公園
暖かい風が頬を撫でる。
レタスをたっぷりはさんだハムチーズサンドをかじると、シャクシャクと心地よい音が頭の奥に響いた。
最近オープンしたばかりのサンドイッチ屋だが、種類が多く、そのどれもが美味いので気に入っている。
昼休みになるたびに会社を抜け出し、サンドイッチとコーヒーを買って、この公園でゆったりと充電するのだ。
五月の日差しは穏やかで、すぐに眠気がやってくる。
一つ大きくあくびをし、ぐるりと敷地内を見回した。
僕と同じように、昼休みにくつろぐサラリーマン、自慢の弁当を広げて会話を楽しむOLたち、買い物帰りの主婦、のんびり日向ぼっこの老人……。
いつからここは、子供たちの遊び場ではなくなったのだろう。
子供たちがケガをしては、危険だからと撤去された遊具。
子供たちの声がうるさいと怒鳴る近所の住人。
目の届かぬところは心配だと、外に出さない親。
ここは、そんなに危険な場所だっただろうか。
「やれやれ」
携帯電話のアラームが鳴った。会社に戻らなければ。
もう一度あくびをしてから立ち上がり、ズボンについたパンくずを払い落とした。空になった紙袋と缶をゴミ箱にねじ込み、大通りに出る。
途中、ドキリとした。
前から歩いてくる女の子たちのグループ。
(珍しいな、新世代だ……)
そろいの制服と制帽で身を包み、弾けんばかりの笑顔でおしゃべりをしている。
そのうちの一人と腕がぶつかった。
「ごめんなさい!」
見上げた大きな瞳に心を奪われた。
「あ……」
言葉が出ないほどに、身体中がしびれる。
彼女はぺこりとお辞儀をし、先に行って振り返る友人たちのもとへ急いだ。
これは、運命だ。
さっぱりと切りそろえた髪、輝く瞳、明るい声、翻るスカート。
午後からの仕事はとうてい手につきそうにない。
あの少女は、どこの誰だろう。
思いを馳せながら窓の外をぼんやり眺める僕の肩を、上司がぽんと軽く叩いた。
「社長が呼んでる」
まさか、従業員の少ない小さな会社とはいえ、こんな平社員が仕事をさぼったくらいで社長に呼ばれるだろうか。
嫌な汗をかきながら、そっとドアを押した。
「やあ、田辺君」
はげ散らかした頭を神経質に何度もハンカチでぬぐい、気持ちの悪い笑みを浮かべている。それを囲むように、黒いスーツの男が三人……と、先ほどの少女!
「なぜ……!」
どくんと胸が高鳴り、頬が熱くなる。
彼女も頬を紅潮させて笑顔を僕に向けた。
「ん、ああ、すでに知り合いだったかな。こほん、その、なんだ」
社長は要領を得ないことをしどろもどろと話す。
「その、彼女と君は、田辺君は……ペアだと判明したらしい」
ペア。
DNA的に、最も相性がいいとされる男女。
二人からは子供が産まれやすく、産まれた子供は身体・頭脳・精神と、すべてにおいて優秀である可能性が高い。
「ペア?」
そんなことが、すぐに信じられるはずがない。この全世界中の人々の中から、たった一人が見つかるなんて。
「そう、ペア」
社長も繰り返した。
頭の中にはその二文字と少女の笑顔だけが浮かび、僕は自分の身が置かれた状況を把握できずにいた。
「だから、今日はもう帰っていいよ。明日からは来なくていいよ」
社長は鬱陶しいほどしつこく、ハンカチで頭をぬぐった。
「田辺さん……っていうのね! 私はサチ。さっき会ったときに、あなただってわかったわ!」
僕の混乱をよそに、彼女の元気な声が部屋に響いた。
「田辺さん、じゃよそよそしいわよね。なんて呼んだらいいかしら?」
その溢れるパワーに圧倒される。僕の中に、新しい力が流れ込んでくるようだ。
「……裕之。田辺裕之っていうんだ」
僕は目を細めて彼女を見つめた。
狂おしいほどに、全身の細胞が彼女を求めている。
彼女はその小さな手で僕の腕を掴み、胸におでこをすり寄せてきた。
「会えて嬉しい……」
涙に揺れる声に、愛しさが増す。
気づくと僕は、彼女を抱きしめていた。
やわらかく、温かく、なんとも満ち足りていく。
「こほん、そういうことだから。後のことは、彼らが面倒見てくれるらしい」
社長は迷惑そうに僕たちを追い払った。
