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褌一つで

作者:栗田隆喬
「……お願い」
 少女の瞳が真っすぐに見つめていた。
「必ず……お神輿担いで、会いにきてね」
「任せておけって。必ず行くから」
 少女は目を伏せた。ぎこちなく伸ばされた指先が触れる。
「きっと、だよ……」
 絡まる指。
「約束……」
 茜色に染まった砂。
 夕日を照り返して輝く海。
 足を洗う波。
 すぅっと海の底まで引っ張るように、足の裏の砂がさらわれて行く。
 赤く染まった雲が、海風に細くちぎれて流れた。
「約束、だから。待っているから」
 うなずく。
「ずっと。ずうっと、待っているから」
 ずっと……。


 目が覚めると、まだ暗かった。
 ヘイタはそっと立ち上がると、板の間で寝入っている兄弟を踏まないように、忍び足で厠に向かった。目尻からこぼれた一筋の滴を、手の甲で拭う。
 さほど遠くない海からは、波の音。
 見上げれば群青の空に、いくつもの星が瞬く。
 毎年、この時期になると同じ夢をみていた。去年も、一昨年も。ぜにがあれば、夢見の伺いを立てることもできる。だが、おっかあと六人の兄弟の生活を支えるヘイタには無理なことだった。
 忘れなければ。
 いくらそう思っても、少女の姿をした御魂みたまとの『約束』が忘れられない。いつの時の、どの世界での、いかような因縁か。
 わからない。だが、確かに約束をしたはずだ。不意に盛り上がり押し寄せる静かで大きなうねりに、何かが心の底で震えている。
 今年も『あらうみさん』の大祭が近い。
 浜からは一際大きな波の砕ける音が響いてきた。
 呼びかけは、これがきっと最後。
 ――『あらうみさん』には神輿を担ぎ、ナカノシマへ渡る。
 ヘイタは「よし」と低く呟くと、小屋に戻った。


「この忙しいのに何だ? なにぃ? 担ぐ?」
 烏帽子の老人はヘイタの方へ振り返り、途端に、あいたたた……、と顔をしかめた。
「大丈夫か、じっさん」
大丈夫でぇじょうぶなもんか。だめだめ、そしたら誰が吹くんだ? だいたい、おめぇんとこだって銭がなけりゃ大変だろう」
 座りなおそうとして、また、あいたたた、とトムラベノウシナは腰を押さえた。
 父親を海で亡くしたヘイタにとって、ウシナは親父のような存在だった。船に弱く漁師に向かないヘイタに笛の才を見いだし、『あらうみさん』の大祭に楽師として奏じさせてくれたのはウシナの配慮だった。この数年、大祭での奉納演奏は一家の貴重な収入になっている。その稼ぎを棒に振ってまで、ヘイタはウシナに担ぎ手になりたいと相談にきたのだった。
「なぁ、ヘイタ。どうしてまた、ほげた《馬鹿げた》ことを言い出すんだ」
 トムラベの家は代々、荒海大社あらうみたいしゃの神職だった。だが、夢見は巫女の仕事。トムラベノウシナほど力ある神職でも、いやだからこそ、口が裂けても夢の話をするわけにはいかない。
 ヘイタはウシナの作りかけていた注連縄しめなわに目をやった。大祭には付近の漁村に散らばる各地の荒海神社から神輿がここアラガハマの海辺に集う。街道と辻を清める注連縄は、いくら作っても足りることがない。できあがった注連縄は丸められていた。木綿ゆう紙垂しでが内側に揃えられ、まるで卵を守るムカデかヘビのように見える。
 ヘイタがどうしようもなく黙っていると、ウシナはニヤリと笑った。
「ははぁ。そうげことか」
 両腕を組むと、うんうんと頷く。
「おなごに惚れたな」
「違う」
「へへへ。図星だべ」
 あわてたヘイタの様子に、再び満足そうに頷いた。
 『あらうみさん』の祭りには、意中の異性に想いを伝えられる。だが、それは神輿を担いで一人前の男であることを示さなければならなかった。
「もうおめぇもそんな歳とはなぁ。んで、相手は誰だ?」
「違うって言ってるだろう、じっさん」
「まさか、サナか?」
「ち、違うよ、あんな奴」
「そうかぁ……」
 ウシナは、ふぅと息を吐いた。
「いやな……。サナはよぉ、急にナカノシマから遣いがきてよ、あそこの巫女にきまったからさぁ」
「本当か?」
「ああ。あいつ、ああ見えてよぉ、おめぇにはなついてるだろ。喧嘩するのも何とやらとか、いうじゃねぇか。ひょっとしておめぇもサナのこと好いてたらと、少し心配でさぁ。……だもナカノシマの巫女じゃ、どだい無理だからな。いや、おめぇの言葉聞いて安心した」
「そうか……」
「だがん、このことはまだあいつにも言ってねぇ。実はよぉ、俺もどうやって切り出せばいいか、なんか踏ん切りがつかなくてさぁ。ま、いずれにしてもよ、こいつは誉れだ。めでてぇさぁ」
 そういうとウシナは声を上げ笑いだした。
 幼なじみのサナ。両親を相次いで海でなくしてからは、親戚のウシナに養われていた。
 真っ黒に日焼けした男顔負けの快活な少女が巫女に選ばれる。全く信じられない。
 ウシナの冗談とも思ったが、先程からカカと声を上げる目は笑っていなかった。
「……んでよぉ、誰だ、おめぇの想い人は? 恥ずかしがることないべ。教えろや」
「だから、違うって!」
「おや、おっかねぇ。ホトケのヘイタも怒るんか。クワバラクワバラ……」
 急に真顔になったウシナは、パン、とひざを打った。
「よし、分かった。そういうことなら仕方ねぇべ。一肌脱ごうじゃねぇか。他の村から笛のできる奴を頼んでやるからよぉ。神輿、しっかり担げ。好いたおなごにゃいいところ、見せてやりな」

