淡い初恋
山口直也くんは、私の好きな人だ。
どうして好きなのかは自分でも分からない。
ただ、ふと笑顔が素敵だなって思って、それからなんとなく目で追って、ある日ハッと「ああ、自分は彼が好きなんだ」 と思う。
他にどんな恋の形があるかは知らないけど、私の場合はそうだった。
「はい、では今日の体育は隣の組と一緒に社交ダンスをします。指示に従って、出席番号順に輪になってください。……ああ石井さん、石井綴さん、輪からはみ出てますよ」
担任の先生が私をそう注意した。私は慌てて輪に入る。でも心の中で言い訳してしまう。
社交ダンスって、あれだよね? 男の人とペアになって、手を握ったりするんだよね? 踊る時には直也くんと私も? な、なんか顔から火が出そう。とても普通じゃいられない。気もそぞろになってしまう。
本当にやるのかなと先生のほうを見ると、隣のクラスの先生とお喋りしていた。
「音楽の準備は?」
「出来てます。それにしても小学生に社交ダンスねえ……私達の時よりハイカラよね」
「外国じゃダンスくらい踊れて普通だから、将来困らないように形だけでもってことらしいわよ。ここは日本なのに。ああ、それじゃあ時間だから始めましょう」
先生達はなんかよく分からないことを話した後、私達を指示してまわった。
「はい、では男の子は、女の子の肩に手をこんな感じに乗せてね。恥ずかしがらないの。ダンスでは普通の事よ。女の子も照れないの。授業が進まないでしょう。では先生達が簡単に手本を見せます。……こうよ、分かった? では音楽スタート!」
難しかったらどうしようと思ったけど、思いのほか単純な動きだったので、クラスの誰一人遅れることなく一分間踊れた。様子見だったのか、切りのいいところで音楽が止まる。
「その調子よ、みんな筋がいいわね。じゃあそうね……授業が終わるまで、三周くらいしましょうか」
固まる私。だってそれは、直也くんと三回も手を繋ぐ必要があるという訳で。他の女の子は「動画みたいに一人で踊るのやりたかった」 「誰誰くんが何か手馴れてる感じ」 「これ、授業中ずっと?」 といたって普通なのがつらい。びくびくしてるの私だけみたい。
男の子は男の子で「何これ? どっかにカメラあるの?」 「リードする側ってプレッシャーきつい」 「あとでセクハラとか言われたら嫌だな……」 とあんまり歓迎ムードではなかった。私も緊張できついから、正直踊るのやめてもいいかも……でも口に出す人がいない以上、ダンスは進む。
「石井さん、よろしく」
「うんよろしく矢野くん」
まず初めに、誰から始めたか、簡単な挨拶してから踊り始める。これを矢野くんまで繰り返して……ついに山口直也くんの順番になった。
カチコチになりそうな身体を叱咤して、なるべく優雅に見えるように動かして踊る。お互い無言で踊っていた。その踊っている間、私は意外に固い彼の指先や腕の感触に、やっぱり男の子なんだと実感した。そして直也くんと踊れた幸福を噛みしめていた。
踊り終わって、ミスをせず終わったことにホッとして、次の山田くんの順番になる。
「石井さん、よろしく」
「うんよろしく……ぁ」
何で忘れてたのだろう。私、直也くんに挨拶してない。……緊張のあまり、ダンスをミスしないことだけに頭をつかって、挨拶するのがすっぽ抜けてた……。
泣きたくなるのを堪えて踊り続ける。うう、絶対失礼な奴だと思われた……。せめて次のターンでは同じ失敗をしまいと挨拶に気合をいれる。
「よろしくね、山口くん!」
「よろしく」
……なんかそっけないような。やっぱりさっきは何様だよって思ってるのかな。鬱になるのを耐えて踊り続ける。そして三回目。
「あの、よろしく」
「よろしく。あのさ、石川さん……」
と、直也くんは何か言いかけてやめた。え、何? 気になったけど、ダンスのリズムを狂わせるわけにもいかないので続行。
三週したところでチャイムが鳴り、休み時間に入った。同時に、直也くんが私に話しかけてくる。
「石井さん、大丈夫?」
「え?」
「いや、最初ボーッとしてたように見えたから、具合悪いんじゃないかって」
