1)
気がつくと俺は電車の中にいた。
見慣れぬ駅だった。
しまった!
また乗り越しだ。
俺は急いで電車から飛び降り、階段を駆け上がった。
目眩がした。
隣のホームは電灯が消え、月灯りだけのほの暗さ。
ホームの中央に備え付けの時刻表示板と、自分の腕時計を見比べた。
すでに最終電車は出た後だった。
‥また、やってしまった。
仕方ない。また、タクシーか…
改札へ向かおうと、階段を昇りかけたとき、階段の裏側に立つ白い人影が眼に入った。
‥最終電車はもうないのに?
俺は階段の手すりに手を掛け、下に向かって言ってやった。
「あの‥、終電はもう出ましたよ」
女は何も言わず、階段の陰でうつむき加減に立っている。
白いブラウスに黒いスカート。黒いバッグを腕に下げている。
腰まで伸びた長い髪。
地味で清楚なたたずまい。
「終電出たから待ってても無駄だよ。自殺しようたって明日の朝まで待たなきゃ無理だよ」
俺は冗談まじりに言ってやった。
女は長い髪を掻き分け、こちらを振り向いた。
月灯りの下で、青白い顔が薄ぼんやりと浮かびあがった。
のっぺらぼう‥
まさか‥
俺はぎょっとした。
しかし眼を凝らしてよく見ると、色白で目鼻立ちの整った大変美しい面立ちの女が立っている。
どこか儚げで、この世のものとも思えぬ美しさ。
「来るんです‥」
女はウスバカゲロウのような声で言った。
俺は気味が悪くなって、階段を駆け上がった。
その時、大きな音をたてて電車がホームに入ってきた。
‥本当だったんだ。
どうやら時刻表を読み違えてしまったようだ。
俺は急いで引き返し、閉まりかけるドアのすき間から飛び乗った。
車内はうなだれた酔客が数人、ふらふらと所在なげに座っているだけで、ガランとしていた。
さっきの女の姿が見えない。
俺は周囲を見回した。
しかし、女の姿はどこにも見当たらなかった。
飛び込んだのか?
まさか‥
だったら運転手が気づく筈だ。別の車両にでも乗ったのだろう。
座席に腰掛け、暫くするとまた睡魔が襲ってきた。疲れているのだ。しかし今度寝過ごしたら本当に帰りの電車はない。
俺は必死で睡魔と闘った。
気がつくと俺は電車の中にいた。
見慣れぬ駅だった。
しまった!
またやってしまった。
車内には誰もいない。
眼の前の乗客はみな、途中で降りたようだ。
「終点ですよ‥」
ウスバカゲロウの声がした。
隣りを見ると、長い髪をバサッと腰まで垂らした先ほどの女が座っている。
しかし、なんだか俺はホッとした。
電車を降り、階段の陰に立ち途方にくれた。
「もう、電車はありませんよ」
階段の途中から女が身を乗り出して言った。
‥わかってるさ。俺は返事をしなかった。
「もう、自殺は無理ですよ」
女はそう言い残して、コツコツと足音を響かせて階段を上がって行った。
さっきの仕返しか‥。
仕方なく俺は、女の後ろから階段を上って行った。
無人の改札を出た。
見たこともない風景だった。
駅前はひっそりとして人っ子ひとりいない。
ずいぶん遠くまで来てしまったようだ。
駅の名前すら聞いたことがない。
間違っていつもと違う折り返し電車に乗ってしまったに違いない。
しかしもう手遅れだ、今さら戻れはしない。
駅前の数件ある商店はみな閉まっていた。
タクシーもコンビニもない。
こんな田舎の街では当然だろう。
俺はなんだか山の奥深くに、迷い込んでしてしまったような恐怖感を覚えた。
とりあえず今夜眠れる場所を探さなければならない。
前方を見ると、先ほどの女がコツコツコツとヒールの音を響かせて駅前の通りを歩いて行った。
俺はどこへ行くともなく、女の後を歩いて行った。
暫く行くと女は立ち止まり、後ろを振り返った。不審者と間違えられるのもいやだったので、俺は女に近づきすぐに尋ねた。
「この近くにビジネスホテルか何かありませんか?」
近付いて女の顔をよく見ると、くっきりと整った造作で薄化粧をしている。
ほんのり頬紅も差し、年の頃なら七部咲きの桜と言ったところだろうか。
まさに桜のように清楚な華やかさを持っていた。
女は特段不審がる様子もなく言った。
「ご案内します」
その言い方があまりにも自然だったので、むしろこっちの方がたじろいだ。
2)
それから俺は見知らぬ街を女と並んで歩いた。
湿気を含んだ生暖かい風が、ひどく肌に心地いい。
もうすぐ梅雨入りなのだろう。
月の灯りを反射させたおぼろ雲が空一面に広がり、地上を明るく照らしている。
街路の柳が風になびいてさらさらと揺れている。
ジージーと音をたてて虫が鳴いている。
夏の始まりを告げるそれらの音楽に俺は聞き入った。
「あれは螻蛄の鳴き声よ。ミミズじゃないの」
聞きもしないのに、女がぽつりと言った。
「オケラ‥」
俺は黙ってその鳴き声に耳を傾けた。
隣の女は少し前に出会ったばかりの見ず知らずの女だったが、わざわざ言葉を探して話しかけるような初対面の気遣いは、不思議と感じなかった。
女は黙って歩いた。
俺も黙って歩いた。
柳並木が切れた所で右に曲がり、狭い路地に入った。
狭い路地の両側に木造の古い家並みが続いていた。
一軒の居酒屋から灯りが漏れている。
隣りの食堂の軒先にぶら下がった大きく『氷』と一文字書かれた暖簾が風に涼しげに揺れている。
店の前を通ると蚊取り線香の懐かしい香りが鼻を突いた。
何だろう、この心地よさは‥。
まるで子供のころの故郷に帰ったようだ。
肩を合わせるように連なる家並みの前には、用水路が引かれており、両側の土手には、紫陽花、どくだみ、桜草、うるいなどの雑草が自生している。
手入れをしていない自然の草花が水路を美しく縁取っていた。
ジー ジー
ケロ ケロロロロ‥
ジー ジー
ケロ ケロロロロ‥
葉叢の陰で螻蛄と蛙が愉しそうに競って鳴いている。
時折、民家の軒下に吊された風鈴がちりりん‥と美しい音を奏でる。
隣りには俺と歩調を合わせて女が歩いている。
なんと素晴らしく心地がいいのだろう。
俺はまるで夢の中にでも居るような錯覚に陥った。
「着きましたよ」
女が言った。
水路に渡された丸木橋の向こう側に、木造の古い純和風旅館があった。
引き戸の脇に旅籠屋『さかい』と書かれた提灯が吊るされている。
「なんだか時代劇に出てくるような鄙びた旅館だな。それじゃあ、今晩一晩だけ旅に来た気分に浸ってゆっくり休むとしますか。どうもありがとう。それじゃ‥」
礼を言うそばから女は俺の前をすり抜け、つかつかと橋を渡り旅館の引き戸を開けた。
扉から漏れた白熱球の暖かい光が地面を照らした。
俺も女の後ろからついて行った。
「あなたは此処で待っていてください」
ロビーの籐の椅子を指差して女は言った。
それから、真っ直ぐに受付カウンターへ進み、旅館の年老いた女将らしき女と小声で何かを話していた。
ふたりは顔馴染みのようだった。
女は黒いバッグから紙切れを出し、受付に差し出した。
