あしたの夢
犬伊教授は両の指先を合わせ、その指先の頂点に視線を載せ、私の眼を見つめている。充実感に満ちている時に、見せる視線だ。
私の勤める製薬会社の顧問である教授は、薬事に纏わる医学博士であり、これまでに新製品開発の知的援助や、特許取得などに加担し、幅広く貢献してきた。会社との付合いは、先代社長の頃からと、非常に長い。
一人で、教授宅を訪問するのは初めてである。いつもならば、上司である永楽部長の付き添いで来るのだが、教授の方から私を指名で、「話したいことがあるから、帰りに寄ってほしい」と、誘いがかかったのだった。部長には内緒にしてほしいという、念も押されている。
教授宅は、帰りの電車をN駅で途中下車し、徒歩5分の場所にあり、さほど寄り道でもなかった。
「よく来たね。座りたまえ」
L字型のソファの短い辺に、教授は座り、長い辺を私に勧める。
「堅くならんで良いからね」
教授の声は、子供に呼び掛けるように、優しかった。
「失礼します」と、私は肩に掛けていたバッグを外し、ソファに腰を下ろす。何度もここへは来ているが、慣れない土地を歩き回る時のストレスに似た緊張感を、今は感じている。永楽部長の役割は、酔い止めの薬のようなものだな、と、奇妙に納得する。
目の前のテーブルには、白いティーポットが置かれてある。熱い紅茶が白い湯気を立てている。清潔な白いカップが伏せてあり、私が少しでも手を動かせば、カップの持ち手に指が吸い込まれそうだ。
仕事帰りで、私の喉はサラリという程度に渇いていた。ほんの一口の飲み物があれば、事足りる程度の渇きだ。私は、遠慮なく伏せてあるカップを起し、ポットの紅茶を注ぐ。
教授は愉快そうに笑う。
「ゆっくりしていけそうかね」
「ええ、まあ」
私は、紅茶を一口含んだ。その一口でカップを置き、ほんの少し、頭を下げる。
「今日来てもらったのは、他でもない」と、唐突に、教授は話しを切り出す。
「キミに見せたいものがあるんだが、その前に、いろいろと説明しておきたい。私は、これまでに、新薬の開発とは全くカテゴリーの異なる、ある研究をしてきた。その…研究というのが」
教授の声が、そこで小声になり、私に耳を近付けるようにと、右の人差し指を、二度動かした。まるで、盗聴器を心配するような仕草だ。新薬の説明時は、自慢話でもするような大声を出すのに、なんとも妙な人だ、と思いながらも、私は耳を近付けた。
「タイムスコープ」
製薬会社の顧問とは程遠い、あまりにお門違いな言葉が出てきたので、私は変な声で「ええ」と、声を出してしまった。
「やっぱり、そんな反応をしたね」
教授は、私のリアクションを可笑しがる。
「これが永楽君だと、人を馬鹿にしたような目で見るからね。彼はビジネスライクなのは良いが、あまり融通が利かない。常に利潤を意識する体質なんだね。話をするときは、背後に会社組織というものをチラつかせる。まぁ、会社の役員というのは、そういう体質でなきゃ、やっていけないだろうがね。だから、キミを呼んだんだ。お疲れのところを申し訳なかったがね。私だって研究者だからね。研究の成果は誰かに話したいし、キミなら、喜んでくれると思ったからなんだ」
「光栄に思います」
私は、障りの無い相槌を打った。これも体質だろう。相手は、会社の顧問だ。
「タイムスコープって、おっしゃったんですか?」
「そうだよ」
教授は、当たり前のように頷く。
「未来を覗く鏡だよ。原理は、ひどく単純なんだ。超高速でカメラを飛ばし、我々の過ごす時間から、適当に離れた時間帯に達した時に、通常時間速度との同調を図り、我々が見えるように設置させれば良い。そこに見える世界は、我々の未来の姿だ」
「タイムマシンとは違うんですか?」
私の質問に、教授は上唇を舐め、こう答える。
「タイムマシンまでを必要とするかどうか、という問題が、このカテゴリーの研究員の間では、常に議論されているようだね。つまり、果たして、好みの時代の地に、実際に、足を踏み入れる必要があるかどうか、という点だ。この点を重視するか、しないかで、開発の規模、予算が大きく変わるからだ。月を、高性能望遠鏡を使って、地上から観測するに留めるか、有人ロケットを使って、実際に足を踏み出すか、だね」
