異変
こく、こく、と喉を鳴らす音。
ハァ、ハァ、とこちらの理性を溶かしつくすような、艶めかしい甘い吐息。
幼い子供特有の体温が直接肌を通して伝わり、それがこちらの身体も火照らせ、ずっと嗅いでいたくなるような甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ふぅ……おいしかった。ありがと、おにいちゃん!」
俺の血を満足するまで飲み、口元を拭ってニコッと笑うイルーナ。口元を垂れる血が、まるで小悪魔染みた妖艶さを醸し出している。
「……お、おう。どういたしまして」
対して俺は、微妙に目を逸らしながら、ちょっと気疲れした様子でそう答えた。
この時間は毎回鬼門だ。
何が鬼門かって、イルーナに血を吸われることがそんなに嫌じゃない、むしろ嬉しく感じてしまう辺りが鬼門だ。俺の忍耐力と精神力がゴリゴリ削られる。
ロリコン紳士ではないはずの俺をこんな苦しめるとは、イルーナ、恐ろしい子……!
「イルーナは、おにいちゃんのおいしい血が飲めて、しあわせ者です」
一人勝手に戦慄していると、ちょっとお姉さんぶった様子で、そんなことを言うイルーナ。
「んあ?血なんかに味の違いがあるのか?」
「ぜんっぜん違うよ!」
身体を丸めた状態から一気に全身を伸ばし、めいっぱいに「ぜんっぜん」を表すイルーナ。可愛い。
「あのね、おにいちゃんの血はね、とってもまろやかで、飲んでてクセになっちゃうくらいおいしいんだよ!あとあと、私の中におにいちゃんが入って来るようで、とっても嬉しくてあったかい気持ちになるの!」
「そ、そうか。……ま、まあ、それだけ美味しいって言ってくれると、俺としても嬉しい限りだな」
でもイルーナ君、それは外では言わないように気を付けてね。お兄ちゃん事案で捕まっちゃいそうだから。
「それじゃあおにいちゃん、イルーナはお外に遊びに行ってきます!」
「あいよ。魔物もいるから、遠くへ行っちゃダメだぞー。あと、暗くなる前に帰って来いよー」
「はーい!」
元気良く返事をして、イルーナは玉座の間を出て行った。
――その後、外が暗くなっても、彼女は帰ってこなかった。
* * *
「リルっ、イルーナは見つかったか!?」
リルが部屋へと入って来た瞬間、そう捲し立てるように聞くも、リルは申し訳無さそうな表情で首を左右に振る。
クソッ……あんまり過保護にするのもよくないからと思って好きなようにさせていたが……俺の考えが甘かったか……ッ!
ギリッと歯を噛み締めると、心配そうにシィが俺に寄り添う。
「……大丈夫だ」
そのシィの様子に一瞬だけ冷静さを取り戻した俺は、フゥ、と深く息を吐き出して、頭を冷やしていく。
……落ち着け、焦っても事態は改善しない。
「リル、悪い、報告の途中だったな。続きを」
――どうやらイルーナは、人間に攫われたらしい。
イルーナの匂いを追っていたリルだったが、その先で複数の人間の体臭と出くわしたそうだ。
そのまま匂いを辿っていくと、やがて森を抜け、その先で比較的新しい馬車の轍を見つけたために、これは一度報告に戻った方がいいと判断して急いで帰って来たらしい。
いい判断だ。そのまま追い付けなかった場合、人里などに入り込まれてしまえば、いくらフェンリルであるリルと言えどイルーナ奪還は厳しいものになった可能性が高い。
……一つだけ幸いだと言えるのは、イルーナが魔物に襲われた訳ではないということか。
胸糞悪いが……しかし攫われただけであれば、助けることが出来る。
救うことが、出来る。
イルーナは元々、奴隷だか何だかにされそうなところをどうにか逃げて来て、そして俺に保護された。
つまり――逃げられた方がいるということだ。
断定は出来ないが、今回の仕業はまず間違いなくソイツらだと思われる。
一度だけマップで確認したが、イルーナは言いつけ通りこのダンジョン近辺から離れず、森に入っても絶対に深くまでは入り込まないようにしていた。