 ウシナの前を辞すると、ヘイタは屋敷裏の小屋へとまわった。通りや辻に張る注連縄はいくらでも必要だった。すでに何人もの村人が手伝いにきている。
 ヘイタは土間の空いてるところに腰を降ろすと縄を結い始めた。手を動かす合間、視線は自然とサナを探している。だが、普段忙しく動き回るその姿は、とうとう終いまで見当たらなかった。
 あたりがうす暗くなるとヘイタはいとまを告げた。帰り道、いつものように荒海大社へと参る。
 枝のねじ曲がった松の林に『大社』という名には似あわない、小さなおやしろがポツンと建っていた。これが海神として各地に祀られている荒海神社の中心だった。あたりは真っ白な砂が浜まで続いている。裏手にはゴツゴツした黒い岩。他には何もない。みな大漁や海の安全を祈念するものの、村外れのためにふだんは人もあまりいなかった。
 紫色に染まった空に、屋根が黒い影となる。ヘイタは深々と礼をすると、柏手を打った。
 今日も一日、無事に過ぎて行くことを感謝して、そのまま両手を合わせる。
 目をつむると、サナのことが心に浮かんだ。
 もしかすると、舞で巫女に選ばれたのかもしれない。サナの舞は都からも誘いの声がかかるほどだった。その動きは、門外漢のヘイタにさえ何か特別なものを感じさせる。
 ――だからって、どうしてこんな急に? なぜ?
 思いは次々にわいてきた。だが、島から遣いがきたからには、もう決まった話。どうすることもできない。だいいち、巫女に選ばれるのは栄誉だ。それもナカノシマは別格。これ以上の話はない。それをまるで悪いことのように思うのは、自分がどうかしている。
 境内で悪い念をもったことを詫び、ヘイタは深く息を吸うとサナの心配を払った。
 気持ちを切り替え、神輿を担がせて頂く許しを得たことへの感謝を念じた。すると、あの夢は一体何だろうと問いが浮かんでくる。やはり分からない。とにかく、いまの様子は少しずつ、少女の御魂との『約束』に近づいている気がする。まだ、なすべきことも難しいことも、たくさんある。でもこれが必要とされているのなら、あの胸へ押し寄せる何かが本当ならば、ことは自ずから進むはずだ。
 ヘイタはふっと息を吐いた。再び礼をして、神前を辞す。境内を抜けようとすると、気配があった。
「『あんな奴』だなんて、随分な言い方」
 松の影から、細身の少女が出てきた。怒ったような表情に、長い髪が揺れてかかる。少女は顔にかかった黒髪を音を立てて払った。
「私もあんたなんか、何とも思ってないけれど」
「サナ……」
 ウシナとのやり取りを聞かれていた。いつもなら、いきなり抱きついてくるサナが、今日はおとなしい。ゆっくりとヘイタの元へと近づいてくる。
「今年は担ぐんね、お神輿」
「ああ」
 長い睫の瞳が、ヘイタを見上げていた。
「じゃあ、笛はないのね」
「そうなるな」
「つまんないの」
 よく見ると、日焼けした丸い頬には、濡れたあと。目が赤い。二重のまぶたが腫れている。
 サナの手が刹那に触れた。何かを言いかけた口を閉じ、あわてて手を引くと、サナはそのまま逃げるように急ぎ足で離れた。
「おい、サナ」
 止まらない。髪を夕風になびかせて駆けていく。
 追いかけようとしたが、足が吸い付いたように動かない。
 白い砂を蹴るサナの姿が、松の枝に消えた。


「男ってもんはな、男気よぉ! しゃきっとしやがれ、しゃきっと!!」
 従兄の黒く日焼けした手が、ヘイタの白い背中をパンと打つ。生白い指先に力を込め、ヘイタは銛の柄をしっかりと握り直した。気を張って背を伸ばす。だが、腹の底からせり上がってくる酸っぱさに負け、再び船縁へとかがみこんだ。真上から照りつける陽が、背中をチリチリと焼く。輝く青い水面とヘイタの口元が、光る一筋の粘液で繋がった。
 船は、波に当たるたび、上へ下へと大きく揺れる。もう胃の中は空っぽのはずなのに、寄せる吐き気はおさまらない。
 荒海大社が奉るフカワタツミノミコトは海神。神輿の担ぎ手は、海の男だ。ヘイタはその証しを示す必要があった。納屋から、おっとうが使っていた銛を捜し出し、褌一つで母方の従兄、カイチの家を訪ねた。ウシナに担ぎ手にしてもらったことを話すと、カイチは一も二もなく船に乗せてくれた。
 だが、いざ浜を離れると、この有り様。
「いいか、男気だ! しゃきっとしろ、ヘイタ!! 誰とはいわねぇけどよ、あの娘にいいところ、見せてやりてぇんだろう?」
 カイチの巨大な腕が再び背中を打つ。ヘイタは涙目で、口の端からこぼれる酸っぱい光の筋を拭った。