天の助け。私は思った。これはこの勘違いに乗っかるしかない。
「そ、そうなの。ちょっとだけ」
「大丈夫? 保健室行く?」
「も、もう全然! 大丈夫だから!」
「本当に? なら良かった」
彼は挨拶もできない私に、都合のいい嘘をする私に、綺麗な笑顔で微笑んだ。うわあ、眩しすぎて直視できない……。同時に自分が汚いのを思い知らされる。でもやっぱり、好きだなあって思う。
心配までしてくれたことに、私は一日嬉しがってニヤニヤしていた。その日もニヤニヤする予定だった。席順の都合で直也くんと同じ日直だったからだ。でもたった一日だけで終わったのは、翌日友達が爆弾発言したからだ。
「綴ちゃん、昨日のダンスどうだった?」
「天音ちゃん! うん、楽しかったよ。天音ちゃんは?」
「私もー。だって、直也くんと踊れたんだもん!」
固まる私に、遠藤天音ちゃんは「あれ? 言ってなかったっけ?」 と小首を傾げた。
え、つまり、天音ちゃんがライバル? 天音ちゃんがライバル……。じっと彼女を見る。
小柄で細くて可愛い、天然気味で素直。守ってあげたくなるような女子だ。あ、勝てないかも。それに、先にこんなこと言われたから、何か「私も好きなの」 とは言い出しにくい。
「それでね、今日綴ちゃん、日直の仕事で放課後、直也くんと一緒に職員室行くでしょ? 代わってもらえないかなあ? いいでしょ? 仕事なくなるんだもん」
いやだ、と言ったら、私が予定通り直也くんと日直の仕事を出来る。断ることは容易だ。当番と決められた人以外が当番の仕事をするのはルール違反なのだから。でも、それは友人の想いを踏みにじることを意味する。だけどそれが何だ。ほら、言わなくちゃ。「そんな、仕事を押し付けるみたいなこと出来ないよ。先生に怒られるの私なんだよ」 って。そんなの迷惑だ、彼といちゃつくのは私だ。私の中の悪魔が囁く。
「綴ちゃん、ダメ?」
悲しそうな友人を前に、天使が囁く。友達を裏切るのか。そんな人間が人に好かれるのか。目の前の女の子と自分を比べろ。どっちに好かれて嬉しいかくらい分かるだろう、と。
「うん、分かった。じゃあ、午後からの日誌は私だから、これを持って山口くんと行ってね……」
放課後、日誌を渡して、私は一人教室に待機していた。何かあった時のためだ。直也くん、違う人が来て驚くかな。でも来たのが天音ちゃんで、むしろラッキーって思うかな。あ、ちょっと悲しくなってきた。沈んでいると、突然教室のドアがガララと開いて、不機嫌な顔をした天音ちゃんが入ってきた。あれ、直也くんと職員室じゃ? 疑問に思う私をよそに、彼女は机に日誌を放り投げるように置いて言った。
「日誌。書いた人が届けるんじゃなきゃダメだよって直也くんに言われたの。……っていうか、彼のこと知ってて代わったなら、性格悪いよ綴ちゃん。あと直也くん、職員室前で待ってるから行けば?」
それきり彼女は、ぷいと横を向いて帰っていった。機嫌悪いけど、あとに残さないタイプだから明日には元に戻ってるんだろうなあ。でも何で機嫌が……ああ直也くんが思いのほか真面目だったから断られたことか。
内心嬉しがってる自分がいた。そして、私の中の天使が「こうなること、本当は分かっていたのでは? 友人を傷つけに行かせたのか?」 と責めた。悪魔が「そんなことより、早く山口のところへ行って、用事を済ませろ。山口だって仕事終わるの待ってるだろ」 と囁く。
職員室の入り口には直也くんが立っていた。こちらも不機嫌そうだった。……人に仕事を押し付けようとしたと思われてるよね。私も思わず身が縮まる。
無言で用事を済ませたあと、直也くんはぽつりと言った。
「俺が嫌いなら、はっきり言えばいいじゃん」
「! あ、あの、そうじゃなくて、あの……」
何て言ったらいいのか考えて、自分が詰んでいると理解した。
天音ちゃんがしたいって言ったから。人に責任を押し付けるのかという話だ。
天音ちゃんはね、直也くんのことが好きなんだよ。プライバシー侵害だ。
直也くん喜ぶと思って。大きなお世話だ。
あれ、私ってもしかしなくても酷いやつ?
