序 章 渇望のブラックジャック
六台のボートがいっせいにスタートの瞬間を待って動き出している。競艇ではスタートラインはボートが出発した後にやってくる。これが陸上ならフライングだ。
お目当ての男は元々あまり好きな選手じゃない。エンジンはかなりの高性能。プロペラもまあまあ。位置も悪くない。若手の割にはセンターだ。若手一番人気の彼は、新聞紙でもこのレースの安全パイだという評価に落ち着いている。
自分の好みではない選手を選んだのは、まさに萌と一緒にいるからだ。それが何かって? 分かんない? ほとんど萌のごり押しで決まったようなものなんだよ。つくづく情けない。そもそも彼女程度にレースの内容など理解など出来るはずがない。まさに萌の選択基準は外見的好みでしかないのだから。
畜生っ。俺が悩んでいる間に、勝手にアイツにつっこみやがって……。そうなんだ。今日のレースはミーハーな萌の完全なるわがままなのさ。いっそ、萌なんか捨ててやろうと何度思ったことか。
萌は元々大きな目をさらに大きくさせて夢中で選手を見ている。こいつは選手の尻と顔しか見ていない、と頭では分かってはいるのだが、黒目がちな大きな目や小柄なわりに肉付きの良い体が、選手が肉迫する度に夢中になって揺れると、やはりかわいいように感じてしまう。これはやっぱり男の性なのであろうか……。乳をとるか、理性をとるかなどと、ついつまらぬことを考えてしまう。
今、選手達は一周目、1ターンマークの攻防の最中だ。ここでうまく曲がっていい位置をとれるかが競艇の肝だ。ここで勝負は8割決まる。内側から最短距離で旋回して逃げる艇に狙いを定め、外側からスピードをつけていく。俺は思わず汗ばんだ手を強く握った。
「よし、いけっ!」
逃げをうつ艇は抜かれまいと全速ターンをした。諦めるのはまだ早い。差せば良いのだ。その艇を先に行かせて更に内側を突くのだ。
「中だ、中っ」
次の瞬間、周囲の溜め息とブーイングがあちらこちらから聞こえてきた。アイツはお得意のモンキーターンもせず、まくりには行ったものの、内側のボートの全速ターンであきらめたのだ。
「なんだよっ。アイツ」
今年のアイツは成績は十分に取れている。これは成績に甘んじて諦めたとしか思えない。絶対にアイツは天狗になっている。この一周目1ターンマークで優勝はほぼ決まったようなもんだ。どんだけ他の選手が頑張ろうと掛け金が戻らねんじゃ、俺をいらいらさせるだけだ。そうだろ?
見ろよ。4番手だぜ。最低だ。俺の金返せよ。
俺の金が飛んでいったことに気がついてねぇのかよ。何をきゃあきゃあ黄色い声出しちゃってんの。うわっ。こいつ、俺に荷物持たせて俺から巻き上げたカバンを握っちゃって。おいおい、ちゃっかりしてんな。ていうか、いつのまに俺、こいつの荷物まで……。
「かっこいい〜」
俺の金を奪った男を誉めんなよ。まだ、きゃあきゃあ言ってるよ。
萌が乙女のような仕草で両手を前に握りしめているのを見て溜め息が出た。こっちは死にそうな気分だよ。ジャXプも我慢して、ラーメン生活まで送った俺のタンス預金が……。パソコン買おうと貯めていたへそくりを、持ってくるんじゃなかった。カバンと今の掛け金で財布の中はスッカラカンだ。俺の金を無理矢理つっこみやがって。自分の金使えっつの。ミーハーしやがって。絶対こいつホストクラブと間違えてるよ。
「いこ?」
「そうだね」
俺ってなに笑顔作ってんだよなぁ。はっきり言えよ。でも、そんなことしたらさ、萌がうるさいし。心と体は別物って本当だよな。
ご機嫌な萌の手を握って歩いた。人が多いからさ。そうでもしないと、押されて離れちまうよ。その方が外に出るには合理的だろ? 俺は人混みでモタモタしてんのが嫌いなんだよ。萌を引っ張りながらフロアだの階段やらを超えて、人間で充満してる競艇場を出た。これでようやく外の空気が吸えたってわけだ。
それから競艇場を背中にして駅前に向かってるわけだけどさ。仕方ないとはいえ微妙に会話は盛り下がってる。多分俺のせいってやつなわけ? ま、確かに自分でも『はぁ』とか『ああ』とかしか口にしてない気がするよ。でも、金もねえのに無理に盛り上げたり出来るわけがないのよ。ずっとご機嫌だった萌の機嫌も降下していってるのだって分かってるよ。
「ねぇねぇ、ご飯食べに行こっか」
「俺さぁ。もう金ないんだ。ごめん」
まだ俺からむしり取ろうと思っているのだな。すげえやつだと思わね? これって女だからなのかな。
掛け金も俺が払ったんだからこんな時ぐらいは奢ってくれて当然だろ?