 その日暮れ、何も採れずに戻ると、浜ではウシナが待っていた。
 急に島から迎えがきた、とだけ告げる。
「ウシナどの、冗談だろう?」
 カイチの問いにウシナは首を横に振った。
「サナちゃんがナカノシマの巫女だって? おい、ヘイタ。おめぇ知ってたのか?」
「……ああ」
「きちんと別れもしてねぇだろう? おめぇ、どうするんだよ」
「……どうもしないよ」
「いいのか、それで」
「でも、どうにもならないだろうっ!」
 ヘイタは駈け出した。
 誰もいない浜。銛に寄りかかったまま茫然と、ヘイタは夕焼け空に浮かぶナカノシマの影を見つめ続けた。
 ナカノシマには海神、ミナツヒメの宮とご神木がある。島全体は禁域だった。『あらうみさん』の大祭では、くりだした荒海神、つまりフカワタツミノミコトの神輿が島に渡る。そこでミナツヒメと出会う神事が執り行われることになっていた。禁域であるナカノシマも、この日だけは選ばれた神輿の担ぎ手、仕神しかを受け入れる。
 もしかすると、神事にはサナと対面できるかもしれない。
 そこにかけるしかなかった。

 ヘイタは決意を新たに漁へ出た。
 もともと色白だった肌は日焼けで全身真っ赤になり、皮がむけ、ところどころ水ぶくれさえ出てきた。無理がたたり、熱と吐き気でぐったりとしている。
 見かねたカイチは船を降ろそうとした。ところが普段はなよなよしたヘイタが強情を張り、頑として聞かない。そんな様子に、仕方なく今日も船を出した。
 それでも強情だけでは、漁はままならない。船が波に揺られはじめると、ヘイタは再びまるで虫の息になって横たわってしまった。
 カイチは舌打ちをすると船首を外海から回し、比較的穏やかな浦へと進ませた。しばらくするとヘイタの顔色が少し回復してくる。櫂を手にしたカイチが、ぐったりとしたヘイタを見下ろした。
「おい、ヘイタ。そういやおめぇ、泳げたよな?」
 ヘイタは凍りついた。
 それは、あからさまな侮辱。
 海の男は、泳がない。あらうみさん、つまりフカワタツミノミコトに呼ばれたら、潔くすべてを捨てて沈む。それが生きざまだった。女でもないのに泳ぐのは、恥ずべきこと。
 だが、ヘイタは生きるために泳ぎ、海に潜った。父親を失った当時、一家は食べるものにもこと欠いた。母親一人が海女で稼いでもまかない切れない。
 ヘイタは船はからきし駄目だが、天性の泳ぎ手だった。夕方、あたりが薄暗くなると、浜へ隠れて海へでる。岩場へ潜っては、貝や小魚を捕まえて、何食わぬ顔で母親の魚籠びくへと滑り込ませていた。母はいつもかすかに潮の香りを纏わせたヘイタに見て見ぬふりをした。
 カイチは気づいていたのだろう。この期に及んでそれを持ち出してくるとは、いったいどういう了見か。あまりにもひどい仕打ちだった。
 強い憎しみと怒りと、そしてやるせなさが一度にヘイタの心に渦巻く。
 だが、それは朦朧とした意識の奥へと飲み込まれた。船に酔い、日焼けで動けなくなった自分は漁のお荷物。むしろ怒りはカイチに、ではなく、カイチから自分へと向けられるべきものだった。
 仕方のないことだ、と胸の内で溜息をつく。もう、海の男としての証は立てられない。祭に担ぎ手として出ることも無理だろう。あの夢に出てきた御魂との『約束』も果たせない。
 それ以上に、サナに会える最後の機会を失うのが、悔しくて惜しくて仕方なかった。
 いつも一緒だったサナ。
 あんなにも近くて、気づくと隣にいて。
 砂を蹴り上げ走り去るサナの後ろ姿が、まぶたに映る。
 いつの間にか、手が届かないところへ行ってしまった。
 何もできない。漁も、担ぎ手も、御魂との『約束』も。そして、サナと一目会うことさえ。
 こんなにも無力な自分が、生きていていいのだろうか。そら恐ろしい考えが浮かび、ヘイタは頭を振った。
「大丈夫か、ヘイタ。でも、ちょっと見ろ……あれだ」
 カイチが指さす先を見ると、岩のような黒いものが海底にゆらゆらと歪んでうつっている。
「アギガイだ」
 砂に深く埋まり、かなりの大きさと重さのあるアギガイは、底引き網にもほとんどかからない。採れないだけに貴重で『あらうみさん』には重要なお供物だった。
「おめぇ、潜ってとれるか?」
 そう言ってカイチはほほ笑んでみせた。
 一瞬戸惑ったものの、ヘイタは従兄の意図を察した。
 カイチに対し、一瞬でも悪い念を思った自分を恥じながら、ヘイタは褌を締め直す。
「いってみる」
 ざんぶと海に飛び込んだ。
 水と泡の感触が頭から足先まで広がる。火照った肌をいたわるように、水が優しく包みこんだ。
 さきほどまで割れるように痛み、汚泥が詰まったようだった頭は、芯の方からすっきりとして、冴えてくる。
 ヘイタは大きく息を吸い込んだ。
 頭を下げてぐんぐん水を蹴り、深く潜っていく。体を包む水が、見えない境で急に冷たくなった。潮の流れで海草が手を振るように揺れている。ツバを飲み込むようにして耳の痛みを抜くと、さらに深くヘイタは潜った。
 黒いアギガイが目の前にある。隙間に指を挟まれないよう貝殻に触れると、一瞬でその口が綴じた。抱えるようにゆっくりと、注意深く前後に揺らす。
