参:静謐
電波にまみれた女性の声が、状況を躊躇うことなく伝えていく。さっきの門番の声とはまた違った冷酷さを併せ持っていた。
蘭は、心の中に生まれた曖昧な疑念が確かな物へと変わり始めているのを感じた。そして震える手を抑えながら、携帯電話を耳から離した。
(まだそう決まった訳じゃない。あんな知らない人の言葉なんか絶対に信じない!)
門番の言っていた、新一のことだけでなく、蘭が新一を全く分かっていないと言うこともだ。
彼女は強く自分に言い聞かせると、携帯電話の新規メール作成画面を開いた。それから急いでメールを打った。
『番号変えたの? 今すぐに電話して』
蘭は一息つくと、親指で送信ボタンを強く押した。自分の思念を地面に強く埋め込ませて、門番の言葉に負けるまいと心を構える。次にまた電話が来ても大丈夫なように。しかし、無情にも、現実はそれをもはねつける。
メールが送信できませんでした
蘭は絶句した。自分が予想していた範疇の最悪なことが起こってしまったからだ。
液晶画面が表示する素っ気ない文字が織りなす文章は、ものの数秒で姿を消した。様々な感情が入り交じっている、妙な寂寥感がその場に残った。
絶対に信じないと言う言葉が頭の中に浮かんだ瞬間に、蘭は携帯電話を仕舞いこんで駆け出していた。
彼女は焦燥しているにもかかわらず、変なところで落ち着いていたために事務所の鍵を締めた。そしてある場所へと向かった。
「おお、蘭くんじゃないか。どうしたんじゃ?」
蘭の辿り着いた先は、新一の家の隣にある阿笠博士の家だ。
彼女がチャイムを押すと、間をあまり置かずにその住人の博士が出てきた。膝まで丈のある白衣を身にまとっていて、それによって大きなお腹が更に目立たされていた。
「まあまあ、今日は寒いし中に入ってくれ」
「ありがとう、博士」
朝の天気予報で、今日はこの冬一番の冷え込みだと伝えられていた。
事務所を無我夢中で飛び出してきた蘭は、手袋などの防寒具を一切忘れていたために両手でこすりあわせていた。そして、門番の言葉で心が乱れていると言うことを一番自分で理解していたこともあって、今にも座り込んでしまいそうでもあった。そんな彼女にとって、博士の気づかいは何よりも暖かかった。
「何かあったのか?」
博士は、ソファに座った蘭と向かいあって話を始めた。それと同時に、博士と彼女の間にあるテーブルの上に、哀が紅茶の入ったカップを静かに置いた。
蘭はそんな哀に礼を言うと、躊躇いがちに話し始めた。
「博士は、新一の新しい電話番号知ってる?」
「え?」
蘭の、明らかに震えている声から紡ぎ出された言葉に、博士は目を丸くした。そんな様子を見て、彼女は直接ではなく遠回しに質問をしたことを後悔した。どうせだったらちゃんと聞けばよかったと。
新一は無事だよね?
博士は片手を顎にあてながら、何かを考えこんでいる。蘭はそんな博士の姿を見つめているうちに余計に不安が募ってきて、哀の用意してくれた紅茶を飲んだ。それを残してカップを机の上に戻そうとした時、博士がやっと口を開いた。
「新一って誰じゃ? 蘭くんの友達かの?」
博士の言葉に、蘭は目の前が真っ白になった。彼女の心の中で、頭の中で、色々なところでその言葉がリピートされる。古ぼけて壊れたラジオのように、そして、テープが滅茶苦茶に絡まってしまった時のように。
そんな蘭の様子を、博士は何が何なのか全く分からないと言った表情でただじっと見つめていた。
彼女は余力を振り絞って、博士の表情を見ないようにして反論を始めた。
「何言ってるの、博士。新一は博士の家の隣に住んでるじゃない。わたしの幼馴染で、探偵の」
「蘭くんこそ何を言っているじゃ? 蘭くんには幼馴染はおらんじゃないか。それに、隣に住んでる夫婦は今ロサンゼルスにいるけど子供もおらんし」
蘭には、博士がきつい冗談を言っているようには全く見えなかった。自分だけがおかしいのだろうか。そんなことを思い始めて、彼女は思わず絶望への答えあわせとなる一言を漏らしてしまった。
それが、余計に物事を現実として浮き彫りにさせてしまうとも知らずに。
「博士は……新一を忘れちゃったの?」
「忘れるも何も、最初から新一なんて知らんぞ。なぁ哀くん」
真っ白と化していた蘭の中を、漆黒の喪失感が駆け抜けた。白い絵の具と水を混ぜたところに黒いそれを垂らした時のように、黒は簡単に滲んで白を支配していった。
蘭は、博士の言葉の語尾に出てきた哀にすがるような視線を向ける。
何故かは分からなかったが、彼女は哀なら分かってくれると思った。しかし哀はその蘭を救うことなくあっさりと拒み、止めの一言を口にした。
「ええ、知らないわ。少なくとも私と博士は、その新一って人の姿を見たことも名前を聞いたこともないわよ」
それを聞いた瞬間に、蘭はゆっくりとソファから立ち上がった。視線を室内の様々な場所に動かしてから、玄関へ繋がる扉のノブに手をかけた。それを下ろす直前に、博士と哀のいる方向に振り返った。
「色々、ありがとね?」
そして蘭は、そのまま流れていくように扉の向こうへと消えていった。しばらくしてから、玄関から出ていく音が聞こえてきた。
博士と哀は、彼女を見送ることもなくその場に立ち尽くすだけだった。
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