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人型ロボット

作者: 竹蜻蛉

「聞いてくれ里香! ついに計算も出来るようになったんだ!」

 研究室の扉が壊れんばかりの勢いで開き、白衣の男が興奮した様子で入ってきた。もくもくと煙草の煙を溜め込んでいた部屋に一気に外の空気が流れ込み、中にいた研究員たちは一様に顔をしかめた。

 三十代も半ばかと思われる男は、髭もろくに剃っておらず、決して清潔とは言えない不恰好な有様をしていた。そのことを疎ましく思う研究員の視線も跳ね飛ばし、ずんずんと室内を進んでいく。男の瞳はギラギラと光を発しており、その状況をよく知っている研究員たちは「またか」と小さなため息をついた。

「里香! ついに学習装置に結果が実ったんだ。これで僕の夢にまた一歩近づいたよ」

「……うっるさいわね、中村研究員。こっちは徹夜明けで疲れてんのよ、大きな声上げないで」

 里香と呼ばれた女性がうっとうしそうに男を、つまり中村を制した。彼女のデスクには研究記録を纏めてあるレポートが散乱している。眠気覚ましの炭酸飲料のペットボトルや、まだ飲みかけのコーヒーもあった。それらを手の平で差して、小さく欠伸を漏らした。

「それと研究室で里香って呼ぶのは止めて。公私混同はしないでって言ったでしょう」

「あ、悪い。坂上さん、だったね」

 中村はばつの悪そうな顔をして頬をかいた。坂上がそれを湿った目でしばらく見ていたが、やがて諦めたようにチェアーの背掛けに体重をかけ、身体の力を抜いた。

「それで、あなたの大事な大事な『アイ』ちゃんにどんな変化があったって?」

 わざといやらしく強調するように坂上が言った。しかし、中村は気にした様子はまったくなく、それどころか益々嬉々とした表情になって、ほとんど無意識であろう、坂上の手を握って子どもみたいに大きく振った。

「そうなんだ。アイに一たす一は? と聞いたら、きちんと二、と答えてくれたんだよ」

 まるで生まれたての娘の成長を喜ぶ親のような物言いで言うが、アイが何であるかを知っている坂上はさして興味も無さそうに手元にあったレポートを手に取った。

「それは計算とは言わないでしょう」

「いいや、これは大きな一歩だ。人工知能に数式を提示するのではなく、こうして僕らの言葉で通じたことが大きな進歩なんだよ」

「そうかしらねえ……」

 アイは人工知能によって活動する、いわゆるAIだった。自律行動ロボットの技術も近年急速に発展し、アイザック・アシモフの小説に登場する陽電子頭脳のようなものも出来上がった。事実は小説よりも奇なりとは良く言ったもので、このロボット工学の発展は世界に、そしてその時の子どもたちにも大きな影響を与えた。中村と坂上もその頃影響を受けた人間の一人だった。理解し、行動することが可能になったロボットでも、永遠の命題である「感情」にはどうしてもいきつかなかった。すべてのロボット工学家はその「感情」を目指して、日々研究を続けていた。

 中村の作った「アイ」は現代のロボットの到達できる最先端の部分まで完成していた。初期プログラムは完全に構成され、現在は学習装置による「成長」を目論んで目下健闘中だ。

「ちょっとアイを呼んできなさいよ」

「ん。分かった」

 中村は嬉しそうにスキップを踏みながら研究室を出て行った。頭を抱えたくなる中村の挙動に、思わず坂上は頭を抱える。研究室から「大変ですね」と坂上を労う声が上がる。坂上は乾いた笑い声とともに、嘆息を漏らした。

 二人は学生時代からの同期で、両者とも現代科学で到達しえていない「人間らしいロボット」の製作を目標として研究員を続けていた。そのため数いる研究員の中でも二人の仲は良く、そのことは研究室でよく噂になっていた。もうほとんど研究室公認のカップルとも言えたが、その類の話になると、二人とも揃って「それはない」と否定していた。しかしそれすらも話のネタになってしまっている現在では、もうどこも諦めモードに入ってしまっているようだ。

 中村が一人の女性を連れてもどってきた。身長は高めで、手を引いている中村よりも数センチほど高い。囚人服のような簡素な布切れを着せられている。頭部から流れる艶のある黒い髪は一本一本が脈動しているかのように、歩を進めるたびにふわり、と風に乗る。スッとした顔立ちに長い睫毛。女性的な細い腕が電灯の下に晒されて歪な白さを浮き彫りにしていた。そのまるで人間と違わぬ外見を持ったモノこそが、人工知能『アイ』であった。