 徐々に息を止めた苦しさが回ってきた。指先が少し冷えて、チリチリしてくる。それでも根気よく動かしていると、やがて砂に半分沈んだ貝が徐々に出てきた。
 取り出した貝を抱き抱えると、ヘイタは砂を蹴る。
 口から溢れた泡がゆらゆらと揺れながら上がっていく。同じ早さでカイチの待つ船の影を目指した。
 息が切れそうになるぎりぎりで、新鮮な空気が一気に入ってきた。大きく息をする。太陽の明るさに圧倒された。あたりはすべてが紫色に包まれて、小さな光の粒が舞って眩しい。全身に力が少しずつ戻ってきた。
「どうだった?」
 ヘイタは息を整えながら船に近付くと、かすかに痺れる手で、えいとばかりにアギガイを放り込んだ。
「やったな。これでおめぇも海の男だ」
「で、でも……」
「気にするな。こいつは網で引き上げたことにするでよぉ」
 そう言って白い歯を見せて笑う。
 ヘイタは何度か潜った。
「これだけあれば十分だべ」
「そうだな」
「ヘイタ、そろそろ戻ろ
うと思うんだがよぉ……なぁ、最後にひとつ、お願げぇだ」
 急にカイチは真剣な顔になった。
「悪いけどよぉ、もうひとつ採ってきてくれねぇか?」
「いいけれど」
「へへっ……。俺もひとつ食ってみてぇんだ」
 ヘイタは思わず噴き出した。さすが食いしん坊のカイチだ。
「ああ。任せろ。特別でかいの、とってくるよ」
 再び息を整え、大きく吸う。
 深く潜ったヘイタは、ひんやりとした水に包まれて、ひときわ大きなアギガイと向かい合っていた。
 潮の規則的なうねりだけが、あたりを支配している。貝殻の隙間から筒のように伸びた指より太い二本の口は、膨らみしぼむ動きを、淡々と繰り返していた。
 ヘイタは貝殻にそっと触れた。
 殻を閉じる様子はない。
 大きく前後に揺すろうとするが、貝はびくともしなかった。
 力を込めて揺らすとヘイタの口元からは泡が漏れた。
 だが、その甲斐あってか、アギガイは砂からだいぶん傾いていた。もう少し動かせば完全に引き出せそうだった。
 カイチの嬉しそうな笑顔が脳裏に浮かぶ。ヘイタは握った腕に力を込めた。さらに前後に貝を揺する。だが、思ったよりも手ごわい。
 やがて砂から抜き取る。このころにはさすがのヘイタの腕も足も痺れかかっていた。
 そろそろ上がらないと、危ない。
 アギガイを抱えて、ヘイタは海底を蹴った。
 泡はゆらゆらと揺れながら海面へ上る。だが、さきほどと違って、その泡に追いつくことができなかった。
 貝が重すぎる。
 息が漏れたのに、長く潜りすぎて力が十分に足へと伝わっていなかった。
 ヘイタはがむしゃらに水を蹴った。
 その足も、もう思うように動かない。
 あたりが暗くしか見えない。視界は狭くなってきた。胸は詰まって潰れそうで、からだが早く水の外へと出たがって暴れている。
 心の臓が、胸の内側で早鐘のようにのたうっている。
 限界だ。
 ヘイタはようやく貝を手放した。
 海面から差し込む太陽の光。かすむ視界に輝くその光を求め、必死に浮かび上がる。
 だが耐えきれなかった。
 水中で勢いよく吸い込んでしまう。塩水がヘイタの息を止めるように口と鼻を塞いだ。
 輝く太陽だけが、ぼんやりと最後まで視界に映っている。
 激しい混乱に一抹のさみしさを感じながらヘイタは意識を失った。


 ゆっくりと、暗い水の中を漂っていた。
 痛みも、苦しみも無い。
 静けさだけがあたりを包んでいる。
 ヘイタのからだは、ゆっくりと、深く、海の底へと沈んでいく。
 ただ流されるままに。沈むままに。
 小さな魚がいくつも現れた。体を軽くつついてはどこかへと消えていく。
 どれほど漂っただろうか。
 やがて、おぼろげに薄青く光る白いものが、上から揺れながら落ちてきた。
 一つ、二つ。ふわり、ふわりと。
 それはまるで、浜の冬に降る雪のようだった。
 少しずつ数が増えて行く。沈んで行くヘイタを見守るかのように。
 一つ一つが、とても近しく、懐かしく、いとおしい繋がりに満ちている。
 ほとんど消えかけた意識に、ヘイタは喜びを感じた。
 ――俺も、水底みなそこの雪になるんだ。
 そうだ、ここが俺の帰るところだ。
 戻ってきたのだ。
 海へ。
 水底みなそこへ。
 ヘイタを取り巻く光の数は更に増した。
 あたりは白い光に覆われている。
 だが、その光の幕が突然、何かを避けるように散らばり、所切れた。
 赤い光の珠が輝いていた。
 ゆらゆらと、漂いながらヘイタに近づいてくる。
 すっとヘイタの唇に触れた。
 冷え切った水と違う、柔らかな温かさ。
 輝きを保ちながら、赤い珠はヘイタのからだへと入り込んだ。
 からだの内側から、熱いものがあふれ出す。
 赤く、強い光がヘイタの胸に輝き始めた。
 あたりを取り囲んでいた淡い白光の粒は、逃げるように霧散しはじめる。
 沈みつつあったヘイタのからだが、輝きを増し、加速しながら浮かび上がって行く。
 あたりの水は、少しずつ青く、明るくなり、揺らめく太陽の輝きがかなたに見えた。