暫くして、また俺の処へ戻ってきた。
「ではお部屋にご案内します。
「はっ??‥ご案内しますって何もあなたにそこまでして頂かなくても。もう大丈夫ですよ。ありがとうございました」
俺は丁重に頭を下げた。
「これが私の仕事ですから。ささ、お部屋は二階ですから、では、一緒にまいりましょう」
女は俺を誘導するように後ろに手を差し出した。
「仕事?‥」
たまたま偶然同じ電車に乗り合わせて、たまたま同じ駅に降り、たまたま同じ方向を歩いていただけの中だと言うのに。
俺には意味がわからなかった。
「ふふ…。あなたみたいな人をご案内しています」
「俺みたいな人?あ、ああ、俺みたいに終電乗り越してしまう間抜けな奴がたくさん来るわけだ」
俺は納得した。
割のいい仕事ではなさそうだったが、ダブルワークとしてはいい稼ぎになるかもしれない。
旅館からコミッションを何パーセントかもらっているのだろう。
通された部屋は古い造りで広くはなかったが、掃除が行き届いて清潔な感じがした。
半間程の床の間の一輪挿しの花瓶に桜草が飾ってあった。
落ち着く部屋だった。
「食事はどうされます?」
「もう、かなり遅い時間だが、少し小腹が減ったかな」
「じゃ、軽くお茶漬けでもお持ちしましょう。では、先にお風呂を済ませてきてはいかがですか?階段下りて、右手に行った突き当りがお風呂になっています」
女は言った。
「じゃ、そうするか。それならお銚子も一本付けてくれるかな?」
「かしこまりました」
4・5人入ればいっぱいになりそうな狭い風呂場だったが、浴槽は檜でいい香りがした。
他に客はいなかったので窓を開けて庭を覗いた。
丁寧に手入れをされた竹林が広がっていた。
竹林の中で獅子おどしの音が清浄に鳴り響いた。
庭を眺めながら湯に浸かった。
蛙や螻蛄が鳴いている。笹の葉が風になびいてサラサラと音をたてている。
いい気分だった。
風呂から上がり部屋に戻ると、座卓の脇には布団が敷かれていた。
布団の上に仰向けになってひと息ついていると、待っていたように女がやってきた。
髪を後でひとつに束ね、浴衣を着ている。
白地にうす紫の桜草が散っている。臙脂の帯を締め、なんとも色っぽい。
‥この女まさか
俺は何かを期待した。
「お風呂はいかがでしたか?」
女は膝を付き、テーブルの上に盆を置いた。
「いいお湯でしたよ」
俺は布団の上に横たわったまま言った。
「それでは召し上がったら食器はこのままで結構ですから。ゆっくりおやすみなさいませ」
女はそう言うと部屋を出て行った。
期待したような如何わしい宿ではなかったが、俺は少しがっかりした。
盆の上には頼んだ訳でもないのに、俺の好物のたらこ茶漬け、厚焼き玉子、香の物が並んでいた。
酒の酔いもあり、腹が満たされるとすぐに睡魔がやってきた。
そのまま布団の上に仰向けになった。
3)
ひばりの鳴き声で目が覚めた。
明るい光りが部屋を照らした。
ここはどこだろう‥
布団から這い出すと、すぐに女がやってきた。
そうだ。昨日の女だ。
白いブラウスに黒いスカートを履いていた。
「おはようございます。おめざめはいかがですか?ずいぶんぐっすりおやすみのようでしたから、お声もかけませんでしたが、もう10時ですよ」
「10時?」
「はい」
「やばい!」
「やばい?‥何か?‥」
女は不思議そうな顔をして俺を見た。
「ああ、やばいんだ。遅刻だ。会社に連絡をしなければ。あっ!亜季にも‥やばい!」
俺は頭をかきむしった。
すっかり忘れていた。
昨夜は不思議な郷愁にかられ、つい夢見心地になり、妻の亜季に連絡するのも忘れていた。
まったく信じられないことだ。
亜季のヒステリックな顔が浮かんだ。
しかも、今日は朝一番でレビューがある。
クライアントもくる筈だ。遅刻などは考えられない。とにかく一刻も早く連絡を入れなければならない。
「あ、俺のカバン‥」
女は黙って床の間の方を指差した。
急いでカバンを開け、いつもの内ポケットから携帯を出そうとしたが、携帯がない。
クローゼットの扉を開けズボンのポケットの中を探した。
「ない‥」
右のポケットも左のポケットにも‥。
後ろのポケットも。
背広のポケットを探った。
ポケットというポケットを全部。
しかし、携帯は何処にも入っていなかった。
「何かお急ぎですか?」
女が言った。
「急ぐも何も‥。今日は大事な会議があるんだ。遅刻するわけには行かないんだ!」
「そんなに慌てることはないと思いますけどねえ」
「外線通じるのか?」
俺は部屋に備え付けの電話機を指差して言った。
「ゼロ発信です」
受話器を取り外し、ダイヤルを回そうとして指が止まった。
会社の電話番号を知らないのだ。
自宅の電話番号も。妻の携帯番号も全て自分の携帯に登録してある。覚える必要はなかった。
覚える必要性は感じなかった。番号を確認したこともなかった。
どんなに頭をめぐらして考えても、覚えていないものを思い出せる筈はない。
迂闊だった。
こんな事態を予測したこともなかった。
「朝食は一階ロビー脇のチキチキ南の島メヒコにご準備してあります。バイキング型式になりますのでご準備ができたらどうぞ。お布団はそのままで結構ですから」
頭を抱え込む俺に女が言った。
「あ、それから、本日のコースはお決まりですか?」
「‥コース?」
「はい。オプショナルツアーのコースです」
「旅行で来たわけじゃないんだ。俺は出勤せねばならないのだ!」
「では、とりあえずお食事を済ませてからにしてはいかがでしょう」
女は落ち着いた声で言った。
そうだ‥。
落ち着き払った女の態度が少し腹立たしかったが、もう、とっくに会議は始まっている。
今から焦って出勤したところで、会社に着くのは昼過ぎになるだろう。
こんなどこかわからない田舎街だ。
もっと時間がかかるかもしれない。
「そうするか‥」
俺は言った。
1階のバー・メヒコは鄙びた日本家屋の旅館とはまったく不釣合いの、南国情緒たっぷりの雰囲気の店だった。
ドアを開けた途端別世界が広がった。
トロピカルな花が咲き乱れ、中央にはバイキング式の南国風料理が並んでいる。
フルーツやデザート類も充実していた。
俺はひとり朝食をとりながら、窓の外を眺めた。中庭は温室になっているようで椰子の木や熱帯の植物が植樹してある。
中央にはプール迄。
‥いったい此処は何処なのだ。
食事をしていると、また女が現れた。
俺の前にいくつかのパンフレットを差し出した。
「お食事中よろしいでしょうか?お食事が終わったらこちらにも眼を通してくださいね。様々なオプショナルツアーのご案内です。お部屋の方にもご準備していたんですけど、ご覧になっていらっしゃらなかったようですので‥」
「ですから、俺は‥」
そう言いかけたが、女はすぐに他の客のテーブルへと足を運び、またパンフレットを配っていた。
‥そうだ104だ!