「こんにちは、アイ。調子はどう?」

 目の前までやってきたアイに坂上はその美貌に眩みそうになりながら、そう聞いた。

「良好です」

「万全、ではないの?」

「万全と良好は概ね同じ意味と捉えています」

「まあ、間違いじゃないわね」

 何百冊もの辞書レベルの知識とデータを叩き込まれたアイの中でも、曖昧な境界線があるのだと、坂上は感心した。

「中村研究員、アイの計算レベルはどの程度に成長したの?」

「基礎は叩き込んだから、あとはコンピュータが勝手に応用してくれるはずだ」

 坂上はアイと目を合わせた。機械的に動くレンズが、同時に坂上を捉えた。

「アイ、二十四×三十×十二は」

「八千六百四十です」

「……流石に早いわね」

「そのくらいなら僕もすぐに出来そうだけど」

 なりはホームレスのようなものでも、自分は科学者なんだ、と言いたげに遠慮がちに胸を張った。

 坂上はそれを無視して、もう一度アイと目を合わせた。

「一個六十円のりんごが三つ、一個三十円のみかんが四つ入ってるバックが三つありました。さて、そのバックの中身の合計の金額は幾らでしょう?」

「……」

 アイは脳電子回路で演算を行っているのか、しばらく黙っていたが、答えは一向にやってこなかった。坂上はアイから視線を外すと、後ろにいた中村に送る。

「言語の理解が追いついていないようね。まだまだ甘いわね」

「がっくりだ」

 中村は肩を落としてリアクションを取った。

 人工知能を作るにおいて最大の難問は言語の壁だった。近年子音と母音に反応して言語を理解できるようにと発展はしてきたものの、言葉の壁は厚く、加えて変幻自在に変わっていく日本語ともなると、どうプログラムしても「模範解答」となる日本語を話す日本人が少ないためか、対応に激しく遅れが出てきてしまう。

 しかし、中村はこれは逆に言えば言語すら乗り越えてしまえば、人らしいロボットの完成は間近だと信じていた。中村はある絶対の理論を持っている。それを信じてやまないのだ。

「中村、坂上。アイは過失を犯しましたか?」

 アイが無表情にそう問うてきた。

「あら、自分のミスに気付くだけの知能は持っているのね。アイ、今はどんな気持ち?」

「アイは原因不明の過失に対して、申し訳なさを感じていると思います」

 傍観した言葉に、坂上も中村も頭を抱えた。プログラムから編み出された感情に似た何かは、どうしてもロボット自身の言葉として出てくる際に、プログラムの結末としての結果を意識してしまうことから、「自身のものとして」の認識が成功しない。アニメや漫画では自身をロボットだと気付かないキャラクターが登場することがあるが、実際に作っている二人からすれば、気付いてくれないほうがよほどに楽だった。

「一応相手の表情、つまり頬の筋肉の状態から心理状態を推測できるようにプログラムを組んだんだけどね」

「相手の心理は推測できるようになっているのに、自分のは分からないのね」

 何の臆面も無く、バカにした様子も無く坂上が言った。

「痛いところを突くね……」

 坂上がおかしそうに笑った。アイのほうに向き直ると、坂上は立ってアイの硬い髪の毛を撫でながら言った。

「もう行っていいわよ。お勉強に戻りなさい」

「了解しました」

 アイの背中を軽く押してやると、アイはそのまますたすたと研究室を出て行った。中村はそれを見届けると、坂上のデスクの上のレポートを適当なところに退けて空いたスペースにどっしりと座った。

「まあ、応用プログラムはそんなに難しいことじゃないと思うから、一ヶ月もあれば普通に話せると思うよ」

「本当? 世間に送り出すには、『マジやべぇ』とか、そういう言葉も理解しなくてはダメなのよ」

「それは……相当に骨が折れそうだ」

 苦笑いした中村だったが、頭の中では既に対策を練ることでいっぱいだった。現代の日本語の理解は、永遠の課題になりそうだ。

「まあ、プログラムを組む構想を練るのは良いとして、中村研究員、明日の研究発表会の準備は出来ているの?」

 飲みかけのコーヒーカップを取って、口元に寄せながらそう尋ねた。色の良い口紅がコーヒーの水面から反射された光で、艶かしく揺らめいた。

「一応明日の朝に最終チェックを行って、昼には発表会に出す予定だ。起動直後のコンディションでは何が起きるか分からないからね。スケジュールはいつもと変えないつもりだよ」

「ならいいわ。今日はアイ共々ゆっくり休んでおきなさい」

「そう、だね。メンテナンスのことを纏めたらさっさと寝ることにするよ」

「そうしてちょうだい」

 坂上がそのコーヒーを口に運んだのを境に、ふっと糸が切れたように肩の荷を降ろす二人。中村はそれじゃあ、と一声だけかけて、そのまま研究室を後にした。坂上はそれを見送り、目線をそのままデスクの上に移して、膨大なレポートの量に思わずため息をついた。




■■■





 アイの一日は朝六時半の散歩から始まる。それではまるで犬の散歩のようだ、と坂上は終始反対していたが、スケジュールも詰め詰めな研究員にとっては、生活習慣病予防のためにも適した時間帯だといって中村は聞かなかった。白衣から軽い外出用の紫色のジャージに着替えた中村は、アイがダウンしている部屋に入った。内蔵はただの客室用の部屋を改造しただけの簡素な部屋だった。ただ、色とりどりの家具が並び、人の目には多少悪影響を及ぼしかねない造りをしている。初めてこの部屋を見た坂上は「風水か何かを気にしているの?」と中村に尋ねたくらいだ。その時の中村の回答は、「色の認識に必要なことなんだ」と研究者らしいものだった。

「アイ、朝だよ」

 部屋の端に備えられたベッドの上で静かに瞼を閉じて横になっているアイに向かって、中村は囁くように言った。すると、それに反応するように瞼が上がり、アイは身体を起こした。