「ヘイタっ! ヘイタぁぁっ!!」
 頬に衝撃が感じられる。
「莫迦っ! 莫迦莫迦っ!! 死ぬなぁっ」
 痛みは無い。ただ、細い指先が頬をはたいているのが分かった。
 右に、左に、右に。
「死んだらタダじゃおかないっ。だから、……だからっ」
 うっすらと目を開くと、涙で顔を濡らしたしたサナだった。
 巫女の白装束は水で濡れている。
「ヘイタっ!」
 サナが両の肩をしっかりと掴んだ。
 ――そんな顔してたら、巫女にはみっともないだろう。
 微笑みかけようとしたら、急に全身の感覚が戻ってきた。胸から喉、そして鼻が塞がったように激しく痛む。少しの動きで体中が悲鳴をあげ、かすれたうめき声が漏れた。
「ヘイタ……ヘイタぁぁ」
 サナが濡れた衣で、ぎゅうとヘイタを抱きしめた。
 それから当分、サナはヘイタを抱いたまま泣き続けた。

 ヘイタが流れ着いたのはナカノシマの裏にある小さな入り江だった。白い砂浜が絶壁に囲まれている。あまりに道が険しく、小舟でしか訪れることができない奥まった場所だった。
「ここはね、私みたいな島に渡ったばかりの巫女が、連れてこられるの」
 サナは崖の影に生えた大きな葉をとってきて、器用にうつわを作り始めた。
「誰からも離れてひとりで、ミナツヒメ様に仕えるためにみそぎをするの。だから、ケガレハマっていうのよ」
「ケガレハマ?」
「そう。島の外にいるとね、いろんな人の想いが垢になってまとわりつくんだって。そういう垢を、想いのケガレを、ここで落とすの。全部落とし切るまではここで禊を続けるのよ」
 サナはそっと指先で砂に触れた。
「だからこの浜の砂はね、禊で落ちたそういうケガレが……人の想いが染み込んでるの」
 指を離すと、夕陽を浴びて輝きながら砂粒が零れた。
 いとおしそうに光る砂粒を見つめるサナの横顔が、やつれて見えた。浜にいたころはふっくらとしていた頬がそげている。
「どれぐらい禊を続けている?」
「……もうわからなくなっちゃった。正巫女様が船でケガレの落ちを確かめに来られるのだけど、そのたびに、まだだ、まだだって帰っちゃうから」
 サナは立ち上がると崖の下にある洞穴へと降りていく。
 戻ってきたサナが手にした葉の入れ物からはしずくがたれていた。
「お水、汲んできた。飲む?」
「ああ。喉が渇いてしかたない」
 手渡された水を少しずつ口に含む。冷たい。舌に触れた感触はかすかに甘く柔らかく、包まれるよう。
「あれだけ海の水を飲んだから、喉も渇いて当然ね」
 サナは微笑むと飲み終えた葉の入れ物を受け取った。
「まだ飲む?」
「いや、もういい。ありがとう」
 二人は並んで砂浜に座った。
「ずいぶん焼けたわね」
「サナに比べたらまだ真っ白さ」
「漁に出てるの?」
「ああ」
「船酔いするくせに」
「仕方ないだろ。神輿を担ぐんだ」
 あたりはいつの間にか茜色に染まっていた。
 小さな入り江の向こう、朱の太陽が揺らめき、滲みながら空と海との境へと近づいていく。
 穏やかな潮風が二人の頬を撫でた。
「私ね……。禊をしながら、どうしても忘れられなかった」
 吐き出すように言うと、サナは押し黙った。ヘイタも黙って夕陽を見つめている。海鳥が連れ立ってその光を横切った。
「一度でいいから……最後に一度でいいからって。そうしたら、入り江にあなたが現れたの。水の中から、明るく輝きながら、ゆっくりと浮き上がってきて……。まるで深い海の底からきたみたいだった。きっとミナツヒメさまのおかげね」
 サナは沈む太陽をじっと見ている。最後の残り陽に照らされて、純白の巫女衣の袖が風に揺れ輝いた。
「サナ、染みが……」
「あ、これ……あなたを吐かせた時についちゃったのね。全く、手ばっかり焼かせて。……大変だったのよ、死んだみたいに息はしなかったし、水はたくさん飲んでたし。……でも、いま、ちゃんとあなた、生きてる」
 嬉しそうにそういうと、サナは立ち上がった。
「もう浜まで泳げそう?」
「ああ」
「……よかった」
 二人はよりそうにして浜辺を歩き始めた。
 足もとにはかすかな波が寄せてくる。
 空と海の後ろに夕日は沈み、あたりは群青の闇が迫っていた。ひときわ明るい星が、消えた太陽の名残りのように西の空に輝いている。
「次は『あらうみさん』のお神輿しょって、会いにきてね。……待っているから」
 はっとしてヘイタはサナを見つめた。
 サナの瞳が、ヘイタを見上げている。夢で見た少女の御魂に重なった。
「必ず。会いにくるよ」
「待ってるから……」
「ああ、約束だ」
 サナの衣の袖がヘイタの手に触れる。
 ヘイタはしっかりとサナの手を握った。
 そして、二人は少しづつ、頬を寄せた。ぎこちなく唇を交わす。
 柔らかな、温かさ。それは人の温もりだった。
 ゆっくりと重なる唇を離した。
「……もうじき、正巫女様がお目見えになるわ。島を離れないと」
「分かってる」
「私も行くわ。入り江の口まで、見送る」
 波打ち際まで歩みを進めた。ヘイタも続く。
 水に身を浸し、サナは腰帯を解いた。海蛇のように帯が漂い、流れる。白い衣が花弁のように水面みなもに広がり、波に揺らいだ。
 サナはゆっくりと夜の海を泳ぎ始めた。ヘイタも続く。
 渦巻く潮が、海へと二人をいざなった。
 あたりはさらに闇を増す。浜に打ち寄せる波が、かすかに輝き始めた。波の崩れるたびに、水が青白く光る。その輝きは、闇が濃くなるにつれて、少しずつ強まった。
 気がつくと、海全体が光っていた。水はヘイタとサナに触れると、ひと際青白く輝き、渦をまきながら流れ去る。それは、幾筋もの小さな光の粒。
 夜の海の輝きで、星空と海が一つになった。
 ヘイタとサナは無言で見つめ合う。
 流れる潮。
 光の軌跡。
 青白い光りは、二人を包み込む。
 それは少しずつ溶け合い、そして別れた。