104に電話をして会社の電話番号を調べてもらえばいい。
俺は急いでロビーに走り受付に言った。
「公衆電話はありますか?」
「あるにはあるけど‥」
昨日の年取った女将が面倒くさそうに売店の方を指差した。
売店の入口脇に古びた赤い公衆電話があった。
10円玉を入れ104を回した。
何の音もしない。
何度も繰り返し試してみた。
「お客さん。それ、飾りだから、通じませんよ」
売店から店員が出てきて言った。
「電話、電話はないんですか?」
「電話?携帯持ってないんですか?」
「ないから聞いてるんですよ」
「うーん、今時携帯持ってない人も珍しいな‥」
「だから電話はないかって聞いてるんだ!電話はないのか?」
「そんなに怒らないでくださいよ。電話ならお部屋にあるでしょ」
「くそっ!」
俺は階段を1段飛ばしで駆け上がり部屋に戻った。
戻るなり受話器を取り上げ104を回した。
ツー ツー
反応がない。
「ゼロ発信だ」
今度は0104を回した。
ツー ツー
何の反応もない。
何度も何度も0104を繰り返し回した。
何度やっても同じことだった。
「くそっ!」
俺は受話器を投げ付けた。
気が付くと後ろに女が立っていた。
「コースはもうお決まりになりましたか?」
女はパンフレットを差し出し、満面の笑みを浮かべて言った。
俺は急いで荷物をまとめ、1階まで駆け下りた。
受付にカードを差し出し言った。
「チェックアウトをしてくれ」
「ここはカードは使えないよ」
受付の老婆はそっけなく答えた。
「そ、そんな‥。急だったから現金の持ち合わせがないんだ」
「困るね。お客さん」
「困るったって、こっちだって困ってるんだ。いきなりこんな辺鄙な田舎の旅館に連れてこられて‥」
「連れてこられてって、あんた子供じゃないんだからねえ。まったく何をいってるんだか‥。なんなら宿賃分此処で働いていってもらってもいいんだよ」
女将は意地悪く笑った。
「いいわよ。柳下さん、私が立て替えておきますから」
振り向くと女が2階から降りてきた。
「このお客様無理やりここに連れて来られたって言ってんだよ。まったく」
「困ったひとね」
女は俺の顔を見てニヤッと笑った。
「いいんですか?助かります。じゃ、連絡先教えてください。後で連絡しますから」
「いいわよ。気にしないで。私が無理やり連れて来ちゃったんだから‥‥ね」
「いや、そういうわけじゃ‥」
「本当にいいわ。またいつかどこかで会ったときにね」
女は言った。
「あ、じゃ、お言葉にあまえて」
俺には時間がなかった。
礼もそこそこに、宿をとび出した。
4)
昨日歩いてきた道を戻った。
旅館を出て右方向に真っ直ぐ行けば、駅前の広い通りに出る筈だ。
早足で右側に水路を見ながら、両側に民家の建ち並ぶ小路を歩いた。
昨日は駅から20分くらい歩いただろうか‥。
ゆっくり歩いたから、早足で歩けばもっと早く着く筈だ。
しかし、なかなか柳の木が植樹された駅前の広い通りには出なかった。
なんだかずいぶん長く歩いた気がする。
空には薄日が差していた。
雲で被われた大地はまるで温室のようだった。
‥おかしい
この用水路のある狭い通りはこんなに長かっただろうか‥
昨日はこんなに早足で歩いたわけではないのに、疲れなど感じなかった。
‥通り過ぎたのだろうか。
そんなばかな‥。
ふと見ると、左側に散髪屋があった。
中に客はひとりも居なかった。
年老いた理髪師がひとり、タバコを咥えながら新聞を読んでいた。
俺はドアを開け、中に入り道を尋ねた。
「すいません。駅へはどうやって行ったらいいんですか?」
理髪師は無愛想に目蓋を細め、しわがれた声で言った。
「今から行ったってそんな簡単に電車は来ないよ。あと一時間は待つだろうよ。そんな事よりお前さんそろそろ散髪時じゃないのかい?いいからちょっと此処へ座りなさい」
「そ、そんな。だって電車が‥」
「だから電車はまだ来ないっていっただろ。いいから座りなさい」
男の有無を言わさぬ強引さに、気づくと俺は散髪台に座らされていた。座ると同時にタオルと散髪用ケープで身体を縛られ自由を奪われた。
俺は身動きが取れなくなった。
目の前の鏡を覗き込むと、なるほど酷い状態だった。髪は伸び放題、おまけに無精ひげまで生えている。
理髪師は年老いて眼がよく見えないのか、おぼつかない手つきでゆっくりと鋏を入れていった。
口にはタバコを咥えている。
俺は自分の髪よりも、男が口に咥えただんだん短くなっていく煙草の方が気になった。
「た、たばこ‥そろそろ消した方がいいんじゃないですか?」
理髪師は返事をしない。散髪することだけに集中している。
‥勝手にすればいい。
俺は眼を閉じて散髪が終わるのを只じっと待った。こんな居心地の悪い散髪屋ははじめてだった。
暫くして眼を開けて鏡に映った自分の姿を見て驚いた。
「ち、ちょっと短すぎるんじゃないのか?しかも長さがまるであってない」
「そうかい?じゃあ、こっちの長さに合わせよう‥」
理髪師はそう言いながら短い方の長さに合わせて、長い方を切った。
すると今度は短かかった方より短くなり、更にまた長い方をきり始める。
「オヤジ!もういいよ。やめてくれっ!」
いい加減腹が立ってきた。
「最近めっきり眼が悪くなってねえ‥」
理髪師は済まなそうな顔をして笑った。長く伸びた煙草の灰がぽろっと俺の頭の上に落ちた。
「た、煙草。気をつけてくれよ‥」
「おお、悪い悪い‥」
理髪師は俺の頭の上の灰を無遠慮に手で払った。
「ちょっと待ってくれ」
そして、奥の方へと消えていった。
鏡の中の俺の頭は無様なトラガリになっていた。
戻ってきた理髪師の手にはバリカンが握られ、咥え煙草は長くなっていた。懲りもせず、新しい煙草に火をつけやがった。
「このままじゃ、外へも出られないだろう。バリカンで仕上げだ‥」
もうどうにでもなれだった。こんな頭では電車にも乗れやない。そうだ、もうこうなったら頭を丸めるしか方法はないのだ。
俺はヤケクソになった。
「どうでもいいが頭は切らないでくれよ‥」
「ああ、心配するな」
オヤジは自信ありげに言った。
髪をすっかり丸めシェービング迄済ませ、鏡の中をよく見ると、坊主頭もなかなか似合っていた。
頭を丸めたのは中学生の時以来だった。
風通しがよく気分まですっきりとした。
まるで禊を受けたような気分だった。
「勘定はいらないよ」
店を出ようとする俺にオヤジは言った。
‥当然だろう。
「で、駅へはどう行ったらいいんですか?」
「前の道を左に行って暫くしたら大通りにぶつかるから、左に曲がればいい。すぐだよ」
