むかし、荘周夢に胡蝶となる。
栩栩然として胡蝶たり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。
「やば・・・大学遅れる」
うるさく時間を告げる目覚ましを止め、周平は起き上がった。
上京して一人暮らし。
大学二年生。
荘矢周平、二十歳。
彼女もおらず、ごく普通の生活を送っている。
「あー・・・電車乗り過ごした・・・」
時計の針は、周平がいつも乗る電車の発車時刻をとっくに回っていた。
「もういい・・・たまには歩こう」
小さめの冷蔵庫から、ペットボトルのスポーツドリンクを取り出し鞄に入れる。
顔を洗って歯磨きをして、投げ込まれている新聞をそこらへんに置いて。
「行ってきます」
誰もいない部屋に挨拶をして、鍵をかける。
すれ違うマンションの住人に適当に挨拶をしてエレベーターに乗り、マンションを出る。
「つまんねぇの・・・」
いつも通りのライフスタイルに愚痴をこぼして、周平はのんびりと歩き出した。
いつもは電車に揺られて大学まで行く道。
歩いてみると、いつもと同じ風景が違うものに感じられる。
・・・あ、こんなとこに自販機あったんだ。
あれ、ここのコンビニつぶれたんだ。
お、新しい家が建つのか・・・。
普段なら気付かないところを次々と発見し、周平は何だか嬉しくなる。
そして。
・・・・・・公園?こんなとこにあったか・・・?
電車の窓ガラス越しに見ていた風景の中の一つだろうか。
周平は、何かに惹かれるようにその公園へと足を踏み入れた。
シーソー、ブランコ、シャングルジム・・・。
別にそこらにあるような公園と何ら変わりは無い。
周平はベンチに腰を下ろした。
「やっぱこんな時間に人なんか来ないよなー・・・」
ふと空を見上げる。
青いキャンパスに白の絵の具。
そういえば、空なんて、ずっと見てなかったな・・・。
周平の視界に、ひらり、蝶が一匹舞い込んだ。
黒い羽に青い筋。
ひらひらと周平の視界を舞う。
まるで周平を誘っているかのように。
ふと彼は、大学の講義で学んだ、哲学の一節を思い出した。
そう、たしかあれは―――・・・。
むかし、荘周夢に胡蝶となる。
栩栩然として胡蝶たり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。
ツツジだ。ツツジが咲いている。
赤い花びらに足を乗せ、甘く香る蜜を飲む。
それだけでは足りなくて、隣に咲いていたツツジの蜜も飲む。
体は軽く、風に乗る。
一枚、緑の葉が、視界の横を通り過ぎていった。
子供達の笑い声が聞こえる。
幼い子供達が、追いかけっこをしていた。
一人、逃げていた少女が転び、膝をすりむいて泣いた。
鬼ごっこは中断。
ふと目を向けた先、ツツジを見つけた。
気がつけば、喉が渇いている。
先ほどと同じように、ツツジの赤い花びらに足を乗せ、甘い蜜を飲む。
隣のツツジが甘く誘う。
その誘いに乗り、隣のツツジの蜜も飲んだ。
・・・そういえば。
確かこんな一節があった。
むかし、荘周夢に胡蝶となる。
栩栩然として胡蝶たり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。
ヴヴヴヴ・・・ヴヴヴヴ・・・。
「・・・!」
鞄に入れた携帯が、着信を告げている。
気がつけば、青いキャンパスはいつのまにか、オレンジのキャンパスへと様変わりしていた。
体が痛い。
「・・・夢・・・か?」
いつの間にか、携帯は静かになっていた。
それにしては現実味があったような・・・。
「・・・帰ろう」
周平は、ベンチから立ち上がり、鞄を肩にかけて歩き出した。
道端に赤いツツジが咲いている。
そのうちの一輪に、見覚えのある蝶が止まっていた。
「・・・・・」
周平は立ち止まり、ツツジを一輪、摘んだ。
ひらり、蝶が視界から消えていく。
「・・・甘い」
この味も、知っている。
周平の脳裏を、またあの一節が横切った。
むかし、荘周夢に胡蝶となる。
栩栩然として胡蝶たり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。
「・・・俺は・・・」
夢か現か。
現か夢か。
「・・・・・・・」
周平は、摘んだツツジをそっと手に持って家路に着いた。
「ただいまー・・・」
いつもの通り、誰もいない部屋に挨拶をして、靴を脱ぎ、結局一度も飲んでいないスポーツドリンクを冷蔵庫にしまった。
「そうだ・・・ツツジ・・・」
手の中の赤いツツジ。
しおれかけたその赤い花びら。
周平は何ともなしに窓を開ける。
さぁ、と風が部屋に舞い込んだ。
この風も・・・知っているような気がする。
手すりに手をかけ、外を見る。
オレンジのキャンパスの中、赤く染まった太陽が落ちていく。
「むかし、荘周夢に胡蝶となる。
栩栩然として胡蝶たり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。
か・・・」
幾度も思い出した一節を口に出し、周平は、赤いツツジを空に投げた。
窓を閉めたそのとき、ツツジを追うように、視界の端、蝶が舞い降りていったのを、周平は見た。
「・・・・ホント、どうなんだろうなぁ」
ヴヴヴヴ・・・ヴヴヴヴ・・・
鞄の中で、再び携帯が周平を呼んだ。
「誰だー?」
ディスプレイには友人の名前。
「あ、そっか・・・俺、今日大学行ってない・・・」
その代わり・・・。
その代わり・・・俺は・・・。
ヴヴヴヴ・・・ヴヴヴヴ・・・
「おっと・・・はい、もしもし」
夢か現か。
現か夢か。
むかし、荘周夢に胡蝶となる。
栩栩然として胡蝶たり。
自ら喩しみ志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。
夢か現か。
現か夢か。
誰も、知らない。
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