「ふうん。ヨガリハマのガンペイもなかなか上手いな」
 軽快な祭り囃子の笛の音に耳を澄ませて、ヘイタは呟いた。
「何言ってやがる。おめぇが吹かなきゃ調子が出ねぇって」
 カイチが背中をドンと叩いた。
「痛いぞ」
 笑いながらヘイタが叩き返す。
「いっっってぇぇ! ひでぇや、ヘイタ」
「これであいこだな」
 いよいよ『あらうみさん』の大祭が始まる。
 金色の神輿が満月を浴びて輝いていた。
 日焼けした逞しい海の男たちが、白褌で浜に集まっている。
 提灯や篝火かがりびが焚かれ、樽酒がふるまわれていた。
 間もなく、宮立ち。
 否応にも興奮が高まる。
「おお、おめぇらこんなところにいたか」
 烏帽子姿のトムラベノウシナが、男たちをかき分けながら近づいてきた。
「前だったらヘイタはすぐに見つかったのによぉ、今じゃあなかなか見つからねぇからな。おめぇ、もう一度白くなれ」
「じっさん、冗談はやめてくれよ」
 少し不満顔のヘイタに、ウシナもカイチも笑う。
「それにしてもよぉ、もう文句なしの海の男だもんなぁ。アギガイのあと、サメをつづけて三っツもとってきて、俺もたまげたさぁ」
「たまたまだよ」
「ウシナどの、そんなことねぇぞ」
 横からカイチが割って入った。
「ぴたりと狙いを合わせると、銛がそのまますぅっと吸い込まれるように水に入っていくんだ。ヘイタはほんまもんだぜ」
「そうかぁ……」
 うなずいていたウシナが、急にしゃんと背筋を伸ばした。
「どうした、じっさん」
「……おいでなすった」
「えっ?」
「おいでなすったんだよっ!」
 ウシナは真顔になってヘイタを見つめる。その両目は篝火を映し、妖しく光った。気のせいかその姿さえ突然大きくなったように見える。
「荒海大社宮司トムラベノウシナ、アラガハマのヘイタに只今下りし神詞かみことばを伝える」
「はっ」
 ヘイタとカイチは畏まり、砂地に伏した。周りの男たちも気づいたものは皆伏せる。

  コレナルハ 忘ルルナカレ
  ケガレハマ 砂ニ縞ナル
  我ガ想ヒ  与フル人ニ
  浦見レバ  水ヒカルナリ
  沖ノ岩   寄スル波ノ音
  フリカカル 水ノ光ノ
  消ヘルマデ 紅キ光ノ
  閉ズルマデ ワタツミ渡ル
  海鳥ノ   枝ノ泊リニ
  留マレル  浜ノ岩松
  松ノ枝ニ  降レル雪ミテ
  啼キヌレシ 人ハ行クナリ
  来ルルマデ 浜ニアガリシ
  姿ニテ   浜ニアルベシ 帰リ来ルマデ