教授の視線が、私から外れ、あさっての方角を見る。その先に見えるのは、黒檀製のサイドボードに展示された、小型プラネタリウム機だった。
「私の見解としては、未来を知るのに移動は必要ないと思っている。私が、研究の信条として取り上げたいのは『マシン』ではなく、『スコープ』の方だ。だけど、覗くだけだからといって、研究開発の難易度が下がったわけではないよ。理論や、原理は数多く出されているが、物理的な検証は全く行われていない。物理的に行うには、莫大なエネルギーを必要とするからだ。いや、正確に言えば、何をエネルギーとすれば最適であるかさえ、判っていないね。キミのお茶を、少しもらって良いかね」
教授は、私が口を着けたティーカップを指差す。
「元より、教授が煎れて下さったものですから」と、私はカップを差し出すと、教授は、首を横に振った。
「キミに出したものだから、キミのものなのだよ。だから、キミに断りを入れた」
教授は、すばやい動作で、私が一口だけ飲んで余していた紅茶を、一気に飲み干した。フゥと、満足げな溜息を漏らすと、再び唇が動き始めた。
「解析不能なエネルギー開発に費やす費用も、時間も、私には無い。完成するかどうかもわからない私の道楽のような研究に、企業が予算を出す筈が無いしね。いくら、キミの会社と仲良く付き合ってるからといって、私にそんな要求はできないよ。物理的な機器の発明は諦めざるを得ない。ならば、私の信条の行く先は、どこに存在するのか?」
教授は勿体ぶって、そこで話を切る。紙芝居の山場だ。
「その答えは、私自身のステータスに存在していたのだ」と、教授。
「つまり、完成したわけですね。タイムスコープが」と、私が言うと、教授はニッコリ笑う。
「キミのタイミングは良いね。どうかすると、私の話は、蛇足に陥りがちだからね。キミの適切な割り込みが入って、私は議題の矯正が図れる。それに引き替え、永楽君はいささか、『何の話ですか』が多すぎるのだよ。その都度、私は後戻りをしなくてはならなくなる。時間の無駄だ」
私は静かな動作で、教授に奪われたティーカップを引き寄せ、2杯目の紅茶を注いだ。
「私は、生物学的解決しか方法が無いと睨んだ」
教授は得意げに、顎を突き出し、続きを話し始める。
「本当に単純なんだ。我々が、既に持ち合わせている機能を、利用させてもらう。ただ、それだけのことなんだ。特殊なエネルギーも、装置も不要。我々のすることは、ただ一つ。眠ることだ」
教授は言葉を止め、じっと私の目を見る。私の反応を待っているようにも見える。私は手足をピクリとも動かさず、じっと教授を見つめたままだった。やがて、教授の方から折れるように、こう呟いた。
「夢だよ」
「夢…」と、私は呟く。
「そう、夢だ」と、教授は自らのこめかみを指差す。
「誰もが所持している映像出力装置だ。我々は微量のカロリーで、それを作動させることができる。これを利用しない手は無いだろう」
「予知夢のことですか」という、私の問いかけに、教授は興奮気味に鼻を広げた。
「実に賢いね。そのとおりだよ」
教授の手が、背後に伸びる。そこには、お茶を運ぶための木製のワゴンがあり、手はその上に載っている小さなビンを掴んでいた。ビンの中には、白色の糖衣に包まれた錠剤が入っており、教授は蓋を開け、二錠を掌に載せて、私に差し出した。
「これが、その発明品だ」
よくある風邪薬のような錠剤が、教授の手のひらに載っている。私は、もしかしたら、からかわれているのではないか、という気がしてきた。
「多くを語るよりも、試してみるのが良かろう」
教授の目は、笑っているように感じた。
「今、飲むんですか?」
「二十四時間以内に、次に眠る時に効能が出る。別に、今、飲んでもかまわんよ」
教授は、お茶が並々と注がれたティーカップを指差す。
「まだ、お茶はたっぷりある。毒性は無いから心配は要らない。睡眠効果も無い。キミが眠りたいときに夢を見るだけだ。それも、確実に見る。明日起こる出来事を、ね」
毒が無い、という言葉に安心はしたが、胡散臭さは消えない。薬である以上は、私の体に何か変化が起きることに違いはないのだ。効能があるのが薬だ。もっとも、副作用というものも存在する。胡散臭さの主因である。
