5───────────失ったもの
「ぃやあああぁっッ!!」
悲鳴が空気をつんざいた。
窓枠に腰掛ける青年。
サングラスにはヒビが入り、鈍く光を反射する。
ヨーコが声を上げるのと、青年が部屋の中に飛び降りるのは同時だった。
ザザが作り上げたゴミの山が、青年の着地と共に勢いよく跳ね上がる。
ベッドが大きく軋んだ。
ヨーコがパッと動いたからだ。
彼女の動きは素早かった。わずかに見えているフローリングに着地すると、ガラクタに足を滑らせてバランスを崩している男の手首を掴み、一気に捻り上げる。
「いっ!!」
男が苦痛の声を洩らした。間髪いれず、ヨーコは落ちていたザザの手錠を拾い上げる。
しかし、男も負けてはいなかった。
手錠を拾う、わずかの隙を見逃さない。
自分を捻り上げるヨーコの腕を、空いている方の手で振りほどいた。
ガターンッ!!
大きな音を立てて、男がヨーコから飛び退いた。
ザザの洗濯物が部屋中に散る。
弾みでヨーコはベッドの上になぎ倒された。
「動くな!!」
青年が叫ぶ。
ヨーコは身を起こそうとして、ハッと固まった。
青年の手に握られているもの。
黒光りする、ピストル。
銃口はまっすぐにヨーコの胸に向けられている。
「動くな」
少し落ち着いた声で、再び男が言った。
「話がしたいだけだ」
彼は、雑誌の山を崩しながら、ゆらりとベッドの脇に立った。
「…話??」
震えながら、しかし青年を強く睨みながら、ヨーコが呟いた。
青年はニンマリする。
「そう。話だ」
「犯罪者と一緒にするような話は無いわ」
ヨーコが青年をグッとにらんだ。
「あんた、今日一日でひったくりに住居侵入、銃刀法違反までしてるのよ。話なんて出来る立場じゃないでしょう?」
青年のサングラスの奥で、切れ長の大きい目が、すうっと細まった。
「…フーン」
その口調。
まるで楽しむかのように、ピストルを握る手に力が込められる。
「…!!」
ヨーコが震えた。
撃たれることを、怯えてはいけない。
怯えて、相手の図に乗ってはいけない。
刑事が犯人に屈することなど、あってはならない…。そうは解っていても、目の前に突き付けられた銃口に、背筋が寒くなる。
青年の指が引き金にかかった。
「話さえ聞いてくれれば良いんだよ?刑事さん」
青年が優しく言った。
けれど、サングラスの奥で光る瞳は厳しい。
「俺は、あなたを殺したい訳じゃない」
「…」
「ただね、取り引きしてみたいんだ」
「取り引き…?」
ヨーコはザザの布団で胸元を庇いながら、、思わず聞き返した。「そう。俺とあなたの間でね」
青年がゆっくりと微笑む。「悪い話じゃないと思うな。あなたには何の危害も及ばない」
「…誰が、犯罪者と取り引きなんか!!」
ヨーコが叫んだ。
「私は刑事なのよ!脅すなら他の人にして!」
それでも、青年は笑ったままだった。
「俺の取り引きは、あなたとしか出来ないんだ。うまくいけば、あなたのミスは帳消しになるよ…失格した刑事さん?」
「!!」
ヨーコの目が、ぐっと見開かれた。
…どうして知ってるの?
青年の目元が緩む。
「ビックリしたろ?」
ヨーコは、彼を見つめるばかりだった。
「…見てたの?」
青年は答えない。
ただ、笑っているだけ。
まるで、よくできた彫刻のように。
ヨーコの中に、沸々と怒りがこみあげてきた。
「見てたのね!!ボスに怒鳴られたのも、角川くんに慰められたのも!!」
「ウン」
青年がこくんと頷く。
「ふざけるんじゃないわよ!!」
喉が裂けんばかりの大声が、ゴミの山に轟き渡った。「こうなったのは、全部あんたのせいよ!!あんたが私のカバンひったくろうてしなければ…こんなことには…!!」
青年の顔から、フッと笑みが消えた。
「…ごめん」
「ごめん?!」
ギシッとベッドが軋み、ヨーコが立ち上がった。
「ごめんじゃ済まないわよ!!あんたのせいで、私が何を失ったと思ってるの!?」
「そりゃ…」
青年がヨーコをじぃっと見つめる。
「信頼は失っただろうな。将来も絶望的…と。わかってるよ、見てたんだから」「それだけじゃないわ!!」
「え?まだあるのかな?……ああ、あの敬語の兄ちゃんの恋心か」
「そんなんじゃないわよ!!」
喚きながら、ヨーコはちょっぴり赤くなった。
「じゃあ、何?」
青年が面白そうにヨーコを見ている。
「ええ、お望みなら言って差し上げるわ!!」
ヨーコが怒鳴り散らした。「今までの人生よ!!」
ピシャーンと雷が落ちたかのようだった。
「小さい頃から刑事になりたいって決めてて!
女が刑事になるなんて危ないからやめろっていう周囲の反対を振り切って!!
ドジだから一杯失敗もして…」
ヨーコの瞳に、涙が浮かんだ。
「もう諦めようって、何度思ったか知れないわ。でも、諦めきれなかった。刑事になるのが、ずっと私の夢だったから…!!」
涙はポロポロと流れて頬を伝う。
「今年の春、ようやく夢が叶ったの。嬉しかった…本当に嬉しかった。これから、自分は刑事として、正義のために働いていける。それが誇りになったわ。
…それなのに!!」
ヨーコの声は涙と怒りで震えていた。
「もう私には将来なんて無くなっちゃったの!!あんなミスしたら、辞めるしかないじゃない!…私が今までやってきたことは、ぜんぶ水の泡なの!!」
あとは、もう声にならなかった。
ヨーコはぺたんとベッドに座り込み、嗚咽を洩らしはじめた。
「あぁっ…っ…っく…」
青年がピストルを下げた。「俺は、あなたを救える」彼は静かに言った。
「…っく…っ…エ??」
ヨーコは、驚いて目を上げた。
涙で潤んだ視界。
ぼんやりと揺れるその青年の姿。
しかし、彼が発した言葉は、強烈にヨーコを射ぬいた。
「俺は、犯人を見た。電話ボックスにいた男を、見てるんだ。」
青年がゆっくりとしゃがみこみ、ヨーコと目をあわせた。
「話ってのは、捜査に協力することだ」
ヨーコは涙でべちゃべちゃの顔で、青年を見つめている。
「俺は、山川圭司。20歳、…泥棒だよ」