道順は俺の記憶している通りだった。
「次の上りの電車は何分発かわかりますか?」
「うーん、今が、10時だから‥20分発だ。ちょうどいい頃合だ」
老理髪師はレジの脇に貼り付けられた、ヤニで茶色く染まった時刻表を見て言った。
「ん?10時?そんなばかな‥。もうすぐ12時になるよ」
俺は自分の腕時計を見て言った。オヤジは俺の頭の上を指差した。
振り返って入り口の扉の上に掛けられた柱時計を見た。確かに10時を指している。
しかし文字盤の下の振り子が止まっている。埃をかぶり動いている気配はない。
レジ脇の時刻表もよく見ると1964年と書いてあった。
‥これ以上何を話しても無駄だ。
店を出た。とりあえず駅に行くしかない。駅で待っていれば電車は必ず来るだろう。
俺はまた駅に向かって歩き出した。
それからどのくらい歩いただろうか。喉がからからに渇いていた。
じっとりと湿った空気が肌に纏わりつき、額から汗がだらだら流れはじめた。
いったいどうなっているんだ。
一本道だ。迷うような道順ではない。
昨晩歩いた道だ。
しかし、駅前の広い通りへは歩いても歩いてもたどり着かず、膝の裏ががくがくになり、しまいにはふくらはぎや足の裏が痛みはじめた。
指の先が火傷を負ったかのようにひどく痛む。靴を脱ぐと、靴下から血が滲み出していた。それでも休むわけには行かない。
俺は裸足のまま歩いた。
鉄の足枷でも嵌められているのではないか、と思うくらい足が重かった。
しかし、どんなことがあっても電車に乗り、帰らなければならない。俺には帰らなければならない場所がある。
‥それにしても様子がなんかおかしい。
ずっと歩いて来た道なのにどこか様子が変だ。
旅館から真っ直ぐ歩いてきて、左側に床屋を見つけ店に入った。そのまま真っ直ぐ行けば駅に繋がる広い通りとぶつかる筈だった。
そして理髪師は駅まで20分あれば楽に行けると言った。
俺は理髪店を出て左に真っ直ぐ歩いた。
しかし、どこまで歩いても広い通りには出ないのだ。
いったいどのくらい歩いているんだ?
腕時計を見た。
12時少し前。
理髪屋を出た時と同じ時刻だ。
時間が進んでいない。
そんな馬鹿な‥
電池切れだ。
そうに違いない。
しかし、この12時はいつの12時だ?
理髪屋を出たとき?
それとも、昨日の夜中の12時?
いったいこの時計はいつから止まっていたのだろう。
昨日の夜から今朝まで俺はまったく時間を意識していなかった。
通常なら、ありえないことだ。
周りの風景を見回した。
なんか様子がおかしい
何がおかしいのか‥
用水路がない!
そんなばかな‥
いや水路はある。
しかし、左側に流れている。
さっきまで用水路は右側を流れていた筈だ。
ばかな‥
いったい
辺りはすっかり薄暗くなってきた。
いったいどうなっているのだ、この街は…
時空に迷い込んでしまったのか。
そして目の前の景色を眺めて俺は愕然とした。
左手の鄙びた木造家屋の軒下に旅籠屋『さかい』と書かれた提灯がぶら下がっていた。
今日一日中歩き続け、結局俺はまた振り出しに戻ったのだ。
「うわぁーっ!!!
いったい
どうなっているんだ」
全身の力が抜けた。
俺は頭を抱え、へなへなとその場に座り込んだ。
5)
「いかがなさいました?」
件の女が立っていた。
隣りには柳下という例の老女将。
「あんなに急いで帰ったのにねえ‥」
女将は唇の端で笑っている。
「はぁ、はぁ‥
み、みずをくれ‥」
俺は女と女将に抱えられ、また旅館へと戻った。
宿を出るときは、あんなに意気巻いて出てきた俺だったが、今はその女ふたりの肩に担がれている。
なんとも無様な光景だった。
「ひどい‥こんなになるまで歩いていたなんて‥」
女はそんな俺を咎めるでもなく、むしろ心から心配しているような口調で言った。
水を一気に飲み干した後、ロビーの長いすに腰掛け足にべっとり張り付いた泥だらけの靴下を脱いだ。
両足には靴擦れができ、水ぶくれが潰れ血が滲んでいた。
「手当てをしないと‥」
女は俺の前にひざまづくと、いきなり俺の右足を両手で持ち上げた。
「いいよ、自分でやるから」
俺は無愛想に言った。
「じっとしてて‥」
女は嫌がりもせず、美しい細い両手で俺の右足を包み、やさしく丁寧に手当てをしてくれた。
俺はその白く美しい手元を黙ってじっと眺めていた。右足が終わると今度は左足だった。
‥俺は夢見心地になった。
子供の頃、割れたガラスの破片で足の指を切り、泣きながら母親に手当てをしてもらった古い昔の記憶とダブらせていた。
「いったい、何処まで歩いていったんですか?」
女は叱りつけるような口調で言った。
「床屋が間違った道を教えたんだ。俺の頭を丸坊主にして‥」
不本意にも何故か目頭が熱くなった。俺はまるで悪戯をして叱られる幼子のようだった。
「床屋?」
「前の通りを駅の方に真っ直ぐ行った左側にあったんだ」
「そんな所に床屋なんてあったかしらねえ?柳下さん」
女は受付の女将の方を振り向いた。
「うーん…。たしかだいぶん昔にあったねえ。でも、もうとっくに廃業しちまってるよ。それにしてもあそこの旦那は胸を患って死んでる筈だよ。とっくの昔の話しだよ。かなりのヘビースモーカーだったらしいよ」
「そ、そんな…」
背筋がぞくっとした。
「あんた、幽霊にでも会ってきたんじゃないのかい?」
「じゃ、この頭は?」
「あはは‥似合ってるよ。そりゃ霊の仕業に違いないわ‥」
「柳下さん、やめてよ悪ふざけは。きっと別の床屋さんよ」
女が途中から割って入った。
「じゃ、そういう事にしとこうか」
老女将は俺の方を見て意地悪く笑った。
「お食事お部屋にお持ちしますから、それまでお部屋でゆっくりされてはいかがですか?それとも今すぐご出発になりますか?」
手当てが終わると女は俺の両足を揃えて言った。
もう、一歩も歩ける状態ではなかった。
俺は昨日泊まった部屋にまた戻った。部屋に戻るなりごろんと横になった。
何をする気力も残っていなかった。
窓を開け放ち、暮れていく空を只眺めた。
竹林の葉の向こうに広がる、群青の空が深みを増していった。
しだいに意識がまどろんでいった。
食器のぶつかり合う温かな音で目が覚めた。
「ごめんなさい。起こしちゃった?お食事の準備ができたので」
薄暗がりの中で女が言った。
「あ、ああ、どうもありがとう」
「では、灯りをつけましょうね」
部屋中の色彩が一気に鮮やかに彩られ、眩しさで目がくらんだ。
しかし、眼がくらんだのは灯りのせいだけではなかった。