「もういい」
直也くんはそう言って、私の横を走り去った。そして弁解の時間もないまま、夏休みに入ってしまった。
こんな灰色の夏休みってあるのかな……。何する気にもなれなくて、ぼんやり宿題だけして過ごす。登校日もあったけど、気まずくて全部休んだ。そういえば最後の日が誕生日だったけど、何かどうでもいい。どうせこの日に友達が来ることないもん。
九月一日。日焼けした皆と再会した。あと夏休み中の宿題、特に工作関係がクラスでごちゃごちゃしてて、ちょっと狭く思えた。
「あ、綴ちゃんって昨日が……。ごめんね! プレゼントはあるけど、宿題が重くて持って来れなかったの! 明日必ず持ってくるから!」
何人かそう言ってくれたけど、夏休み生まれはこんなの慣れているものだ。笑顔で「そんなのいいよ」 って言っていると、宿題を忘れて起こられていた直也くんが、「ん」 と何か目の前に掲げてきた。果たし状……じゃないよね。どこかのお土産っぽいけど、何だろう。
「当日が無理なら、翌日に祝うなり渡すなりするべきだろう。俺は持ってきた。宿題はそのために置いてきた。ホントだぞ。……これ、誕生日プレゼント」
「え」
「夏休み前、ごめん」
直也くんが、プレゼントを私に……。それもクラスで一人だけ……。
灰色の夏休みがどうでもよくなるくらい、私の目の前が薔薇色になった。
「ありがとう! 一生大切にする!」
さすがに目の前で開封するのは人目もあって憚られたので、家に帰ってから開けた。そこにあったのは、可愛い和柄のスマホケース……と手紙?
『お前が好きだ。悪かったな』
◇◇◇
あ、ダンスで挨拶忘れた。と直也は思った。好きな子と踊る緊張の余り、無言で踊ってしまった。でも踊ってる途中で言うのもなんだしと思っていると、石井綴がガチガチで少しボーッとしてるのが気にかかる。あとで聞いたら、少し具合が悪かったそうだ。気づけた自分に拍手を送りたい。気のつく男だと思われてたらいいけれど。
しかし実際はお節介とかジロジロ見てるとか思われたのだろうか。翌日、日直の仕事の待ち合わせに現われたのは違う女の子。えーと、遠藤、だっけ? 彼女いわく「自分が一緒に提出に行く」 とのことだが、思わず「石井さんと職員室に行かなくちゃいけないのに」 と言ったら、天然に見えて随分勘のいい人だったのか「当て馬なのね、私」 と言ってあっさり諦めた。「石井さん呼んでくるから待ってて」 と言って来た道を引き返す。しかし来た石井さんは、よそよそしい態度にもほどがあった。何か不満があったなら、直接言ってくれたほうがマシなのに。
「俺が嫌いなら、はっきり言えばいいじゃん」
思わず出た台詞に、彼女が動揺しているのが分かったが、自分でも止めることが出来なかった。
「もういい」
その場では正義面して言えても、あとになって後悔が襲ってくる。もしかしたら、気づかないうちに彼女を苦しめたとかあっただろうか、それとも別な理由があったとか……聞き出そうにも、彼女は登校日にもやってこない。
悩んだ挙句、やけくそで誕生日プレゼントに紛れ込ませた。あれなら冗談にも取れるし、断りやすいだろう。
宿題? 普通にやってないけど。