「おはようございます中村。今日も同じスケジュールですか?」

「ああ。今から外を見に散歩して、そのあとは研究発表会だ。まあ、特別気にかけることはないさ。自然体でいてくれ」

「了解しました」

 アイは完全に身を起こしかけ布団の中から白い足を露出させた。陶器のような白い肌とはよく言ったもので、まさにそのような造りをしているアイには絶対に使いたくない比喩表現だ。しかし、語彙力の乏しい理系の中村には、そう表現するしかなく、なんだか恥ずかしくなって背を向けた。

「僕は外に出てるから、いつもの服に着替えて出てきてくれ」

「いつもの、でよろしいんですね」

「うん。じゃ、なるべく早くね」

 中村は部屋を出て後ろ手にドアを閉め、小さくガッツポーズを取った。『いつもの』で通じたということは、そういう『認識』が完了したということだ。しかしここで中村は自身の舞い上がっている精神を落ち着かせるために、白い息を大きく吐いた。『いつもの』で通じたことは大きな進歩だが、果たして違う状況下で『いつもの』と伝えて通じるかどうかも課題だった。『いつもの』がイコールで『外出用のジャージ』であると、それは認識の失敗である。まあ、それはあとでいいか、と中村はやはり顔面を緩めてアイを待った。

「お待たせしました」

 アイが中村と揃いの紫のジャージを着て出てきた。美人は何を着ても似合う。素直に中村はそう思い、次いでそれを育てた自分に驕った。

「行こうか」

 中村とアイは朝焼けの残った空の下を歩き始めた。

 散歩のコースは毎度毎度変えている。研究所からよく買出しに行っている商店街の中を通るコースや、散歩を続けているうちに登校する子どもたちに出くわす確率の高い通学路コースなど、約五パターンほどを中村は毎日ローテーションで回していた。本当ならば車を使って海や山など、都会では見ることの少ない自然にも触れさせてやりたかったが、どうにも時間が取れないのが研究員だった。それに加えて、中村にはイベントが迫っているのだ。

「研究発表会のことなんだけど、調子はどうかなアイ」

「その質問は昨晩にもされた記録があります」

「ああ、そうだったね」

 研究発表会、つまりは人工知能を作って科学の新しい領域へと挑戦する研究員は中村たちだけではなく、多くの業界ライバルが存在している。人工知能の開発には国から大きな援助金も降り、特別生活に困ることも無いのが一つの選択の理由でもある。そういう二流、三流の企業も含め、チームが制作した人工知能の制作過程や結果を国に報告する意味も含めて、互いに発表しあうのが、その目的だった。

「去年は兎角酷かった。まるでお手伝いロボットの製作発表会だ。一体何のために人型でロボットを作っているのか、あれじゃあ全くわからない。あ、アイ。あれがハトだ。外見が可愛らしいからってむやみやたらに餌をあげちゃいけないよ。最近のハトは危機管理能力に鈍りを感じられる。その原因の一つが餌だからね」

「私のデータベースに登録されている可愛らしい、とは少々差が生じているのですが」

「感覚だ。あれは、きっと可愛いんだ」

「了解しました」

 ハトが心外な、と言わんばかりに飛び立った。その光景を愛でるように眺め、見送った中村は、内心実に緊張していた。誰も気付きはしなかったが、研究員である以上に『アイ』の製作者である中村は、無論その責任も大きい。何せ国から援助金を頂いているというのに結果が出せないとなると、段々と身の狭さを思い知ってくる。夢は大きくとも、心は小心者だった。中村は横目にアイを見た。一見して不備の無さそうに見えるそれは、人間とは違ってたった一つの不具合ですべてが水の泡になる。決して頑丈ではない。近い将来、ロボットが人間を守る存在となるように、とされてはいるが、こうして課題が多く残る今は、人間がロボットを守ってやらなければならないのだ。中村の緊張、そんなところにあった。もしもアイが小石で転んで傷つきでもしたら、今日の発表会に支障をきたすかもしれない。そんな不安が中村の余裕を貪り食っていた。

「……なるようにしか、ならないよな」

 小さく呟いた言葉は朝の澄んだ空気に溶け込んでいった。ただの空元気も、どこかに届く前に吸い込まれていった。

「中村」

 しばらく黄昏ていた中村に、アイが声をかけた。

「ん、なんだい」

「中村は先ほど、一体何のために人型でロボットを作っているのか、と言いました。それは恐らくアイの形と照合します。つまり、その答えは果たして私の存在意義とは何か、に繋がるのではないのですか」

 中々聡明なものを作ってしまった、と中村は喜びつつ悔やんだ。顎の下に手を置いて、わざと考えるポーズを取る。

「そんな堅苦しいことじゃないよ。さっきも言ったけれど、前回の研究発表会で出てきたロボットたちは、ほとんど今までのロボットと変わらなかったんだ。便利な機能を備えて、人の形をしただけの、ただのロボット。それじゃあダメなんだ」

「その理由を聞かせてはもらえるでしょうか」

「人との共存だよ。それが、目的に無い」

「……」

 黙りこんでしまったアイを見て、中村はまた自己嫌悪に陥った。そもそも自我が危うく、人工であるロボットにとっての『存在意義』とは危険なものだった。彼ら彼女らが「ロボット」というものである、という認識以上の認識を要求する自我があると、それは答えの出ない無限の回廊に繋がる。そうなれば、もうそのロボットは生存出来ない。どうしようもなくなるのだ。

