3───────────致命的なミス
「…どういうことですか」いつもは優しい角川の声が震えていた。
ヨーコは雨の中うつむき、顔を上げられずにいる。「桐原さん。あなたは、持ち場を離れた。そういう事ですか」
「はい…」
ヨーコは力なく頷いた。
降りしきる雨の中。
空の電話ボックスの横に、ただ座り込んでいる。
傘もヒール靴も、放り出されたままにあったけれど、誘拐事件の犯人だけは見つけられなかった。
数人の刑事達が、今も辺りを走り回っている。
でも、ヨーコにも、他の刑事達にも、わかっている。もう手遅れなのだ。
犯人は逆探知されること位知っている。
いつまでも近くに留まっている筈がない。
動き回る仲間を見つめながら、ヨーコは気を遣わせている事を感じていた。
おまけに、ひったくり犯にも逃げられた。
ヨーコの剣幕に驚いたせいか、カバンだけは無傷で残されていたけれど。
…私は、何をしていたんだろう。
何の為に、刑事やってたんだろう。
全ては、犯人逮捕の為だったのに…。
「あなたは、刑事として失格です」
角川が続けた。
「この事件には人命がかかっている。もし、被疑者確保が遅れて、手遅れになったら…」
角川はそこで言葉を切った。
ヨーコの肩が、細かく震えだしたからだ。
「…私のせいょ。もし、文春くんに何かあったら、私…」
ヨーコの黒髪から、雫がゆっくりと落ちていく。
彼女に傘をかけてやっている角川の肩も、大分濡れてしまった。
「…でも」
角川が、少し優しい口調になった。
「とにかく、あなたに怪我が無くて良かったです。…あなたは、不運だった。それだけです」
ヨーコが小さく鼻を啜った。
「…角川くん、慰めてくれてんのぉ?」
「いえッ!いや…まあ、そうですね」
角川が口籠もったので、ヨーコは少しだけ微笑んだ。
角川と一緒にいると、心が落ち着く。
同い年で、一緒にこの署に配属された同期。
なぜか敬語キャラだけれど、いつもヨーコの支えになってくれる。
「角川くんはさァ…」
ヨーコは拳で顔を流れる雫を払いながら呟いた。
「きっと、すぐ昇進しちゃうんだろうね。しっかりしてて、私みたいなミスもしないで…」
「何言ってるんですか」
角川が怒ったようにヨーコを見る。
「ミスの一回位で、弱気になってちゃダメですよ。先は長いんですから」
ヨーコは答えず、ただ笑うしか無かった。
…こんな重大なミス、取り返せる筈ないじゃない…
それでも、フォローしてくれる角川が、ヨーコは好きだった。
「桐原ァ!!」
灰色の街に、ドラ声が響き渡る。
…来たか。
ヨーコは肩をすくめた。
「角川くん、もう行ってて。ボスが来た」
「で、でも…」
角川は不安げにヨーコを見つめる。
小柄で細い彼の、くりくりっとした瞳。
思わず微笑まずにはいられない可愛らしさだ。
「私と一緒にいたら、角川くんまで怒鳴られちゃうよ。早く行って」
「…すみません」
角川は小さく敬礼した。
「おわったら、コーヒーでも飲みましょう。凍えちゃいますよ」
そして、気掛かりそうに離れていった。
自分の傘を、ヨーコの手に押しつけて。
途端に、気温が下がったように感じる。
ヨーコは身震いしながら、ゆっくり立ち上がった。
寒い。
全身がぐしょ濡れなせいか、はたまたこれから訪れる雷の予感のせいか…。
「桐原ぁ!!お前っ!!」叫びで自らの喉を詰まらせながら、岩波が登場した。薄くなった髪が風で乱れ、自由の女神並につっ立っている。
「お前」
岩波がヨーコの真っ正面にズン、と立ちふさがった。「お前!!」
「…はい」
答えながら強いポマードの匂いを感じて、ヨーコは思わず顔をしかめる。
「泣いて済む問題じゃねえんだよ!!」
ヨーコのしかめっ面を泣き顔と勘違いしたらしく、岩波が怒鳴った。
「被疑者を取り逃がした!一晩かけて、武蔵野中の公衆電話を張った苦労は何なんだ!?水の泡だ!!」
「…すみませんでした」
「すみません、だぁ!?」岩波の目が見開かれている。
「どの面さげて言ってんだ?!すみませんじゃあ、被疑者は捕まんねぇんだよ!!」
ヨーコは、うすいルージュの引かれた唇を噛み締めた。
黙っていた方が良さそうだ。
「お前のミスのせいで、刑事全員が責めを負うんだよ!!」
「…」
「ひったくりだぁ?!ふざけるんじゃねぇ!!どっかのちんまいバッグと人命と、どっちが大事なんだ、エ?」
「…人命…です…」
ヨーコは擦れた声を絞りだした。
怒鳴り疲れたらしく、岩波は息を切らしたまま、数回辺りを見回した。
刑事たちが、どうなることかと、2人を取り囲んでいる。
それを見て、岩波は少し理性を取り戻したようだった。
「…とにかくだ」
彼が呟いた。
「お前は、暫く来なくていい」
ヨーコはビクッと顔を上げる。
「…え??」
「来るなっつってんだよ。刑事やめる覚悟が出来たら戻ってこい」
吐き捨てるように言うと、岩波は背をむけ、肩を怒らせながら去っていった。
…どういうこと??
私、クビなの…??
頭が真っ白になった。
何も考えられない。
…私は…
プリン頭の青年が、物陰からじっと彼女を見つめていた。