浴衣に着替えた女の艶やかな姿が目の前にあった。
白地に紅紫の桜草の花弁が美しく質素に咲き誇っていた。
黒髪を後で結わえ一つに纏めている。ほつれ髪が頬に流れている。
俺はその髪に無意識の内に手を伸ばしてしまいそうになる心を必死で押さえつけた。
食卓には二人分の食事か準備されていた。
「お食事ご一緒させてもらってもいいですか?」
女は頬を少し紅らめながら言った。
「えっ?あ、はい‥」
願ってもないことだった。
「もう、足は大丈夫?」
「痛みは大分治まってきた」
俺は立ち上げってテーブルの周りを少し歩いてみた。
「お陰さまで、かなり回復したみたいだよ。ありがとう‥」
「だったら手を洗ってらしてくださいね。お食事にしましょう」
「はい‥」
俺はやたら素直に返事をした。
テーブルに着くなり、女はビールを注いでくれた。
自分のグラスに注ごうとする女の手元から瓶を取り、俺は女のグラスにビールを注いだ。
「とりあえず乾杯!」
女は手にしたグラスを俺の目の前に差し出した。
「乾杯!」
俺もグラスを彼女の持つグラスに重ねた。
冷たいビールが喉を心地よく通り抜けた。
一気に飲み干した。
何から話したらいいのだろう?
俺は戸惑った。
旅館の一室で食卓を挟み、くつろいだ格好でビールを飲んでいる、眼の前の女は、昨日出会ったばかりの女とは思えなかった。
「あははは‥」
女が突然笑い出した。
「‥‥‥」
「ごめんなさい。だって、その頭‥‥ふふふ」
「ああ‥」
俺は自分の頭を撫でた。
「可笑しい?」
「ううん。似合ってる」
「あのオヤジ、なんかあんまり眼が見えてなかったみたいで。ひどいトラガリにされて、どうしようもなくなったもんだからバリカン持ち出してきていきなり坊主にしやがった。まったくひどいもんだ。散髪代はただにしてもらったけどね」
「あはは‥」
女は他愛なく笑った。
俺もつられて笑った。
食卓には季節の山菜をふんだんに使った、色とりどりの料理が並んでいた。
「まだ、名前も紹介してなかったわね。私、ユウキレイナ。添乗員が私の仕事なんだけど、今はほとんどこの宿専門なの。お客さん連れて来たり、ツアーにお連れしたり‥、そんなところよ」
「俺は、イズミマサヤと言います‥」
「よろしくね。食事が済んだら、オプショナルツアーに参加しませんか?」
彼女は僕の事については何も質問せずにそう言った。
「オプショナルツアー?」
俺はなんだか少しがっかりした。
同時に何かを期待していた自分を少し恥じた。結局商売なんだ。
当然だ。そんなにうまい話しはない。
「夜のコースは夏祭りと花火大会よ」
「それはいいけど、それにしても花火大会なんてちょっと季節外れのような気もするなあ‥」
「気にしないで。ここはね、いらしたお客様に満足して頂けるよう、様々なプランを用意しているの」
「夏祭りか、楽しそうだな。あなたも行くんですか?」
「もちろんです。私は添乗員ですからね」
「なら、俺もいきます」
「ありがとうございます。集合は1階ロビー8時だから、食べたら準備してでかけましょう」
結局ロビーに集まったのは俺一人だった。
「こんな日もあるのよ。本当は催行人数2名からなんだけど、今日は特別よ。あなたラッキーね」
「なんだかあやしいな‥」
「来るの?来ないの?」
「行くにきまってるさ」
‥変な女だ。最初からふたりで行こうと誘ってくれれば、断る筈もないのにと俺は思った。しかし、俺の心は弾んだ。
旅館の裏は道を1本挟んで松林になっていた。道路をわたり松林の小道を暫く歩いて行くとまつり囃子が聞こえてきた。
「あそこよ‥」
ユウナの指さす方を見ると、赤松林の間に朱色の鳥居が見え隠れしていた。
金魚掬いやヨーヨー
輪投げ、射的、焼きイカ
わたあめ、七味唐辛子…。
懐かしい夜店が並ぶ参道をユウナとふたり並んで歩いた。
夜店の白熱球でユウナの美しい顔が、柔らかく温かな色彩を帯びて輝いて見えた。
時々俺の方を向いて微笑むユウナ。俺も微笑み返した。まるで俺たちは恋人同士のようだった。
「金魚すくいしようよ」
「苦手なんだ、俺‥」
「いいから、いいから」
ユウナは俺の手を無理やり引っ張り店の前まで連れて行った。
「紙はなるべく水平に移動させるの。金魚を壁まで追い詰め、逃げられない状態にしておいて、水面近くでさっと引き揚げるのよ」
「うわーっ!」
ユウナが、金魚すくいをする俺の横にしゃがみ込み、説明しているそばから、俺の紙はすぐに破れてしまった。
「へたくそっ!いい?よく見ててよ」
そしてユウナの紙もすぐに破れた。
「あれだけウンチクたれてたのに、まったくだめじゃん」
俺は言ってやった。
「ふんっ。おじさん、もう一回」
「けっこう、負けず嫌いなんだ」
「集中するから話し掛けないで!」
俺は彼女の手元より、真剣になって金魚掬いをするユウナの横顔を飽きもせずじっと眺めていた。
できることならいつまでもずっと眺めていたかった。
「ほら、見て見てえ。こんなに捕れちゃったんだよ」
ユウナはあどけない少女のような顔をして、得意げに容器の中の金魚を俺の前に差し出した。
数匹の金魚の中に黒い出目金が一匹混じっていた。
参道は人で溢れていた。季節はずれの田舎町の祭りにこんなに人が繰り出してくるのが不思議だった。
「人が大勢出てきたね」
「世知辛い世の中だからね‥」
ユウナがぽつりと言った。
「えっ?」
「あ、カキ氷食べない?買ってくる」
金魚の入った袋を持たされて、俺はわき道にそれてユウナを待った。
彼女はなかなか戻ってこなかった。
俺は目の前を流れていく人の流れをじっと眺めていた。沢山の人が同じ方向へと流れて行く。
いったいこの先には何があるのか‥。
暫く待ってもユウナは戻って来なかった。
俺は急に不安になった。心配になって、人の流れに添って俺も歩き出した。
目の前に『氷』とかかれた看板があった。店の前に長い行列が出来ていた。しかし、その中にユウナの姿は見えなかった。
別の店に行ったのだろうか?俺は人ごみを掻き分け前へ前へ進んだ。
次のかき氷の看板を見つけたがそこにもユウナの姿はなかった。
俺は途方にくれた。
参道からそれ、また人の流れを見送った。
ユウナはもう、このまま戻って来ないんじゃないだろうか。
理由はないが、そんな気がした。
彼女は別の時空に迷い込んでしまったのかもしれない。
いや、別の時空に迷い込んでいるのは自分かもしれない。
俺はもう帰れないんだ。
何処にも。
俺はまた人込みの中に紛れ今度はただ流れに合わせて歩いた。
ただ歩いた。
マサヤー!
