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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第7話 満月の夜〜森の守護者

 それからの三日間はあっと言う間だった。
 イニスとナウルが度々口論を始めるのは相変わらずで、アスティの手料理がイニスの口に合わないらしいことも相変わらずで、食事の席はいつもにぎやかだった。
 三日目の夜、イニスとナウルが持ち込んだ簡易テントの灯りが落ちたことを確認すると、アスティは外へ出た。その日はちょうど満月で、月と星たちが鬱蒼とした森を照らし出している。これだけ明るければ、灯りを持たなくても十分歩ける。
 アスティは木立の合間を抜け、村の共同墓地へと向かった。
 共同墓地の中央に、ムリクが白い布に包まれて横たわっている。その顔は穏やかで、まるで眠っているかのようだ。
 アスティはムリクの脇に腰を下ろし、父から贈られた横笛を取り出した。
 微かな夜風に揺れる木立のざわめきを伴奏代わりに、アスティは笛の音を響かせた。
 ゆったりと流れる曲は、死者を神の下へと導く歌だ。十年前、アスティの両親が亡くなった時にムリクが集落の仲間と歌っていたものを聴き覚えた。
 あの頃はまだ、この集落にも大勢の家族が暮らしていた。
 父と母が亡くなり、集落の仲間たちは森を出て行き、祖父のムリクまでもが亡くなって、ついに東の森の民はアスティ一人になってしまった。
 本来ならば、この三夜の間に、故人に最後のお別れを言うべく大勢の知人が集まってくるはずだった。しかし、都市へと出て行った森の民は皆ばらばらに暮らしており、もはや連絡を取ることも難しい。もっとも、森を出て行った者の中には森の守護者たるムリクを慕い、定期的に手紙を寄越していた者もいたから、彼らにムリクの死を知らせる手紙を出すことをアスティも考えなかったわけではない。ただ、生前のムリクは決して自ら手紙を書くことはしなかった。森を出て行った以上、彼らはもはや森の民ではないというのがムリクの口癖だった。厳しいようだが、それは、新しい土地で新しい生活を始めている彼らを煩わせないためのムリクなりの気遣いなのだと、既に森を出て行った仲間の一人が口にするのを聞いたことがある。ならばきっと、今回も、ムリクは森を出た彼らに自分の死を知らせて葬儀に参列させることを望みはしないだろう。
 それに、手紙を出すには週に一回森へやって来る配達員に託すか、森を出て町の郵便局まで行くしかない。アスティが直ちに手紙を出したとしても、それから配達に掛かる時間や手紙を受け取った彼らの移動とその準備のための時間を考えれば、彼らが三日後の埋葬に間に合うように集落へやって来ることはほぼ不可能と思われた。
 だから、アスティはムリクの死を知らせる手紙を誰にも出さなかったし、それでよかったのだと思っている。ただ、独り静かな森に横たわるムリクの遺体を前に、彼のあの世への旅立ちを見送る者が自分しかいないという事実は、アスティに強烈な不安感を呼び起こさせた。
 笛の音が震え、いつの間にか涙が頬を伝っている。
 笛の音が弱々しく途切れるのとほぼ同時に、背後から小枝を踏み折る音が聞こえた。
 アスティが反射的に振り返ると、木立の合間にイニスが立っていた。
「イニスさん……。」
 アスティは慌てて涙を拭い、立ち上がった。アスティには、満月に照らし出されるイニスの顔がはっきりと見えたから、イニスから見ればこちらは逆光のはずで、イニスに涙を見られてはいないだろう。
「悪い、邪魔をしたか?」
 問われて、アスティは左右に首を振った。
「いえ……どうしてここへ?」
「笛の音が聞こえたから、気になって……。」
