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第三章 新たな爪痕 <1>
 事件解決の翌日、箱に残っていたクッキーを二人で分け合って食べながら、成実と清人は部室で顔を突き合わせて座っていた。
 その日はあいにくの雨で、湿気が部屋に籠もった古臭い匂いをさらに倍増させている。気を利かせたのは清人で、薬局で買ってきたという消臭剤と芳香剤を部屋の本棚の上に設置した。
 そのため、かすかなラベンダーの香りが辺りに漂っている。
 ただ、無言の時間が流れていた。
 その時、成実の目が光る。

「ちょっと、チョコのクッキー食べすぎじゃない? こっちの紅茶クッキーも配分よく食べなさいよ」

 清人がクッキーを口に運ぼうとしていた腕を掴んで、成実が噛み付くように言った。

「いいじゃないですか、それくらい。好きなものを食べさせてくださいよ」
「駄目よ、世の中バランスが大事なの。多すぎず、少なすぎず、痩せすぎず、太りすぎず。この国の三権分立のシステムもそう、どこかに権威を集中させると独裁体制になるんだから。そうならないためにバランスをとってるの。分かる?」
「またそんなこと言って……もしかして先輩、食事のとき、一人何個まで食べていいかって、計算するタイプの人間ですか?」
「まさか、ふざけないでよ。私はそんな面倒くさい人間じゃありません。私は妻沢君の健康を気遣ってですね、体にいいと言われる紅茶のクッキーを推奨してるんです」
「そんなことでね、僕は騙されませんよ。そっちは煙に巻いてるつもりでしょうが、僕にはただ先輩がこのクッキーを食べたいのが見え見えです」

 すると、目つきの鋭くなった成実の掴んでいる手にさらに力が入る。

「あら、後輩の癖に生意気なことを言うのね。年功序列という言葉を知らないのかしら。私の言うことを聞きなさい」
「いいえ、僕はそんな思いつきのにわか権力に屈するつもりはありませんから。断固、戦います」

 それが、宣戦布告の合図のように、突如二人のにらみ合いが始まった。無言になった二人、お互い手に本気で力を入れ、どうにかクッキーを自分の方へ寄せようと、一進一退の攻防が始まる。

「ぐう……」
「ふうう……」

 力の拮抗に、クッキーを持つ清人の手がぶるぶると震えており、ふいに……転げ落ちた。

「あっ」
「うわっ」

 しかし、それは床に落ちる寸前で、どこかから伸びてきた手によって間一髪、キャッチされた。

「ふひひ、頂きぃ」

 そして、クッキーは成実たちの元に戻ることなく、その手の持ち主の口に運ばれ、あっという間に噛み砕かれた。

「ま、麻子!」

 名前を呼ばれたその少女は満面の笑みを浮かべて言う。

「これが、漁夫の利ってやつよ。二人が争っているのを見て、虎視眈々《こしたんたん》と部屋の隅でねらっていたのさ」
「さ、最後のやつだったのに……」

 愕然とした成実は小刻みに机を叩いて不服を申し立てる。

「やっぱり食べたかったんですね」

 すると、結局、自分は食べられなかったくせに、清人はそんな彼女を見てどこか勝ち誇った表情になった。

「うるさいわね。妻沢君なんかに乙女の気持ちなんて分からないわよ」

 そして、今度は標的を変えるように、きりっと麻子を睨みつける。鼻息が荒い。

「で、どうしてあんたもここにいるのよ」

 怒りをコントロール出来ていないのか、歯軋りをしているのが分かった。

「いえいえ、少々気になったことがありまして、今日もここにお二人がいるかと思い、参上した次第でござい」
「気になること?」

 すると、麻子がぐいぐいと肘で清人の肩を小突いた。

「事件のことですよ、旦那ぁ。例の生徒が居なくなった事件。解決したらしいけど、そのとき、きよぽんたちは現場にいたんでしょ?」
「ああ、そのこと……」
「聞いてんだよ。その人、いなくなってた間の記憶がまるっきり無くなってるんだってね。記憶喪失ってやつ?」
「まあ、そういうことになるわね」

 成実はいかにも釈然としていないようで、憂鬱そうに肘をついた手に頬を乗せ、そう答えた。

 一昨日前のことを思い出している。

 あのとき、記憶がないと訴えた沢口和也はその兄と明宮に支えられながら、家に入れられ、居間でようやくお茶を飲み、一息ついた。それで、少しは何かを思い出すかとも思われたが、相変わらず彼は首を振るばかりで、失踪中に何が起こったのかは全く分からなかった。

「全然思い出せない。最後に思い出せるのは校門で友達と別れたところまでで、気がついたら、家の前にいた」

 彼はそう繰り返すばかりで、一向に、埒が明かない。
 しかし、一方で記憶を失っている以外は彼には何か特別なことが起こったようには見えなかった。外傷らしい外傷は見えないし、乱闘に巻き込まれたときのように、服装が乱れているわけでもない。どこかで転んだ拍子に記憶を失ったということも考えづらかった。

 持ち物も何か盗まれたものがあるわけでもなく、そっくりそのまま、下校時に持っていたものだ。

 物騒な事件に巻き込まれたような気配は皆無と言ってよかった。

 だが、記憶がないという事象はその場の全員に言葉にしがたい、得体の知れない不快感を与えていた。
 記憶が無いとして、今までいったい彼は誰にも見つけられることなく、どこにいたのか、はたまた隠れていたのか、もしかすると、誰かといたのか。

 疑問は膨らむばかりだった。
 そして、その問題は解決の糸口を見出せないまま、時間が過ぎ、やがて彼の両親が戻ってきた。それに付き添う形で、年配の警官も一人ついてきていた。

 母親はすぐさま息子の元に駆け寄り、父親は額に手を当て、深い溜息をついていた。息子の無事を確認し、両親はほっと胸を撫で下ろしたようである。弟を両親に任せ、和也の兄が弟の一日の記憶がないことを警官に話していたが、警官は少し首を傾げた後で、ただ疲れているのだろう、とそれだけ返した。

 もし心配なら病院で検査してもらうといいとさらにそう付け加えて、特に本人に問題がなく、事件性も薄いところを見ると、すぐに帰っていってしまった。
 警察もいつまでも構っていれるほど暇でもないのだろう。

 成実と清人もそれ以上はその場に長居するのも家族の安堵の再会に水を差すと思い、本人が無事だったので帰る、そう伝えて帰宅したのだった。

 事件のあらましを成実から聞いて、麻子はヒュー、と口笛を吹いた。

「ふうん、そうだったんだ。それで、きよぽん、今日はその行方不明になった沢口君は来ているのかい?」
「いや、来ていないみたいです。やはりご両親が心配して、病院に行ったようで。でも、先ほど特に異常は見られなかったそうだと、そのクラスの担任の先生から聞きました。明日からは登校するそうです」
「なるほど、とりあえず一件落着ってとこですかねえ」


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