散る桜...
この作品を先祖に、そしてあの戦争で亡くなった全ての人に捧げる。
「孝ちゃ〜ん、早く早く!!」
「ま待てって美代子!!」
「や〜だよ!!」
ウサギ追いしあの山、小鮒釣りしかの川…。
…いつの出来事だったのだろうか。
眼を醒ませば情景は消え、視界に写ったのは見慣れた天井だ。
…短い付き合いではあるが、お陰でシミがいくつあるのかまで把握してしまった。
ムクリと身体を起こし毛布を剥ぎ取る。
辺りを見渡せば、坊主頭の男達がイビキをかきつつ惰眠を貪っている。
起床ラッパが吹き鳴らされた。
すると三名の男達が一気に寝台から起き上がる。
手早く深緑の毛布を畳むと今度は身なりを調え始めた。
「整列!」
声を張り上げ号令すると全員が素早く壁際に並んだ。
それを確認し俺もその中に入る。
しばらくすると廊下から足音が聞こえ、ついでガラリと扉が横に滑った。
「敬礼!」
一斉に一糸乱れぬ事なく敬礼。
入室してきた人物にそれを捧げると彼は俺達の前に立ち返礼した。
「直れ!」
号令し手を下ろす。
「番号、一!」
「二!」
「三!」
居並ぶ男達が番号を叫んでいき数え終わる。
「桂木中尉以下三名、欠員なし!」
「よし!」
「佐藤分隊士に敬礼!」
上官である佐藤勇大尉に敬礼すると再び彼は返礼した。
ここは鹿児島は知覧。
俺達は…海軍神風特別攻撃隊、振風隊。
生きて帰る事は許されない男達だ。
「桂木中尉!」
「どうした?」
朝食も終わり部屋にある自分の寝台に横になっていると若い士官−加島忠一少尉が声を掛けてきた。
加島はまだ十九の若い身空。
以前に何故、志願したのか聞いた事がある。
『お国のため』
答えは簡潔だった…。
「いつ…出撃なのでしょうか…?」
「さぁな…」
やはり不安は日増しに大きくなっているようだ。
無理もない。
いざ、“その時”になって冷静でいられる人間が果たしているだろうか?
「桂木中尉!」
「どうした?」
格納庫に鎮座している愛機−零戦五十二型の操縦席で点検していると下から声が掛けられた。
コイツも若い…。
まだ二十歳になったばかりの男は、柳田健司少尉。
出身は確か……高知だったろうか。
時たま聞き取る事が難しくなるほど訛りが激しくなってしまう男だ。
だがなんとか標準語を話しているとか。
もともとは大学生だったが、予科練に入り、そのまま特攻に志願した。
…他の二人も同様だ。
「ラバウルでの話を聞かせてくれませんか?」
「あぁ…判った。そうだな…あれは昭和十七年の……」
「隊長!」
「どうした?」
夕方になりそろそろ夕食の時間になりつつあった頃、廊下で声を掛けられた。
若い男−竹田雄次少尉だ。
息せき切って廊下を駆けてくる。
「分隊士が…呼んでいます!」
「…判った」
とうとうか……。
「明後日、諸君は沖縄に飛び立ち、所在の敵艦隊に突入する!」
分隊士の言葉に横にいる部下達が身を固くした。
とうとう来たのだ…。
「諸君等は…神となるのだ!!」
神…か。
「桂木…済まんが一本くれんか?」
部下達は退室したが俺だけが残された。
上官の頼みを快く承諾し、飛行服のポケットから煙草を取り出した。
「済まんな…」
「いえ…」
マッチの火を貸すと自身も煙草を咥え火を点けた。
「なぁ桂木…何年の付き合いになる?」
「…六年ですかね。大陸からの付き合いですから」
「もう…そんなになるのか…。奥さんはどうしてる?」
「家内なら倅の子守に手一杯でしょう」
そう返すと分隊士は苦笑いを零した。
「結婚して……そうか、まだ三年か。俺が仲人を務めたからな」
「えぇ。結婚式で分隊士が酔っ払った時は大変でしたな」
すると部屋に笑いが溢れた。
「三年…まだ三年か…」
「…二十年以上も付き合っていたら顔も見飽きましたよ」
「桂木中尉……お手紙が…奥様からです」
出撃を明日…いや、あと十二時間か。
半日に控えた時に加島が手紙を持って来てくれた。
「ありがとう…」
短く礼を言って読み始めた。
「フゥ……」
出撃まで…あと一時間か。
やっと手紙が書き終った。
これでやっと整理がついた。
心残りは……ないと言えば嘘になる。
机の上には二つの手紙。そして妻と三歳になる息子が写った写真がある。
読み切った手紙と写真を手に取って見詰める。
…本当に……見飽きた顔だ。
妻と出会ったのは二歳の頃だったろうか…いや、もっと幼かったかもしれないな…。
時は流れ、関係は幼馴染から夫婦に。
…だが…それも今日までか…。
あわよくば…独りよがりかも知れない。
だがそれでも良い……この見飽きた顔を…もっと見たかった……!