「アイは……」

 まるで人のように言葉を溜め、アイが言う。

「アイは、中村や坂上と共存している。これに間違いはありますか?」

 投げかけられた疑問に、中村は考え込んだ。数十秒かけて、こう返した。

「アイは、僕に唐突に殴られたらどう思う?」

「……殴られた意図を問います」

「それでも僕が黙っていたらどうする?」

「……」

 アイは再び黙り込んだ。中村には分かる。アイの開発者だから、という理由でではない。アイにそのことについて考える力が無いと分かっているからでもない。ただ、中村には、アイが何故黙り込んだのかが分かった。

「思考する必要はないよ。そんなことをして今日の発表会に支障が出たら嫌だからね。悪い、今の話はなかったことにしよう」

「……了解です」

 



 春先になると、日中はかなりの温度になる。容赦なく照りつける斜陽に中村は表情を濁した。都内のオフィス街近辺は特に日の光を吸収し易いアスファルトに覆われて、そこだけ熱帯地が紛れ込んでしまったようになっている。ビル郡のガラスというガラスが日光を反射し、空を見上げれば鏡の世界だった。実際にはそんな美しいものはどこにも存在せず、少し視線を下げれば見慣れた光景が人々を出迎えた。

 中村たち研究員は、その中暑苦しい背広を着て、研究発表会の開かれる大ホールへと向かっていた。国が運営、管理している大ホールは駅から多少歩いた距離にある。大企業の下にある研究所は運転手つきの車移動もありえただろうが、夢と情熱だけを持ち合わせただけのチームである中村たちは、一つ間違えれば現地集合になるかもしれないくらいにはアナログ頼りだった。それでも結果が付きまとえば、と豪語してここ数年、中村の嫌うお手伝いロボットの出来は『人間らしい』という夢物語を追う中村たちよりもよほどに出来が良く、結果としてチームのロボットは評価されずにいた。

 大ホールに到着すると、プレゼンテーター側の待合室へと移動される。今回発表のために集められた研究員は五人。その中に中村と坂上もいた。しゃべりは坂上のほうが圧倒的に上手い。自身が研究し、開発したわけでもないのに、中村や開発に携わった人よりも大分分かり易く、上手く纏めて話せる。そういう理由で呼ばれた人員だった。

 漆黒のドレスを身に纏い、連日の徹夜で荒れた肌は丁寧に乗った化粧で上手く誤魔化されている。美容室にでも行ったのか、いつも束ねている髪の毛は自由にされ、アイに負けず劣らずの黒い艶を出していた。

「まあ、大丈夫でしょ。去年はほとんどフォルムだけで会話も片言だったけど、今年はしっかりとした発音に会話も乱れがないわ。胸を張っていいと思うわ」

 坂上が自身の書いた原稿を見ながら、横で緊張に震えている中村にそう言った。

「で、でも、噂によればいくつかの会社はロボットがベビーシッターとしての役割を果たす実験に成功したらしいじゃないか。僕らの会話するだけのロボットがどうやってそれに対して評価を得れるのか、不安で」

「それだって貴方の嫌いなお手伝いロボットでしょう。どうせ大したプログラムも組んでなくて、ベビーシッター用のシステム組んだだけのものよ」

「じ、実用的じゃないか」

「だから何よ。私たちが目指しているものは、実用的なものではないでしょう? そもそも畑が違うわ」

 押しの強い言葉に、中村は言い返せなくなった。やはり坂上は、開発者よりも開発者を理解している。周りで見ていた研究員たちも、坂上の存在を改めて心強く思った。

 研究発表会は概ね問題なく進んだ。十社ほどの研究チームが独自のプログラムと実用性を発表していく。ほとんどは現在の日本の社会問題に対するものが多く、育児や危険物処理、介護等が大半を占めた。お手伝いロボットと銘打って嫌う中村も、その技術力や昨年からの進歩には思わず感嘆の声を漏らさずに入られない実用性を出し、ほかの研究員たちも逐一メモを取るなどしていた。その中で、唯一坂上だけが厳しい顔をして研究発表を見ていた。

 結果から言えば、中村たちの『アイ』は評価を得なかった。そもそも国が援助金を降ろしているのは現在の日本をロボットの手によりもっと住みやすいものにする、というのが目的で、決して中村たちの言う『人間らしさ』を求める新人類の誕生などではない。会話能力はもちろん他者と比べば格段に上だが、かといって何が出来るわけでもないアイには、多くの批判の声が飛んだ。会話能力実践のためのアイに対する質疑応答等が行われたが、抽象的、独自の解釈でしゃべる日本人の言葉に的確な答えを出すことが出来たのはほんの一握りで、唯一の能力も大した評価は受けなかった。

「……なんというか、中村さん。また来年がありますよ。不幸中の幸いか、援助金はまだ支給してくれるらしいですし」

 気を遣った研究員がそう声をかけた。

「……いや、今年は大きな収穫を得たぞ」

「は?」

 てっきり落ち込んでいると思っていた研究員は間抜けな声を上げて中村を変なものでも見るような目で見た。

「今日のアイは明らかに全力じゃなかった。何かこう、大勢の前に出されて混乱している節があったように思えるんだ」

「そうですか?」

「ああ、これはもしかしたら」

 顔を輝かせて何かを語ろうとした時、中村の肩に細い指が置かれた。中村が振り返ると、坂上が厳しい目で睨みつけていた。そのただ事とは思えない威圧感に、中村はそれ以上の言葉を発することが出来なくなった。