 イニスの答えに、アスティは驚いた。村の共同墓地からアスティたちのテントがある場所まではそれなりの距離がある。静かな夜だったから、多少は音が響きやすかったかもしれないが、選んだ曲はかなり静かなものだ。アスティが共同墓地までやって来たのは、ここにムリクがいるからという理由に加え、寝ているイニスやナウルを起こさないようにと考えたからでもあるのだが、二番目の理由はあまり意味がなかったらしい。
「ごめんなさい、起こしてしまって……。」
 アスティは恐縮してイニスに頭を下げた。
「いや、昔から、こういう明るい夜は眠れないんだ。」
 イニスはそう言ってアスティの隣まで来ると腰を下ろした。
「ナウルさんは……?」
「あいつはとっくに大いびきをかいて寝てるよ。寝付きだけはいい奴だからな。」
 満月を見上げながら答えるイニスの表情が穏やかに微笑んでいることに気づいて、アスティは驚きながらイニスの横顔を見つめた。
「……どうした? 続き、吹かないのか?」
 不意にイニスがアスティを見上げる。
「あ、はい。」
 アスティはイニスの隣に座り、再び笛を吹き始めた。イニスはその隣で黙ったまま、じっと満月を見上げている。
 風の音と笛の音が穏やかに響き合う静かな夜だった。

 「そろそろ帰るか……。」
 アスティが数曲を吹き終えた時、イニスが呟くように言った。
「はい。」
 アスティが応じると、イニスはすっと立ち上がり、元来た道を戻ろうと歩き出す。アスティは横笛を抱えて、イニスを追いかけた。
「気が済んだか?」
 木立の合間を歩きながら、先を歩くイニスが振り返ることなく言った。一瞬、イニスの独り言かと思ったのだが、その声は明らかに問い掛けとしての響きを持っていた。
「はい……。」
 アスティが小さく答えた後、しばしの沈黙が続いた。
「お前には慣れた森だろうが、夜遅くに一人で出歩くのはやめた方がいい。最近は夜行性の動物を狙った密漁者も増えてるんだ。」
 おもむろにイニスが口を開いた。
「すみません……。」
「別に謝る必要はない。俺が勝手に心配しただけだ。」
 そう答えたイニスの歩みが心持ち早くなった。アスティは父から贈られた横笛をぎゅっと抱きしめ、小走りでイニスを追いかけた。
 前を歩くイニスの背を見つめながら、アスティは父の背を思い出していた。
 幼い頃、アスティはしばしば父と共に森の中を歩いた。足下に気を付けるようにと言って先を歩き、アスティを導いた父の背は、頼もしく、そして優しかった。
 イニスはナウルと違って口数が少なく、何を考えているのかよく分からないところが不安だったが、やっと確信を持って断言できる。
 ——この人は、優しい。
 アスティはほっとすると同時に、イニスが言葉にすることなく心の奥に押し込めているものは単なる優しさだけではないような気がして、温かな心の奥がちくりと疼いた。

 翌朝、ムリクの遺体は、イニスとナウルが掘った穴に埋められた。墓石には、やはりイニスとナウルが小川沿いの岩場から切り出してきてくれた石を運び込み、ムリクの名前を刻んだ。
「あの、本当にありがとうございました!」
 全ての儀式を終えて、アスティはイニスとナウルに頭を下げた。二人がいなければ、このようにムリクをきちんと埋葬することはできなかっただろう。そもそも、遺体を運ぶことさえままならなかったに違いない。
 それに何より、アスティには、二人と共に過ごしたこの三日間の時間が貴重だった。混乱と悲しみの中から少しずつ回復してきていると感じるのは、彼らがそばにいてくれたからだ。
 気持ちは少しずつ落ち着いてきている。最後の東の森の民として、新しい森の守護者として生きていく決意はできた。
「いやいや、そない礼なんて言われるほどのことはしてへんて! おいしい手料理もご馳走になってもうたし、こっちの方が礼を言わなあかんくらいや!」
「特にお前は何もしてないしな。」
 ナウルが機嫌良く答えた後で、イニスが苦々しげな表情で吐き捨てる。
「何言うてんねん! 俺はおいしいマリイヤの実も見つけたし、墓石にちょうどいい綺麗な岩も見つけたやないか!」