しかし、この場は飲まなければならないだろう。飲まなければ、教授との仲はギクシャクするだろうし、お茶の招待を受けることも無くなるだろう。勤務する会社の顧問である教授と、疎遠になることがプラスに働くとは、とても思えない。
それに、予知夢というものを見る、という経験ができるのも、遊園地のアトラクションっぽくて面白そうだ。怖い想いと、期待感の入り混じり。そう。これは、アトラクションなんだ。自分に言い聞かせながら、薬をお茶と一緒に流し込む。糖衣の甘味が、舌の奥を一瞬だけ掠める。
「ありがとう」と、教授は頷く。
夜になり、いざ布団に入ってみたが、さっぱり眠れなかった。
午前一時。
いつもならば、瞼が落ち、いとも簡単に眠りに入ってしまうのだが、今夜はその気配が無い。明日の遠足が気になって、興奮して寝付けない子供と一緒だ。喉が渇いたり、トイレに行きたくなったり、ごそごそ起きて動き回っていると、隣で寝ていた睦美も目を覚ましてしまった。
「眠れないの?」
「うん」と、私は頷く。
「疲れ過ぎてるのかもしれないね。ミルク、暖めてあげよか?」
「うん…いや、いいよ。味があるものを飲むと、余計に喉が渇くから」
睦美は、心配そうに私の顔を除きこむ。
「大丈夫だよ。睦美こそ、具合が悪いのに、休んだ方が良いよ」
昨日から睦美の体調が良くない。熱っぽいし、食べたものを戻したりしてる。季節の変わり目に、いつも体調を崩してるし、風邪を引いたのかもしれない。
朝早い、夜遅い、私の就業時間に合わせなければならないし、彼女も疲れているのだろう。
「明日、病院に連れてくよ」と、提案する。
「キミは忙しい人だから」と、睦美は言って、いつものように拒む。
「会社に迷惑かけちゃうから」
「遅刻するくらい平気だよ」
「病院くらい自分で行けるよ」
「熱があるのに」
「キミはしっかり稼いでくるの。私の熱くらいで、惑わされないで」
睦美は頑固だ。結局、病院の話とは無関係の雑談を交わし合う。遊びに行きたいね、とか、こうなれたらいいね、とか、一緒に頑張ろうね、とか。
気が付けば、三時くらいになってて、瞼が重くなってきた。
「ちょっとおしゃべりし過ぎたね」と、睦美。
「キミは明日も仕事。少し寝なよ」
睦美に導かれるまま、私は布団の上に倒れた。睦美は、私の枕元に座り、耳の上の辺りを撫でてくれた。急速に、眠気が全身を包み込む。薄れゆく意識の中で、教授に飲まされた薬のことを思い出す。
夢…
瞬く間に、目覚ましが鳴る。短い睡眠時間の中で、昔のクイズ番組であった超ウルトライントロクイズみたいに、瞬時に通り過ぎる夢を観た。短いが、私は、夢の内容を見逃さなかった。薬の効能だろう。目を閉じ、注意を夢の記憶に向ければ、段々と夢の映像が明るくなる。音飛びするレコード盤のように、同じ場面を繰り返すばかりだが、朧気になっていた情景のピントが、はっきりと浮き出てくる。
私は喜んでいる。あんなに幸せそうな笑顔を、自分でも見たことがないくらい。私に、何か幸福な出来事が起きるのだろう。何が起きるのか判らないが、とにかく私は喜んでいるようだ。
もっと、長い時間、夢を見れたなら、もっと、詳しく判っただろう。だが、私には、やがて得ることができる喜びは、私の人生に、大きく影響を与えるものである、ということが判る。根拠は無いが、確信はある。これも、薬の影響なのだろう。背景に、もう一人の人物の顔が浮き出てくる。睦美の顔だった。とても幸福そうな笑顔をしている。目尻に少し涙を溜めていた。この瞬間だけで、私も幸福になれた。
私は、いつもと変わらない平静さを保ち、朝食を済まし、出勤の仕度をし、家を出た。睦美は玄関口まで来て、私に手を振って見送ってくれた。睦美の体調は、少しだけ良くなったように見えた。無理をしているのかもしれないが。
落ち着かなかった。内臓を吐き出しそうだ。生きたタコを丸呑みして、それが胃の中で暴れている。幸福が訪れる。それは、いつのタイミングで起きるのだろう。私の頭の中は、その疑問で埋め尽くされている。