わけもわからぬまま僕は、とりあえずの荷物を片付け、用意されていた車に乗り込んだ。
着いた先は、僕の給料では夢のまた夢と思うほどの高級マンションだった。厳重なセキュリティ、高価な家具、贅沢な間取り。
ここで僕は、出会ったばかりの愛しいひとと愛をはぐくむのだ。
「すてきな部屋ね」
サチは満足そうに部屋でくつろいでいる。
「なんだか落ち着かないな」
すでに生活できるようにすべてそろえられていたが、日用品などは使い慣れたものを前の部屋から運んでもらうように頼んだ。
僕はこれからのことを考える。
ただDNAの情報が合致したからと、若いサチを生涯のパートナーとして決めてしまってもいいのだろうか。
僕はすでに彼女を欲しているのだから、問題ない。しかし彼女は、三十も半ばで冴えないこんな僕でいいのだろうか。
すぐにそんな心配は無用だと知る。
サチはまっすぐ未来を見つめて言った。
「こんなに早くパートナーが見つかって、任務を遂行できるのが嬉しいわ」
とても誇らしげに。
少子化が進む近年、彼女たち新世代は、まず子孫を残すことが最大の使命だと教育されている。
各国政府が協力し、最高の『ペア』を探し出すのだ。
めでたくペアとなった二人は手厚く保護され、義務を果たすことに専念する。
「やれやれ」
とんでもないプレッシャーだ。僕は彼女と違い、旧世代なのだから。
僕はまず、互いのことを知るところから始めよう、と提案した。
「裕之がそうしたいなら、それで構わないわ」
何から知りたい? と彼女は無邪気に僕の隣に座り、顔を覗き込んだ。甘い香りが鼻孔をくすぐる。
『そんなまどろっこしい段取りなど不要だ』と囁く僕と、『それじゃ獣と同じだ』と諌める僕が頭の中で争った。
「今日はなんだか慌ただしい一日だったから、もう休もう」
電気を消そうと立ち上がったときに、ちらりと見たサチの顔は、ぷんとふくれていた。
そう、そんな表情も、一つ残らず見せてほしいんだ。
「すべて異常ありませんね」
二人分のカルテを机に並べ、若い医者が言った。カーテンの影で、看護婦たちがため息まじりに話しているのが聞こえる。
健康診断とDNAの最終チェックを受けるように、政府から指示があったのだ。
どちらも、まったく問題はなかった。
僕たちは世界中から祝福を受けたのだけれど、どうしても僕は素直にそれを受け入れられないでいる。
「どれがいい?」
帰り道に、あの公園のサンドイッチ屋にサチを連れていった。
じっとメニューを見つめ、さんざん迷ってサチは玉子サラダとチーズのサンドイッチを選んだ。
「僕もそれが一番好きなんだ」
好みが似ているというだけで、なんだか嬉しかった。
もしも政府だとかDNAだとか、そういった難しい話がなければ、僕は純粋に彼女との出会い喜んだだろう。
「じゃあ、やっぱりこっちにするわ」
「ツナとトマト? それは僕が二番目に好きなやつだ」
本当だよ、というと、サチも嬉しそうに笑った。
「半分ずつにしようか」
お気に入りのサンドイッチと缶コーヒーを二つ買い、小さなベンチに並んで座った。
「ねえ、裕之。子供は何人ほしい?」
突然の質問に、僕はコーヒーを吹き出した。
「や、まだ、そんなことは考えてないよ」
たしかに、普通に結婚した同級生たちの中には、すでに父親や母親になったやつらもいるけれど。いまだ独り身だった僕は、自分が親になるなんて想像したことがなかったのだ。
「私は、この公園じゃたりないくらい、たくさんの子供を産みたいわ」
冗談でも大きな夢でもなく、サチは大真面目に言った。
最近の教育は、どこか間違っている。
僕は思いつくかぎり、馴染みの場所にサチを連れていった。
静かな音楽が流れるカフェ、座り心地の良いシートの映画館、少々マニアックな書籍も並ぶ図書館、季節はずれの海。
「海なんて、小学校の修学旅行以来だわ!」
白い帽子が風に飛ばされぬようにしっかり抑え、サチは砂浜を駆け出した。
はしゃぐサチは、年相応の娘に見えた。
一緒に暮らしているうちに、彼女たち新世代はまるきり僕とは考え方が違うと思い知らされたのだ。