「あれはそんな可愛らしいものではないわ。アイは明らかにロボットの禁忌に触れようとしていた」

「き、禁忌だって?」

 絞り取るようにして、中村はようやく発生に成功する。

「劣等感よ」

 短く切るように、坂上が言う。その言葉は中村に突き刺さり、呆気なく自信と喜びを打ち砕いた。その表情を見て、坂上は構わず続ける。

「確かに本来ならそういう気持ちを持つことは『人』としてロボットを作る私たちには良い知らせかもしれないわ。でも、彼女はどうあってもロボットであり、人間じゃない。中村研究員、貴方なら分かってるわよね。ロボットの自我は人工で在るが故に不安定で、壊れ易い。ちょっとしたことで思考回路がショートを起こして壊れてしまう。でも、そんなことが起こるほどまだロボットの知能は高くない。けれどね、私たちのロボットには他社のものにない、学習装置があるわ。……貴方、アイに何を教えたの」

 一気に捲くし立てあげるように言われ、中村は言葉に詰まった。思い当たりがあるかないかと言われれば、中村にはそれしかないだろうという原因があった。今朝のことだ。アイに「人型のロボットである理由」について語ったこと以外に考えられなかった。

「人型ロボットは、人と共存するためにあるべきだ、みたいなことを言った……」

「……」

 坂上は頭を抱えてため息を吐いた。

「多分、会話することしか出来ない自分に、どこか違和感を感じたんでしょう。人だってそうでしょう、ほかと違うと心配になるものよ」

「ぼ、僕は間違ってたのか?」

「そういう問題じゃない。彼女の中で同一の存在は人と共存するためにあると認識されたわ。その中で、同じ形をしたほかのロボットたちが人の役になっているっていうのに、自分は何も出来ない、って感じかしら」

「だから劣等感か……」

「出来が良すぎるロボットも考えものね。可哀想に、自我なんてないのに自我を持とうとするなんて、翼がないのに飛ぼうとする人間よりもよほどに無謀だわ」

「で、でも、僕らはそれを目指して……」

「アイは私たちとは違う。同じじゃない。壊れるわよ、アイ」

 言い残して、坂上はそのままチームを置いてどこかに去って行った。

 誰も喋らない。重い空気がその場を支配した。研究員たちは互いに気を遣いあってか、何も言わずに待合室に戻っていく。その中、中村だけがその場に留まって俯いていた。思い上がっていた部分が無くなって風穴が開き、どこか乾いた風が中村の中に流れ込んでいた。

 そうして中村は、一つの決意を胸に秘めた。

 

 




 冷たい夜風が穴を埋める。中村がすうっと吸い込んだ空気はやけに尖っていて、どうにも丸型にぽっかり空いた空虚な感情の代品にはならないようだった。研究は成功し、アイは間違いなく『人間らしさ』を得つつある。そのことに喜びを感じつつも、昼に坂上に言われた言葉が引っかかり、いつものように子どもみたく喜べない中村がそこにはいた。アイじゃなくてもそう思うだろう、人の役に立っているロボットと会話が出来るロボット。そのどちらかが人間と共存しているというのならば、前者を取るだろうと。中村はそうは思いたくなかったが、事実共存という大きな目標の上に、会話というスキルは微々たる存在で、アイが劣等感のようなものを感じ取ってしまったのならば、それは仕方の無いことだった。

 中村は研究室から少し出たところにある公園で、夜空をバックに涼んでいた。ベンチに座り、コーヒーを片手にじっと黙っている。その横には、同じく一言も発しないアイ。一日用のバッテリーは残量がわずかばかりになっており、虚ろとした目をしてベンチに腰掛けていた。

「アイ、今日の感想を述べてみてくれないか」

 視線は依然としてコーヒー缶に集めたまま、そう言った。

「……分かりません」

 アイはしっかりとした発音で、そう答えた。

「私はあの時の状況の記録を見て、一体何がどうだったのか、言葉にすることが出来ません」

「胸にこう、つっかえみたいなものを感じたりしないか?」

「その問いの意味も分かりかねますし、そのようなものが存在していたかも分かりません」

 分からない、分からないと繰り返すアイに、中村は静かに諦観の息を漏らした。ただ、無いと断言されないだけ、まだ会話の余地はあるな、と中村は息を吹き返した。

「心、という概念は、アイの知識の中にあるかい?」

 夜風が二人の頬を撫でた。中村はそれを冷たく感じ、果たしてアイはどうだったろうかと考えた。気温や温度を感じ取る機能はついている。しかし、その延長線上にそれ以外の何かはあっただろうか。中村はアイの回答を待った。

「心とは、感覚的なもので、主に悲しい、寂しい、腹立たしい、喜ばしいなどの心理的状況を抽象的に表した言葉です」

「じゃあ、今例に挙げたものを説明出来るかい?」

「……」

 アイはそれに黙り込んだ。それはそうだろう。感情を持たないロボットにとって、『心』などという概念は所詮言葉に出来るだけの身のないものに過ぎない。理解出来ないのだ。

「安心していいよ。僕にだって説明出来ない」

「そうなのですか」

「そうだ。でも理解は出来る。一体いつ誰が作ったのか知らないけれど、言葉っていうのは実に便利なものだよね。なんともいえない身体の中に潜むものを、誰にでも分かるようにしちゃうんだから」