これで、他ごとを考える暇も無いくらい仕事が忙しければ、時間の経過を意識することなく、幸福に辿り着けるのだが、こんな時に限って、大して忙しくない。
幸福への道程は遠い。病院で、名前を呼ばれるのを待っている患者だ。誰もいないのに。名前を呼ばれるのを待っているのは、私一人だ。
そういえば、睦美がいた。あの場面には、睦美がいて、一緒になって、喜んでいた。幸福な場面を迎えるのは、二人一緒だ。今すぐにでも幸福を手に入れたいなら、会社にいてはいけないのだ。どこか外に出て、睦美に逢わなくてはならない。
そう考え始めると、無性に会社にいたくなくなってきた。今は勤務時間中だ。どういう理由で外に出るかだ。
或いは、睦美を会社に呼び出すか。いや、体調を崩してる睦美に、無理はさせられない。私の方が、会社を出よう。妻の体調が悪いので、病院に連れていきたい。早退する理由としては、それで十分だ。睦美は驚くだろうが。
私は決心して、永楽部長に早退の届け書を提出した。部長は、すんなり受理した。
「それは気の毒だ。早く帰ってあげなさい」
部長は、睦美のことをとても心配していた。罪悪感。やはり、嘘をつくのは後ろめたい。私は、深々と部長に頭を下げ、会社を後にした。午後三時。
アパートに帰り着く。四時を過ぎていた。自家用車が無い。睦美は、どうやら出かけているようだ。
鍵を開け、部屋に入る。やはり、睦美の姿は無い。布団は押入れに片付けられ、床には掃除機が掛けられている。サッシの外側に、整然と干された洗濯物が見える。
携帯電話で呼び出してみる。聞き慣れたメロディが、テレビ台に置いてある籠の中から聞こえる。テレビやエアコン、照明機器などのいろんなリモコンが押し込んである中、紫色に点滅するピンク色の携帯電話を見つける。携帯電話を持って出ていない。
もしかしたら、睦美は病院に行ったのかもしれない。私も行ってみるかと、思い立ってはみるものの、足が無いことにすぐ気付いた。
おそらく、中央病院だ。ここから、歩いていったら三十分以上はかかる。交通機関はバスしかない上、恐ろしく本数が少ない。駅まで行って、タクシーを拾うか。その思い付きと同時に、財布も確認した。何となく勿体無い。
このまま、睦美の帰りを待つか。でも、もしスーパーに買い物に寄ってたら、二、三時間は帰ってこないかも。普段の私の帰りは、大体が九時を過ぎているから。
どうするか。待つか、出かけるか。
結局、三十分ほど待って、一向に帰ってくる気配が無いので、出かけてみることにした。
中央病院に着いた。駐車場の車は疎らで、そこに私達の乗用車は見当たらなかった。
自宅に電話してみる。十回コールの末、留守電サービスの音声。まだ帰ってないか。買い物に行っているのか。
もう、日が暮れて、空は暗くなり始めている。携帯の時計を見る。五時過ぎ。私は何をやっているのだろう。
帰り道をなぞらず、駅に向かっていた。駅前のスーパーに寄っているなら、もしかしたら、睦美の運転する車とすれ違えるのではないかと期待していたが、ハズレだった。駅前ロータリーに睦美の車は無い。あるはずが無い。
家に帰るか。もうすぐ、六時になる。
そう、思ったタイミングで、夢の映像を、もう一度、思い返してみる。喜ぶ私の姿。幸福そうな睦美の笑顔の背景に、薄ぼんやりと何かが映る。紺色の箱のようなもの。
更に、注意を働かせる。箱の上部に、一文字に穴が開いている。特徴的な箱だ。私は、この箱を、どこかで見ている。
記憶の糸を手繰り寄せる。
昨日だ。昨日、N駅で下車して、教授宅へ向かう時。N駅で見た。N市立図書館の、本の返却ポストだ。
更に、記憶を呼び起こす。夢の映像の背景に、はっきりと浮かび出ている。N市立図書館の文字が見える。
私は、駅の改札口まで走る。列車案内標示板を見る。N方面へ向かう準急列車が、まもなく発車するようだ。慌てて改札機を抜け、列車に乗り込む。
「駆け込み乗車はおやめ下さい」
機械音声の女性アナウンスに叱られる。
N駅に着く。
例の返却ポストの前に立つ。
確かに、これが夢の中に登場している。この場所で、私は喜びの声を上げる。
今の瞬間に、それが起こる気配は……無さそうだ。
待ってみるか。いったい何を?