背後から大きな大きな声で呼ばれた。
ユウナの声だ。
心が踊った。俺は振り返った。
「もう…、なんで待っててくれないの?探しちゃったじゃない。まったくう!」
「ごめん…あんまり遅いから」
「かき氷屋さんが混んでたから、杏あめのお店行って、杏あめ買ってきた。じゃんけんで勝つと2本もらえるの。ほら、あ〜んして」
言われた通りに口を開けると
「ほら一気に食べちゃって」
ユウナは杏あめを俺の口の中に突っ込んだ。
「アグゥ…」
「あははは」
ユウナはまた大きな声で笑った。
「もうすぐ花火大会が始まるわ。早く行きましょう。迷子にならないように」
ユウナは俺の腕から金魚のビニール袋を取り上げ、手を繋いだ。強く握れば潰れてしまいそうな華奢な手を俺はぎゅっと握り締めた。
参道を真っすぐ進んで行くと小さな神社があった。
社の裏側に出ると、そこには大きな黒い水面が拡がっていた。
「海‥」
「そう、この港で花火が上がるの」
「ずいぶん遠くまで来てしまったんだ‥」
船着き場の堤防の上にふたり並んで腰掛けた。
海は凪いでいた。
小さな波が堤防にぴちゃぴちゃ音を立ててぶっかっている。
大きな爆音が聞こえた。
真っ暗な夜空に様々な色の光が放射線状に拡がった。同時にその光りは水面を映し出し海に広がった。
「きれい…」
ユウナが言った。
「まるで、夢のようだ‥」
「夢よ‥」
「夢?」
「そう、すべて夢‥」
「じゃあ、こうしてユウナとふたりでいるのも夢?そうじゃない。夢じゃない。俺はこうしてユウナの手を握っているもの。君の温もりを感じることができる。これは夢じゃない。夢じゃないよ」
「夢と現実の違いって何?」
「えっ?」
「自分が足を踏み締めている大地を実感できるのが現実?蒼い空を眼で見て、風の匂いを感じることができることができるのが現実なら、その向こうの、暗黒の闇は何?私達が踏み締めている大地は…宙を漂う不確かな存在に過ぎないの。それは夢?現実?夢と現実の間に明確な境はないわ」
ユウナが言った。
俺は、爆音を立てて次から次へと打ち上がっては闇にまぎれていく、花火を眺めていた。
黒と光りのコントラストは人間の奥深くに眠っている何かを起こすのだろ
うか。
光りは俺の中に眠る何かを呼び覚ました。
6)
部屋に戻ってからも興奮はおさまらなかった。
風呂に入り布団の上に横たわった。
まぶたを閉じると真っ黒な夜空に花火が打ち上がった。
花火とともに、ユウナの白いうなじにかかる後れ毛がちらついた。
なかなか寝つけなかった。
微睡みの中で衣擦れの音がした。
目を開けると、白い浴衣を着た女が枕元に座っている。
ユウナだ。
彼女はウスバカゲロウのように消え入りそうな声で言った。
「眠れなくて、ご一緒させて頂いていい?」
願ってもないことだった。
俺は待っていた。この瞬間を。
隣りに横たわるユウナの息遣いが伝わって来る。
俺は仰向けになり眼を瞑っていたが、全神経は、寝返りをうったり、ため息を吐いたりする彼女の一つ一つの動きに集中した。
すっかり眠りにも見離されてしまった。
「眠れないの?」
「うん‥、花火がちらついてね」
「あたしも‥」
それから暫く沈黙したまま、二人とも身動き一つせずじっとしていた。
突然、彼女の手が俺の手を掴んだ。
その瞬間、俺の中で堪えていたものが一気に溶解した。
俺はユウナの腕を引き寄せ、思い切り抱きしめた。
あまりにも強く抱きしめたので、彼女の口から吐息が漏れた。
その唇を俺は自分の唇でふさいだ。
俺は彼女のやわらかな身体に埋もれた。
暗闇の中で、大きな音を立てて花火が打ちあがった。
ユウナと俺はひとつになり重力から解き放たれ花火と共に散った。
突然、雨が降り出した。
ユウナの激しい呼吸が俺の腕の中で雨の音とともに平静を取り戻していった。俺はその呼吸の音を聞いていた。
雷が鳴った。
瞬間的に青い光りが部屋中を走った。
俺は現実に引き戻された。
これは夢。
夢の世界。
俺は現実世界に戻らなければならない。
いつまでも夢の中を彷徨っているわけにはいかない。
「明日帰るよ‥」
俺は言った。
「それは無理よ」
稲光の光りが彼女の顔を照らし出した。
「無理?」
「もう、あなたはあっちの世界には戻れないの」
「戻れない?あっちの世界?」
「そう、あちらの世界」
「どういう意味なんだい。俺には妻もいるし、産まれたばかりの子供だっている。俺は帰らなければならないんだ」
「だからそれは無理って言ったでしょ」
「だからなんで…」
「死んだの‥」
「死んだ?だ、だれが…」
「あなたが」
「俺が?そんな馬鹿な…」
「だから、最初にあなたに会った時言ったでしょ?もう自殺はできないよって」
「あれはきみが俺の真似をして‥。それにしても、ふざけないでくれよ。俺はここにいるじゃないか」
「あなたはまだ成仏してないの」
「俺と離れたくなかったら素直にそう言えよ。死んだなんて。そんな子供染みた悪ふざけは通用しないよ。君とこう言う結果になってしまった事後悔してない。後悔してないし。君の事を好きになった。しかし、俺には俺を待ってる妻や子供もいるんだ。責任がある。帰らなければならない」
「待ってないわ」
「えっ?どういうこと?」
「亜紀さん、あなたの事待ってなんかいないの」
「そんな…」
「あなたの奥さんはあなたのこと愛してないの」
「きみになんでそんな事が分かるんだ」
俺は強い口調で言った。
「亜紀さん、あなたの友人の特許事務所で働いているわよね。そこで恋に落ちてしまったの。相手はもちろんあなたのお友達の‥」
「豊田と?‥」
「ふたりは愛し合ってるわ」
「そ、そんなばかな…」
「あなたが家庭を振り向かなかったから、いけなっかたのかもね」
「それにしたって俺には生まれたばかりの赤ん坊だっているんだ。親としての責任があるんだ」