 人類の言語は大きく発展してきた。国ごとの言葉が生まれ、国の中で方言や独特の表現が生まれ、その中で更に隠語のようなものが生まれ、略語が生まれ、とにかく数え切れないほどの言葉がある。どんなにへんてこなものでも意味を聞かされれば理解できる。言葉の根底にはいつもほかの「ことば」が存在している。

「しかし、アイには中村たちが理解できるその、心が分からないのかもしれません」

「そう。僕はいつだってそこに問題を置いてきた。僕らが『心』と言ったそれを、アイが理解し、乗り越えることが出来れば、目的は達成できる。それは心じゃなくてもいい。僕らがこうして口にして伝え合うことの出来るものを、アイが理解できればそれでよかったんだ」

 ぽつりと落ちた言葉は、地面にしみこんで消えた。アイは無感情の瞳で落ちた言葉を見つめたが、落ちたものが涙なのか水なのか、それともほかの意味を持っているのかも分からない。ただ、中村が落とした言葉を拾って集めることしか出来ない。

「でも……それでアイが変になってしまうくらいなら、そんなことは必要ない」

 声のトーンが落ちたのをアイは感じ取ったのか、バッテリーの切れかけている身体に鞭を打って中村の表情を見ようと下から覗き込むように首をかしげた。

「アイが、変にとはどういうことですか」

「聞いてくれ、アイ。分からないかもしれないけれど、誰かに話したいことがある」

「了解です」

 中村は白い息を吐くと、それをそのまま吸い込むように深呼吸した。

「世界にはね、言葉が存在しているんだ。日本人だろうが外人だろうが猫だろうが犬だろうが単細胞生物だってあるかもしれない。少なくともそれが生物である以上、きっと言葉は存在している」

 夜の公園には虫の音が静かに響いていた。人と人が言葉を交わすのと同じく、虫は羽音や触覚で言葉を交わす。朝になれば鳥がさえずる。海に出ればイルカがパルス音でコミュニケーションを取る。猫が可愛らしく鳴けば、犬が勇ましく吼える。そして人は、それぞれの国の言葉で話す。

「そして、各生物たちの言葉は、それぞれに理解しあうことが出来ない。使っている言葉の根底には同じ「ことば」があるはずなのに、理解できないんだ」

 アイはそれに小さく頷いた。それは自身のデータベースに、生物言語のことがのっていなかったからだ。アイが言葉として認識出来るのは、大まかな日本語とカナくらいだ。

「アイは……なんだろうね」

 そこで初めて中村はアイのほうを向いた。その瞳には力強い意志が宿っていると同時に、寂寞とした色が広がっていた。

「アイは、中村たちが開発したロボットです」

「そう、だね」

 否定するまでもなかった。それがアイが自分に持てる限界の認識。中村たち研究員が施した、強い自我を持たないための小さく強力な檻。それでも中村は言った。

「それが、アイの限界なのかもしれない」

 まるで、彼は囚人に足枷と手枷をつけて牢獄の中に放り込んだ挙句、「きみはここから出られないんだね」と本気で哀れんでいるような、恐ろしく理不尽な言葉を投げつけた。それを受けたアイはもはや思考がショート寸前なのか、聞いているのか聞いていないのか分からない表情でいた。

「僕らが人とロボットという種族の境界に阻まれている以上、どうしようもないことなのかもしれない」

 沈黙が流れた。中村はアイの状態を確認しようともしない。手の平の中の缶をひたすらに握り締めて、言葉を紡ごうとしていた。

「でも、僕は信じたいんだ。ロボットが人の形をしている以上、それは『人として』のロボットであるべきだって。そして……」

 缶が潰れる。

「『人として』のロボットには、必ず『心』があると」

 中村がロボットの開発で常に戦ってきたのは、言葉の壁だった。中村はこれを越えられれば必ずロボットとの共存、つまり共に生き、共に暮らせると信じていた。ロボットと人間が互いに言葉を交わし、理解しあうことが出来れば、そこにわかだまりは無くなる。互いの想いを、心を理解しあうことが、中村の最終目標だった。

 つまり、中村にとっての言葉の壁とは、心の存在証明にあった。

「でも……」

 中村の横で、アイは眠っていた。瞼を閉じ、手をぶらりと垂れ、人形になってしまったように眠っていた。中村はアイの頭の上にそっと手を置き、梳くように撫でた。指の間に感じる感触が硬く、夜の空気で冷え切った髪の毛がますます中村を冷やした。

「アイが苦労して奇跡を起こそうとするくらいなら、僕らがやればいいだけの話だったんだ」

 中村はアイを背負った。その重さは普通の女性のものではない。男手で運んでもかなり苦労する重さ。しかし、自分の作ったものに責任は持つ。それが中村だった。自分の目指した目標に責任を持つ。それが、中村だった。




■■■




 次の日の朝、研究室には怒鳴り声が飛んでいた。研究員たちはその肌に痛い空気を感じながら、なんとか自分の仕事に向かっているようだった。怒鳴っているのは坂上で、怒鳴られているのは中村だった。そしてその横には、いつものようにアイがいた。その三つともが、様子がおかしかった。坂上はいつものような冷静さを欠いたのか、鬼の面を被ったような表情で怒鳴り散らし、中村は逆に冷め切った表情でそれを受けていた。アイはそれをほとんど無関心と言った様子で見ていた。