ここで待っていれば、目覚ましのように、幸福の鐘が鳴ってくれるというのか。バカバカしい。何で、こんなところに来たのだろう。
だが、ここまで来たのだから、教授の家に行ってみようと思い立つ。
教授宅の門柱の前に立つ。インターホンに指が伸びる。なぜか、指が震える。プーっと音が響く。私は思わず指を引っ込める。
誰もいないが、一斉に辺りの視線を集めたような気がする。
「はい」と、教授の声。
液晶画面に、教授の顔が映る。視線が私と合うと、教授の目が大きく開いた。まるで、私が訪れるのを覚悟していたような顔だ。
「キミか…」教授の声は霞んでいる。
「お話ししたいことがあるんです」
私は唾を喫みながら、一気にそれだけ伝える。上擦った感じの、学芸会レベルの芝居をする素人役者だ。語尾が裏返って不器用な感じのしゃべり方。言い終えて、顔が熱くなる。
「ああ、そうか…」
教授の声は、電池切れ寸前のライトのようだった。
「ああ、そうだろうとも」
教授の態度も、私と似たり寄ったりだ。ひどく緊張して、どこか怯えている。
「そうだな。私達は、話し合う必要がある。鍵は開いてる」
液晶画面が閉じる。
どういう意味だろう、と私は考える。教授は、何に怯えているのだろう。私を、恐れているみたいにも見える。
「座りたまえ」
いつも談話を交わす居間で、教授はL字型ソファの長い辺を、私に勧める。テーブルには、白いティーポットがあり、熱い紅茶で満たされている。使い慣れたカップは、いつものように伏せてあって。私は、教授の顔を見つめる。教授は、苦笑を返す。
「驚くことはないよ。全ては予定どおりだ。いや、『予知』どおり、と言うべきかな。キミが、ここへ来ることは判っていたんだ」
教授は、両の指先を合わせ、そう言った。お決まりのポーズだ。
「あの薬は、私の発明品だからね」
いつもと明らかに違うのは、教授は、かなり酒が入っているという点だ。息の匂いで、すぐ判る。
「『予知』どおりだけど、本当は違う」
教授の目が、細く、鋭く光る。
「本当のキミは、私を殺しに来るのだからね」
教授のその言葉に、私は面食らう。
「どういうことなんです」と、私は訊ねる。教授は首を横に振り、今にも泣き出しそうな顔になる。
「私も夢を見た」と、嗚咽を飲み込み、呟くように、教授は言う。
「薬を飲んだのですね」
私の問い掛けに、教授は「ああ」と頷く。
「見たよ。キミが怒り狂って、ここへ来て、大きな包丁で私を刺し殺した」
「そんなバカなことが!」と、私は叫ぶ。教授は真っ赤な目をして、私を凝視する。
「確かに、今の状態のキミが、そんな事をする確率は小さい」
妙な言い回しをするものだと思ったが、黙って教授の話に耳を傾ける。
「だが、夢の中のキミは荒れ狂っていた。理由は、私には、よく判る。私のせいだからだ。私が、キミに来るべき幸福を、台無しにしてしまったからだ。そうなんだ。これは、不可抗力だよ」
教授は、ポケットからハンカチを出し、目鼻の周りや、額の汗を拭いたり、深呼吸をしたりした。その間、私は、教授が話を再開するのを、辛抱強く待っていた。
「私は、明日を覗ける、タイムスコープを実現させたかった」
五分ほど、手足をあちこちに動かした後、再び教授は話し始める。
「私の目標だった。学生の頃から、研究を続けて、やっと完成にこじつけたんだ。だが、こんな欠陥があるとは、私も計算外だった。考えてみれば、子供にだって判る欠陥だよ」
教授の右拳が、強く握られている。今にも、何かにぶつかっていきそうな、激しい興奮を拳に見る。
「未来を干渉すれば、未来が変わってしまうのは、当たり前じゃないか。干渉が、予知を無駄にしてしまう。ならば、私が作ったものは一体何だ? 何の役にも立ちはしない」
教授は、興奮した拳で、激しくテーブルを叩く。ティーポットが踊り、倒れそうになったので、私が押さえた。
「夢の中で、私が教授を殺そうとしていた。その不幸な未来を変える事ができたなら、教授の発明品は、全く無駄なものではありませんよ」