「言いにくいんだけど…」
「これ以上何を言われても驚かないよ」
「実は、赤ちゃん。あなたの子じゃないの」
「そ、そんな…。確かに俺には似ていないけど。じゃ、なぜユウナは俺と別れないのだ」
「それはもちろん豊田さんにも奥さん子供がいるからね」
「…君の話しは何処から何処までが本当なんだか。とりあえず俺は明日こそ帰る」
「だからそれは無理だってさっきから言ってるでしょう。あなたはもう向こうの世界には戻れないの」
「君は一体誰なんだい?」
「私は幽木霊奈。浮かばれない魂を黄泉の国までお連れする添乗員」
「添乗員?あははは‥おもしろい。君の冗談は最高だよ」
「それほどでも‥」
「ところで僕はなんで死んだんだい?」
「それは、聞かない方が…」
「また、そういう気を持たせる言い方をする。ここまで来て話さない手はないよな」
「聞きたい?」
「ああ、聞きたいよ。きみの言うように俺が本当に死んでるなら、どうやって死んだのかくらいは知っておきたいよ」
「ほとんど多くの場合、その瞬間の記憶はないようでございます。それが悲惨な状況や悲しい状況であればあるほど」
「はぁ‥」
「その日、あなたは会社の仲間との飲み会でかなり酔っ払っておりました。帰りの電車の中で急に吐き気を催したあなたは、電車を降りるとホームの反対側に駆け出して行きました。
背中を丸め、オエーっと一気に吐いてしまったのです」
「いやな予感‥」
「その時、あなたは線路の上に白いものが横たわっているのを発見しました。
眼を凝らしてよく見るとそれは、まぎれもない女の人でした。
女は線路の上で仰向けに寝転がり大の字になっていました。
あなたは迷わず線路の上に飛び降りました。あなたは急いで女に駆け寄り、助け出そうとしたのです。
しかし、女は余計なお世話よ。
と言ったのです。
仰向けになって抵抗する女を、酔ったあなた一人の力で助けあげることは、容易ではありませんでした。もちろんホームの上に人は沢山いました。
しかし、だれも助けてはくれませんでした。
みな映像のワンシーンでも見ているかのように他人事。
危機感は感じていましたが、映像の中に入り込んでまで助けようとした人はいませんでした。
特急通貨列車がやってきました。
あなたは渾身の力を振り絞り女の人をホームの下に押し込めました。
すると女は両足であなたを押し出しました。
その瞬間、あなたはホームに入って来た電車に巻き込まれたんです」
「ひどい話しだ‥」
「あなたはニュースなどでもヒーローとして取り扱われました。誰も手を貸さなかったくせにね。あなたはヒーローになりましたが、命を落としてしまってはね」
「なるほど。でも、もう作り話はその辺でいいよ。明日は早い、そろそろ寝なきゃいけない」
俺は布団を頭から被った。
ユウナは布団の上でいつまでもじっと座っている様子だった。
俺も気になって眠れやしない。
「寝ないの?」
「あなたが信じてくれないので困っているんです。あなたがしっかり真実を受け止めてすべての未練を断ち切って、始めて私はあなたを黄泉の国へお連れする事ができるんです」
「まったくもって実感がないからね。いきなり、おまえは死んだ!信じろ。と言われても‥」
「では、この方法は、本当はしたくないんだけど、仕方がない。使うことにしましょう」
そう言ってユウナは俺の手を引いて洗面所に連れて行った。
鏡の前に二人の姿が映し出された。
あらためて見ると、浴衣姿の俺達は中々似合いのカップルだった。
鏡の中で照れくさそうに俺を見つめるユウナを見ていると、俺はまた情意の高まりを感じた。
「好きだよ‥ユウナ」
俺はユウナの背後に回り、彼女を後ろから抱きしめ耳元に口づけをした。
「ああ、本当に俺はきみを愛してしまったようだ。離れたくない。できることならずっとこうしていたいよ」
「あ‥あ、だめ。今は‥。解いたから‥」
「解いた?何を?‥」
俺は我慢できなくなって浴衣の帯を解き、ユウナの身体を思いっきり抱きしめた。
鏡の中でユウナの唇から吐息が漏れた。
やがてそれは激しい喘ぎとなった。
ユウナは眼を瞑り、恍惚とした表情を鏡の中に映し出した。
そのユウナの顔を眺めて、俺の鼓動もさらに激しくなった。
俺たちは激しく打ち寄せる波に身をまかせた。
俺はユウナを腕に抱き、この上もない至福の瞬間を味わった。
上気したふたりの姿が鏡に映った。
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
鏡の中のふたりの顔が血に染まった。
俺の頭と顔は半分潰れ、両腕、両足は奇妙な形にひしゃげている。その悲惨な姿に身体がたじろいだ。
眼の錯覚ではないかと思い、何度も瞬きをしたが、鏡の中のゾンビのような血だらけ姿は消えてはくれなかった。
「うわぁーーーー!!!」
俺は恐ろしくなって、その場から逃げ出した。
毛布を被り、布団の中で震えながら嗚咽した。
「ね、だから言ったでしょ?こんな荒っぽい手は使いたくなかったの」
俺の肩を撫でながらユウナが言った。
ユウナの顔を見るのが怖かった。
彼女も俺の隣りで血だらけだった筈。
「もう、大丈夫よ。また妖術似非衣をかけたから」
俺は恐る恐る後ろを振り返った。
ユウナは元の美しいユウナに戻っていた。俺の脇に座り、母親のように俺の目尻の涙をやさしく拭き、微笑んだ。
「成仏するまでの間、悲惨な死に顔は見たくないでしょ?それは閻魔大王様だっておなじこと」
「??閻魔大王様??」
「はい」
「ところで、きみの顔も‥」
「そう。あたしは自殺。恋人に振られてね。私は13階のビルの上から飛び降りたの」
「うわっ!ひどい‥」
「自殺した人は成仏できないっていうでしょ?これは罪滅ぼし」
「ああ‥」