強い瞳は僕ではなく、未来だけを見つめていた。
まるで、子供を産むためだけに自分は存在するのだと思い込んでいるようだった。
僕はそれに賛成しなかった。
彼女の人生は彼女のためにあるべきで、その中に出産や育児が含まれていればいいと思う。誰かに強制されるものじゃない。
だから僕は、外出のときに手をつないだり腕を組んだりする以外は、サチには触れなかった。
「きゃあ!」
短い悲鳴に驚き、サチの姿を探す。
予想外の大きな波に足をすくわれ、ずぶぬれになって尻餅をついていた。
「だいじょう……うわっ!」
助け起こそうとした手をとらず、僕の右足にしがみついてきた。僕はバランスを崩し、やはり熱い砂の上に尻餅をついた。そこへさらに大きな波が押し寄せてくる。
「……やれやれ」
海水や砂が遠慮なく目に入り、とても開けていられない。
「……」
ふわりとサチの髪の香りが強くなり、ほんの一瞬なにかが僕の唇に触れた。
たったそれだけで、僕の体は歓喜に震える。
本当に僕は、DNAレベルで彼女を必要としているらしい。
「サチ」
手探りで彼女を引き寄せようとしたが、彼女は一人で立ち上がり、簡易シャワーのほうへ歩いていた。
僕はサチを欲しながら、サチに近づけずにいた。
もっと、僕を見つめてほしい。
僕を必要としてほしい。
まるで初恋のように、ただ願うばかりで何もできなかった。
いつものように二人で外出し、マンションに戻ったときだった。
閉まりかけたエレベーターに、上の階に住む女性が滑り込む。あわててドアを開けようとしたが、彼女はそれを止めた。
音もなくドアは閉まり、エレベーターが動き出す。
悲しそうな顔をした男が見送るのが見えた。たしか、彼女のペアではない。
「ふう……今のは見なかったことにしてね」
壁にもたれ、呼吸を整える。
「まいったわ、こんなところまでついてくるんだもん」
聞きたくはなかったけれど、彼女は密室の中で愚痴を続けた。サチは僕の影に隠れるようにして、シャツの背中をつかんだ。
「彼ね、ボーイフレンドなの。はあ……政府にばれたらどうしようかと思ったわ」
けだるそうに長い髪をかき上げ、ため息をつく。
ため息をつきたいのは僕たちだ。
「あなたたちはいつも仲良しよね。飽きたりしないの?」
早く到着してくれと、案内表示を睨んだ。
「どうして、ペアでもないひとと付き合うの?」
サチは消えそうな声で女性に尋ねた。
「だって、退屈なんだもん。食べ物も音楽も何もかも好みは同じ。たしかに居心地はいいけど、たまには刺激もほしいじゃない? あ、義務はちゃんと果たすわよ。こんないい暮らしさせてもらってるもの」
僕はしっかりとサチの肩を抱き、ドアをこじ開けるようにしてエレベーターから降りた。
サチは静かにベッドに伏せていた。
「飽きたりしない」
何度も髪を撫で、耳元でささやいてみる。
なんの根拠もない。
だけど飽きたくないし、飽きられたくない。
その気持ちがあれば、きっと僕たちはずっと幸せでいられる。
「ねえ、裕之」
起き上がったサチは、いつもの強い瞳に戻って言った。
「もしも私に飽きても、他の女と仲良くしても、私に子供産ませてね?」
僕は泣きたい気持ちになった。
「サチ、よく聞いて。僕たちは子供を製造する機械じゃないんだ」
互いに惹かれ合い、尊敬し、深く愛した証の一つが二人の子供なんだ。
「そんなこと言ってるから、どんどん子供が産まれなくなって、人口が減少したのよ」
だからといって、僕たちが個人を殺してまで人口を増やそうとする必要もない。ただ子孫を残すためだけに生きるなら、なぜ人間はこんなにひとを愛したり憎んだりするんだ。
僕はもっと自由に、自然にサチと家庭を築きたい。
「……時間がないのよ」
「なんで? まだ君、十七だろう? まあ、僕はもう三十六だけど。それでもあと二十年は心配ないさ」
サチはいつになく激しい瞳で僕を睨みつけた。
「その二十年の間に、どれだけ人口が減るかわかる?」
さあ、と僕は首をひねった。
だからなんだって言うんだ。
まさか、毎年出産する気でいるのか?
