらをルールとして記述すると結構な量になる。
ところが、囲碁については実はルールの数自体は遥かに少ない。
四方を囲まれたら取られること、地を数えて勝敗を決めること、あとはコウという特殊ルールについて定義してしまえば、それでほぼ事足りる。
あとはごくまれに起きる例外的な事態のために、文面を少し工夫するくらいだ。
従って、逆に言えば地球以外の星、薫がもともと住んでいた以外の世界であっても、知的生命体の間で囲碁が生じる可能性はある。
これは将棋との違いだ。将棋については外国ではチェスや中国将棋など、似たゲームはいくつも誕生したが、まったく同じルールになるには、駒の動きなど複雑すぎた。
ところが囲碁はその単純性から、世界でほぼ共通のルールで運用されている。世界で共通になる程度に普遍性があるのなら、確かに他の世界に囲碁があっても不思議はない。
しかし、そのようなことがわかっていてもなお、薫は感動に打ち震えることを防げなかった。自分が少年時代の全てを懸けてきたものが、他の世界でも受け入れられている、それほどまでの深さを囲碁はやはり持っていたのだ。そう思うと、師匠やかつてのライバルたちにもなんとかこの感動を伝えたい、とまで思ってしまった。現時点ではそれはどうやら難しそうな願いではあったが。
そんな風に碁盤の前で硬直する薫に、パライウを離したグレイブが興味深そうな目で聞いてきた。
「カオル、君は囲碁に興味があるのかい?実はボクは“棋士”であり、“師匠”の身分を持っている。もし行くあてがないのなら、しばらくは見習い扱いということにして、役場に届けておいてもいいよ。資質があるのかはおいおい判断して、資質があれば“棋士”になることも夢じゃない。資質がなかったとしても、生きて行く当てを見つけるまでの時間稼ぎくらいにはなるだろう」
“棋士”や“師匠”という単語が出てきたことに薫は驚く。どうやら、この世界でも囲碁を打つ職業が存在しているようだ。歴史的に日本の囲碁発展に貢献したのは江戸幕府であり、彼らが囲碁を打つことを職業として認め、保護したことで囲碁の家元が発展したのだが、この世界の支配者層も囲碁の重要性を知っていて手厚く保護しているのだろうか。
「それは……ありがとうございます。少し思い出したのですが、どうやら僕は仕事の代わりに、囲碁を打っていたような気がします」
都合のいい記憶喪失設定だが、今は仕方ない。異世界の囲碁には興味があったし、ルールを知らないふりをするのはさすがにきついだろう。
「なんだって!! じゃあカオルは“棋士”だったのかい?」
しかしそこで、グレイブがのけぞるように驚きを表現した。
“棋士”というのが日本語でいう棋士と同値なら、返答は否、である。日本語では通常、囲碁や将棋のプロのことを棋士というからだ。
薫はその一歩手前で脱落した人間である。ただ初対面のグレイブに細かいところまで話すのことは抵抗があったため、微妙な表現をしてしまったのだ。
「えっと……まあ、囲碁が打てる、っていう意味ならそうですけど、その…」
二つの言語に意味の違いがある場合を考えて、薫は曖昧な返答をした。
「なんだ、それなら何の問題もないじゃないか!手に職もないなんて、謙遜もいいところだよ。ボクに恥をかかそうとしたのかい?あーでも今思い出したのか。とにかく、自分で言うのもなんだが、棋士だったら、生活に困るなんてことはありえないじゃないか。」
「えっと……“棋士”っていうのは、政府……王様とかからお金をもらったりできるんですか?」
「ボクの場合は“師匠”だから、陛下からもお給料をいただいてるけど、そうでなくても“モク”を売ってしまえば生活はできるじゃないか」
“モク”を売る……?八百長か何かの隠語だろうか。いや、今日初めて会った人間だが、グレイブの雰囲気を見る限りそういった話を好んでするような人間には思えない。文化の差だって限界があるだろう。どうやら、だんだん誤解が広がってしまっているようだ。このまま話を進めるのは……と思っていた矢先、グレイブが続けて口を開いた。
「とりあえず囲碁を打ってみよう、カオル。記憶喪失の影響が出ているか調べる意味でも大事に違いないからね」
「……はい、そうですね」
話が逸れたことに安堵しつつ、一方で別の緊張が薫の胸をよぎる。
これでもしも、グレイブが日本のプロ棋士と同じレベルの棋力ならば、一年間も碁石から遠ざかっている薫では相当苦戦を強いられてしまうのは間違いない。こんなことになるのなら、少しは囲碁を趣味で続けていてもよかったかもしれないな、と思いながら、薫はグレイブに相対した。
「では――はじめよう。“対局開始”」
瞬間、世界が紺色に包まれる。