「どういうことなの。しっかり説明してくれないと、バカバカし過ぎて貴方を殴ることも出来ないわ」

「どういうことも何も、言った通りだよ。僕が昨晩、アイの言語プログラムをデリートしたと、そう言ってるんだ」

「バックアップは」

「一つ残らず消えたよ」

 その瞬間、バンッ! と物凄い音が室内を劈いた。坂上が怒り心頭といった様子でデスクを叩いたのだ。研究員の何人かは音に驚いて肩を震わせたが、その怒りを向けられた中村は依然として冷静だった。

「一体何年分の努力があそこに詰まってると思ってるの!?」

「もう覚えてないよ。そこを目指したときからだからね」

「あのプログラムは貴方だけのものじゃないのよ。ここにいる研究員が毎日積み重ねてきたものなのよ。一体何の権利があってそんなことをしたの」

「アイにその権利があった」

 中村は引かない。まるで遺言を授かったごとく、口を開く。

「昨晩、アイの思考回路は完全にショートした」

「なん、ですって?」

 坂上の表情が驚愕に歪む。が、すぐに何かを考えるように顔をしかめ、眉をひそめた。

「いえ待って、確かに昨日は脅しのつもりでそんなことを言ったけれど、実際にそんなことは……」

「もちろん僕が、物理的にやったことだ」

 坂上はそれを聞いて中村を一瞥すると、視線を外さないまま、椅子に腰掛けた。デスクの上には山のようなレポートが積みあがっている。この半分以上がアイに関するものだと、中村も知っていた。

「理由を聞かせてちょうだい」

 嵐のあとの静けさか、酷く落ち着いた声で坂上がそう訊ねた。中村はアイが横にいることを確認し、話し始めた。

「僕らは、届かないところに手を伸ばしていたんだよ。そもそも考えてみれば馬鹿な話だった。僕らの言葉を理解させて、僕らと完全なコミュニケーションを取ろうだなんて、出来っこなかったんだ」

 まるでへたれてしまった中村の台詞を、坂上は黙って聞く。室内には反論したい人もいただろう。何せ今まで自分たちがやってきたことを全否定されているのと何も変わらない。しかし、それでも一番激昂したい坂上は、黙っていた。

「君は言った。アイは壊れてしまうと。そうだ、まったくその通りなんだ。アイが僕らの言葉を理解するなんて、もう途方も無いくらい遠い話だ。僕たちが犬や猫の言葉を一体いつ完全に理解できるだろう。にゃーと鳴いた猫が、わんと吼えた犬が、僕らの言葉で変換して何と言っているのか分かる日なんて、いつ来るんだろうか」

 それは夢物語だった。種族の違う生物が言葉を交わし、互いを理解するのは、ファンタジーの世界だって難しいことなのに、無謀にも中村はそれを目指したのだ。それを分かっていても、坂上たちはそれを許したのだ。研究室の中に亀裂が入った。誰も彼もが中村の言葉に耳を傾けて、聞き入っていた。

「僕は諦めたよ。僕ら人間は生物の中でもっとも知能が高い生物だ。僕らと同じものを作れるのは、神様だけだ」

 その神様に、人間はなる事が出来ない。それは、ロボットが人間になれない理由とまったく違わない理由だった。

「でも、僕は自分の行動に責任を持ちたい」

「具体的に言ってみなさい」

 坂上が間髪入れずにそう言う。もはや逃がさないと噛み付かんばかりの勢いだった。

「僕は、必ずアイと言葉を交わし、意思疎通を行ってみせる。でも、そのためには僕らの言葉は必要ない。アイのことばが、必要なんだ」

「だから言語プログラムをデリートしたと」

「そうだ。一体いつになったらアイのことばを僕が受け取れるかは分からない。でも、夢物語を追うよりは、現実的だ」

 坂上は中村を見た。ただ坦々と、中村を見た。中村はそれに瞬き一つせず、彼女の痛いくらいの期待と絶望を受け止めた。それが、人間同士で出来る、最高のことばだった。

「……そもそもこのプロジェクトは貴方の始めたこと。その後どうするかは全部貴方次第よ。勝手にしなさい」

 ようやく視線を外すと、坂上はデスクに積んであったレポートを纏め始めた。言われなくても中村にはその行為の結末が分かった。

 研究室を仰ぎ見た。煙草の臭いで充満していて決して過ごし易い部屋ではなかった。しかし、ここにはいつでも夢が詰まっていて、目標の道しるべがあった。中村はその光景を全身で受け止めるように、全体を見渡せる位置に立った。

 大きく息を吸った。咽そうになったがなんとか堪えた。アイを背中の位置に置いて、中村はこう宣言した。

「今日、現時刻を持って、プロジェクトは永久凍結します。みなさん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました」


 



■■■




 目標は遠く、眩暈がするほどだった。中村は自分の体が壊れていくのさえ厭わず研究を続けた。原始、人間が言葉を生み出した作業を、中村はやろうとしていたのだ。ある者はそれすらも夢物語だと切り捨てた。しかしある者は中村の情熱に影響されて、手を貸すこともあった。しかし、それは遠く、まったく先の見えない作業だった。一寸先すらも闇に覆われていて、一歩踏み出すごとに勇気が必要だった。つまずいて転ぶことを怖れず進んでいくことが必要だった。中村はそうして一歩、また一歩と歩を進めた。