ふと頬に何かが流れる。
…涙を流すのはいつ以来だったか…。
涙が零れるのを構わず、書き上げた手紙を取って見直す。
【桂木美代子殿】
とうとう出撃の日を迎える。
幼馴染として二十年。そして夫婦として三年。
まずは、それだけしか付き合えなかった事を済まなく思う。
だが、俺はそれを短いとは思わない。
俺とお前は…夫婦だからだ。
たとえ共に過ごした時は短くとも心は繋がっていたと信じたいのだ。
不器用な俺だからこその技術かも知れない…だが俺の正直な気持ちである。
何度、お前と笑い、泣き、悩んだのだろうか…。
数える事は出来ない。
だがそれで良いのだと思っている。
さて、出撃を迎えた男子として、妻であるお前に一つ言っておきたい事がある。
俺は君の幸せを願う。
俺が死んだら、別の家に嫁げ。
俺は君の、そして息子の不幸は望まない。
幸せを願うのだ。
なればこそ、俺の事は忘れ、新しい生活に身を委ねるのだ。
そしてもう一つだけ約束して欲しい。
どんなに苦しくとも笑って生きてくれ。
俺は君の笑顔が好きなのだ。
幼かった時分からずっと、その笑顔に励まされ、勇気を貰って来た。
その恩を今こそお返ししたい。
翔太…実の父がいなくて俺を怨むかも知れない。
怨んでくれても構わない。
だが判ってもらいたい。
父さんは、お国と母さんと翔太の為だけに征くのではない。
君達の後世の為に…決して見る事は出来ぬ、孫達の時代の為にも征くのだ。
父さんがいなくてもお前なら大丈夫だと信じている。
何故ならば、お前は桂木孝一と桂木美代子の息子なのだから。
母さんの言う事をよく聞いて、健やかに育つように。
最後に美代子。
俺みたいな男と一緒になってくれた事を…月並みな言葉ではあるが礼を言いたい。
ありがとう美代子…。
俺も君に負けず、朗らかに笑って征く。
昭和二十年八月三日。
大日本帝国海軍中尉、桂木孝一。
涙を拭い去り、飛行帽と飛行眼鏡を手に取った。
季節外れだが……夏に散る桜も格別だろう…。
子に怨まれんとも孫の世のため。
彼等の為ならば、こんな命などいくらでもくれてやる。
それが桂木孝一の二十五歳、最後の仕事だ。
便箋を封筒に入れ閉じる。
後は…分隊士か郵便課の連中がやってくれるだろう。
そう思い、俺は滑走路へ向かった。
ウサギ追いしあの山、小鮒釣りしかの川…。
山桜は綺麗だったのだろうか…。
この作品自体は前々から温めていたものです。
特攻隊員の方々がどんな気持ちで飛び立っていったのか。
それは当事者ではない私には推し量る事など到底叶いません。
ですが、この作品でほんの一抓みでも表す事が出来たならば幸いであります。