「以上、神詞かみことばぞ」
「ははっ!!」


「いやぁ、魂消たまげた。まさかいきなり来るとは思わねぇからよぉ」
 ウシナはそう言って身を起こすと、冷えた水をあおる。
 神詞かみことばが終わり、ヘイタとカイチが顔を上げると、すべてを言い終えたウシナは白眼を剥いていた。倒れそうになったところをあわてて抱きかかえ、二人で屋敷へと運んだのだった。
「いや、ありがとうよ。もう一杯、もらえるか」
 空の椀を受け取ったカイチが、外の甕に水を汲みに行く。その姿が見えなくなるとウシナは小声で耳打ちした。
「……いいか、ヘイタ。あの神詞だがな……。おめぇは本当は死ぬはずだった。だがよ、神様が、おめぇには何がっても生きろと。浜に打ち上げられた時と同じ、褌一つでな」
 ウシナは目を細める。再び、かすかな光がその眼に宿った。神だ。
「神輿負い島へ渡るは笛を持ち行け。たすきに仕込みて」
「はっ」
 ヘイタがうなずくと、ふぅ、とウシナはため息をついた。神を目前にした緊張が解ける。
 入れ違いのようにカイチが部屋に入ってきた。元の様子に戻ったウシナは礼を述べると椀を受け取り、水を一気に飲み干す。
「さてと。俺も明けの神事の用意があるからよぉ。いつまでも横にはなってられねぇや」
 ウシナは立ち上がると烏帽子を整えた。
「おめぇらも、そろそろ宮立ちだぞ」
「もう大丈夫なのか、ウシナどの」
「おう。もう元気ぴんぴんよぉ。世話になった。じゃあな、しっかりやれよ」
 ヘイタの肩を軽く叩くと、ウシナは手を振り、去った。


『とうりゃぁ、やっせぇー』
『どっこい、はっせぇーっ』
 フカワタツミノミコトの荒ぶる御魂を鎮め、神輿の到来を人々に告げる太い掛け声が波音に負けじと夜の浜に響く。ヘイタも重い神輿を担ぎ、掛声をあげた。
 夜更けに動き出した神輿は、注連縄の張りめぐらされたアラガハマの集落を練り歩く。神輿と担ぎ手の姿を一目見ようとみな表に出ていた。
 若い娘は目当ての男に声援を送る。
「ヘイタぁ、頑張ってぇ」
「こっち向いてぇ、ヘイタぁ!!」
 後ろのカイチがからかった。
「おい、随分な人気じゃねぇかよぉ」
「とうりゃぁ、やっせぇーっ」
 ヘイタは答えず、ひと際大きく声を張り上げる。
 神輿は明け方に砂浜に着いた。各地の荒海神社から集まった神輿が、ずらりと波打ち際に列をなしている。その数、五十余。上ったばかりの朝日を浴び、いずれの神輿も燦然と輝いている。ヘイタたちの担ぐ大社の神輿を待ち構えていた。
「これよりみそぎを始める」
 トムラベノウシナの声で、着いたばかりのヘイタ達の神輿を先頭に、浜から少しずつ、波打つ海へと進む。
 火照ったからだに朝の波が心地よい。もうしばらくこのままとどまりたかったが、神輿は向きを変え、再び浜へと戻っていく。
 すべての神輿がみそぎを終えるころ、浜風に、高く掲げられた緑の枝が揺れた。やがて笛の音に合わせ、厳かに神事が執り行われた。


 陽が高くなるにつれ潮が引く。打ち寄せる波がどんどん小さくなった。浜からは海を割って砂州が浮かび、ナカノシマへと徐々に伸び始めた。大潮の引き潮に、ほんのひと時だけできる、砂のかけ橋。ヘイタはただならぬ気配を感じた。たすきを締め、気合いを入れる。
 担ぎ手たちが配置についた。
 禁域、ナカノシマ。そこへ渡る神輿の担ぎ手は、仕神しかと呼ばた。浜に集まった各地の神輿の担ぎ手から、亀の甲を焼いた卜占ぼくせんで決まる。
 ヘイタは筆頭の『太の担ぎ』に選び出されていた。仕神しかは様々な魔除けを入れた『たすき』を身につけることになっていた。選ばれた者のたすきとからだに宮司のウシナが墨で仕神模様しかもんようを描きこむ。
 やがて、準備が整うと、担ぎ手たちは全身の力を込めゆっくりと神輿をかつぎ上げた。浜の皆が見守る中、神輿は砂州へと進み始める。夜のような、騒がしい掛け声はなかった。粛々と、まだ水の残る砂州を渉っていく。
 やがて目の前に、木々のうっそうと茂ったナカノシマが近づいてきた。行きつく先には、風雨で黒く変色した鳥居がそびえている。
 一の鳥居。
 注連縄は張り替えられたばかりなのだろう。真新しい紙垂しでが海風に揺れている。鳥居をくぐると、島の中心へと続く天然の急な石段。
 石段を登り切ると、二の鳥居。
 しばらく行くと森が切れて、巨木の姿が目に飛び込んでくる。
 ミナツヒメのご神木だった。
 古びた幹は苔むし、節くれている。太さは、小さな家ほどもあった。張り詰めたような気配が巨木から発せられている。周りには、幾人もの巫女が整然と伏し控えていた。
 今この瞬間も大切な神事。だが、ヘイタの目は自然とサナを捜し求めていた。
 ヘイタの号令で、男たちは金色の神輿をご神木の前に下ろす。すると巫女の一人が目を伏せながら『太の担ぎ』であるヘイタに近づいてきた。
仕神しかはこちらへ」
「かたじけない」
 『太の担ぎ』に選ばれてからトムラベノウシナに教わったように、ヘイタは形式通りの返答を口にする。
 担ぎ手たちは外れにある建物へと案内された。高い所に明かりとりがあるほかは、すべての戸が閉められている。入口の扉も閉じられた。板の間には等間隔に、担ぎ手分の膳が据えられていた。薄暗い中で黙って食し終えると、やがて外から謡うような女の声が聞こえてきた。神事が始まったようだ。仕神しかであるヘイタ達担ぎ手も居住まいを正す。
 心を、無へ。
 だが、ヘイタの心にはサナの姿ばかりが浮かんでくる。
 無からは程遠い。惑わされている。これでは仕神しかとして不十分だ。『太の担ぎ』に選ばれた役目を果たさなければ。
 ヘイタは心に浮かぶサナの姿を必死に追い払いやろうとする。
 だが、忘れようとすればより鮮明に、サナの姿が浮かんできた。
 舞踊るサナ。
 その華麗な動き。
 どれだけ心動かされていたか。
 そして普段の男勝りの乱暴な動きの裏に、どれだけの細やかな心配りがあったのか。
 どれだけの強がりと思いが込められていたか。
 舞いに込められていたそれが、心の中でよみがえる動きから手に取るように感じられ、沁みてくる。
 祝詞をあげる女の声は消えた。戸が開き、明るい光が差し込んでくる。
仕神しかはこちらへ」
「かたじけない」
 外では、ご神木の前には一人の巫女が坐し、伏せていた。その脇に控えた髪の白くなった巫女が、同じく伏したままヘイタに声をかける。
「ご苦労様でした」
 神事の次第では、これに『太の担ぎ』が返答すると、神輿はすぐに島を辞する。ヘイタが口を開こうとした瞬間、目の前の巫女がおもてを上げた。
 ――サナ。
 額を覆う金日輪の飾りが陽の光を浴びて輝く。
 日焼けした肌が純白の巫女衣に映えた。
 髪飾りが風に揺れる。
 黒い瞳が瞬きもせず、ただ、じっとヘイタを見つめていた。
 二人は互いを見つめ合っていた。
 どれぐらいそうしていただろう。
「太の担ぎ殿、ご苦労様でした」
 異例の二度目の声掛けが行われた。
 だが、ヘイタは返答しない。
 代わりに、仕神しかのたすきを外した。低い驚きの声が、背後の担ぎ手たちから漏れる。
 ヘイタは両手でたすきを引き裂いた。
 貝、小石、鮫の歯。さまざまな魔除けが零れおちる。
 そして最後に、笛が現れた。