「あれってすべて本当だったのね。私の罪滅ぼしは百年間ここでこうして添乗員のお仕事を続けていくこと」
「ひ、ひゃくねん?ずいぶんながいなあ‥」
「あちらの世界と時間の流れの感覚が違うの。っていうか時間の感覚はないわ。だからその場その場で与えられた任務を忠実に心を込めてやり遂げること。これが罪滅ぼしだと思って、一生懸命取り組んできました。でも‥」
ユウナはそこまで言ってにっこりと笑った。
「でも?」
「私のお仕事はあなたが最後なの」
「えっ?もしかして百年経ったってこと?」
「そう。最後に本当にいい仕事をやり終えたと思っているわ。それにこんなにステキな人と巡り合えたんですもの」
「ユウナ‥」
「もう、あきらめはついた?」
「なんだか今まで感じていた、俺の生きていた世界との距離がずいぶん遠くに離れていったような気がする」
「本当に?」
「ああ、なんだか、もうどうでもよくなってきた」
「それじゃあ、as good as it gets ね!」
「あはは‥」
7)
「なんだか不思議だ、きみの話しを受け入れたら、俺の記憶していた全てが遠く離れ靄に包まれて行くような気がする‥」
「そう。それでこそ私の百年の苦労も報われると言うものよ。もう、似非衣の術をはずすような意地悪はしないわ。さっき見たふたりの姿も忘れましょうね」
「もう、大丈夫だよ。むしろなんだかユウナと秘密を共有しているみたいでうれしいよ」
「よかった」
ユウナはうれしそうに、微笑んだ。
「ちょうど明日発の黄泉の国ツアーがあります。3泊4日、オプショナルツアー付きよ。私の最後のお仕事になるわ」
「頑張ってね」
「ありがとう。オプショナルツアーは何にする?」
「どんなのがあるんだい?」
ユウナはバッグからパンフレットをいくつか取り出し、テーブルの上に並べた。
「こちらが墓地巡り墓石探索コース(ミニチュア墓石付き)、そしてこれが、呪われた西洋の古城巡り(髑髏ストラップ付き)それから‥」
「なんだか不気味なツアーばかりだなぁ」
「もっと楽しいのもあるのよ。玄界灘イカ釣コース(イカシュウマイ昼食付き)、それにバーメヒコチキチキ飲み食べ放題コース、それからこれはどう?赤道直下マカホラ島水上コテージラブリーナイト‥」
「それ、いい。それがいいよ。赤道直下で明るくパーっと燃えたいね」
「いやん‥」
ユウナは頬を紅らめて肩をすくめた。
「じゃあ、それなら、明日12時に支度を済ませて旅館裏手の駐車場前でお待ちくださいね。バスは燃える太陽の色、赤だから間違えないようにね」
「きみは行かないの?」
「私の担当は墓地巡り墓石探索コースなの」
「そんなあ、きみと行けるものだとばかり…」
「でもでも心配しないで。ツアーが終わればどのコースも最終日は合流して黄泉の国への旅立ちになるから。三途の川原を渡る前にリバーサイド・カフェ【SANZU】というお洒落なお店があるから、そこで待ってて。そこからはずっと一緒よ」
「きみとふたり、南国の島でゆっくり過ごせると思ったんだけどなあ‥」
「現地の美しいチキガールがオウムと一緒に出迎えてくれるわ」
「きみ以外には考えられないよ。ユウナとずっと一緒にいたいよう」
「もう、駄々っ子みたいね。じゃあ、墓石巡りコースに参加する?」
「それだけはいやだよ!」
「じゃあ、我が儘言わないの」
「わかったよ‥」
その晩、俺達は枕を寄せ合い、ぴったり寄り添って眠った。
ユウナと一緒なら死後の世界だって何も恐いものはない。僕には添乗員ユウナがずっとそばにいてくれる。
こんな幸せはない。
俺はユウナの寝息を聞きながら、心地よい眠りに落ちていった。
翌朝、荷造りをして集合の場所に行くと、赤道直下マカホラ島水上コテージラブリーナイトコースの赤バスは満員だった。
やはり墓地巡り墓石探索コースよりは断然人気があるようだった。
俺はひとりで参加するのが少し寂しかった。
バスに乗ると、小麦色をした現地のガイドが乗客ひとりひとりにハイビスカスの花をプレゼントしてくれた。
指定された席に着くと、突然ユウナが息を切らして駆け込んできた。
「どうしたの?」
「あはっ!来ちゃった。事情を話して墓地巡り墓石探索コース担当の柳下さんと代わってもらったの。柳下さんは快く承諾してくれたわ。もっと早くに代わってもらっていればよかった」
「ほんとうかい?」
俺は跳び上がりたいほど嬉しかった。
「ちょっと待ってね。挨拶だけしてきちゃうから」
ユウナは走り始めたバスの先頭まで歩いていき、マイクを持つと乗客の方を向いて言った。
「本日は『赤道直下マカホラ島水上コテージラブリーナイトコース』にご参加くださいましてありがとうございます。私、添乗員の幽木霊奈と申します。よろしくお願いいたします。
このバスは一路赤道直下のマカホラ島目指して参ります。一度ドライブインで休憩を済ませた後、空路を走る予定ですのでシートベルトはしっかりと結び付けておいてくださいね。
それではしばらくいたしますと機内食が配られますので、ゆっくりとお楽しみ下さい。
お飲み物もお好きなものをお好きなだけお召し上がりください。ではよい旅を」
挨拶を済ませると拍手が沸きあがった。
ユウナはマイクをバスガイドに渡すと、俺の隣りの席に戻ってきた。
「オワイヤ〜オジャマンボウ〜♪」
ガイドが現地語で挨拶を始めた。
ユウナは俺に寄り添い耳元で囁いた。
「ホテルはオーシャンビューのスイートルームよ。ベッドは天蓋付き‥」
俺はポケットのハイビスカスの花を彼女の髪に差した。
彼女の顔は一瞬にして華やいだ。
俺にはもう彼女以外眼に入らなかった。
俺は彼女を思いっきり抱きしめた。
俺たちの旅は始まった。
夢と希望を乗せて 〜〜〜〜〜 ∞
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