閑話:記憶
――ソレが自我を持った時のことは、もう覚えていない。
何がきっかけだったのかは、わからない。
いつの間にかソレには意識と呼ぶべきものが芽生え、ソレの周囲にあるものを知覚出来るようになっていた。
そして――ソレが一番初めに感じたのは、気が狂いそうになる程の怨嗟と憤怒の叫びだった。
圧倒的な、まるで全てを呑み込み破壊する洪水の如き、恐怖と憎しみ。
触れているだけで、精神が壊れてしまいそうになる程の怒りの雄叫び。
悲鳴を上げ、押し退けようとしても、その濁流は止まるどころか、ソレの意識を呑み込んでいく。
助けを求めても、誰もその声を聞きはせず、誰も逃しはせぬとばかりに、ソレの意識へと覆い被さっていく。
そして、主と呼ぶべきソレの所有者は、その悲鳴を聞いてさらに悦に入り、もっと怒りと憎しみ、そして恐怖を生み出すべく、ソレを用いて新たな悲鳴を啜る。
――止まぬ怨嗟と憤怒の濁流の中で、ひと時も休まることのない絶望の渦へと叩き落されたソレもまた、いつしかその濁流の一部と化し、何も感じなくなっていった。
* * *
――どれだけ時が経っただろうか。
もはや、ソレの意識が濁流とほぼ同化しかけ、生まれた自我が崩壊しかけていた頃。
ソレの所有者が変わり、別の主の手へと渡った。
だが……何も変わりはしない。
ソレの中に潜む濁流は、何もかもを破壊し、何もかもを呑み込み、やがては主であるソレの所有者の精神もまた汚染して、その流れの中に取り込むのだ。
何度も何度も、ソレを握った者が最後、精神を崩壊させ、生み出される悲鳴を啜ることに喜びを覚える、救いようのない畜生へと堕ちる様を、ソレは見て来た。
中には、ソレを握る前から精神が壊れている者もいたのだが……ただ、その全てに共通していたのが、ソレを求める者は、元々ロクでもない輩であるという事実だった。
ある者は、ただ力に酔い痴れ、力を揮うことに酔い痴れ、そして更なる力を求めてソレを欲する。
ある者は、流れ出る血に飢え、もっと流さんと血を欲し、それ故に争いとは決して無縁でいられないソレを欲する。
どうせ、この主もまた、その類の存在なのだろう。
もはや日常と化してしまった逆らえぬ絶望の中で、そう、ゆっくりと目を閉じようとしたソレだったが――しかし、新たな主は、今までの主と比べ、少々毛色の違う存在であった。
新たな主は、流れ込む圧倒的な濁流に吞み込まれることなく、さらに強大な力を用いて、その慟哭を屈服させたのだ。
今まで、そんな者は皆無であった。
皆ソレを握った時点で、ソレから流れ込む濁流に意識の主導権を握られ、そしてその所有者の精神が汚染され、気が狂うまでは、所有者は決してソレを握った手を離すことが出来なくなり、最後には結局、誰も彼もが同じ結末を辿るのだ。
だが――この主は、そうはならなかった。
ソレもまたほぼ濁流の一部と化しながらも、しかし散々自身を苦しめて来た怨嗟と憤怒の叫びが為す術もなく捻じ伏せられる様を見るのは――ほんの少し、すっとする気分だった。
そして、新たな主が、ソレに向かって言った言葉。
『黙って、俺に使われろ。そうすりゃ、生まれ変わらせてやる』
――ソレが、初めて負の感情以外を感じた瞬間だった。
* * *
最初は、少しの戸惑い。
そして、次に隠し切れぬ程の歓喜がソレの全身を貫く。
いつもソレの内側にあり、そして絶えることなく苦しめ続けられていた怨嗟と憤怒の濁流。
――それらが、いつの間にか消え去っていた。
恐らく、ソレが新たな形を与えられると共に、彼らは彼らのあるべき場所へと、旅立っていったのだろう。
新たな主から流れ込んだ力は、そう思えてしまう程に強大で――そして同時に、天上に昇るかのような、暖かなゆりかごに包まれるかのような、とてつもない快感と安心感があったのだ。
……この主の下でなら、自身はようやく、自身の本分を為すことが出来るかもしれない。
自身の存在意義を、忌み嫌い、拒絶し、遠ざけようとしなくていいのかもしれない。
そうして、ソレは、歓喜に打ち震えた。
* * *
この主は、変わり者だ。
ソレは、そう思った。
ただ悲鳴を啜り、他に死をもたらすだけの道具だったソレに話し掛け、慈しむかのように優しく手入れをし、一個の人格としてソレを扱う。
何より嬉しかったのは――名を与えてくれたことだろう。
何かを奪うことはあっても、与えられるということを経験してこなかったソレにとって、与えられた名を主に呼ばれるのは、決して色褪せる様子のない喜びがいつもいつも胸の内に生まれ、その身を焦がす。
主に振るわれ、ただ主を守るために、他と戦う。
主が望み、己が望み、そして己が本分を果たす。
――そこには、官能的なまでの気持ち良さがあった。
この主と出会ってから、この身は味わったことのない感情が、内側から滲み出るようになったと感じる。
楽しさ、気持ち良さ、そして正体のわからない、悶えてしまいそうになる強烈な感情。
主の手から離れる時に感じる寂寥もまた、今では愛おしいようにすら思う。
――お?なんか……変わったな、お前。
――そんなしっかり念を送れたっけ?
「いつもと、同じ」
ある日の主の問いかけに、ソレはそう答える。
そう、いつもと同じなのだ。この想いは。
少し、以前よりも思考がクリアになったようには感じるが……しかし、ソレの根本にあるものは、新たな形を与えられてから、何一つ変わってはいない。
主。守りたい、大切な主。
自身が、数多の血を流して来たこの身が、しかし分不相応にも、高望みであっても、胸の内でくすぶり続ける、一つの想い。
望み得ることであるのならば。出来得るのであれば。
――これからも、ずっと、ずっと、一緒に……。