 目を閉じる。
 歌口へ、そっと息を吹き込んだ。
 高い音が鳴り響く。
 森へ、空へ、海へ。
 続いて一陣の風が吹き抜け、サナが立ち上がった。
 笛の音は高く、低く、時に早く、ゆったりと。
 サナは奏でる笛の音に合わせ、舞う。
 腕を伸ばし、指先を返し、動きは場を清めはじめた。
 ヘイタの心に次々と音が浮かぶ。
 湧き出る旋律を笛は奏で続ける。
 やがて音色は輝く波紋になって、輪を描くように広がりはじめた。
 その波紋に合わせ、サナが舞う。
 花のように。
 天女のように。
 その動きが境内の気を練り上げた。
 サナの指先から、気が光の粒へと変わり、空へと輝きを解き放つ。
 笛が音の光を、舞が動きの光を。
 二人は、すべてを忘れた。
 ただひたすらに、音と、動きに、すべてが集まる。
 からだも、心も、すべてが消え去り、溶けていく。
 ヘイタはそのうちに、サナと重なり舞い踊る、輝く少女の御魂を見た。
 ――あれは、ミナツヒメ。
 そして、自分自身に重なる、輝く少年の御魂を。
 ――フカワタツミノミコト。
 二柱の御魂は、笛の楽と舞に遊ぶ。
 すべてを無へ。すべてを有へ。その境界線を揺れ動きながら、ただ、遊ぶ。
 二つの光は徐々に力強く輝き、やがて一つになった。


 あっけないくらい突然に、すべてが終わった。あたりを満たしていた光も、消え失せる。
 サナは、抜けたようにしばらく立ち尽くしてから、ゆっくりと膝を折り、その場に伏した。
 ヘイタも笛を降ろす。
 再び二人は見つめ合った。
「太の担ぎ殿」
 サナがほほ笑む。
「大変、ご苦労様でした」
 ヘイタは前へ進むと片膝を折り、頭を下げ、笛をサナの前に捧げた。
「ありがとうございました」
 顔をあげ、ほほ笑みを返す。
「失礼いたします」
 立ち上がり神輿の傍らへと辞すると、茫然としていた男たちが、あわてて配置についた。

 動き出した神輿は二の鳥居を抜ける。眼下には、木立の合間から一の鳥居が見えてきた。
 これをくぐれば、もう二度とサナとまみえることはない。ヘイタはそのことをひしひしと感じていた。
 今生の別れ。
 ミナツヒメに仕える巫女は、決して島を離れない。
 そして自分は、二度とこの島へは呼ばれない。
 それは宿命だ。
 だが、ヘイタの心は不思議なほどに落ち着き、満ち足りていた。
 輝くサナの笑顔が心に浮かぶ。
 光の中に、二人は確かな『約束』をした。
 今生では果たすことのできぬ約束を。
 そして今生の二人を、結び続ける約束を。
 ――必ず会いに行く、サナ。次の生を受けた時にも、必ず。
 神輿は一の鳥居をくぐり抜ける。
 満ち潮で、少しずつ細く消え始めた砂州を、神輿は急ぎ渡り始めた。
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