全く我ながら情けないが、それが言えたら苦労はしないよ。
車の往来が激しい場所だ。土地柄もよろしくない。気性の荒い運転手が前の車に向かってクラクションを鳴らす音が俺達の沈黙を破って鳴り響いた。
「あっ。ごめん。私、用事思い出したんだぁ。帰る」
萌がにっこり微笑みを浮かべ、上目遣いに俺の二の腕を掴む。そして俺の腕に胸の感触がふわりと広がった。
萌は、耳元に向かって『またね』とささやく。顔を覗き込み、くすりと微笑んだ後、手を離した萌は能天気な声を上げて体ごと離れていった。
俺は思わず『ねぇっ。待てよ』と萌の腕をつかんだ。去る者を追うのは男の習性かもしれない。
「そういうのやめてよ。頼りがいない人は嫌いなの」
萌は真顔だった。唖然とした俺のそばを、平然と笑顔を取り戻し、手を振りながら去っていく。そんな萌の姿を駅前の喧騒の中、釈然としない気持ちで眺めていた。
「山さんっ。お疲れっす」
後輩の中村だ。まずいところを見られたものだ。偶然あったというのに、もしかしたら俺を待ってたのかと疑ってしまう。なぜなら顔を見れば必ず金がないと泣きつき最終的に奢らせるような奴だからだ。こいつといたら、いつもなぜか貧乏になる気がする。まさに貧乏神だ。常習犯のくせに妙に調子がいい。
金だってあわせれば貸している金額は3万円程度にはなるだろう。3万円ぐらい? サラリーマンの収入をバカにすんなよ。3万円もあれば散髪屋に30回は行ける。そんだけ行きゃあ切る毛がなくなって坊主になっちまうぜ。
「お前また競艇だろ」
「やだなぁ。山さんもでしょ」
へらへらと小蝿かってぇの。うっとうしい。
「また女に振られたんすか」
「まだ振られてない」
中村は手をわざと俺の目の前に持ってきてヒラヒラ振りながら、にやけた顔で『ないない』と言った。
「山さんは人が良すぎるんすよ」
「何だよ。お前、俺にそんなこと言える立場か。このくるくる頭」
中村の頭はくるくるとぐろをまいている。かなり明るめの茶髪だ。こいつの柄が悪く見えるのは顔立ちだけのせいじゃない。
『これはぁ、俺のポリシーって奴です』と中村は自らの髪を指差す。
「競艇なんて行くなよな。お前金ねぇんだろ」
俺に借金あんだからな?