「その見つけた岩を切り出して運んだのは俺だったけどな。」
 イニスが頬をひきつらせながら補足するも、ナウルはくるりとイニスに背を向けた。
「アスティちゃん、知っとるか? 岩の出来方には法則があってな、その法則を知っとれば、大体どこにどんな岩があるかは分かるんやで!」
「え、ええ……。」
 ナウルがイニスの言葉を無視すべく始めたわざとらしい自慢話に、アスティは仕方なく頷いた。岩の出来方について、ナウルがイニスの運ぶ墓石の上に乗って得意げに語っていたのは、アスティも覚えている。
 ナウルの背後に立つイニスが殺気を放っているが、ナウルはどこ吹く風で大げさな身振りを交えて自説を説き始めた。
「そんなことより、お前はこれからどうするんだ?」 
 熱心に自説を語るナウルを完全に無視して、イニスがアスティに問いを向けた。
「え?」
「あのじいさんが亡くなって、この村はお前一人になるんだろう? そもそも、この東の森で暮らしている人間はほとんど政府の勧奨に応じて都市部へ移住してる。最後まで移住に応じなかったのはお前のじいさんくらいだ。じいさんが亡くなった以上、お前一人ここに留まる理由はないんじゃないのか?」
 イニスの考えは、アスティにとって意外なものだった。ムリクが亡くなった以上、むしろだからこそ、自分は東の森に留まらなければならないとアスティは考えていた。森の守護者としてのムリクの地位を引き継げるのは自分だけだからだ。
「いえ……私はこれまでどおり、この森で暮らします。」
「これまでどおりって、お前一人でか? こんな辺鄙なところで?」
 イニスは驚いているようだが、アスティにはイニスがなぜそんなに驚くのかが理解できなかった。
 アスティはこれまでずっとこの東の森で暮らしてきた。王都に暮らす人間からすれば、この森は辺鄙で不便この上ない場所なのかもしれないが、アスティにとってこの森は故郷であり、家族だ。アスティはこの森が好きだったし、この森以上の場所を知らない。
「私は祖父や父がずっと守ってきたこの森が好きです。今度は私がこの森を守る番だと思っています。イニスさんやナウルさんには不便な場所かもしれませんが、私はずっとこの森で暮らしてきましたから。」
 アスティは落ち着いて答えた。この森で一人で暮らしていくことに不安がないわけではない。でも、いまさらこの森を出て行く気にはなれなかった。ムリクとの、そして父や母との思い出が残るこの森を捨てることはできない。
「それは、森の守護者になるっちゅうことか?」
 ナウルが珍しく真剣な表情で口を挟んだ。アスティには、王都に暮らすナウルの口から「森の守護者」という言葉が出たことが意外だった。確かに、ナウルはこれまでも森の動植物についてムリク以上の知識を披露していたが、それはあくまでも自然科学的な知識であり、すなわち、都市部の最先端の科学的知見に基づく知識と思われた。しかし、ナウルが「森の守護者」についても知っているということは、単に自然科学的な知識を有しているだけではなく、森の民の暮らしや伝統についても勉強しているということだ。
「森の守護者……って、何だ?」
 イニスが首を傾げた。森の民ではない人間の反応としては、この方が普通だろう。
「東の森の長、森の神の声を聞けるっちゅう聖職者みたいなもんや。」
 イニスの問いに対するナウルの解説は、簡単ではあるが、的確だった。
「最近はアスティちゃんのじいさんが森の守護者をしとったんやったな?」
「ええ。未成年者は森の守護者にはなれない決まりでしたから。でも、私も先月、十六の誕生日を迎えました。遠からず、私は祖父に代わって森の守護者になることは決まっていたんです。」
「森の守護者って言うからには、森を守るのが仕事なんだな?」
 イニスの問いに、アスティは頷いた。
「最近、この森では希少動物の密猟事件が増えている。王都から東の森を抜けて北に抜ける新しい道路の建設計画も進んでる。お前はこの森をどうやって守るつもりなんだ? お前一人で本当にこの森を守れると思ってるのか?」