「私一人じゃ無理だけど。代理出産でもっと増やせるわ」
急に、上の階の女の言葉がよぎった。
『義務は果たすわ』
これがペアになった二人の義務なのか?
愛なんてなくても、機械的に相性のいいDNAを差し出すだけで、人類絶滅が避けられるのか?
果てしない嫌悪感が沸き起こる。
「機械的じゃないわよ。それに、世界中から愛されるのよ、その子たちは」
たしかに、ひとびとに待ち望まれ、小さい体に夢や希望を背負って産まれてくることに違いはない。
だけど、僕にはたまらなく不自然に思えた。
「だったらペアを決めなくてもいいじゃないか。普通に出会って結婚すればいい。どうしても子供が産まれない夫婦だけ、そうやってサポートすれば……」
「それじゃリスクが高いのよ。きちんと二人のDNAが結びつくか、その子はきちんと育つか、はじめからわかっているほうが効率がいいでしょ」
僕はようやくペアがどういうものか理解した。
そして、サチとの出会いに浮かれていたことが悔しくなった。
どうして普通に出会えなかったんだろう。
サチは、僕のDNAだけが必要なのだ。
「……裕之は……嫌なの?」
黙りこんだ僕の顔を覗く瞳が揺れる。
小さな唇をわななかせ、全身は強張っていた。
「サチ……?」
様子がおかしい。こんなに動揺しているサチを見るのは初めてだ。
「私が、新世代だから……試験管から産まれたから……!」
止め処なく大粒の涙がこぼれた。
「だから愛してくれないのね!」
瞬間、僕は重い鈍器か何かで後頭部を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「もういい、ペアを解消してもらう!」
そう言い残して、サチは部屋を飛び出した。
なんだって?
僕がサチを愛していない?
愛してないのは君じゃないか!
サチを追う足はまるで夢の中のように空回りし、気持ちばかりが前のめりになる。
初めて会った日から今日までのことが、鮮明に脳裏に浮かんだ。
まるで雷にでも打たれたように、体中に電気が走った瞬間。
ほしくほしくてたまらない存在。
失うことなど考えられない。
傷つけるのが怖くて触れるのさえためらった。
どくんと心臓が鳴り、思わず息が詰まる。
そういえば、一度だって僕は、サチを愛してると告げたことがあったっけ。
これらの気持ちを声にして伝えたことはあったっけ。
会ったばかりの男と、気持ちも知らずに過ごす日々はどんなに不安だっただろう。
「待ってくれ、サチ!」
エレベーターはするするとドアを閉め、音もなく降りていった。
「……ない……裕之と別れる、なんて……できない!」
静かなエレベーター・ホールにサチの声が響き、やがて消える。
膝を落とし、握り締めた拳を柔らかいカーペットに打ちつけ、まるで吐くような格好でサチは泣いていた。
「ごめん、サチ」
僕は背後から抱きしめた。体をよじり、逃れようとするけれど、それでもかまわず腕の力を強めた。
こんな華奢な背中に、君は人類の存続だとかいう重い使命を負っていたのか。
「……おねがい、離れないで。私を、嫌いにならないで……」
体重を僕に預け、掠れる声で懇願した。
まだ涙の止まらない目元に口づけ、震える唇に口づけ、そして耳に口づけるようにして想いを告げた。
「愛してる」
あの日、電撃的な運命を感じたのは僕だけではなかった。
だって僕たちは、世界中が認めるほど最高の相性同士なのだから。
「寒くない?」
「平気」
相変わらず美味いサンドイッチ屋は、いつしか口コミで人気が高まり、昼時に来ると並ばないといけなくなった。
公園を渡る風は秋から冬に色を変え、じっとしていると体温が奪われていく。
僕は首に巻いていたストールをはずし、サチの肩にかけた。
「寒くないってば。でも……」
サチは笑いながら、僕のジャケットのポケットに手をつっこんできた。
「こんなに冷えてるじゃないか」
僕もポケットに手を入れ、サチの手を包み込む。
「こほん、お待たせしました。ご注文は?」
サンドイッチ屋は迷惑そうに一つ咳払いをした。
並んでベンチに座り、一番と二番にお気に入りのサンドイッチを半分ずつに分ける。シャクシャクとレタスを噛む音を頭に響かせながら、ぐるりと公園を見回した。
「そうだ、役所に言っておかないとな」
次々と取り外された危険な遊具の代わりに、安全で安心して遊べる遊具を設置してもらわないと。
そう遠くない未来に、ここはまた可愛い子供たちの声に包まれるのだから。