デカい図体で唇をすぼめ、ちらちらとこちらを見ながら『そんなにいじめないで下さいよ』と小声を出しつつ、にやけてる。きもいっつうの。こうやっていつも結果、飯を奢るはめになるのだから俺も情けないとしか言いようがない。
「またカバンあげたんでしょ」
『うるさいなぁ。あげてないよ』と俺は嘘をついた。
中村は嘘だと大げさにわめいた。理由は無難だからだ。大体女が好きなもんなんて鞄かアクセサリーに決まっている。アクセサリーなんて何を買えばいいかわからない。
「俺はやりたいからやっただけだよ」
『うわっ。山さんはホント嘘つきだなぁ』と言いながらポケットに手を突っ込む。
「あれ?」
「なんだよ」
「たばこないっすか?」
「ないよ。買えばいいだろ?」
「たばこも小銭もないんです」
またか。中村のその手にはもう乗るもんか。無視するに越したことはない。
「あ、そ」
「なぜか聞いて下さいよ」
「やだよ」
「競艇ですっちまってスッカラカンなんすよ」
聞いてないっつうの。
「でもさ。先に言っとくけど、俺は今日金なんかねぇぞ」
大袈裟に『ええ、マジっすか』と驚いた途端に中村は『ついてねぇ』と肩を落とした。
「ちょっと悪いんだけどさ。お前一度ぐらい死んでくれないか?」
「あ! ひどいっす。それはひどすぎです」
全く懲りない中村を無視したまま、俺はスタスタ駅に向かって歩く。電車で帰るのだ。
「待って下さいよ」
中村も電車らしい。ここは人も多いが車も多い。だから実際には電車の方が交通の便がいいのだ。俺が私用でも内緒で会社の車を使ったりしているからって、やせ我慢でこんなことを言っているわけではない。
ふと前を見た。
駅前のタクシー乗り場近くへ、シンプルなシルバーの外車が止まった。スラリとしたスーツの男が車から降りる。外車の上品なプロポーションが男に似合っている。
岸田じゃないか。相変わらずすかしてんな。あいつはあんまり得意な奴じゃない。おまけに今日は馬鹿も連れている。はっきりいって一緒にいるのを見られたくないんだよな。特にあいつにはな。
中村が『あ! くっそー、あのすかした奴。いい車乗りやがって』と叫びながら、指をさした。
『お前、声がデカいって。やめろ』と焦りながら中村の肩をつかむ。
ああ、もう最悪にタイミング悪いな。外車を前にして馬鹿を連れてる俺ってなんてカッコ悪いんだ。頼む、岸田! 後生だからこのまま気がつかないでくれ。
背中を向けて歩き始めていた岸田は、ピクリと動きが止まった。彼らしいゆっくりとした、いや優雅な動作で、岸田は振り返った。
あいつはとうとうこちらに気がついてしまったらしい。
岸田は『よう』と片手を上げた。中村は指差した手をびっくりしながら上げ下げしている。
「知り合いだったんすか」
中村が怪訝な顔で俺と男の顔を見比べている。全くついてない。
「こんなところで会うとはね? うだつも上がらないのにまた競艇かい?」
「ああ」
岸田が正面から俺の左腕をグッと引っ張りやがったから、俺の体は自然に岸田の導く方向に進んだ。
「なんだよ、岸田」
そして、俺の肩に手をまわし『君はもう少し交友関係に気を配るべきなんじゃないか?』と耳打ちした。中村は派手だから輩に見えるのだろう。
『聞こえてるんすけど?』と中村は言った。中村はかなり憮然としてるな。でも失礼なのはお互い様だろ?
「これは失礼」
岸田は爽やか微笑み、綺麗な歯をみせている。
「じゃあ、僕はこれで。何かあったら相談ぐらいのるからいつでも連絡してくれたまえ」
右手をさり気に振って去っていく。さすがにあんな風にはできない。全くキザだぜ。『これは失礼?』だってよ。あんな台詞残していく奴なんて今どきいないぜ?
シルバーの外車はピカピカで、まるで鏡だ。辺りの人間の目は岸田に注目した後、ちらちらと遠慮がちに俺達を見る。
なんだよ。見んなっての。まるで岸田の引き立て役だ。そんな役回りが俺は大嫌いなんだよ。
駅前の喧騒の中、岸田はスマートに愛車であろう外車に乗り込んだ。男前は何をしても格好良く見えるものさ。その後、岸田の車が消えるまで中村は睨みつけるようにじっと見ていた。
「かぁ!! むかつくっ」
『なんであんな奴と友達なんすか』と中村は横目で恨めしそうに見た。
「単なる同級生だよ」
岸田の学生時代から嫌みな雰囲気はなおりそうもないらしい。中村と正反対だ。
「しっかし、あんなのに馬鹿にされちゃ山さんおしまいですよ……」
おしまいってなんだよ。つい言葉に詰まってしまう。しょせんは俺なんて三流サラリーマンだ。あんな車なんて乗れやしないのさ。駅前の人ごみを見れば、俺とよく似た奴がいる。どうせサラリーマンなんてこんなものだ。
「山さん聞いてるっす?」
俺はその時、駅前のただ一点を見ていた。
『せめて金でもあればなぁ』と俺がぼやくと、中村は『そっすね』と生返事をした。
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