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奇跡−あるいは「どん亀」の一生
作:天野六月


どん亀は、やっぱりどん亀だった。
野呂亀吉。それが彼の本名だった。しかし、それも今では戸籍上の符丁でしかなく、どん亀がいつしか彼の人格となり意匠となっていた。
−わー、どん亀がはまたおっしこ漏らした。
−どん亀、こんなことも解らんのか。
−近寄らないでよ。向こうへ行って!どん亀!
毎日の連なりが日常となるように、どん亀はどん亀以外の何者でもなくなっていった。そして自ら、どん亀という名前の中に閉じこもった。それはある意味で楽な位置づけでもあった。
 玄関の引き戸を開けた。人気のない冷たい空気がひんやりと頬を撫でる。今日一日もどん亀としての一日であった。
「だだ今」
声をかけても誰も答えない。寂しく自分の声が木霊した。
 両親は共稼ぎで、決して裕福でないこの家の家計を必死に支えていた。毎日が自転車操業のような繰り返しで、二人して眼の色を変え一歩先を追いかけていた。追い水の幻想のように。そして家に帰ってくると抜け殻のように精気なく、無言の夕食をとり、そしてただ寝るだけだった。朝起きると、両親はすでに出かけていて、一人冷めた朝食をとった。
 どん亀は3畳ばかりの物置を改造しただけの自室に籠もり、ぼんやりと灯りもつけず、窓の外を見た。夜の帳が静かに降りてきた。辺りは深い静けさの中にある。時折、遠くを走る車の音が木霊した。そのどん亀の知ることのない遠くの先を夢想した。学校でもいつもそうだ。窓側の席から、外ばかりを見ていた。そこには自分の知らない世界があるように思えた。きっとそこはどん亀ではなく、亀吉と呼ばれる世界であるに違いなかった。昼下がりののっぺりとした空気が漂っていた。一人の男がステテコのまま脚を前に放りだすような独特の歩き方でぶらりぶらりと歩いている。いつもこの時刻になって家を出ていくのだ。どん亀はそっと眼を瞑り、その男に向け心を飛ばした。
−今日は昨日の借りを返すぞ。
−昨日の台はありゃなんだい。5000円で30分ももちゃあしねえ。
−最近、不景気だってんで、あの親爺出すのをおしんでるにちげえねえ。
−そうは問屋が下ろすかってんでえ。
−今日は無理はしねえ、無理をしちゃあいけねえ。昨日の轍を踏んじゃいけねえ。
そしステテコ男は、町のしけたパチンコ屋に入っていった。
その時だ。辻本の拳骨が落ちてきたのは。
見上げると鮫のような眼でどん亀を見下ろしていた。
頭を撫でると瘤が出来ていた。
何処か遠くへ行きたい。誰も知らない何処かへ。
遠くから聞こえてくる車の音を聞きながら、どん亀はそう心の中で呟いた。
 朝、いつものように冷たくなった朝食を食べ、家を出た。どん亀の一日がまた始まった。うららかな春の陽気に包まれている。野辺には黄色く小さい草花が咲き乱れ、紋白蝶が、二匹、糸がもつれ合うように花から花へと舞っていった。そのときふと何処か遠くから微かに鈴の音が聞こえてきた。どん亀は、しばらく辺りを見回したが、何も思い当たらない。空耳かとも思った。しかし、よく耳をすますと、涼やかな風に乗って、確かに鈴の音が聞こえてくる。その音が妙に琴線を揺すぶった。切ないほど愛おしく、そして何かへの憧憬のように。どん亀は少し道草をすることに決め、その音の鳴る森へと足を進め、奥へ奥へと入り込んでいった。木漏れ日がタンポポの綿毛のように降り注いでいる。木々の枝が織りなすアラベスク模様が影絵のように浮かんでいる。どん亀は少し不安になった。出口のない迷路に足を踏み入れ、帰り道をなくし、どこを彷徨っているのだろう。自分を促しているものが何かも解らなかった。後ろを振り向いても、もうすでに帰り道は霧の中だった。しかし、鈴の音は確実にはっきりと聞こえてくるようになった。この音に従って行くしかない。そう心を決めると勇気を奮って、鈴の鳴る方に分け入った。
 何かの封印のように複雑に絡み合う枝を払いながら進んでいくと、急に森から抜け出てた。一瞬、目映いほどの光の洪水に包まれた。黄金の光が溢れていた。ゆっくりと眼を開くと、その黄金の光の束は、何万という透明な鈴蘭が傾きかけた日の光を浴び、黄金に輝いているのだった。その透明な鈴蘭から、涼やかな鈴の音が聞こえ、その鈴の音が幾重にも重なり合い、妙なる音の絨毯を編み上げていた。
陶然とどん亀は立ち竦んだ。このような美しい光景を今までに見たこともなかったし、またこの世にこれほど美しいものがあることさえ信じられなかった。夢のようであった。もし天国があるとするなら、おそらくこのような景色なのではないのか。どん亀の頬を涙が濡らしていた。悲しくないのに何故涙が出るのか解らなかった。ただ、この何万もの鈴蘭が風に揺れ、鈴の音を奏で、それが夕日に輝き、泉のように黄金が湧き出してくる様を見ていると、何故だか涙が溢れ出てきた。どん亀は、ゆっくりと腰を下ろし、この光景の中に沈んでいった。
 あそこからどうやって帰ったのかも憶えていなかった。ただ気が付くと、いつものように3畳ばかりの薄暗い部屋で一人ぽつねんと居た。窓ガラスを遠くの車のヘッドライトが照らしていく。夢だったのだのだろうか。ぼんやりとそう考えた。しかし、それが譬え夢であったとしても、その夢は神様の贈り物のように思えた。どん亀の心は少しだけ温かくなり、少しだけ幸せになった。
 あれ以後、どん亀がどのように変わったか、だれも気が付かなかった、いつものように窓の外を眺めていては、辻本に拳骨を食らった。ただ、何処となしに楽しそうに笑っている姿をよく見かけた。妙な噂も一時たったが、それもいつしか忘れられたいった。
いくつかの時が流れた。
花が咲き、蝉が孵り、空蝉となり、銀杏が色づいた。
波が海潮を奏で、何万もの流れ星が流れた。
人はそれぞれに老い、あるものは生まれ、あるものは死んでいった。
どん亀は、何の変哲のない人生を送った。
当たり前の結婚をし、3人の子どもを育てた。
晩年、どん亀は夕方になると公園のベンチに座り、いつも夕焼けに耳を傾けていた。小さな子どもが不思議そうに近寄り、
「何をしているの?」
と尋ねると、しわくちゃの顔をから優しい笑みを浮かべると、
「坊やも、耳をすませてごらん。鈴の音が聞こえるよ」
と答えた。子どもは、どん亀の横に座ると、小さな目を閉じると、じっと耳をすませた。すると夕焼けの遙か彼方から、微かに涼やかな鈴の音が聞こえてきた。
「ねえ、坊や。聞こえるだろ?」
「うん。とっても綺麗な音だね」
どん亀は、子どもの方を見ると再び優しく微笑んだ。
「これは神様からの贈り物なんだよ」
ベンチに座る二つのシルエットが深まりゆく夕焼けの中で、影絵のように浮かんでいる。
何万もの透明な鈴蘭が黄金の光を放ち、一斉に揺れて、鈴の音を奏でた。 
そして、どん亀は静かに眼を閉じた。














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