 アイはその間、一言もしゃべらなかった。言語プログラムを失ったアイは、ただの人型ロボットと化した。学習装置のあるアイは、家事や仕事をこなすようになった。二十年も経った頃、アイは立派なヘルパーとして世で働いき始めた。最初は反対していた中村も、最後には妥協してアイを送りだした。アイは老人たちに触れ、多くの言葉に触れた。しかし、それでもアイが言葉を発することは無かった。研究による徒労で中村は度々病に伏したこともあった。それでも、彼は止まらなかった。

 六十年も経った頃の話だ。中村は身体機能に不全をきたし、まともに一人では歩けない身体になっていた。アイは生まれたままの姿で、ずっと中村の世話を行った。

 ―――とある病院の一室。

 真っ白な部屋に、白い花瓶、そして白い花。外からみえる色づいた景色が恋しくなるほどに無機質な部屋で、坂上は黙ってその光景を見ていた。ベッドの上には中村が身体を横たえている。もう生きているのか、死んでいるのかも分からない。瞼を閉じ、体からは力が抜けていて、まるで人形になってしまったように眠っていた。その横にはいつものようにアイがいた。坂上とベッドを挟んで真正面に彼女は座っていた。その表情からは何も垣間見ることが出来ない。しかし、それでも坂上には、その存在がただ座っているだけのものには思えなかった。愛着でもなければ、変な親心でもない。ただ漠然と、そこにアイの存在を感じていた。

「もう、何年になるのかしらね」

 昔とは違う、しゃがれた声で坂上が言った。

「……」

 昔とは違う、無言でアイは返した。

「そうね。長かった。とても長かったわ。長すぎて、労いの言葉ももう思いつかないわよ」

 坂上は村上の手を取った。その手は冷たかった。研究者はキーボードを打ったり文章を書いたりすることが多い仕事上、手が冷え性気味になる。中村の手は、研究者の鏡だった。

「……」

 アイも同じように、中村の手を取った。坂上はそれを見て微笑し、顔に皺を作った。

「アイ、中村に言うことは無いの? 多分言えるとしたら、今くらいしかタイミングないわよ」

「……」

「言いたいことがあるんだったら言っておいたほうが、後々すっきりするわよ」

「……」

「私はちょっと中村に六十年くらい前のことについて文句を言うわ。アイも、何かあったら言っておきなさいね」

 そうして、坂上は中村の手を握ったまま目を瞑った。

 病室に静かな時が流れる。坂上は未だ何かを伝えるように目を瞑り、その表情には薄っすらと笑顔が見て取れた。アイは自身の手に握られている中村の手を見た。いつだったか、その日にアイはこの今は弱ってしまった手に頭を撫でられた記録がある。その感触は酷く悲しく、どこか優しかった。それを思い出し、アイは思う。

「……」

 中村から貰った言葉は万を超え、億を超えたかもしれない。その一つ一つがアイの中に記録として残されている。たったの一つも返すことが出来なかった言葉の数々は、しっかりと刻まれていた。アイは、それらに対する返答を、いつも一つだけ持っていた。ただそれを伝える手段が無かった。そうしてどうしようかと模索して、今になった。

 坂上を見た。彼女はじっと祈るようにしている。やっと、見つけたのかもしれない。

 目を閉じた。アイは、ゆっくりと黙祷を捧げた。

 それが、アイが中村に伝えた、最初で最後の言葉だった。それを聞いた中村は、どこか微笑んでいるように見えた。


どうも始めましての方は始めまして、お久しぶりの方も始めまして、蜻蛉です。


ことば企画の解釈は、作中にも登場した「言葉とは、心の存在証明である」です。まあ、穴を見つけようと思えば色々見当たるとは思いますが、心がある、つまり自分の気持ちだとか、感情を伝えるに、言葉というものがなければ恐らく伝わらないんじゃないかと。それは意志であったり口上であったり文字であったりするかもしれません。

しかし、ロボットには言葉があったでしょうか。人から与えられた言葉の「知識」があるだけで、ロボットとは基本的にみ無機物です。心はきっと存在しないのかもしれません。

それでも、「人の形をしたロボットならば」と奮闘する中村の物語、みたいな感じでしょうか。



まあしかし、実にやっつけ仕事っぽいかもしれません。何せ最終シーンとか考えたのは投稿日の昨日のことで、夜中の4時半くらいまで奮闘してました。なので粗が多いとは思いますが、もう気にしないことにします。誤字脱字とうありましたら報告くださると嬉しいです。あと、感想も待ってます。


では、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 投稿日に既に拝読していましたが、ようやく参上できました!感想が遅くなってすみません。 まずは深い話にただただ圧倒されました…。三人称の固い文章が物語の雰囲気ととても合っていると思います。ぜひ…
2009/03/18 22:19 退会済み
管理
[一言] 私の考えによれば、意識(らしきもの)のあるロボットの記憶の形式は、人間と同じくバックアップできぬ、流動的な形式のはずです。
[一言] 読ませていただきました。ずっしりくると表現したらいいのでしょうか、読んでいて作品に惹きこまれていってしまいました。ちゃんと世界が完結しているのがすごいです。見習いたい。 話は変わりますが、確…
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