 イニスは早口で問いを重ね、アスティは答えに詰まった。
「それは……。」
「まさか森の神様に祈って何とかしてもらおうなんて言うつもりじゃないよな? 俺はそういう非科学的な迷信が大嫌いなんだ。」
 イニスは笑っていたが、それは彼が月夜の晩に見せた穏やかな微笑みではなく、明らかな侮蔑を含んでいた。
「迷信なんかじゃ……。」
 はっきりと反論したかったが、イニスの漆黒の瞳が刺すようにアスティを睨み、アスティの声は小さくなった。
「王都へ来い、アスティ。王都なら俺も少しは顔が利く。住む場所と仕事の世話くらいはしてやれる。こんな辺鄙な森の奥に引きこもっていないで、もっと世の中を見た方がいい。その方がきっとお前のためになる。」
 イニスはそう言ってアスティの目の前に右手を差し出した。イニスの申し出が好意によるものだということは分かっていた。それでも、森での暮らしを否定されたことが、アスティは悲しく、悔しかった。イニスなら、きっと自分の気持ちを分かってくれるだろうと思っていた。期待が大きかった分、それが裏切られた衝撃は大きい。
「私は……私は王都へは行きません! 私はこの東の森の守護者です! この森で暮らします!」
 アスティは差し出されたイニスの手を払いのけて叫んだ。イニスの驚いた表情が歪む。目から涙が溢れ出た。
「……あらま。イニス団長ったら、また女の子泣かしてもうて、罪な男やねぇ。」
 ナウルがその場の空気にそぐわないおどけた口調で言った。
「ナウル、お前は黙って……。」
「まあまあ、俺が思うに、や。アスティちゃんは森の守護者として御先祖様の意志を継いでこの森を守りたいんやろ?」
 イニスを制し、ナウルがアスティに尋ねた。アスティは涙を拭いながら頷く。
「それやったら、やっぱり、アスティちゃんは王都へ行った方がええ。」
 ナウルの言葉に、アスティはナウルを見上げた。
「俺は、森の守護者になるのをやめろなんて言わへんで? やけど、イニスの言うとおり、この東の森では密猟者も増えてるし、政府の開発計画も進んどる。アスティちゃんがこの森に残っても、一人で森を守り切れるはずあらへん。はっきり言って、王都の連中は森のことなんかに関心はないねん。それよりも、いかに効率よく便利な新しい機械を作り出すかで頭がいっぱいやからな。そのためなら、森の一つや二つなくなっても構わへんっちゅう奴ばっかや。」
「でも、私は……。」
「守りたいんやろ? この森を。やったら、王都へ来ぃや。そんでもって、王都の連中を説得しぃ。幸いにして、王宮騎士団の真のリーダーたる俺は国王陛下からも一目置かれる存在や。アスティちゃんが本気で森を守りたいっちゅうんなら、国王陛下に直談判できるよう取り計らったってもええで。」
 ナウルはそう言うと、にこりと微笑んだ。
「国王陛下に……?」
「そ。この国一の権力者が森を守ると宣言しさえすれば、政府の連中は命がけで森を守ろうとする。密猟者の取り締まりも今より人員を増やして厳しくできるし、開発計画も変更になるかもしれへん。王都の科学力をもってすれば、森の動植物に関する研究も進んで、正しい保護方法が見つかるはずや。」
 アスティは呆然とナウルの顔を見つめた。国を動かして政府に森を守ってもらうなんてことは、これまで考えたこともなかった。政府の役人は皆、森の民に都市へ移住するよう説得し、自分たちから森を奪おうとする存在だと思っていた。でも、もし、国王の考えが変われば、彼らも変わるはずだ。
 そして、この方法なら、自分一人でも森を守れるかもしれない。いや違う、国中のみんなと一緒に森を守ることになるのだ。
「どや、やってみるか?」
「……やります! やらせてください!」
 ナウルの問いに、アスティは力強く答えた。

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