レフィ曰く、ここらへんは人界じゃ秘境の一つに数えられている場所だ。そんな危険な地の奥深くまでわざわざ入り込み、イルーナを攫って行ったということは……ソイツらは、イルーナがここにいるという確信を持っていたはずだ。
そんなの、逃げられたヤツらしかいないだろう。
そこまでしてイルーナに執着しているのは、上玉として、売れば相当な儲けになると考えられているか――もしくは、もう売り先が決まっているか。
後者の場合は非常にマズい。明日になれば、もう手の届かない場所に行ってしまっている可能性がある。
「……レフィ、この付近に人里は?」
「確か、ここから南東方向へと飛んで、二時間程の場所に一つあったはずじゃ」
……二時間か。
思ったより近いところにある。――いや、飛んでの距離だからそれぐらいが妥当なのかもしれない。
「…………」
……ふざけやがって、クソ共が。
ウチの子に手ぇ出したこと、死ぬ程後悔させてやる。
俺はアイテムボックスから、無骨な造りの一本の大剣を取り出し、その柄を握る。
コイツは、例のお花ブレードの後、少し前に新たに作成した大剣だ。形状はシンプルだが、俺のかねての要望だった重量と肉厚な刃を有しており、十分な威力の殺傷能力を持っている。
一応二代目にあたるコイツの銘は『紫包丁』。魔術付与のスキルレベルが一つ上がり、それで覚えた魔術回路の一つ『毒状態:弱』が特殊効果として付与されている。魔力を流し込むことで刀身に毒が付与され、斬った相手を弱い毒状態にするという仕様だ。
ただまあ、『弱』といってもこれは、一定の魔力に対し発揮する効果が『弱』ということで、つまり流し込む魔力の量を増やすことで強化することが出来る。
俺の有り余る魔力を大剣にしこたま流し込んで強化することにより、斬った切り口が一瞬で紫色に変色するぐらいの効果を発揮することは確認済みだ。付与出来る効果が『弱』以上になった時が楽しみである。
「リル、付いて来い。イルーナの匂いを辿れ。シィは……気持ちはわかるが、ここで留守番していてくれ。大丈夫だ、イルーナは絶対に助ける」
そう二匹に声を掛け、そして隣のレフィへと顔を向ける。
「……レフィ、頼む。お前も来てくれないか」
そう言うとレフィは、さも心外そうに肩を竦める。
「何を言っておる。当然じゃ。あの童女はもう、儂にとっても身内同然。それに手を出したならば、然るべき報いを受けさせねばならぬ――ただ、ちょっと待っておれ」
「あ?何で――」
「すぐにわかる――お、言った傍から来たようじゃ。よしユキ、付いて来い」
「……?」
怪訝な表情を浮かべながらも俺は、促されるままにレフィと共に洞窟の外へと出る。
――と、すぐに俺は、空に何か点が浮かんでいることに気付く。
その点はポツポツと、しかしどんどん増えていき――やがて空を覆いつくすような数になって、その大きさを増しこちらへと近付いて来る。
点の正体は――ドラゴンの大群だった。
ワイバーンのような亜龍ではない。皆身体が大きく、そして見るからに屈強そうなナリをしている。ステータスに関しても、この辺りで一番強い西エリアの魔物と同程度の能力値だ。
「これは――」
「儂の……まあ、配下といったところか?イルーナを探すのに必要だろうとさっき呼んでおいた。ま、目的は変わってしまったが、人間には実力差もわからない馬鹿が多いからの。ならば、舐められないように数はあった方がいいじゃろ?」
そう言って、ニヤリと片頬を吊り上げるレフィ。
そうか……イルーナがいなくなったことに気付いてからずっと黙っていると思っていたが……こんなことしてくれていたのか。
「レフィ……お前、いい女だな」
「フフ、今更気付いたのか?ちとばかり遅いぞ」
あぁ……そうだな。
お前は、いつもいい女だった。
「さて、ユキよ。儂らの妹分、迎えに行くとしようか?」
「頼りにしてるよ、相棒」
そう言うとレフィは、カカ、と快活に笑い声を上げた。
――待ってろよ、イルーナ。
必ず。必ず、迎えに行くからな。