私は、自然に言葉が出た。言わずにはいられないような、衝動が走ったのだった。その一言は、教授の耳に確実に届いていた。乱れていた教授は、乱暴に振り回していた拳を止め、私の顔をじっと見た。サーカスの空中技に心を奪われた、子供の目だった。
やがて、小さく息を漏らし、呟くように、こう語り始めた。
「キミには、すまない事をした。もしかしたら、キミの輝かしい未来を、私は台無しにしてしまったのかもしれない」
「大袈裟ですよ」と、私は言う。
「私の未来は、私が開拓するんです。私の意志で。幸福になれるか、なれないかは、私の努力しだいですよ」
「キミは努力家だ」
教授は笑みをこぼす。
「確かに、幸福になれるか、なれないかは、キミの努力しだいだな」
「当たり前ですよ。たとえ、明日起きることが、事前に判っていたとしても、目標に向かって努力する姿勢が無ければ、何も達成はできません」
教授は、私の両手をギュッと掴んだ。
「ありがとう。今日は、取り乱してすまない。この次は、きちんとしたお茶会に招待するよ。そうだ、キミの奥さんも連れてくるといい。永楽君から聞いてるよ。なかなか、いい奥さんだそうじゃないか」
私は立ち上がり、笑顔を教授に向けた。
「失礼します」
「ああ」と、教授も立ち上がり、玄関まで、私を見送った。
私は靴を履き、外に出る直前に、後ろを振り返った。教授と視線が衝突した。
「タイムスコープの研究は、まだ続けるんですよね?」
「キミの上司には内緒でね」
教授は、親指をグッと差し出した。私も真似をした。
教授宅を出た頃は、八時を既に回っていた。早退したのに、結局、いつもの退社時間と変わらなかった。
N駅に着き、図書館の返却ポストの前で立ち止まった。今日が終わるまで、あと四時間ある。未練がましく、そんな事を思った。既に、意味は無くなっているのかもしれない。
たとえ、大きな幸福でなくても、睦美の具合がすっかり良くなったとか、好物のスコーンを焼いてくれてるとか、田舎のお袋から小包が届いたとか、どんな小さな幸福でも、精一杯、幸せな気分に浸ろうと思った。それで十分じゃないか。それこそ、私に見合った幸福と言える。
睦美の幸福そうな笑顔が浮かぶ。なぜか、涙が流れていた。何を泣いてるんだろう。玩具を買ってもらえなかった子供のようだ。
バカだな。自分の頭を小突き、ポストの前を立ち去ろうとした時、携帯の着メロが鳴った。睦美からだった。
『もしもし。着信確認したんだ。ごめんね』
睦美の、一方的なおしゃべりが、飛び込んできた。
『病院にいってたの。携帯使えないし、持ってっても仕方ないと想って、置いていったんだけど。まさか、電話入れてくれてると思わなかったから』
「いいんだよ、別に」と、私。
『何の用事だったの』と、睦美。
「ん」と、少し考えて、「睦美の具合が心配だったから」と、答える。
『うん』と、今度は、睦美が何か考えるように。
『あのね。病院で検査受けたんだ』
「検査?」と、復唱する。
『私ね、病気でも何でもないよ。二ヵ月だって言われた』
「えっ!?」
『来年の六月二十五日だよ。予定日。キミがパパになる日』
「ええっ!!」
『やっぱり、そんな反応するね』
睦美は、クスクス笑う。
『早く帰っておいで。まだ仕事?』
「いや。今、駅にいるよ」
『今日は、少し早いね。九時前には、帰り着きそう?』
「うん、多分」
『また、後でね。ご飯、食べないで待ってるから』
「うん…ごめん…ありがとう」
睦美は、またクスクス笑う。
『じゃあ』
電話を切った。列車到着のアナウンス。急いで乗り場へ向かう。電車の、二つ並んだ前照灯が、こちらへ向かって来るのが見える。
空を見上げれば、夜空に、少しばかりの星が散らばっていた。淡い光で、寄り添うように輝く星が、二つあった。弱々しいけど、優しい感じのする光だった。お互いに投げ掛け合い、お互いを包み込むように、二つの星は輝いている。
「ああ」と、私は声を漏らした。周りで電車を待っていた乗客たちが、一瞬だけ、私に注目した。
電車の前照灯の残像が、空に残っていた。
(了)
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